34 My Dear
ザックはクレアをズワルト孤児院の院長ナンシーの元へ連れて行った。
「ありがとうございます!」
中立かつ安全地帯であるズワルト孤児院では、どちらのギャングからも手を出されない代わりに、会合などがあれば彼らに場所を提供する。それに、彼らはズワルト孤児院に問題が起きていないか、構成員を見回りに寄越すことも多い。
そのため、ここは二大ギャングどちらの出入りも多い上に安全である珍しい場所なのだ。
「いえいえ。よそからのお客様なんて珍しいから、子どもたちもわくわくしているわ。たくさんお喋りしてあげてくださいな」
ギャングを身近に見ている子供やスタッフの話を自由に聞いて良いと言われたクレアのテンションはかなり上がっているようだ。目を輝かせた彼女は興奮気味に「はい!」と元気よく頷いている。
「ゼカリアにはもう少し話したいことがあるから、クレアさんは先にどうぞ。部屋の外に一人待たせてあるから、彼に孤児院内を軽く案内してもらってらっしゃい」
「本当にありがとうございます。では、失礼します。……じゃ、ザックもまた後でね」
うきうき気分を隠せないままクレアが院長室から出て行く。
ザックは分かりやすい彼女を見送って、院長であるナンシーに改めて顔を向けた。
「テリーはまた後で挨拶に来ると言っていました。今はマーサを追いかけて遊んでいるみたいです」
ナンシー。
ズワルト孤児院の院長である彼女はザックの苦笑を茶色の瞳で見上げて「ちょうどいいわ。先に済ませたい用事があったのよ」と柔らかくしっとりとした声で微笑んだ。真っ白になった頭を少し下げ、机の引き出しから何かを取り出した。
彼女の手にあるのは黒の封筒だ。
「テリーには見せないようにと言われて預かったものだから」
ザックがナンシーの皺くちゃの手から受け取った封筒には差出人が書かれていない。しかし、そこには青の蝋で固められた印が刻まれていた。
「……セミチェルキオ」
固まった蝋はセミチェルキオを表すものだ。
「ええ、セミチェルキオから。――テリーには知らせない内容となると嫌なものを勘ぐってしまうわね。……数日前、ケントさんから渡されたの。この意味は分かるわね?」
手紙を預けるくらいは下っ端に任されても良い仕事だ。それをセドリックの側近であるケントが行ったということは、内容の重要性には察しがつく。
封を開ける直前で止まっているザックの手に、ナンシーが手を重ねた。深刻な表情をしているザックに微笑みかける。
「ねえ、ザック。あなたはとても優しいけれどね、その優しさが時々テリーを傷つけているように見えるの」
「……傷つけてると分かっていても、こうするしか守る方法が分からないんです」
ザックが目を伏せ、封筒を持つ手に力を込めた。封筒の端から皺が寄る。
「大丈夫。テリーはあなたが思っているよりずっとしなやかで折れないわ。もっと自信を持って向き合って、あなたも足掻きなさい。――倉庫でお読みなさいな。そこならテリーが来るまで一人で読めるでしょう。読み終わったら、いつも通りお仕事をしてちょうだい。ね」
ナンシーに優しく手の甲を撫でられ、ザックは気持ちを切り替えるように瞳を閉じ、口元だけで薄く微笑んだ。
「……ありがとうございます。そうします」
「マティ、逃げるなよォ。それともわざとこんなところに逃げてんの?」
テリーは壁際でマーサを捕まえ、手をしっかりと握って彼女の額にキスを落とした。
「そういうことじゃありません! テリー、離して」
「じゃァ、どォやったらそういうことな気分になってくれんのォ?」
「馬鹿。君の調子が悪そうだから、人目のつかないところに――」
言葉の途中で唇を塞がれたマーサが驚いたように目を開いたが、すぐに呆れたように目を細めて脱力した。
テリーは唇を離し、ふわふわと溶けそうな笑みを彼女の首元に埋めた。彼女の髪に当たってワークキャップが地面へ落ちる。両腕で彼女をしっかりと抱きしめると、彼女は彼の灰色の髪に頬を押し当てた。
「あァ……。お前、本当にいい匂いだなァ。落ち着く」
すんすんと匂いを嗅いでくるテリーの背中に、マーサはそっと腕を回した。リズム良くとんとんと背中を叩きながら目を閉じる。
「テリー、どうしたの。何かあったの」
「……マティは、ボスん噂、知ってんの」
「セドリックさんのこと、ボスだなんて呼んじゃ駄目って言ってるでしょう」
「だってェ……」
テリーが過分に息を含んだ声を出しながら、力を抜いてその場にへたり込む。
マーサでは彼の重い体を支えきれず、一緒に落ちていくように地面に膝を突いた。そのままテリーを覆うように体を預け、頭を抱くようにして髪を撫でる。
「噂って、セドリックさんが病気だとかいう……?」
マーサの優しい声にテリーは小さく頷き、彼女の腰に手を回す。
「そんな噂、嘘だって笑い飛ばしてェのに出来ねェの。……そんな話を信じちまった僕が怖ェし、腹が立つ。今すぐにもボスんところ行きてェのに、ザックは駄目だって……」
テリーが首を振るとくすぐったそうにマーサが身じろぐ。それでも彼女は彼から離れず、柔らかくうねる細い毛を撫で続けた。
「あの馬鹿、セミチェルキオのテリトリーに行く仕事ですら、僕を連れて行きたがらねェの。バレてねェと思ってんのかもしれねェけど、僕をセミチェルキオから遠ざけてんの、分かってんだよ……」
マーサは息苦しさを感じる声に耳を傾けながら、小さく相槌を打つ。溢れる弱音を胸に受け、彼女は優しくテリーを引き剥がした。彼のサングラスを丁寧に外し、地面にそうっと置く。
金色の瞳を瞼に隠した彼に手を伸ばし、鼻から頬に走る傷跡を愛おしそうになぞる。
「……もっと泣いて、テリー」
「泣いてねェよ、バァカ」
零れない涙を救うように、マーサは「そうだね」と傷跡に唇を押し当てた。
クレアは甘ったるい場面にうっかり遭遇してしまい、ドクドクと鳴る心臓を押さえつける。
会話が聞こえる距離ではないが、そこの角を覗くとテリーとマーサが抱き合っていたのだ。
「ひゅーう。マーサお姉ちゃんやるーう。チューしてるう」
「だ、駄目だよ、こんなところ見ちゃ! あっち行こう、ね! ね?」
ズワルト孤児院内をぐるっと回った後、取材として子どもたちの話を聞いているうちに追いかけっこが始まってしまったのだ。そして、子どもたちから逃げ回っている途中、壁に張り付いているこの少年に気付いてしまったのが運の尽き。「何してるの?」と一緒になって顔を出してしまったのをクレアは激しく後悔していた。
「なんで? あー! お姉ちゃん、チューしたことないんだろー! 遅れてんのなー!」
少年の無邪気なからかいに「そんなわけないでしょ!」と返しながら、頭にはテリーが浮かんでいた。直近のキスは彼にされた強引なあれだ。思わず顔が赤く歪む。
「覗き見は駄目って言ってるの! ほら、みんな向こうだし、一緒に戻ろう?」
クレアは僅かに紅潮した顔で少年の手を引っ張った。しかし、少年は「やーだよう!」と頬を膨らませてクレアを両手で引っ張り返した。
強く引きすぎた少年が「うわ!」と後ろへバランスを崩す。クレアもそれに引きずられるように体が前に傾いた。少年から手が離れ、このままでは少年を下敷きにしてしまうと一瞬の間に浮かんで――、
「よーォう、馬鹿女ァ。なァにしてんだァ、ボケ」
クレアは地面とぶつかった。ぱっと顔を上げると、一緒に転んだはずの少年がテリーに首根っこを掴まれていた。下敷きになる寸前でテリーが彼を救出したらしい。
「あ……。ちょっと、成り行きで……。ええと……いつから気付いてた?」
クレアが地面に倒れたまま、引きつった顔で笑うと、少年を掴んだままのテリーは目を閉じた状態で舌打ちをした。
「うるっせェ。――クソガキめ、お前も覗きは良くねェなァ! んなことしてるといい男になれねェぜ! 言うことあんだろォが、ボケ!」
「うわあああごめんなさああああい!」
テリーが掴んだ襟首を揺らすと、少年が大慌てで謝った。
慌てて駆け寄ってきたマーサが「やりすぎ!」と怒りながら、持ってきたワークキャップとサングラスをテリーに差し出した。
「次はねェぞ、クソガキ。……そォだなァ。次、やったらァ――」
少年から手を離したテリーはサングラスをかけ、目を回して尻もちをついた少年の頭にワークキャップを被せて真ん前にしゃがみこんだ。にっと口元を歪め、少年の脇腹をくすぐり始める。
「うひゃひゃ、は、ひゃっ、やめっ、兄ちゃ、だめっ! こーさん! あはは!」
「次やったら、もォっとくすぐってやんぞォ! 分かったか!」
テリーが少年と一緒になってけらけらと笑う。
クレアはその様子を見ながらずるりと地面から体を起こすと、目の前にマーサが手を差し伸べた。
「話してる内容も聞こえましたか、ジャーナリストのクレアさん」
クレアはその手を取れず、地面に手を突いたままふるふると首を左右に振った。
【大切な人】




