32 Fruitcakes
クレアがホテルで香水を落とし、服を着替えてから降りると、フロントで青年と喋っていたザックが振り返った。そして、改めて眼鏡もかけてきた彼女を見て首を傾げた。
「あれ、その眼鏡を落としたんじゃなかったんだ?」
「え?」
ザックが自身の目元を指差す。
「それ、普段からかけてるやつだろ? 予備だって言うから別の眼鏡になるのかと思ってた」
クレアがはたと自分の眼鏡を押し上げた。普段からかけている赤縁の眼鏡で、フレームにもレンズにも少し傷が入っている。使い慣れたいつものお供だ。
「――あ、ううん。今日は気分転換に、その、別の眼鏡をかけてたから」
レンズの中で視線を泳がせた彼女は、手を背中に回して指を組む。
「落としちゃうなら新しい方じゃなくてこっちの古い方を落とせばよかった」
茶色の瞳がレンズの中で細くなって、魚影を作る。
「まあ、仕方ないよね」
魚は落ち着きなく、ゆらゆらと泳いでいるような気がした。
「テリーって甘いものが好きなの?」
クレアはドライフルーツがたっぷりと練り込まれたフルーツケーキを抱えて歩いていた。
隣を歩くザックは、テリーの度が過ぎた甘味好きを思って苦笑する。
「うん。ドライフルーツなんて置いておいたらずーっと食べてる。紅茶にだって砂糖でもジャムでも何でも入れちゃうし」
テリーはザックから見ればあり得ないほどのジャムを塗ってパンを食べるし、紅茶の味を台無しにするほどの砂糖を投入した後、更にジャムを追加する。
舌が壊れているのではないかと不安になる食べ方だが、彼はそんな頭痛がするような甘さを好むのだ。
「それで、これでご機嫌取りってこと? なんだか、その……見た目と違うというか」
「子供っぽいだろ」
ザックが笑うと、クレアもそれに同調して笑った。そして、彼女は慌てて「あ、別に本当に子供っぽいって思ってるわけじゃなくって」とフルーツケーキの入った紙袋で口元を隠した。
「……テリーには言わないでね?」
「テリーをガキっぽいと思ってるってこと?」
「そ、そんなこと言ってない! ザックの意地悪!」
良い反応をしてくれるクレアに笑いながら、ザックは家で待っているはずのテリーを思い出す。
今すぐにでもセドリックの方へ駆けて行きたいだろう。
本当は家で大人しくなんてしたくないだろう。
それを分かっていて今の状態を強いているのは――とそこで考えるのをやめたザックは僅かに目を細めた。
クレアはリンジーに心配をかけたことや助けるために動いてくれたことに頭を下げ、その後は二階でフルーツケーキを食べていた。
テリーはクレアが引くほどの砂糖を溶かした紅茶を平気な顔して飲み干し、ザックが残したフルーツケーキも綺麗さっぱり平らげた。
「もうねェの」
「俺のまで食べておいてよく言う」
文句は言うものの、大好きな甘いものを食べたことで彼の機嫌は上向いたようだ。呑気にあくびをし、ゆらりと立ち上がる。
「時々買って来るね。ホテルの近くにあんな美味しいお店あるの知らなかった」
「あそこのパンも是非食べてみて」
ザックとクレアが流れでパン屋の話をしているのを聞きながら、テリーはぺろりと甘い指先を舐めた。その指をズボンでぐっと拭ってからもう一つあくび。
「……眠てェ。起こすなよ」
「うん? ……分かった。おやすみ」
「あ、はい、おやすみなさい」
好物を食べて、腹が膨れれば眠って。自由気ままに部屋から出て行くテリーを見送ったザックがテーブルの上を片付け始めた。クレアもそれに合わせて動き出す。
「――テリー、元気そうでよかった」
クレアがほっと息をつく。ザックは重ねた皿をトレイの上に乗せ、それを持ち上げた。食器が触れてカチャリと音を立てる。
「そう?」
「そんなことない? 普段通りに見えたから……」
ザックがトレイを持って部屋から出て行くので、クレアもそれについて行く。
「確かにあの日よりは随分落ち着いた。心配してくれてありがとう」
階段を降りきり、クレアは一旦口をつぐんでいた。ザックが皿洗いの準備を始めるのを見ながら、僅かに唇を噛む。乾いた布巾を手に取り、彼の隣に並ぶ。
「……あのね」
ザックが蛇口をひねると冷たい水が流れ始めた。彼はスポンジを軽く濡らしてから先を促し、水を止める。騒がしい水の音が消え、キュッキュッとスポンジと皿がこすれる音が僅かに空間を埋めた。
「今日、セドリックさんのことを調べようとして……あそこに行ったの。昨日はセミチェルキオの方へ行ってみたから、今日はリネアと思って」
「……どうして、そんなこと」
「だ、だって……! テリーが――」
ザックが戸惑うように眉尻を下げ、再び蛇口をひねった。勢い良く流れる水で泡を流していく。
「……そんなこと、しなくていい」
言い返そうとするクレアに濡れた皿を押し付けて遮る。ゆるゆると頭を振ると、背中の髪がゆらりゆらりと揺れた。
「もういいんだ」
「そんな……本当のことが分かったって、それがテリーを元気づけるものとは限らないのは、私だって分かってる! でも、分からないままなんてもどかしいし、もしかしたらいい話になるかもしれないでしょ……。その可能性があるうちは――」
ザックは次々と泡を切り、クレアが拭き終わるよりも早く水切り籠の上へ置いていく。
最後に手を拭いた彼が水の滴る皿やマグカップを暫く見下ろし、もう一枚の布巾を取り出した。手が止まっているクレアの横で水滴を拭っていく。
「――テリーには絶対に言わないけど」
水気のなくなった皿を置くと、クレアもようやく拭き終わった皿を重ねた。
「俺はそんな可能性を、かなり低いと思ってる」
「えっ」
僅かに笑んだザックはもう一枚の皿を置き、テリーが使っているマグカップを手に取った。
「テリーがあんな噂を信じる――それくらい、前回セドリックさんに会った時に、彼は何かを感じてたんだ。そうじゃなきゃあんな噂なんて簡単に笑い飛ばすさ」
ザックがマグカップを拭きながら、クレアを見た。
「あと、君がこれ以上足を踏み入れないように教えてあげる。――俺はこの件をセミチェルキオの幹部に直接聞いてある。もちろん答えは教えてもらえない。……だけど、別の回答はもらった」
少し沈黙を作ったザックは目を伏せ、息と声を吐き出す。
「――前回、セドリックさんの変化に気付いてしまったテリーは」
僅かに笑んだように見える横顔で、ザックはマグカップの水気を丁寧に拭き取っていく。
「テリーはセミチェルキオのボスの状態を――大事な秘密を、探ることもよそへ流すことも可能な人間だと判断された」
「それって……?」
ザックがクレアにちらと目を向け、困ったように首を傾げた。
「噂が本当なのか嘘なのかなんて関係ない。――テリーはもう一切セドリックさんに近づけない。例えセドリックさんが元気であろうと、そうでなかろうと関係ない」
ザックの手からマグカップが滑り落ちた。
マグカップが割れ、床に破片をばらまいた。
音に驚いた二人が少しの間硬直し、ザックがしゃがみこんで割れた破片に手を伸ばす。
「テリーはもうファミリーじゃない。そんなこと、以前から分かっていたことだ。……だけど、ここまで明確に拒絶されたことはなかった」
クレアも同じようにしゃがみこんで手を出したが、ザックはそれを制した。破片を一つ、一つと拾い集めていく。
「そんな現実を突きつけることになるなら、真実なんて知らなくていい……。分からないままでいい。会いに行く口実なんて、ないままでいいんだ……」
ザックの指から血が出ているのが見え、クレアはポケットからハンカチを取り出す。
大きな破片だけを手の平に乗せたザックがゆらと立ち上がった。
「そんな……」
「ごめん。俺も結構きてるみたい。どうしたらテリーにいいのか……分からなくって」
クレアは破片をシンクに置いたザックの手を取った。優しく傷口を押さえる。
「――俺はどうすればテリーを救えるんだろ……?」
ひたと冷たい声を浴びてクレアが顔を上げると、微笑したザックがそこにいた。
【何かがいかれた人たち】




