26 Lousy Liar
すっかり食欲のなくなったクレアが冷えていくパンを見つめていると、そこへザックの手が割り込んできた。突然の差し込まれた彼の大きな手に、クレアが両眉を上げる。
「いらないなら食べていい?」
普段通りの温かいスープのような声に、クレアはそろそろと顔を上げた。眼鏡の上縁とザックの顔が一瞬重なる。
「……どうぞ」
「ありがと。――怒っていた相手と一緒に夕食は気まずい?」
ぎくりとクレアが再び俯く。いつでも穏やかな調子のザックを怒らせてしまったことは、彼女にとってかなり大きな波紋となって胸に広がっていた。
それだというのに、ザックは先程のことがまるでなかったように笑っている。僅かに眉尻を下げた彼は手に取ったパンを一口の大きさに千切った。
「もう怒ってない。だから、そんなに俯かないで。俺はもう気にしてないし」
クレアが顔を普段の傾きまで戻すと、ザックが口にパンを放り込むところだった。確かに彼からは先程のような圧力は感じられず、ただただ夕食のパンを食べているだけだ。苛立ちも残っていないのか、裏があるのではないかと勘ぐってしまうほど落ち着いた様子である。
「……あんなに、怒ってたのに?」
「うん。言いたいこと言ったらすっきりした。君も怒った後ってすっきりしない?」
にっこりと笑ったザックに、クレアは表情を緩めることが出来なかった。
「どうしてこんな時間から?」
キッチンに降りてきたザックは、隣に立っているクレアに卵を持たせた。
「テリーが食べたいって」
「……プディングを?」
「そう。プディングを」
クレアは両手に持たされた卵を見下ろした。
先程まで怒っていた相手と仲良く並んでキッチンに立ち、一緒にプディングを作ることになるとは思ってもいなかった。この状況で卵を持っていることに違和感を覚えながら、クレアは「はあ」と曖昧に頷く。
「今から作ればテリーが起きて頃には冷えてるかと思って」
ザックがてきぱきと夜中のクッキングの準備をしている中、クレアは卵を持ったまま棒きれのように突っ立っていた。どうすればいいのか分からず、再び卵を見下ろす。
プディング。甘い甘い、溶けるように甘い菓子。
「さっきのスープを飲んだ後だと、正直、君に手伝ってもらうのは少し怖い。だけど、二階で一人ぼっちで座ってるのも寂しいだろ?」
ザックがキッチンに出したボウルを指差し「卵割って」と頼む。しかし、クレアは動き出せず、ちらりと隣の男を見上げた。
「……本当にもう怒ってないの? 無理してない?」
「無理はしてない。実際、怒ってないしさ。……怒っていた方がいいならそうしようか?」
「それは……やだなあ」
クレアの正直な答えにザックが笑い、卵を持ったまま止まっている彼女にからかうような視線を投げかける。ボウルを指し、目を細める。
「もしかして卵、割れない?」
ザックの意地悪な声音にクレアが頬をかっと紅潮させる。
「割れる! 卵を割ってお砂糖と混ぜるんでしょ! 作り方だって知ってるんだから。……ああもう。あなたと喋ってると調子狂っちゃう!」
恥ずかしさを誤魔化すようにクレアが持っていた卵をボウルの側に置き、一つだけを構える。ボウルの縁で軽く叩いて卵を中へ落とす。黄身が割れ、殻が混ざった。
慌てて指で殻を追いかける彼女を眺めながらザックが「俺が割ろうか?」とくつくつと笑う。
「ちょ、ちょっと失敗しただけだからね!? 普段は目玉焼きくらい作れるし……」
ようやく殻の欠片を摘んだクレアがボウルの外へ取り出す。
「――あの、ごめんね、今日は」
「卵のこと?」
クレアが殻を捨てるのと入れ代わりに、ザックが卵を片手で割ってボウルへ落とした。
綺麗な丸い黄身がとろりと揺れる。
「それもだし……テリーのこと。本当にごめんなさい」
「もういいって何回言わせるつもり? だけど、気にしてくれてありがとう。――ただ、二回目はないってことは覚えておいて」
ザックはボウルの中へ砂糖を、気持ち多めに入れた。
真っ暗な部屋の中、ザックはベッドにもたれかかってうつらうつらしていた。
クレアはリビングの二人がけのソファに縮こまって寝ている。ザックのベッドはテリーが使っているし、テリーのベッドを彼女に使わせると後でどれだけ彼が怒るか分かったものではない。彼が私物を使われても怒らないのはザックを含め一部の人間だけだ。
今日みたいな日はザックが彼のベッドを使って眠るのだが、今日はそんな気分にならなかった。どこでも寝られる特技を活かし、座ったままくたりと首を下げている。
「ん……ァ、ザック……?」
夢へ片足を突っ込んでいたザックの意識に、ぼやけた声が滑り込んできた。何度か瞬きをしてから、体をひねってベッドへ顔を向ける。
布団を抱き枕のようにしていたテリーが重たそうに目を瞬かせていた。
「起きた? まだ効いてる?」
「なんで、てめェの……匂い……」
膝を突いてベッドへ体も向けると、ザックを追いかけてテリーが虚ろな視線を動かす。
「……まだぼんやりしてる? もう少し眠っていて。まだ朝じゃない」
だるそうに寝返りを打ったテリーは俯せの状態になって、ぐしゃぐしゃのシーツを掴んだ。それをぎゅっと握るとシーツに更に皺が寄る。
「なんか……。すっげェ、気分悪ィ……」
「吐きそう? バケツ持ってこようか」
ザックがテリーの背中をさすると、彼はシーツに顔を押し付けて左右に首を振った。
「すっげェ、嫌な夢、見て……。なんで、僕……寝てんだ……? えっとォ……」
まだ意識がはっきりしていないようで、テリーは呻き声をシーツに染み込ませていく。
「起きたならプディングでも食べる? 昼から何も食べてないだろ? 喉も渇いたんじゃない?」
「プディング……?」
テリーが顔を横に向け、金色の瞳でザックをぼんやりと見上げた。細く絡んだ髪の毛の隙間から、瞳が月のように煌めいている。
ぼーっとしたままの月に向けてザックはぎこちなく笑みを作った。
「いろいろ思い出すのは食べてからにしたら? まだぼんやりしてるんだろ?」
半開きのテリーの唇が「そォ……かも」と気の抜けた同意を吐き出した。
ザックは思考がまとまらないでいる彼の灰色の髪に指を通す。絡んで引っ張られた髪がぷつりと切れた。
「水、持ってくる。で? プディングは食べる?」
テリーがあくびをしながら頬に走る傷跡を親指でなぞる。
「食うけどォ……。なんで、プディングあんの……?」
「覚えてない? 君が食べたいって言ったんだ。クレアも手伝ってくれて――」
「クレア」
テリーがザックの言葉を遮って手首を掴んだ。そのまま肘を立て、重たい上半身を起き上がらせる。
ザックは彼の一気に覚醒した瞳を見返し、奥歯を噛み締める。クレアの名前を出すべきでなかったと気付いたが既に遅い。目の前のテリーの唇が震えているのが分かった。
「……夢じゃ、ねェんだな、これ――」
嘘をつけたら。
全てを綺麗に、跡も残さず誤魔化せたら。
「ボスが病気かもって、夢じゃ、ねェんだな……?」
なかったことに出来たら。どれだけ楽だろう。
そんなことを思いながら、ザックは引きつった笑顔のまま口を開く。
「夢じゃない。だけど、噂だ。事実でもない。……テリー、大丈夫。落ち着いて。ゆっくり息をして。――そんな顔、しないで」
【嘘をつけない人】




