20 Bloody-minded
「いや、だから……君は、留守番」
ザックは両手を頭の横に上げ、上体を僅かに反らす。頭一つ分は小さいテリーが胸ぐらを掴んで睨んでくるので、たまらず目線を横へ逃した。
テリーがちょうどリンジーの孫たちを送り届けている間に仕事が入ったらしい。急ぎの仕事で、ザックはこのまますぐに出ると伝えたのだ。
「……ライラさんから、直接の依頼」
ザックはテリーが黙っている時こそ本気で怒っていることは、今までの経験で身に染みている。一発くらいは殴られるかもしれないと覚悟は決めてあった。
「荷はおそらくジョイント。送り先もセミチェルキオの近くだ」
思い切りテリーに突き飛ばされ、ザックは背中を壁にぶつけた。
「この仕事の振り方……また君に手を出すつもりなのかもしれない。そんなところには君を連れて行けない」
テリーが拳を握ったのが見え、ザックは奥歯を噛み締める。ぎしぎしと弓を引き絞っていくような空気に、ザックが無意識に息を荒くした。覚悟を決めたはずの痛みが想像の中で這いずり回る。
矢が放たれる直前のピンと張った静寂。
その緊迫した弦を切るように、扉が開いた。化粧を直したクレアが「ねえ、濡れタオルって洗濯籠に――」と中の様子も知らずに声をかけたが、後半は殆ど聞こえない音量にまで下がっていた。
クレアは一旦扉を閉めて何も見なかったことにしようと、ノブを引こうとした瞬間、テリーが拳を振り上げた。
弓が引かれ、矢が放たれる。
ザックは決して軽くはない衝撃に、反射的に目を閉じていた。口内に滲む血液を飲み込む。じわじわと熱を持ち始めた頬を押さえて目を開けると、テリーがクレアを押しのけて部屋から出て行くところだった。
テリーが自室の扉を乱暴に開閉する音が、リビングを震わせる。
「だ、大丈夫?」
その乱暴な音がスイッチになってクレアが動き出す。
ザックは血液と一緒に痛みを飲み込もうと何度も喉を動かしてから、引きつった笑みを浮かべた。
「大丈夫。本気で殴られなくて良かった」
そして、彼は壁から背を離し、ゆるゆると頭を振った。
「少し冷やして、俺は仕事に出る。服が乾くまではここにいてくれて構わない。ただ、その間はテリーが出て行かないよう気にしてやってくれる?」
ザックが仕事に出た後、クレアは煙草屋のリンジーの隣に座っていた。彼女はこうやってリンジーともよく喋っているため、常連客なんかは彼女のことをすっかり覚えている。そんな客たちに「今日は随分な格好だね」などと笑われたクレアの気分はすっかり落ちていた。
彼女はリンジーから差し出された煙草を、一本抜き取って口に咥えた。置いてあるマッチをすって火をつける。
「何を騒がしくしてるのかと思ったらそんなことかい」
リンジーが紫煙を吐き出す。
外に向いた窓から、静かな通りと向かいの屋根と僅かな空が見えていた。午前中はただただ青かった空に雲が増えている。
「そんなことって……」
クレアから二階であったことを聞いたリンジーは気楽なものだった。
「よくあることさ。あの坊やが配達屋になる前、何だったのか――クレアも分かってんだろう」
クレアも浅く煙を吸い、ふわりと吐き出す。
「セミチェルキオの脅威のこと?」
「ああそうさ。言い換えりゃあリネアの天敵さ。そんな坊やがリネアの女ボスの前にほいほい出て行ってどうするっつうんだい」
リンジーが短くなった煙草を灰皿へ押し付ける。煙が天井を舐め、クレアもそこへ煙を重ねた。
「テリーを倒そうとするってこと?」
「それも困るだろうが、そんなもんじゃあ済まないだろうね。ゼカリアが多少の危険を承知で坊やを置いて行っちまうのには、他にも理由があんのさ」
「え?」
リンジーが新しい煙草を咥えた。息を吸いながら火を灯す。
「――はッ! その理由は僕が知りてェな、くそババア」
突然割り込んできた外からの声に、クレアは驚いて椅子から立ち上がった。階段を降りてくる音には気を付けていたが、全く気付かないうちに外へ出たテリーが煙草屋の窓を開け、突っ立っている。
「これだからウォリアーあがりは困るねえ。なんのために扉があるのかも知りやしない。いい加減、窓から飛び降りんのはやめな。窓の使い方も知らないのかい」
「うるっせェ。そんな狭ェ場所でよく換気もなしに吸えるもんだな。窓の使い方を知らねェのはそっちじゃねェのかよ」
「こっちはお前さんみたいに寒さを知らない馬鹿じゃあないんだよ」
リンジーのよく回る口に、テリーは舌打ちだけを返した。小さな窓口に頬杖を突く。
クレアは窓から飛び降りてきたらしいテリーをまじまじと見ながら座り直し、口から落とした煙草を拾った。口紅の付いたそれを灰皿に押し付ける。
「ふん、言い返してこないなんて、随分ご機嫌斜めじゃあないか、テリー。明日は鉛の雨でも降るのかい」
「その冗談! 次言ったらぶん殴んぞ、くそババア!」
凄みのきいた低い声にクレアはぞっとしたが、リンジーは慣れっこらしく鼻を鳴らした。荒く煙を吐きつけて声を大きくする。
「粋がってんじゃあないよ! 暴力でしか物を言えないお子様が年寄りに楯突くもんじゃあない! お前さんに何が出来るってんだい! ゼカリアに頼られないようじゃあお前さんもまだまだだねえ!」
「あんだとォ!」
顔を歪めたテリーが窓口に手を突いて身を乗り出した。
ぎょっとしたクレアが反射的に腰を持ち上げ、テリーとリンジーの間に入るように体を傾けた。
「ふ、二人とも落ち着いて」
クレアはそう言いながらも先程ザックが殴られていたことを思い出し、きゅっと目を閉じる。
その彼女の耳に届いたのは、彼の手が頬を打つ音ではなかった。
「――銃声?」
遠くから届いた銃声に驚いてクレアが目を開くと、テリーもそちらへ顔を向けていた。
「……セミチェルキオの方だね」
リンジーの淡々とした声がクレアの脳内で反響する。
セミチェルキオの方。
ザックが届け先だと言っていた方角だ。
「ザック……!」
クレアが辿り着いた答えは、テリーも同じだったようだ。彼が今にも走り出しそうな気配を見せたので、クレアは大慌てで手を伸ばして腕を掴んだ。
テリーは動き出すことはなかったが、クレアの方は一切見なかった。振り切ろうと思えばすぐにでも振り切れるだろうが、彼は彼でザックから来るなと言われているのを気にしてか、硬直したまま曇り空を見上げている。
彼がそうやって考えている間に説得をしなければ、とクレアは頭が回るよりも先に口を回し始めた。
「ザ、ザックから頼まれてるの! 何があっても、テリーが来ないようにしてって……! ええと、その、気の紛れることをしてやってって! な、なんでもするから! あ、そうだ、お菓子でも作って――」
クレアが思い付くがままに言葉を並べる。
テリーはようやく彼女を見、掴まれた手を払って狭い窓口から器用に中へ入り込んできた。リンジーの怒鳴り声を無視し、突然のことに対処出来ずにいたクレアをそのまま床へ押し倒す。
「ひゃ、痛っ! 何するの――んぐ!」
抗議は途中で止められた。
クレアに覆い被さったテリーは彼女が嫌がる隙も与えず唇を奪っていた。クレアは瞬きすることも忘れ、現状を理解出来ずに体を強張らせる。そして、テリーの押し入ろうとする熱い舌に気付いて、ようやく口を閉じたまま悲鳴を上げた。
「こんなところで盛ってんじゃないよ、テリー! ゼカリアにも言われてんなら大人しく部屋にこもってな!」
リンジーがテリーの尻を蹴飛ばす。
ぷは、と口を離したテリーは手の甲で唇を強く拭い、唾を床へ吐き捨てた。真っ暗に見えるサングラスでクレアを睨みつけ、靴底を強く鳴らして立ち上がる。
「あァ!? なんでもするっつったのはこの女だろォが! あーァ、くっそ! 煙草臭ェし、気まぐれにもならねェ! よォくそんな口で、んなこと言えたもんだなァ!」
テリーの表情にも声にも怒りが満ちているのが分かって、クレアは小さく震えた。リンジーが止めようと彼の背中を叩いているが、彼は見向きもしない。
「無責任なこと二度と言うんじゃねェ! 次はこんなもんじゃァすませねェぞ! 血反吐吐くまでぶん殴ってやる、この馬鹿女ァッ!」
テリーが真っ白になるほど握った拳は、小さく震えていた。
【暴力的】




