2 Next Day
「いい天気」
呑気な調子でそんなことを声に出したのはザックだった。
ゼカリア。愛称、ザック。
三十歳を目前とした長身の彼は、真っ黒な髪を後ろで一つにまとめてリボンできゅっと結んだ。長髪に混ざる短い髪が束から自然に逃げ出す。随分と長い尻尾を作った彼は、灰色の瞳に窓からの外光を目一杯に取り込んだ。眩しさに目を細め、気合いを入れるように頷く。
「よし、起こそう」
窓の向こうにある空に背を向け、ザックが自室から出る。狭い廊下を挟んでほぼ向かい側にある扉をノックもせずに開けた。
「おはよう。テリー、そろそろ起きた?」
ザックが開けた部屋は彼の部屋よりも幾ばくか狭い。そんな窮屈な部屋には二段ベッドが押し込まれており、その上段で布団に包まっているのは相棒のテリーだ。下の段には一応衣装ケースや棚が置かれているのだが、何がなんだか分からないほど物がごちゃごちゃと置かれている。
「んァー……。もォ朝ァ?」
テレンス。愛称、テリー。
頭まですっぽりと布団に潜り込んでいた彼は、ベッドで寝返りを打ってようやく顔を出した。元から癖っ毛である灰色の髪が、寝癖で更に酷いことになって目元に掛かっている。テリーは細い髪の下に隠れて、金色の瞳を薄く覗かせた。それでも眩しそうに目を瞬かせ、彼は枕元のサングラスを手に取る。
「ほら、起きて。朝飯が片付かない」
「あーァい。……ん? てめェの匂い、なんか……」
「うん? 俺が何って?」
サングラスをかけたテリーが起き上がり、大きなあくびをした。そのついでに鼻先から左頬に走る古傷を親指でなぞる。一つ首を傾げてから鼻をこすった。
「いや、別に。なんでもねェ」
布団を蹴ってベッドから這い出てくるテリーを見たザックは、彼の格好に気付いて顔をしかめた。
「……着替えずに寝たの?」
呆れたようなザックの声に、テリーはベッドの短い梯子を降りる途中で下半身を見下ろした。昨夜着ていたシャツや肌着は脱いで裸の状態だが、ザックの言うとおりズボンはそのままだ。
「あァ、ん。忘れてたァ。ザックゥ、そこん服取ってェ」
ぺたりと裸足で床に降り立ったテリーが指を釣り針のようにしてちょいちょいと動かすと、ザックは彼が指した服を床から拾い上げた。
「……これ、昨日着てたやつじゃない?」
「んァ? そォだっけ」
テリーがサングラスの奥の瞳を細めた。裸の脇腹をパリパリとかきながら、ザックの白い目を気にせず、昨日着ていた肌着代わりのティーシャツを引ったくる。
「別になんでもいい。どォせ汗かくんだし」
「あれだけ埃っぽいって文句を言っていた人の台詞とは思えない」
テリーが昨日のティーシャツに腕を通す。ただでさえ埃っぽい部屋に追い打ちをかけるように薄い埃が舞った。
「後でシーツも洗おうっと……」
ザックがため息をつき、テリーのサングラスの位置をつついて直した。
朝から疲れたような態度をとるザックを見上げながら、近くにあったスニーカーに足を突っ込んだ。
「あんだよ。怒ったァ?」
ザックはにやにやと笑うテリーの額に狙いを定め、親指で中指を弾いた。パチンと音がした額をテリーが押さえると、ザックもにやりと笑う。
「怒ってない。呆れただけさ」
「ザックゥ、今日のお仕事はァ?」
ザックは食器を洗いながら「リネアの仕事が一つ」と答えた。テリーが顔をしかめるのが見なくとも分かる。
「僕はいねェ方がいいやつ?」
あからさまに機嫌が悪くなった声にザックは苦笑し、スポンジをくしゃくしゃと握って泡立てた。
「いいや、来て。ライラさんと会う予定はないし。――それに、最近いろいろあってあの辺りも荒れてるだろ。俺だけじゃ何かあった時に怖い」
マグカップとスポンジがこすれてキュッと音を鳴らす。
「あ、そ。分かった」
テリーの機嫌が少し戻るのも、見なくとも分かる。
「荷物はァ?」
ザックは蛇口を回す。きんと冷えた水で手に付いた泡を流し、食器を手に取った。
「荷物ならもう受け取った」
「……ああ、どォりで」
一拍ほど遅れたテリーの納得にザックは首を傾げた。泡を流したマグカップを水切り籠に置き、タオルで手を拭く。そして、シンクに腰を引っ掛けるようにしてもたれかかった。
「気付いてた?」
「うるっせェ。なァんか変な匂いがすると思ってた」
「えっ、ごめん。昨日と同じズボンなのがまずかったかな。すぐに穿き替える」
ザックは穿いているズボンを見下ろす。受け取った荷物が匂いのあるものだったため気を付けていたのだが、テリーの鼻にはしっかり気付かれていたらしい。
「いや、そこまでじゃねェ。――でェ? いつの間に行ったんだよ」
テリーの顔がぎゅっと歪むのを見ながら、ザックは冷たくなった指先を重ねる。
「夜のうち。君が酔い潰れている間に」
「はァ!?」
昨夜、この家へ戻ってきたザックとテリーは普段通り夕食を取り、普段以上に酒を飲んだ。テリーが思わぬ遭遇者に対してこれでもかと愚痴を吐き、彼はそれをつまみにして酒を煽っていたのだ。そして、彼はそのまま酔い潰れて泥のように眠ったのである。
そんなテリーに付き合って同じように酒を飲んでいたザックはけろっとした顔で肩をすくめた。
「約束があるって朝のうちに言ってあっただろ」
「うるっせェ! んなこといちいち覚えてられるかよ! くっそ、なんで起こさねェんだよ、ボケ!」
「声をかけても起きなかったのは君だろ。潰れるほど飲んだ君が悪い」
テリーが舌打ちをして昨夜のことを思い出そうと首をひねる。しかし、彼の記憶に浮かんできたのは、酒を飲んで少し経ったところまでだ。その後の記憶はいまいちはっきりしない。
「――出る予定があったんなら止めろよ、くそったれ! バァカ!」
ザックはテリーに乱暴な口調で怒鳴られるのもすっかり慣れっこだ。にこにこと笑ったまま「ごめんごめん」と軽い謝罪を相槌のように返す。
テリーは一つ息をついてからガサガサと灰色の髪をかき混ぜた。不服そうに唇がへの字に曲がっているが、再び怒鳴り出すほどの文句はもうないらしい。
「ったく……。自分一人じゃァ何かあった時に怖ェっつったのはてめェだぞ……」
つい先程の言葉を引っ張ってこられたザックは「受取場所はそこまで深い位置じゃなかったしさ」と笑顔を作り、シンクから腰を上げて背を伸ばした。
「それで? その服はいつまで着てるつもり? 君が汚したシーツと一緒に洗いたいのに」
遠回しに洗濯物は早く出せと言うザックから、テリーは視線を外してキッチンにある小さな窓から外を見上げた。
「どォせ汗かくんだし、その後にしねェ?」
窓の向こうには小さな庭と、隣の家に塞がれた小さな青空が見えている。
「そう言うと思ってた。昼前には出る。だから、あまり気合い入れないで、適当なところで終わらせて?」
「あいあーい。んじゃ、ちょォっと体動かしてくるぜ」
「うん。いってらっしゃい」
ザックにひらりと手を振ったテリーはすぐ近くにある勝手口から小さな庭へ出て行った。
ザックはテリーの部屋を少し片付けて――片付けすぎるとどこに何があるのか分からなくなると怒られるため、ほんの少しだけ――埃っぽい布団を抱えて階段を下りていった。シーツを洗うのならついでに布団も干してしまおうと、足元に気を付けながら廊下を通り、キッチンに入り、半開きになっていた勝手口を足の爪先で押して開ける。
真っ青な空の向こう、遠くに見える高い山には既に薄く雪が積もっている。朝夕は肌寒い日も増え、日中でも日差しがなければ何枚か服を重ねなければならなくなった。
そんな風も冷たい季節、庭にいるテリーは汗をびっしょりとかいていた。灰色の細い髪の毛は汗をまとって重たそうに揺れ、彼の額から流れた汗が顎まで伝って雫を落とす。彼は見えない敵を倒すように握った拳を引き絞り、振り上げた足で空中を切り裂いた。
何度も何度も同じ動作を繰り返し、何人もの相手を沈めていく。
昔はこの毎朝の習慣に相手が欲しいとザックに言っていたが、彼がそういうことに関して殆ど役に立たないことを重々承知した今では何も言わなくなった。
ザックは何度も空を切る鋭利な拳や蹴りを横目に、物干し竿に布団を掛ける。あんなトレーニングに付き合わされた日には痣だらけになってしまうのは想像に難くない。
ザックは布団を軽く撫でて埃を落としてからテリーを眺めていると、彼はぐるりと回し蹴りをしたのを最後に動きを止めた。肩で息をしながら、疲れを滲ませる動きでもったりとザックの方へ顔を向ける。
「……いつからいた?」
ぽたぽたと流れる汗を拭いもせず、テリーが唇をへの字に曲げていた。
「ついさっき」
ザックが答えると、テリーの口は更にぐっと締まった。ふうと強く息を吐き、鼻を何度かこする。
「チッ。鼻が思ったよりやられてんな……。利いてねェ」
「やっぱり穿き替えておく。ごめん、大丈夫?」
「そんくらい平気だっつってんだろォが。――はーァ。とりあえずシャワー浴びてくる」
テリーがサングラスを外し、目元に流れてきた汗を手の平で拭った。
「うん、分かった。――あ、そうだ。さっきリンジーさんが来た。挨拶してからにしたら?」
「うへェ。もう婆ちゃん来てんの。こんな時間にシャワー浴びるなんてバレたら、文句言われるじゃねェかよォ」
サングラスをかけ直したテリーが笑い、キッチンの方へ戻っていく。
ザックは汗びっしょりになった彼の背中を見送り、眩しいほどに青い空を見上げた。
「ズボン、やっぱり穿き替えようっと」
【始まりの次の日】




