118 Part Of Me
ザックがパン屋の扉を開けると香ばしい匂いがした。空腹に染みる香りに思わず唾を飲み、店員の「いらっしゃい」という優しい声に小さく会釈する。
焼き立てだと言われたパンを一つ、自分が好きな硬めのパンを一つ。それぞれトレイに乗せ、古いレジスターの前へ持っていった。
「お兄さんは初めて見る顔かしらね。ご近所さん?」
ふくよかな女が笑う。店の雰囲気がよく似合う柔らかい表情に、ザックも笑みを返す。
「少し用事があって来たんです。ついでに昼食も取ろうと思って」
にっこりと笑ったザックは釣り銭を数える女ではなく、奥の厨房から出てきたところで硬直しているトバイアスを見ていた。
ザックは釣り銭とパンを受け取り、トバイアスにひらひらと手を振った。
「やあ、トバイアス。――休憩は何時から? 少し話があるんだ」
トバイアスは露骨に嫌がって顔を引きつらせたが、女が「あら、ちょうど手が空いてるし休憩しちゃったら?」と振り返った時には気弱な笑みをきちんと浮かべていた。
「さっきの百面相はすごかった。笑いを堪えるのに必死だ」
ザックはまだ暖かく、チーズの香りがするパンを千切った。
寒い中で公園のベンチでランチを敢行しているのは、ザックとトバイアスだけだ。
トバイアスはマフラーでぐるぐる巻きにした口元を僅かに覗かせ、背中を丸めて小さなパンに噛みついた。大人しくザックに着いて来たものの、ザックと仲良く話すつもりはないらしい。無言でパンを食べ進めている。
「あんなことしてて疲れない?」
「……別にィ」
そっけない一言を返したトバイアスは居心地が悪そうに地面へ視線を向けている。
「ふうん? あんなのテリーには出来ない芸当だ」
わざとらしく兄の名前を出すと、トバイアスは咀嚼していた口をぴたと止めた。噛み砕いたパンを喉の奥へ押し込み、隣に座るザックをちらりと見る。
「……テレンスは、近くにいるの?」
「残念ながらお留守番中。会いたかった?」
トバイアスは眉を寄せ、視線を再び地面に戻してから首を左右に振った。
想定通りの回答にザックは肩をすくめ、もう一つのパンを大きめに千切って口に放り込む。素朴で、どこにでもありそうな味だった。
「それより、僕に話ってェ……?」
トバイアスは先のと同じ砂糖がかかったパンをもう一つ取り出し、大きな口を小さく開けてかぶりつく。
「ああ、そうだった。これにサインが欲しくてさ」
ザックはパンを咥えて手を空け、ウエストポーチから一枚の紙とペンを取り出した。パンを咥えているため喋れず「ん」と声をかけてトバイアスに紙を差し出す。
トバイアスは紙切れ一枚に怯えるように身を引きながら、手に取った。彼は食べかけのパンを紙袋に戻し、汚していない左手で紙を開く。
「これってェ……?」
そう言いながらも、トバイアスは目を通し始める。
「テリーと、家族の縁を切るための紙切れ。書類上はまだ家族だろ」
ザックは改めてパンを片手に持ちなおし、もう一方の手でペンを揺らしてトバイアスに向けた。
「今、テリーは檻の中だ。出てくる目処も立ってない。――そして、身元引受人は今のままだと君たちだ。必要になった時は基本的に家族が呼び出される」
「……テレンスが、捕まったァ?」
「うん。ちょっと馬鹿をした。……身元引受人なんてしたくないだろ。それを断るのに必要な書類が、それ。家族じゃないなら君たちへは連絡も来ないし、テリーも身元引受人に俺を選べる」
ザックがペン先をくるくると回して、トバイアスに取って欲しいと無言で主張する。しかし、彼は書面に釘付けになっていて動かない。
「実はさっき同じものを両親の方に持って行ったんだ。――君の両親って面白くない? 息子は君だけだってさ。テレンスなんて知らない、サインする理由が分からないって。そんなことを大真面目な顔して言うんだ。思わず笑っちゃった」
ザックが言葉の通り小さく笑うと、トバイアスは書類から顔を上げた。ザックと書類から逃げるように斜め下へ視線を動かし、さらに背中を丸めた。
「――笑えるほど話にならなかった。あの両親の中ではテリーは存在してなかった」
座った二人の間には一人分の空白が鎮座している。
暫くの間、そこに沈黙を詰め込んでいたが、ザックはパンを食べ終わったことをきっかけにまた喋り始めた。
「だけど、君はテリーを認識してる。だから、サインをお願いに来たんだ。親のサインを真似するくらい、出来るだろ?」
トバイアスが指先の砂糖を払い、震えた指でザックのペンを受けとった。視線は再び書類に戻っている。
「そもそも……テレンスが家族なら、こんなこと、ならなかった」
トバイアスは紙をベンチの真ん中に置き、体をひねってそれに手を突いた。
「こんな風に、ならなかったんだ。――テレンスのせいだ。テレンスの、せいで……僕は……」
ペン先が紙に触れる。震えていた指先が、ぴたりと止まった。
「こんなもの書くまでもない――」
「うん?」
トバイアスの丁寧な字がサイン欄を埋めた。彼は角を合わせて紙を半分に折り、ペンを添えてザックに返す。その一連を流れるように行った彼の視線は冷たく、強い。
「――テレンスが家族だったことなんか一度だってない」
ザックは表情を穏やかな笑みに固定したまま、トバイアスから書類とペンを受け取った。すると、トバイアスは瞬きの後、スイッチが切れたようにふにゃりと背中を曲げて俯いた。ザックはそれを見てから立ち上がる。ウエストポーチに書類を丁寧に仕舞った。
「だけど、君だけは家族だった。ずっと、彼を守ってたんだろ? ――ありがとう」
後口の残らないあっさりした言葉を残し、ザックがトバイアスに背を向けた。その背中で、トバイアスがベンチから立ち上がる。
テリーも君のことだけはずっと見守ってたんだ、と思いながらザックは重たい瞬きをする。ハロルドに定期的に様子を見てきてもらう程度には、ずっと。
「――テレンスのせいで、僕は一人だ……!」
ザックは振り返らない。
「僕はテレンスを、殺したいくらい憎んでる!」
靴が踏む雪の音をかき消すように、トバイアスの声が後ろから届く。震えた声は頼りなく、風に負けて吹き飛ばされそうだった。
「テレンスは家族なんかじゃない。テレンスは、テレンスは――! 僕の――!」
声がかすれるようにして消えていったのは、ザックが公園から一歩出た時だった。
ゆっくりと振り返る。
トバイアスはベンチの前に立ち、俯いたまま拳を震わせていた。
もう言葉は届かない。
「……君もテリーも、そういう頑ななところがそっくりだ」
僅かに笑んだザックは別れの挨拶もなしに、そこから立ち去った。
テリーは深夜だと言うのに煌々とした通路へ顔を向けた。瞼の裏に光が透ける。
見張りの足音がコツコツと聞こえてくる。癖でおおよその距離や人数を考えてしまい、馬鹿らしく思えてやめた。ため息とあくびの混合物を吐き、明かりに背を向ける。
眠りが浅いのは昔からだ。何度もうなされて目覚めるのも、昔からだ。
固いマットレスの上でごそごそと体を小さく丸めた。
ここは寒くて、狭くて。どうしても昔を思い出しがちだった。ベッドがあるだけましか、と自嘲したテリーが埃っぽい布団の中にすっぽり潜り込む。
こうして何度も夜を過ごしたことを思い出す。
静かに、息を潜めて、近づいてくる足音に気を張る夜。
そんな記憶の隙間にあるのは大人の足音ではなく、小さく軽い足音だった。
怖くて、空腹で、寒くて、痛くて、眠れなかった時、その足音は家中の音が消えた後にやってきた。そして、静かに小さな物置の扉を開くのだ。
テリーがさらに体を丸める。熱い息がこもり、苦しい。
僕も眠れないから一緒に寝ようよォ、テレンス。
そんな言葉が聞こえた気がして、テリーは両耳をしっかりと手で塞いだ。
――テレンスは僕の一部だろ。だから、ずゥっと、一緒がいいなァ。
【逃げたのは僕だ】




