109 Balled-up Fist
ザックはテリーの着地地点に影を作る。テリーはその影をちらりとも見ず、まっすぐにノーマンに視線を固定していた。
ノーマンの影がザックの影ごとテリーを飲み込もうと膨らむが、すでにテリーはザックの影を蹴ってそこから離れていた。足跡のない雪へ着地した彼は更にノーマンへ距離を詰めていく。
「――どう区別してるんだか」
ノーマンがザックの影に紛れるようにして足場を作ってテリーを誘うが、彼は絶対に足を踏み入れない。偶然とは言えないほど的確に外していく。
操っている本人は支配下の影を把握出来ても、見た目はどちらも差がない光を拒絶する黒だ。どの影が誰のものか、どうやって判断しているのかはテリーにしか分からない。
ザックがテリーの感覚の鋭さを改めて実感していると、その彼が左手の指を何本か横にした。そして、視線から少し外れた先を指差す。
「……あそこに三段? 階段のこと?」
テリーのハンドサインを読み取りながら、ザックがなんとなくの位置で三段だけの階段を作り上げた。高さや幅などは分からないので適当である。足りなければ彼に合わせて影を動かせるように、意識をそちらへ持っていっておく。
段差を踏んだテリーがぐ、ぱ、と手を握っては開いた。とりあえず及第点ではあったようで、ザックはほっと息をつく。
セミチェルキオに限らず、ギャングたちは言葉なしに意思疎通を図るために決まったハンドサインを使う。テリーは離れた相手のハンドサインを受け取ることは出来ないが、発する側としてそれを使いこなす。
ザックもテリーがよく使うものは覚えているし瞬時に理解出来るが、こうやって実践で使われることは殆どない。彼が手を動かす度に、それを理解する僅かな時間に緊張がぴりぴりと走る。
そんな緊張を知ってか知らずか、テリーは何度も手を動かしてはザックの影を誘導していた。軽やかに雪へ跡を残してノーマンへ近づく隙を探している。
腰をかがめたテリーの頭上をノーマンの影が通り過ぎ、ワークキャップがその影に突き刺されてすっ飛んでいった。紙一重の回避にザックがびくりと体を反応させる。ノーマンの影の速度を考えると、先に避けても影が軌道を変える可能性がある。間一髪で避けていくのが一番相手が嫌がる手ではあるだろうが、見ている側の心臓にはかなり悪い。
地面に突いた手をバネのようにしてテリーが体を弾き起し、低い体勢のまま残り数歩の距離までノーマンに踏み込む。
ノーマンは自身の前に薄く壁を編み、テリーに向けて大きな蕾がついた黒い蔓を伸ばした。瞬時にテリーの眼前に花開いたそれは彼の上半身は優に飲み込みそうなほど大きい。テリーが黒の花びらを見上げる。
「テリー!」
ザックの影が蔓を引き千切ろうと影を動かす。しかし、花弁がテリー迫る方が速い。
次の瞬間、テリーは花弁を踏み越え、薄い盾の内側に着地した。ノーマンが想定しない動きに目を見開く、驚愕の一瞬。テリーは彼の横っ面を思い切り殴り飛ばした。
ノーマンは後ろへ倒れながらも、その拳を掴もうと影を伸ばす。しかし、テリーは自身の影に合わせて斜め後ろへ蹴って一気に距離を開けた。
痛みに集中が切れたか、ノーマンの影の量が減る。そのノーマンに向け、ザックの影が拳を握った。ノーマンは瞬時に繭のように自身を影で包んだが、めらめらと燃える拳の重さには勝てない。繭が吹っ飛ばされる。
繭を殴られた衝撃が中に伝わったか、倒れたノーマンは影を解く様子もなく倒れたままだ。身を守るための繭以外の影が消えたところで、ザックは叫んだ。
「――テリー! 今の何!」
先程のノーマンの影を避けた動きも、そこから下がる動きも人間離れしすぎている。テリーの運動神経が幾ら良くともあれは出来すぎだ。
テリーはノーマンの方へ視線を向けたまま、ザックの隣まで下がる。そして、息を整えるように大きく呼吸しながら、ぐしゃぐしゃになった契約書をポケットの中から取り出した。それをザックの胸に押し付ける。
「契約書、サインしたぜ。僕が望んだ通りに」
そう言いながらテリーが服をめくり上げると、元からあったタトゥに重なって出来たゲートからどろりと黒い影が垂れた。
ザックが息を呑み、大きく目を見開く。
「ど、うして、君がハートルーザーなんかに――!」
「てめェらみてェなバケモン、ノーマルがぶっ倒せるかよ、ボケ」
テリーはシャツを下ろし、まだ血の味が滲む唾液を飲み込む。
「てめェは僕がこうなることを望んでなかったから、サインしてやった。――これで、僕が何しようがてめェに文句を言われる筋合いはねェ」
ザックは言葉を失っていたが、深いため息をついたのをきっかけに言葉を取り戻した。
「……怒ってもいい?」
「ええェ? やァだ。――でも、二人っきりになったら、じィっくり怒ってェ?」
気持ち悪いほど甘えた声に、ザックは顔をしかめて「やっぱりやめる」と呻いた。テリーは「怒ってくれねェならいつも通り、幾らでも合図出してやるぜ」と鼻で笑い、改めて腰を落として拳を握り直した。
「ザック、もう一発だ。次はもっと強く殴ってきてやる。さっきみてェに上手くやれよ」
繭を食い破って姿を表したノーマンは殴られた頬を押さえ、ふらふらと立ち上がる。口の中が切れているのか、顎を伝った血が胸元へ落ちていた。
「もちろん、幾らでも。……ああ、でも、本当は俺が直接殴った方が効くんだろうな」
ザックが緩く拳を握る。最後にノーマンと喧嘩をして殴りかかったのはいつだったか、もう覚えていない。
「てめェじゃァ途中で捕まってハイ終わり、だぜ、くそったれ」
ノーマンの視線がずるりと持ち上がる。
ザックは正面からそれを受け止め、唇をぎゅっと締めた。
「言っただろ。僕はてめェが好きなもんを壊すし、てめェが手を出せねェやつもぶん殴んだよ」
「だから、僕の側にいて?」
「うるっせェ! そっから先は忘れろバァカ!」
テリーはザックの脇腹に軽いパンチを食らわせ、ノーマンが影を動かそうと手を持ち上げたと同時に走り出した。
テリーが影を察知して避けていくのを見て、ノーマンは眉をひそめた。あらゆる感情の中で最も動きの速い喜びの影が捕らえられないとは想定外である。
比較的速い怒りの影でさえ先手を取れればどうにでも出来、現にテリーを守ろうとするその影は先に潰せている。しかし、それ以上にテリーの反応が良く、掴みきれない。
テリーが手で合図を送り、ザックがそれに従う。
その流れだけでもどうにか終わらせようとザックの視界を塞ぐために壁を彼の眼の前に立てた。それは一瞬で崩されていくが、その分だけでもテリーへの反応は遅れる。壊されることを前提とした薄い壁をしつこく繰り返して立ち上げていく。
「ノーマルからハートルーザーになろうが、その程度だ。そんな小さな影でどこまで出来る」
その小さな影を足場にして使うテリーは中指を立ててノーマンに手の甲を向けた。
「はッ! お前らみてェなハートルーザーは過信が過ぎんだよ、くそったれ!」
テリーは自身の影をバネにして強く踏み、移動距離を稼ぐ。そして、立てていた中指に人差し指を添えて銃を模し、ザックへ銃口を向けて揺らす。
「それに、俺たちは一人じゃない。二人だ。――君には負けない!」
ザックが目の前の壁をまとめて壊した時には、既にベレッタを構えていた。ノーマンまでは距離がある上にゆっくりと狙いをつける間もなく、正確に当てる自信はなかった。それでも、ザックは迷わず狙いをノーマンの頭に向けていた。
引き金を引く。
反射的に動くノーマンの影が大きな葉のような形になって弾丸を叩き落とす。視線がそちらに向き、視界も塞がれる。
一瞬の、眼前の黒。
僅かな隙間を狙ってテリーは影を踏む足に力をこめた。勢い良く影を弾き、それに合わせて強く蹴った。ノーマンの側面に一歩で周り、着地地点にもう一度影を作り直す。
膝を曲げ、力を溜める。
ノーマンの視線がこちらを向くよりも早く、テリーは影を再度蹴っていた。進路を塞ごうと編み上がる影を、ザックの影が粉々に燃やし尽くす。
「頭冷やせよ、こんのくそったれェッ!」
振りかぶった拳を、前へ。
そのテリーの胸へ、鋭く尖った影が――燃えた影の向こう側から、狙いをつけて待ち構えていた。
【拳】




