106 War To The Knife
「ハハ、アハハハ……! いい格好だネ、テレンス!」
ルースの甲高い笑い声を聞いて、テリーは伏せていた顔を上げる。
影の中から出てきたルースは側頭から流れる血を手で押さえながら立ち上がっていた。おぼつかない足で歩きだす彼女の腰は影が支えている。彼女は口に溜まった血と一緒に、前回折られた部分の差し歯をぺっと吐き捨てた。
「あア、くそ。面白くなーい……。なんで俺様がノーマルなんかに――あア、今はノーマルじゃないケド……。くそ、あんなしょっぼい影しか持ってないヤツなんかに――」
足元も感情もぐらぐらと揺らしつつ、ルースはコートの内側からナイフを引き抜く。一歩踏み出すたびに髪束がふらついた。
「俺様はやられる側じゃないんだヨ。――ま、これからは面白くなるんだケド! アハハハ! アハハハハハハ! テレンス! 気分はどオ? 簡単に殺してやらないカラナ!」
弾けるように笑ったルースは手の中のナイフを器用にくるりと回した。リズムのおかしなステップを踏んだ彼女はテリーの前髪を掴んで目を合わさせた。ナイフの切っ先が彼の喉仏にちりと触れる。
「はッ。よォやくお目覚めかよ、くそったれ。暇すぎて寝ちまうところだったぜ」
垂れた鼻血をすすったテリーが腫れた右頬を吊り上げた。
テリーはルースの影によって手足の自由を奪われ、まるで磔の状態だ。倒れることも体を守ることも出来ないまま、影に散々殴打されていた。
「アハハハ! 寝ちゃ駄目だヨ! これから遊ぶんだカラ!」
ルースがナイフを横に動かす。浅い傷が首に線を描いたが、彼は眉をひそめて「間違ってタグの方を切るんじゃねェぞ」とどうでもいい文句を吐いただけだった。ひび割れたサングラスの奥にある瞳はルースを睨んでいて、死への焦りも恐れも浮かんでいない。
薄っぺらで執着のないテリーの反応に、ルースは不機嫌そうに表情を歪めた。
「怖くないのかヨ。なアんにも出来ないくせに。殺されるだけのくせに」
つまらない、とルースが表情で語る。
テリーは対象的ににやりと笑う。口内の血をルースの方へ吐き捨てた。
「あァ? 死にかけて記憶まで馬鹿んなったかァ? 僕は死ぬのなんて怖くねェっつったろォが。もォっと怖いもんを知ってるぜ」
ルースは暫く黙ってテリーを見下ろしていたが「へエ」と何かに納得してから灰色の髪から手を離した。
テリーは降ろされた前髪を払うように首を軽く振り、ちろりと唇を舐める。
「じゃア! どこまで余裕ぶった顔出来るか見ててやるヨ! アハハハハハハハハ! テレンス! 俺様に開けた風穴の数だけ、お前にも穴を開けてやるヨ! 最後の一つまで死なないでヨネ、テレンス! アッハハハ!」
彼女は新しいおもちゃを与えられた子供のように哄笑し、テリーの腹を指ですいとなぞった。どこを刺そうかしらとおもちゃの品定めをした彼女は手元のナイフを光らせるように揺らし、切っ先を一箇所に定めた。
「アハハハハハ! まずは、一つめエ!」
「――そんなの、お断りだ。絶対に、キスタドールには戻らない」
ザックは手の甲で涙を拭い、強く言い切った。そして、ベルトの後ろに隠してあった小さなナイフを抜く。ノーマンの影が先程銃を奪ったようにナイフをもぎ取ろうとしたが、それよりも先に自身の影にそれを握らせていた。
影同士、単純な力比べではノーマンの影に負けることはない。そのことはノーマンも承知で、彼の影はすぐに諦めて引いていく。それでもそのナイフがどこへ向かうかのか気にするようにちろちろと蔓の先を泳がせていた。
「テレンスを見殺しにしてでも、か」
「君が同じ立場だったら見殺しにする? ああ、この状況なら仕方ないって」
ザックが小さく失笑すると、ノーマンは場違いな笑みを咎めるように眉根を寄せた。その反応にザックは「そういうところは昔のままだ」と笑みに苦いものを混ぜ込んだ。懐かしさと苦しさが混ざって、ぷしゅぷしゅと反応を始める。
「俺も同じだ。見殺しになんてしない」
ノーマンを真っ直ぐに見つめながら、影の内側にもたれかかる。影は檻を形成しているだけで、ザックには積極的に触れようとしてこない。
「それなら力ずくでそこから出てみせるか。……お前の影じゃあ俺の影の再生速度に敵わないことは分かってるだろう」
「うん。俺はここから出られたことがない。何度試しても、どんな手を使っても駄目だったのはよく覚えてる」
ザックは服の内側から銀の懐中時計を引っ張り出した。自身の体温で仄かに温かい。
「君に敵わないことなんか、昔から分かってるさ」
懐中時計を両手でしっかりと包み込みながら、冷たい空気を肺へ押し込む。
ルースの笑い声はいつの間にか聞こえなくなっていた。外の静けさが何を意味するかは考えない。
テリー、無事でいて。
そう願い、目を閉じる。
「あまり時間をかけてもテレンスが追い込まれるだけだぞ。――俺がマーシーを呼ぶ前にキスタドールへ戻ると言わないか。そうすれば、二人共助かる」
ノーマンの静かな声が空気を震わせる。
ザックは言われた言葉を胸中で繰り返す。二人共助かる。
「……うん。それが一番平和な解決方法だと思う」
ゆっくりとゆっくりと息を吐く。肺の冷たい空気で凍らせた覚悟を腹に残して。
「だけど、俺はキスタドールに戻りたくないし、テリーも殺されたくない」
ザックは薄く目を開き、ノーマンを見つめて、僅かに微笑んだ。止まっていた涙が、一筋だけ頬を撫でる。
ノーマンがその表情に喉を上下させた。
「……俺がいなくなれば、テリーに手を出す意味なんてなくなるだろ?」
ザックが影をずるりと動かした。
影が持ったナイフ。
その切っ先を自身の喉元へ向けた。
テリーは足元にぼたぼたと垂れる血液を見下ろし、右頬をぎゅっと吊り上げた。
「ははは。お前とおんなじなんて、趣味悪ィぜ」
白を溶かす赤の水溜まりに、唾を吐き捨てる。
ルースが握っていたナイフが――テリーの服を、皮膚を、肉を、浅く裂いたナイフが、彼女の手から落ちた。
「――あ、ア。なん、で」
その彼女の背中には、深く、深く、ナイフが突き刺さっていた。
テリーは顎を上げ、見下すような金色でルースを笑う。
「おんなじだろォ? 僕に何してくれたか、忘れたわけじゃねェよなァ?」
ルースの背に収まったナイフを握ったのは、テリーのほっそりとした影だった。
「影が離れてても、見えねェ位置でも動かせんのを忘れてた。お前がこうやってくれなきゃ思い出せなかったかもな、助かったぜ」
テリーの影がひねりを加えながらナイフを引き抜くと、ルースは悲鳴を上げて倒れた。彼を掴まえていた影がそれと同時に崩れるようにして消えた。
テリーはルースが血を吐いているのを見下ろし、彼女の右腕を掴んで後ろへねじ上げた。
「なァ、ルース。お前は死ぬのが怖ェ? 答えろよ」
【ナイフ】




