104 Dead Emotion
テリーは影が溶けていった胸を一度だけさすった。
「な、なんで……! 儀式はそんなに簡単じゃないだろ! 今のはなんだヨ!」
体に異常はなく、気分も悪くはない。儀式が成功したのか失敗したのか分からず、テリーは自身のシャツをめくって見下ろした。セドリックの手の甲にあったゲートを模したタトゥに重なるように、もっと深い黒が描かれている。
ゲートの定着、と閉じた口の中で呟く。
「……この町にハートルーザーが多い理由を知ってるかァ? 昔っから儀式を受け継いで受け継いでってしてる奴らがいてェ、適当な馬鹿がやってる儀式なんかよりもずゥっと成功率が高ェの」
テリーがゆるりと首を回す。影の出し方も操り方も分からないのに、何故だか使いこなせる自信があった。腰を落とし、拳を握る。
「――それとなァ、そういう奴らはちょォっとした裏技も知ってんだよ」
そう言いながらマーサのことを思い浮かべる。
強くなるために、ザックを守るために、とハートルーザーになる意思を伝えた時のマーサの表情は、ぼやけた視界でしかないはずなのにくっきりと脳内に残っていた。
反対もせず受け入れてくれた彼女は彼の中にトリガーを残した。いつでもテリー自身のタイミングで儀式を完了出来る、彼が彼の感情に向ける自殺のトリガー。
そのトリガーを引いたテリーは彼女を思い出す感情が妙に冷えていることに気付いて、眉をひそめる。そして、今はそれ以上を思い出すことをやめた。
息を吸う。
そして、吐き、笑う。
「さァ、ノーマルであんだけ苦労した僕がハートルーザーになっちまったぜェ? お前はどんだけ楽しく踊ってくれるんだろォなァ! ルース!」
挑発するように大口を開けて笑ったテリーに、ルースは拳を握った。楽しくなってきた、と口角がにんまりと上がっていく。
「ア――ハハハハハハ! 俺様を誰だと思ってるんだヨ! 哀しみのハートルーザー、ルース様だヨ! しょぼくれた感情一つ殺したくらいのヤツに負けるかヨ! アハハハハ! 面白くなってきたア!」
ルースが両手を突き出すと、それを合図に影が伸びた。
テリーは大した速度もないそれを悠々と避けて踏み込む。次々に立ち上がる影を走り抜け、彼女の眼前に飛びこみ拳を振り上げる。ルースは下がりながら防御用の影を自身の前へ動かした。
「量だってパワーだって俺様の影の方が強いんだヨ! アハハハ! ちょっと速いからってなんだ! 足掻いたって意味ないんじゃなーいノ!」
「でかけりゃいいってもんじゃねェぜ、くそったれ!」
斜め後ろからの声に、ルースが振り返る。その腹にテリーの靴底が深く埋まった。
前方に作ってあった自身の影に激突したルースが白黒させた目でテリーの足元を見る。小さな影が彼の足場をサポートするように脈打っている。
テリーが追撃を加えず後ろへ戻ろうとすると、それに合わせて影が素早く軸足に滑り込んだ。彼が跳ぶのに合わせて、影が足を押し出す。
「……アハハ、さっすがテレンスだネ。そんな使い方、思いつかなかったヨ」
腹を押さえたルースの褒め言葉に、テリーは中指を立てた手の甲を返した。挑発するように指を曲げると、ルースは狼が威嚇するように顔を歪めた。
ルースが自分の足で地面を蹴る。ベルトに差し込んだナイフを抜き、身軽さを利用して一気に詰め寄った。逃げられないようにテリーの左右と後ろに壁を立ち上がらせる。
テリーは奥歯をぐっと噛み締め、影を先行させて体を前へ傾けた。細い腕一本ほどの影はルースの影によって潰されるがテリーは気にせず先へ思考する。
攻撃手段をあの手この手と考え、守りに入るタイミングを見極め、ルースの影がどこから来るかを把握し――、目まぐるしく変わる戦況を手の中に収めながら、そこに影をどう落とし込むかを探る。
今までにないほどのスピードで頭の中を回転させながら、テリーは投げられたナイフを考えるよりも早く避けた。刃先がかすった服と腕が切れたが、痛みに反応する間も意識も吹っ飛ばす。次に何が起きて、どう動くべきか、次の手を絶え間なく考え続ける。
ルースは次のナイフを抜き、テリーの眼前まで踏み込んだ。
瞬間の視線の交差。視線で殴り合う。
ルースはテリーを捕まえようと影も動かすが、彼はそちらの方を見向きもしないで影のない場所へ跳び移った。視線はしっかりとルースを突き刺し続ける。
「ッあア! イライラする! なアんで! 避けられるんだヨ!」
「はッ! お前はなァんで避けられねェんだろォなァ! 足元がお留守だぜ、サンドバッグちゃん!」
先程ルースに潰されたテリーの影は、へちゃげたままそこに残っていた。前へ前へと踏み込んできた、ルースの足元に。
ルースの足がテリーの影に掴まれる。突然のことで体の勢いは消せず、彼女はつんのめってバランスを崩した。
不慣れな影でも、テリーはこの影の特徴はしっかりと理解していた。パワーよりもスピード、そして自身と離せば途端に弱くなる影。相対したことこそないが、彼を愛した男と同じ、愛の影。
だから――、とテリーは影に力を与えるようにすぐ側へ足を突く。
「おらァッ! 逃げられるもんなら逃げてみろよ、くそったれェッ!」
だから、僕に扱えないはずがねェ、と彼は吠える。
前へ傾いだルースの鼻っ面をテリーの拳がまっすぐ叩いた。
頭を揺らしたルースの影が殆ど溶けるように崩れ、ゲートの中に戻る。辛うじて残った影も思考が飛んだルースでは動くことも出来ず、ぴたりと硬直した。
ほんの僅かな空白。
その真っ白な時間を逃さず、テリーは反対側の拳をしっかりと固めて鳩尾に叩き込んだ。ルースの体がくの字に曲がって後ろへ引っ張られるように倒れていき、その側頭へテリーのブーツが入る。
ルースが自分の影に肩からぶつかり、唾を散らした。すぐさま立ち上がろうと足掻くが、手足が言うことを聞かずずるずると背中をすって落ちていく。
「なん、で――ッ! クソ! なんでだヨ!」
その間にもルースは自身の影で自分を包み込んだ。
テリーのもう一撃はそこにぶつかり、彼は間に合わなった足をすぐに下げた。影で防御されてしまえば、いくら自身がハートルーザーになったとて打つ手がない。
一旦下がり、ザックが連れ込まれた奥にある小屋へ顔を向け、拳の力を抜く。特に騒がしい音がするわけでも、影が見えるわけでもない、不気味な静けさをまとっていた。
「……あーァ。ハートルーザーになったっつったらどんな顔すんだろうな」
ザックの顔を思い出し、テリーは額の汗を腕で拭った。
マーセイディズは先程と同じ格好で座っており、一歩も動いていない。テリーとルースが眼前で戦っているというのに興味がないのか、ぼんやりと空を見上げたままだ。
「……ルースみてェな野郎が二人じゃなくて助かったぜ」
思わず零し、影の中に閉じこもっているルースへ体を向けた。このままルースの復活を待って完全に叩き潰さなければならないのか、一旦放置してザックの方へ向かう方がいいのかと考え、眉をひそめる。
ザックの影の性質も、どういった使い方が得意なのかもテリーはよく分かっていた。
四大感情の中で最も力が強く、スピードもかなりある。ザック自身の強さはさほどではなくても、彼の怒りは随分と強い。
そんな攻撃的な影を背負ったザックがノーマンの影に対して、逃げ出せたことがないと言ったことがテリーは気になっていた。自分はノーマンを相手にした時、果たして勝てるのだろうかと心に靄がかかる。
ほんの僅かな隙間、緩んだ拳を握り直す間。
スピードを落として思考を回したその時、彼の足元にぞわりと影が滲んだ。気付いた時には遅く、逃げようとした足首をぐいと握られる。
「しまっ――」
ルースはまだ影に守られている。しかし、テリーの目の前には拳を握ったような形の影がじわりじわりと立ち上がり、彼に狙いを定めていた。
【影】




