1 Heart Loser
突然、三階の窓から空気砲のように真っ白な煙が吐き出された。
「え?」
少し離れたところで、その窓を見上げていた男が口から疑問符を零す。
日が沈んで空から赤色が消えていく中、妙に白が強調されて浮かんでいた。何事もない平和な夕方には似つかわしくないそれを見上げ、男が眉間に皺を寄せる。
「何してるんだろ……」
ぼんやりと呟いて首を傾げると、頭の上に漂う疑問符も同じように傾き――それはすぐに感嘆符に変化した。
煙を吐いた窓から、白に混ざって手が飛び出す。そして、すぐに若い男の声も吐き出された。
「手ェ貸せッ!」
それらを見上げていた男は「了解」と一つ頷いてから、そちらに向けて手を伸ばした。
「ぶぇっ! こんな狭ェところで、ゲホ、煙幕使う馬鹿がいんのかよ! くそったれ!」
紺色のワークキャップを目深に被った青年が咳き込み、口の中に入り込んだ埃を唾液と一緒に吐き捨てる。
「ああ、くそ! しかもハートルーザーッ! こんな面倒な仕事なんて聞いてねェぞ!」
悪態をついた青年が一つしかない窓へ向かって走った。途中で何かにつまずき、視線だけをちらりとそちらへ向ける。
薄暗い部屋の中だというのにサングラスをかけた青年は、自身の足元に滲む黒い影を暗い視界で捉えた。その影が立体的に立ち上がってくる。
光を拒絶したような黒い影が彼の足首を掴むよりも早く、青年はそれを飛び越えた。
彼の足がそこから消えると同時に、影がぎゅっと握る動作を見せる。
間一髪その場から逃げた彼が窓枠を掴み、片足を掛けて外へ身を乗り出した。
外へ出ればこの影を完全に撒ける自信がある。
「逃がさないッ!」
しかし、彼の背後から女の声が飛ぶ。それと同時に、まだ床に残っていた彼の片足を影が掴み直していた。
舌打ちをした彼は埃っぽい空気を肺一杯に詰め込む。そして、吐き出す。
「手ェ貸せッ!」
同時に空いた左手を精一杯窓の外へ伸ばす。
青年の声に呼ばれたそれは左手をしっかりと掴み、力一杯に彼を外へ引っ張り出した。
「ザック! 遅ェんだよ、ボケ!」
青年が手を引かれながら、目の前を走る背の高い男へ怒鳴った。
先程の窓から離れた場所まで走り、ようやく二人が立ち止まる。小柄な青年は男を下から睨めつけ、引かれていた手を荒っぽい動作で払った。
ザックと呼ばれた男は困ったように微笑んだまま「ごめんごめん」と軽く謝る。
青年はその綿飴のように口当たりの軽い謝罪に苛立ったのか、道の端へ埃の混ざる唾を強く吐き捨て、男の腕をどんと一つ叩いた。
「そんなに遅かった? 君が呼んで、すぐに動いたつもりだったのに」
ザックは叩かれた腕をさすっているが、相変わらず微笑んだままだ。
「うるっせェ! ああくっそ。靴が片方、置いてけぼりになっちまった!」
青年が見せつけるように片足を上げると、その足だけが靴下の状態になっていた。靴下のまま道を走ったため、足の裏は真っ黒に汚れている。先程の影にブーツを掴まれたまま引っ張られて、すっぽ抜けてしまったようだ。
「あのブーツ、お気に入りだったんだぞ! ちっくしょう!」
汚れた靴下を押し付けるように、青年はザックの太ももを蹴った。
「ああもう。俺も汚れるだろ。――君のお気に入りの帽子も埃まみれだ」
そう言って笑ったザックは青年の頭に乗ったワークキャップを手に取った。埃まみれのそれをしっかりと払ってから元の位置に戻す。
「で。テリー、何があった? 君があんな風に俺を呼ぶなんて珍しい」
ザックがワークキャップのつばをちょいちょいと軽くつついてから歩き出す。テリーと呼ばれた青年もそれを合図に足を前へ動かした。
テリーは埃っぽい服をばたばたと払いながら眉を寄せた。
「部屋に入ったら時既に遅し。依頼主はあの世にサヨナラ。おまけにハートルーザーまでいやがった! ――あー、くっそ! 代金渡してから死んでくれりゃいいのによォ!」
「そういう言い方はしない」
ザックが咎めるが、テリーは反省した様子もなく「あいあい」と不機嫌そうな声を返す。
「それで? そこにいたハートルーザーが犯人ってこと? それとも、そのハートルーザーは君と同じく偶然の遭遇者?」
「返り血浴びた偶然の遭遇者がいてたまるかよ」
テリーは歩きながら、拳に巻いていたバンテージを解いていく。丁寧にまとめることもなく、ぐしゃぐしゃのままズボンのポケットにねじ込んだ。
ザックはそんな様子を見下ろしながら眉尻を下げて笑う。
「怖い怖い。ハートルーザーとまともにやりあって無事なノーマルなんて君くらいだ」
「ノーマルっつうんじゃねェ。てめェらがアブノーマルなだけだろォが」
テリーが裸の拳でザックの背中を強く押した。
ザックは背中に手を回して押された箇所を自分でさすり、笑みに苦いものを更に追加する。
「そのアブノーマルから無傷で逃げ果せる君も十分アブノーマルだ」
「逃げるしかねェからノーマルなんだぜ、バァカ」
ため息と笑い声とを一緒くたにしたテリーがポケットに両手を突っ込んで肩をすくめる。
いつの間にか日は完全に沈み、建ち並んだ住居から漏れるカーテン越しの灯りで、薄暗い路地が照らされていた。
ザックは足元に滲んだ自身の影を見下ろす。その影は夜の闇が染み込んでいて、はっきりとした人の形にはなっていなかった。
「あーァ、やめやめ。続きは酒でも飲みながら話す。ったく、ヤな仕事だったァ」
足元から視線を上げたザックは、首肯してから視線を正面に戻す。
「お疲れ様。……少し寄り道して帰ってもいい?」
ザックが後ろで一つにまとめている黒く長い髪が、夜の闇に滲むように揺れた。後ろからそれを見ていたテリーは両手を頭の上で組んで、唇を尖らせる。
「やァだ。早く帰ろうぜェ、ザック」
普段通りの要求にザックは肩をすくめてみせた。
「晩飯を作らなくてもいい? それならこのまま帰っても」
「僕は酒が飲めるんなら、晩飯なんて抜いたって平気だもォん」
意地悪を言ったつもりだったが、テリーからは更なる上をいく言葉が返ってくる。
くつくつと笑ったザックが後ろを振り返る。それに気付いたテリーが「あんだよ」と右頬を吊り上げて笑った。顔に大きく走った傷跡がぐにゃりと歪む。
「……好きなもの作ってあげる。だから、買い物に付き合ってくれない?」
「やった。さっすが相棒ちゃん」
「で。何が食べたいのさ、相棒くん」
再び前を向いたザックの隣にテリーが並んだ。
【ハートルーザー】




