メディアという化け物 メディアのお話 【暇人エッセイ】
犯罪報道の犯罪(や硫黄島の星条旗)などを見ると、レガシーメディア(旧来のメディア)の恐ろしさが見えてくる。それは、エクスポイトメディア(利用・悪用するメディア)であるとも考えられる恐ろしさである。
第四の権力といわれるものの、第一から第三と決定的に違う点は、その収益を求める体質にある。一から三までの権力は、直接的な営利を求めようとはしないし(そんなことをしなくても、国民から“合法的に”ぶんどって来れる。)、さらに諸々の法律で縛られているし(法律を作るのも彼らだが)、例の第四のメディアなどというのが(場合によっては)監視している(つもり)らしい。
しかし、第四のメディアは目先の利益になると思うと発行部数のために、視聴率のために群がってプライバシーを引きはがし、濡れ衣を着せ、何の責任も取らない。
市民を利用して、責任はとらないのだ。法的に彼らに報道され“社会的制裁”をあたえられる側の市民が彼らを効果的に監視できる制度はない。マスコミ選挙はないのだ。
(発行部数・視聴率という形ではあるが、人間がゴシップや人の不幸を好むことを考えると、何の歯止めにもなりそうもない。「私のプライバシーは大切だが、見ず知らずの彼のプライバシーなど知ったことではない」というわけだ。そうすると、そもそもマスコミが悪いというより、「自分は例外主義」で自分は“正義”といういじめを楽しむだけで、矛先にあげられはしないと信じ(たが)る市民が悪いのかもしれない。)
だが一方で、インターネットがそれに比して信用できるか、と言われると、否といわざるを得ない。裁かれる側の市民が発信者となっても、結局は他の市民をたたくに過ぎない。
既存のメディアが、「レガシー」で、「エクスポイト」なら、インターネットは、フレイムメディア(炎上的メディア)であると言わざるをえない。もはやその域を超えて、モボクラシックメディア(衆愚的メディア)ですらある。
「炎上」という現象が、インターネットが本質的にはレガシーメディアと何ら変わらず、濡れ衣を着せプライバシーを引きはがし、ぶっ叩いて“社会的制裁”とやらを与え、何の責任も取らないインターネットを象徴している。大きなメディアが倒れても、小さな(そして、おそらく、より自制のきかない)メディアが大量発生して袋叩きにするだけだ。
史上最悪の独裁者とも言われるヒトラーは民衆を操ることにたけていた。彼は民衆は愚かで煽りやすいと言ったが(しかし、哀しきかな、彼も“愚かな民衆”の一人だった。)、実際その通りで、インターネットでは、だれの指示もなく、民衆が民衆を煽り合って炎上させている。そして、誰かが必ず傷つくのだ。
私のような莫迦を含め、だれもが思ったことを拡散し、それが信じられ、信じられなくても思考に薄靄のようなバイアスをかけてしまう。仮想的な集団が構成され、インターネット暴徒が幅を利かす。不注意に落とした情報をたどってプライバシーが暴かれ、食い物にされる。
さあ、あなたは、強圧的にあなたの衣を引きはがして、“サーカス”をさせる大きな怪物と、自らも積極的に暴徒となり、かつ被害者となる小さな悪魔のどちらを選ぶだろうか。
あるいは、新たな化け物を作ることを選ぶのだろうか?
私は、引きこもって、社会とのすべての関わりを立つ方針もありだとは思いますよ。ネットとか使って外とかかわりを持つこともしない方向になりますけどもね。そいつはきっとこれを呼んでなんかいねぇわな。
※すべて一個人の一考え方です。