自分勝手な恋
好き。すごく好き。
むずしい顔をしてパソコン画面を睨む時にできる眉間のしわも、ペンをクルクル回す長い指も、時々はねてる癖のある髪の毛も、全部全部。
松木さんが大好き。
初めは、ただ他部署の上司だった。
経理の私は設計課の松木さんとはフロアも違って、接点もほとんどなかったから。
入社式の後の役職さんたちとの対面式での印象は眼鏡にマスクの冴えないおじさん。
それからは、覚えたばかりの出張費精算や備品購入希望書類を処理する時に松木さんの承認サインを見かける程度の存在だった。
それが今はこんなに好きになるなんて。
――きっかけは食堂で耳にした会話。
「くそ、ラーメン食ってるのか、鼻水すすってるのかわからねえ……。もう五月だってのに、いつまで飛んでんだよ、今年のスギ花粉は」
「そういや、今年は長引いてんなあ。スギ花粉以外にもあるんじゃないか? 松木だけにマツ花粉とか」
「ちっとも面白くねえ。それよりもお前、明日からアムステルダムだろ? 俺にその夢のパスポートを譲れ」
「できるか、バカ。まあ、どうせ向こう行ったって、テレコンで済ませられる内容なんだろうけどな。めんどくせえだけだよ」
「そんなもんだよ。でも今の時期に日本から脱出できるのは本気で羨ましい、ってか恨めしい。なんで俺にはこの時期に限って出張がないんだよ。ああ、もう、日本中の杉の木を竹に植え替えてえ」
ずいぶん子供っぽいやり取りに、いったい誰が話しいてるんだろうと振り向いて驚いた。
その場にいたのは、私にとっては責任ある役職に就いた大人の人たちだったから。
話し方からせいぜい同年代の男性社員だと思っていたのに。
その時、マスクを外した松木さんと目が合って、彼は気まずそうに笑った。
私もどうにか微笑み返しはしたけど、少し鼻が赤くなったその少年っぽい笑顔にやられたんだと思う。
今までまったく興味もなかったのに、さり気なく左手薬指をチェックしてしまっていたから。
指輪はしていなかったけど、別居中の奥さんがいるというのは後で誰かから聞いた話。
それからはついつい目で松木さんを追っていた。
無理やり用事を作って設計課のフロアに行ってみたり、食堂で姿を捜したり。
気付いた時にはもう止められなかった。
いくら別居中とはいえ、松木さんは結婚しているのに。
想いを伝えることもできずに、ただ恋心と罪悪感を募らせていった。
そして片想いを初めて一年、耳に入ってきたのは松木さんが正式に離婚したという噂。
子供もいなかったため、円満に別れたと聞いて、ほっとしながら喜んでいる自分が嫌だった。
なんて自分勝手なんだろうって。
だけど、もう次にはどうやって近づこうかと考えている。
社内メールで食事に誘う?
誰か間に入ってもらう?
大胆なことを思いついては、実行する勇気が出なくてため息が出るだけ。
そんな時だった。
「広野さん、元気ないけど大丈夫?」
リフレッシュルームで一人、コーヒーを飲んでいた私に、松木さんが声をかけてくれた。
「は、はい。大丈夫です!」
私の返事に松木さんは優しく微笑んで、自販機に向かった。
いつも買うのはミル挽きコーヒー、濃いめのブラック。
「あれ? 砂糖入れるんですか?」
「え?」
砂糖増量ボタンを押したのに気付いて、私は思わず訊いてしまい、松木さんが驚いて振り向いた。
しまった。
今の発言はおかしいよね。
二人きりのこの状況が信じられなくて、声をかけてくれたことが嬉しくて、浮かれてしまっていた。
でも松木さんはすぐに笑って答えてくれる。
笑うとできる、目じりのしわも好き。
「疲れてる時には甘い物が欲しくなるからね」
「そ、そうですよね。松木さんこそ大丈夫ですか? 今日はマスクはいいんですか?」
雨が降っているとはいえ、松木さんほど酷い花粉症ならつらいんじゃないかと思った質問。
松木さんの花粉症は有名だから、これはおかしくないはず。
コーヒーを取り出した松木さんは、私の座る席の向かいに腰を下ろしてまた微笑んだ。
私だけに向けられる笑顔が嬉しくて、でも物足りなくて。
「今年は比較的症状が軽くて、どうにかね。酷い年なんかは本気で海外移住しようか悩むけど」
松木さんはいつも優しくて、言葉遣いも丁寧。
本当はもっと口が悪いのも知ってる。
普段は『僕』だけど、仲の良い人たちの前では『俺』って言う低い声も好き。
「あの、いつも出張のお土産をありがとうございます。わざわざ経理にまで……」
「いやいや、広野さんにも経理課のみなさんにも、僕やうちの課の連中がお世話になっているからね。記入漏れとか、僕もチェックミスしたりして、ごめんね?」
「いいえ、そんな!」
大歓迎ですとは言えない。
設計フロアに行くチャンスだからなんて。
ああ、どうしよう。せっかく二人きりなのに、これ以上何を話せばいいのかわからない。
十七歳も年上の男性が好む会話って何?
手の中のカップにはもうコーヒーがなくて、いつまでもここにはいられない。
いつ誰が入ってくるのかもわからない。
「今度、食事に行きませんか!?」
うわ、いきなり何を言ってるんだろう。
ストレートすぎだよ。
「あ、あの……お土産のお礼に……」
どうにか誤魔化してみたけれど、松木さんの困惑した顔を見れば不自然すぎたのはわかる。
それでも後にはもう引けない。
さあ、判決をどうぞ!
「……お礼なんていいよ。でもそうだな、みんなで飲みにでも行こうか? 経理と設計で。普段、あまり交流する機会もないし」
上手くはぐらかされた。
そうだよね。当たり前だ。
それでも曖昧に終わらせないために布石を打った。
「じゃあ、経理課のみんなにさっそく声かけてみます。また日取りとかメールしてもいいですか?」
「うん、もちろん。こちらで詳細は詰めるよ」
よし、これで堂々とメールが送れる。
ここからプライベートな連絡先もゲットして、また改めて誘おう。
一年の間、不毛な片想いを続けたんだから、ダメ元で当たって砕ければいい。
◇ ◇ ◇
「寒くない?」
「あ、はい。大丈夫です」
一瞬だけちらりと私を見て気遣いの言葉をくれた松木さんは、また前方に視線を向けた。
二人だけで出かけるようになって半年、松木さんの車に乗るのも五回目。
必死に松木さんのスケジュールを把握して、海外出張などで疲れていないはずの週末を選んで誘う。
ずうずうしい子と思われているかもしれない。
それでも松木さんは優しいから、何も言わずに付き合ってくれる。
そう、優しすぎるくらい優しいから。
出かける先は少し遠出して、会社の人には見つからないような場所。
不倫でもないのに、神経質なほど松木さんはいつも気にしている。
飲み会以来、会社内では前より少しだけ親しくなれた距離のまま。
何よりも、松木さんは私に触れない。手さえ握らない。
一緒にいるのは楽しくて。でも切なくて。
この関係は何て言うの?
大人の恋のはじめ方なんてわからない。
好きって告白から、お互いの気持ちを確認して、付き合い始める恋しか経験ないから。
そのくせ、この先には怖くて踏み込めない。
「疲れた?」
帰りの車中、黙り込んでしまった私を心配する声。
もういっそのこと、好きだって言ってしまう?
「あの……いえ、大丈夫です」
「そう? なら良かった」
今まで積極的に攻めといて、今さら何をためらっているんだろう。
自分がこんなに意気地なしだなんて。
今日もこのまま別れるの? 今週末から松木さんは二カ月も上海に出張するんだよ?
「まだ、帰りたくないです」
思わず口をついて出た言葉。
またやってしまった。
どうする? 怖くて松木さんの顔を見ることができない。
だけど車内に漂う重たい沈黙が、松木さんの困惑を伝えてくる。
ここまできたら、もうひと押しする?
ううん、やっぱり無理。今のままでもいいから、松木さんの傍にいたい。
「あの――」
どうにか誤魔化そうと思って顔を上げた時、車が急にスピードを落とし、道路脇の少し広くなったスペースにハザードを出して止まった。
そしてアイドリングさせたまま、松木さんが真っ直ぐに私を見た。
「今のは本気?」
松木さんの顔は怖いくらいに真剣で、上手く声が出せなくて、ただ大きく頷いた。
「帰りたくないって、俺のいいように捉えるよ?」
また黙って頷く。
「本当に? 俺みたいなおっさん相手に?」
「松木さんは全然おっさんなんかじゃありません!」
反射的に勢いよく否定してしまったけど、松木さんの驚いた顔を目にした私は、途端に恥ずかしくなって慌てて下を向いた。
緊張で小刻みに震える身体を必死に抑えようと、膝の上で両手を強く握る。
ここまできたら腹を括るしかない。
「松木さんは、すごく素敵で……私みたいな子供は相手にならなくて、迷惑かもしれないですけど、それでも……、それでも好きなんです!」
言った。ついに告白してしまった。
あとはもう、どうにでもなれって気持ちでさらに強く手を握り締めた。
だけど、返ってきたのは予想外の言葉。
「君はバカか?」
「え?」
今のは聞き間違い?
そう思ってしまうほどに告白の返事としてはあり得なくて、ぽかんとしてしまった私はきっと間抜けな顔をしてる。
松木さんは小さくため息を吐くと、別の質問を口にした。
「何で俺が好きでもない子と、こんなに何回も出かけると思うわけ?」
「それは……松木さんが優しいから……」
「優しくないよ、俺は。ただ自分勝手なだけ」
「そんなこと……」
言葉に詰まって戸惑う私の握りしめた両手に、松木さんはそっと左手を置いた。
そしていつもの優しい笑顔。……じゃない。これは違う。ずっと見てきたからわかる。
この笑顔は特別なものだ。
「ずっと好きだった。一年以上前からずっと」
「松木さん……」
信じられない言葉。思いがけない告白。
それでも少し乱暴になった言葉遣いと、いつもよりもっと優しい笑顔が真実だと伝えてくれる。
「広野さんは覚えていないだろうけど……。昨年の春、食堂で仲の良い連中とバカな話をしてた時、振り向いた広野さんと目が合って……気まずくて笑った俺に返してくれた笑顔にやられた。そこからはもう止まらなかった。いくら別居中とはいえ、俺は結婚していて、十七歳も年上のおっさんで、好きになる資格さえもないってわかってたのに」
込み上げる感情が強すぎて、涙まで出てきそうで、唇を噛んで首を振るだけしかできなかった。
好きになるのに資格なんていらない。
嬉しすぎて言葉が出てこない。
松木さんは冷たくなってしまった私の両手を温めるように、重ねた大きな手で優しく包み込んでくれた。
それから自嘲するように笑う。
「書類に不備があるとわかってて、わざと気付いていないふりをしたり、出張のたびに土産を買って帰ったり、お互いずっと面倒で放っておいた問題――正式に離婚するための手続きを始めたり、悪あがきだけはしてた。だから、食事に誘われた時はすごい嬉しかった」
あの時の松木さんは、困ってるようにしか見えなかったのに?
顔を上げた私の驚きが伝わったのか、松木さんは気まずそうに笑った。
それは恋に落ちた時と同じ笑顔。
「リフレッシュルームに一人でいた広野さんを見つけて、話しかけるチャンスとばかりに入ったものの、緊張のあまり砂糖増量のボタンを押したり、平静じゃいられなかった。そこに食事に誘われて、どれだけ嬉しかったか。本当はすぐにでもOKしたかったのに、社交辞令かもしれないと思ったし、何より離婚したばかりの俺と二人きりで出かけているところを誰かに見られでもしたら、広野さんに悪い噂が立つかもしれない。それで必死に抑えた」
「じゃあ……今までずっと、人目を気にしてたのは私のためですか?」
「そんなカッコいいもんじゃないよ。本当に広野さんのためを思うなら、最初から誘いは断るべきだろ? 俺の方が何歳も年上なんだから、大人として分別を働かせるべきだったんだ。なのにはっきりさせることもできずに、広野さんの好意に甘えてた。……な? 自分勝手だろ?」
「そんな、そんなことないです。お陰で私はチャンスをもらいました」
もし松木さんが大人の分別なんてものを働かせてたら、私には近づくこともできなくて。
今までの楽しい時間も、この幸せな時間もなかったから。
それが嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。
「うん。じゃあ、俺はもっと自分勝手になる。それを止められるのは今だけ。これから俺はこの先にあるホテルに向かうつもり。どうする?」
「……自分勝手な松木さんが、大好きです」
私の返事を聞いた松木さんは、私の両手を今まで以上に強く握り、助手席へと身を乗り出した。
軽く唇を重ねるだけの初めてのキス。
そしてもう一度、唇が触れ合った時、対向車線の車のライトが眩しく反射して、松木さんははっとしたように私から離れた。
「ここではまずいな」
小さく呟いて松木さんは苦く笑うと、迷いがないか確認するように私の目を覗き込んだ。
それから前を向いてハザードランプを右ウィンカーに切り替え、車を出した。
◇ ◇ ◇
楽しい時間はあっという間に過ぎる。
その週末、松木さんは――和也さんは二カ月の出張に行ってしまった。
せっかく想いが通じ合ったのに寂しくて、でも言えなくて。
和也さんも何度もぼやきながら出発した。――――はずなのに、次の週末には帰ってきてくれた。
それから週末ごとに毎回。
ギリギリまで日本で過ごし、上海に戻る。
もちろん交通費は自腹で、気になってそのことに触れると、「こういう時に金は使うもんだろ?」って、和也さんは笑っただけだった。
外資系のこの会社は能力主義だから、マネージャーの和也さんのお給料ははっきり言ってすごい。
それに出張時にはビジネスで移動できるとか待遇も良くて、初めの頃は処理するたびに驚いていたことを思い出しながら、素直に甘えることにした。
やっぱり、たくさん会えるのは嬉しいから。
――恋に落ちてから三年目の春、私たちは結婚した。
初めは反対していた両親も、何度も話し合って和也さんの人となりを知ってからは認めてくれ、祝福してくれた。
式は近しい親族とごく少数の友人だけを招いた簡素なものだったけど、土壇場で父が「やっぱり嫁にはやらん!」なんて言い出して母に怒られていたのはいい思い出になっている。
その後、ヨーロッパ各地で過ごしたハネムーンでは、和也さんは久しぶりにマスクなしの春を満喫できたようで、とても喜んでいた。
もちろん、何度かくしゃみはしていたけれど。
そして来年の春には、日本にいても花粉のつらさを忘れられるくらいの喜びが待っているはず。
だからまずは今夜、もうすぐパパになることを伝えるつもり。
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