ハンサム・バイオリン
この列車を選んだのは、今、目の前にある車輌の中で俺を一番遠くへ連れて行ってくれるからだ。けれど、乗りこんだ瞬間にたちまち後悔した。
今日は金曜日。しかも、三連休の前日だ。北に向かうこの列車は、大きな鞄を持った家族連れや学生たちでごった返し、うんざりするほど賑やかだったのだ。
誰も見ちゃいない。
どいつもこいつも目の前の楽しさに頭が一杯で、一人孤独に車輌に乗り込んできた男のことなど気にするそぶりもない。それが分かっていても思わず帽子を目深にかぶり、襟を立てて顔を隠そうとしてしまうのは悲しいサガと言うほかないだろう。
楽しげな話し声で溢れる車内を、うつむき加減で歩きながら空いている座席を探す。とにかく落ち着きたかったのだ。満席に近い状態の中を散々歩いて、ようやく空席をみつけた。空席は疲れた心と体に有難く、すぐに座りたかったのだが、その向かいの席に問題があった。そこには陰気そうな若い女が一人座っていたのだ。黒い喪服のような服を着て、同じく黒いツバの広い帽をかぶっている。サングラスをかけたその顔からは表情も見えない。
変な女だ。そう思ったが、いつまでも通路に突っ立ているわけにはいかず、俺はしかたなくその空席に座った。だが、女は顔も上げない。全くの無関心にほっとしつつも、逆に気になって、こそりと女の様子を盗み見た。そしてその女がイヤフォンをしていることに気がつく。
音楽を聴いているのか。どうりでこっちに関心が向かないわけだ。
無意識に耳を澄ましていると、微かに漏れ聞こえてくる音に俺はハッとする。
「バイオリン……」
思わず、声に出してしまった。するとさっきまで無関心だった女が弾かれたように顔を上げて俺を見た。そして言う。
「好きなの?」
その声は意外にも明るく澄んでいた。サングラス越しにこちらを見る視線にも優しさを感じる。少し躊躇したが無視も出来ず、俺は仕方なくぶっきらぼうに答えた。
「嫌いだよ。その音を聞くたび頭痛がする」
「そう。それは残念。バイオリンの本当の音をあなたは知らないのね」
「……は?」
思わず、むっとして俺は女を睨んだ。
「何だよ、偉そうだな。それじゃあ、あんたはバイオリンの本当の音とやらを知ってんのか」
「あなたよりはね」
「どういう意味だよ」
「あなた、逃げているでしょう」
ぴしゃりと言われて俺は息を呑む。何で知っているんだと聞き返しそうになるのを寸前で抑えて、俺は違うことを言った。
「あんた、何を言っているんだ。今、会ったばかりなのに失礼だろ」
「そうね、ごめんなさい」
少しも悪くなさそうに女は言うと、興味を失ったように俺から視線を逸らし、音楽の世界に戻っていった。そうなるとひとり取り残されたような気持になって、俺は途端に居心地が悪くなる。
「……ちょっと、あんた」
話しかけてしまった自分に驚きながらも俺は言葉を続ける。
「なんで、俺が逃げているって思ったんだよ」
「……聞いてみる?」
女は俺の質問には答えず、自分の片方の耳からイヤフォンを外すと俺に差し出した。俺は速攻、首を横に振る。
「い、いいよ」
「そう? 素敵な演奏なんだけど。 ……知っている? この曲を弾いているバイオリニスト、ハンサム・バイオリンの愛称で呼ばれている新進気鋭の演奏家なの。ハンサムと言われるだけあってすごいイケメンなんですって。声も少しハスキーで魅力的なの。彼の奏でるバイオリンの音色と彼の声がとても似ている気がして……私、たちまちファンになってしまったわ。今夜もね、コンサートがあるのよ。私は行けないんだけど、ラジオで中継があるの。私はそれを聴くのよ。……きっと素敵なコンサートになるに違いないわ」
「くだらん」
吐き捨てるように俺は言う。本当にくだらないと思ったのだ。素敵な演奏などと持ち上げる奴に限って、演奏なんか聞いちゃいない。ただ、そいつのみてくれにのぼせ上って、勝手にアイドル化してありがたがっているだけだ。
「聴いてなんかないくせに」
「聴いてるわよ」
ぼそりと呟いた俺の言葉に、女は敏感に反応する。
「ちゃんと聴いて素敵だと思うのよ」
「嘘だ。みてくれに浮かれているだけだろ。どんなに思いを込めて弾いたって……意味がない。どいつもこいつも演奏なんか聴いてない」
「違うわ」
まっすぐ貫く様に女は言った。
「そんな人もいるかもしれない。でも、少なくとも私は違う」
「どう違うんだよ。同じだろ」
「違うったら」
「それじゃ、違うっていう証拠をみせてみろ」
我ながらガキだと思った。恥ずかしくなって、黙り込む女の視線を避けるように窓の外に目を向ける。俺は一体、何にムキになっているんだ。もう、バイオリンのことも演奏のこともどうでもいいはずなのに。
「いいわ、見せてあげる」
「……え?」
驚いて顔を向ける俺に、女は軽く微笑むとそっとサングラスを外した。
「おかしいと思いません? 夜なのに、しかも車内でサングラスを外さない女、なんて」
「……あんた、目が」
「ええ、見えないの。だから、演奏している人の顔形なんて私には関係ないのよ」
唖然とする俺に、女は微笑みかけて言葉を続けた。
「誰も聴いてないなんて思わないで。私はここにいる。ちゃんとここにいて、あなたの音を聴いている。信じてよ、ハンサム・バイオリン」
俺は弾かれたように座席を立った。そして、そのまま通路に飛び出し走り出した。次の駅で降りて引き返せば、今夜のコンサートにはまだ間に合う。
途中で立ち止まり振り返ると、女は通路まで出て俺を見送ってくれていた。
「あんた」
周囲の乗客たちが何事かと俺を見る。構うもんかと大声で言った。
「今度は俺があんたに証拠を見せてやる。俺がハンサム・バイオリンだっていう証拠を」
「信じているわ」
女はそう言って、花のように微笑んだ。
(おわり)