薬屋の掌の上
今話もよろしくお願いします。
その晩、バジルがバルバラに何もしないかと血眼になって監視し続けた。
もちろん彼への不信感からである。
彼女が傷つくならば私は彼を現代アートにする。
まあ、2人はそのまま熟睡していた。
空が白んでくるころに彼女が起き上がり、体に巻きつけていた毛布を彼にかけて犬の姿になったぐらいだ。
彼が先に起きたら何をされるか分からない。
彼女の対応は当然だ。
さて、朝になりバジルが目覚め、カミツレを見て何か言いたげだった。
太々しい男である。
彼女は彼がベッドから車椅子へ移動したり、朝食を食べに部屋を出るために移動したり扉を開けたりと、数々の動作をいつも通り介助している。
そのうち警備隊の者が改めて訪れ、薬屋の被害状況や犯人の捜査状況などを彼に知らせる。
彼女が放った魔法の数々、特にペイントボールが随分と役立っているようだ。
目撃情報だらけであるし、ペイントボールのインクが犯人の逃走経路をバッチリ残している。
何せ、魔法でできたインクである。
簡単に落ちてくれる訳がないし、彼女に聞けば一瞬で居場所が分かるだろう。
ともかく、これで裏社会の人間はもう手出しできまい。
その日の薬屋は臨時休業である。
警備隊の者に薬屋まで送ってもらい、1人と1頭は被害が無いか確認する。
幸い、狙いは彼のみだったようだ。
寝室にインクが飛び散っている程度で、それも彼女によってすぐに消されたため、特に被害はない。
あとは調剤、勉強、家事などをしてゆっくりと休日を過ごすだけである。
そんな訳がない。
バジルは、また今度話し合おう、と言ったのだ。
今ほど話し合うのに最適な状況は無い。
バルバラは常に彼の傍に控え、彼の顔をじっと見ている。
まあ、いつも通りである。
彼も彼女の視線を受けつつ、調剤やその勉強をしている。
そう、いつも通りなのだ。
どういうことだ。
まるで昨日のことが無かったかのようだ。
私は2人に騙されているのだろうか。
なぜここまで私が心を乱されなくてはならないのか。
だが、ありがたいことに、よーーーやく、いつもと違うことが起きる。
風呂だ。
バジルがいつも通りに脱衣所へ向かおうとし、はっとしてカミツレを、バルバラを見る。
「バルバラ……」
話しかけても彼女は犬の姿のままである。
彼女はふっと視線を逸らした。
「その、知らなかったとはいえ、入浴まで……ごめん」
彼もふっと視線を逸らす。
彼女は俯く。
「申し訳ないんだけど、これからもお願いできるかな。もちろん、これからは、気をつける、というか、隠す、というか……」
彼は顔を赤くして、手で口を覆って何やらブツブツ言っている。
彼女はゆっくりと顔を上げて、彼の顔を見つめる。
2人の視線が合う。
彼女が頷く。
「ありがとう……」
その後はいつもよりぎこちなく脱いだり移動したり洗ったり、さらにはいつもついでに洗っていた彼女の体を洗っても気にしないか確認するなど、それはそれは面白いやりとりが見られた。
その日の晩、バジルがベッドへと移る前に、カミツレを、バルバラをじっと見る。
いつも通りでない彼の動きに彼女の動きが止まる。
そのまま彼はクローゼットへと向かい、シャツを1枚取り出す。
「バルバラ、その姿は魔力を消費するんだろ」
彼が取り出したシャツを彼女へと差し出す。
「これでよければ使ってくれないかな」
彼女はじっと彼を見つめたまま、シャツを受け取らない。
しばらく見つめ合い、彼がふっと笑ってシャツを彼女の体にかける。
「話したい、と言えば戻ってくれる?」
それでも彼女はじっと彼を見つめていたが、ふっと視線を逸らして背中を向ける。
犬から人へと姿を変え、シャツのボタンを留める後ろ姿に彼が声をかける。
ところでこの男、裸ワイシャツを強要するとは、けしからん。
実にけしからん。
「嫌だった?」
「いえ……お心遣い、ありがとうございます」
「気にしないで」
彼がベッドの脇へと移動し、その場に佇んだままの彼女を見る。
すでにボタンはすべて留めているが、俯いた彼女はその視線に気づきそうにない。
全裸や毛布に比べれば裸ワイシャツなど……いや、まさか、実は露出したいのか?
「手伝ってくれる?」
「あ、はい!」
犬ではなく、人間の介助で車椅子からベッドへと移動する。
この男……裸ワイシャツで介助を強要するとは……いや、深い意味は……ない、のか……?
「ありがとう」
「いえ、当然のことです」
彼の言葉に困ったように笑いながら答え、そのまま彼女は立ち尽くしてしまう。
彼は体をベッドの端に寄せ、彼女へと視線を向ける。
「狭くて申し訳ないけど、我慢してくれる?」
「え? あ、いや、私は床でも……」
「ダメ」
彼女の言葉を遮り語気を強めて告げる彼に、彼女は目を見開いて彼を見つめる。
彼はそのまま真剣な顔で言葉を続ける。
「君は俺の生活を支えてくれる大事な人。床で眠らせるなんてできない」
「そ、それは……」
「それに」
彼女の反論を一切受け付けない彼の態度に、彼女は視線を彷徨わせるばかりだ。
面白い。
「言ったでしょ、話したいって。同じ高さがいい」
「えっと……」
「嫌?」
それまでの強気の態度を一変させた彼に、それまで彷徨わせていた視線をすぐに彼へと固定して彼女が口を開く。
それにしても最後は感情に訴えるとは、卑怯な手だ、実に面白い。
「いえ! そんなことは、ない、です」
「そっか、よかった」
そのまま彼は横になる。
こうなってしまっては、彼女も一緒に寝るしかない。
恐る恐るといった様子でベッドに体を滑りこませ、彼の隣に横になる。
「日中はこれからもカミツレとして振る舞ってもらうことになると思う」
「はい」
「だから、夜だけでもバルバラとして過ごして」
「……はい、ありがとうございます」
「ごめん、お世話になります」
「いえ、こちらこそ、よろしくお願いします」
「……うん」
そこで会話が終わる。
彼女が彼の顔を見上げてみれば、彼の目は閉じられている。
恐らく既に寝ているのだろう。
彼女も目を閉じて、すぐに寝息を立て始める。
彼女の朝は随分と早かったのでだいぶ疲れていたのだろう。
彼がゆっくりと目を開け、寝返りを打って彼女の顔を見つめる。
コイツ、狸寝入りとは、やってくれる。
ところでこの男、トラウマはどこに消え去ったのか。
随分と穏やかな顔で彼女を……いや、この目はカミツレに向けるものと同じか。
彼はゆっくりと彼女へ手を伸ばし、その黒髪にそっと触れる。
「おやすみ、バルバラ」
もちろん、バジルが寝るまで、私は血眼になって監視した。
まったく、この2人の暮らしは今後どうなるのか。
ついに、1人と1頭ではなく2人で暮らしているのだという意識が芽生えてしまった。
まあ、感情は2人の間で異なるようだが。
一方は親愛の情か。
ずっと傍にいた、助けてくれた、信頼していた相手だ、当然の感情だろう。
その相手が人間で、しかもトラウマの対象になる性別だったが。
しかし、トラウマの発症はおろか、既に親愛の域を超えているようにも見える。
一方は罪悪感と義務感だ。
モンスターを煽り、襲わせ、両親と両足を奪った相手だ、当然の感情である。
自身が人間だと知られたが、それで過去が変わった訳ではない。
今後も罪滅ぼしのために後ろめたい気持ちを抱きながら尽くし続けるだろう。
なんともまあ、見事なすれ違いである!
この2人の暮らしも随分と面白くなってきたものだ!
さあ、いったいどのような結末を迎えるのか、見届けようではないか!
ありがとうございました。