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パンデミック

作者: シンタロウ

1


パンデミック

(一)

俺のねぇちゃんは十人いれば十人の人が美人でスタイルも良いと言う女だ。そして、容姿だけではない、頭の回転が早く言われた事、質問された事にはてきぱきと正確に答える女だ。俺は誰に似たのかと母親に聞くとあんたはお爺ちゃんのお父さん、ひひいお爺ちゃん、つまり曾祖父似だという。

「なんでだ。なんで曾祖父に似なくちゃなんないんだろう」メンデルの法則とか言う遺伝の法則こそが間違いではないのかと思えて仕方がない。トンビが鷹を産む話は聞くが、鷹がトンビを産む話は未だに聞いた事が無い。顔の中心に座っているこの大きな鼻はなんだ。半分にしてやっと普通ではないか。人によく言われる。ひょっとして匂いに敏感だろうって。匂いに敏感な犬でさえ、大きな鼻など持っていないのだ。ふざけて言っているのか?冗談にしては、どれほど少年時代の僕を傷付けただろう。

高校に入学してから、思春期を迎えた頃、鼻の大きな人はあそこの根っこも大きいのだろうなどと言われた。だから、中年のおばさんに会うと決まって目線が下に行っているのが直ぐ分かった。俺は人間だ。歩く性器では断然無い。ましてや、俺は巨根でもなく、至って普通の日本人の平均値だ。そして、人並に恋愛だってしたいのだ。大学時代は過半数は女子だった。コンパに誘われても、常に誰かの引き立て役で大学四年生の一年間はコンパや飲み会への参加をやめにした。だから、俺は授業や実験に集中することで気を紛らわした。


会社でのあだ名はお察しの通り、ビックノーズだ。人によっては、ビックだけで呼んだり、ノーズとだけ呼ぶ人もいる。言われる度に俺の名前は賢太郎ですと言うと、ノーズ賢太郎と言い返される。中学、高校でも似たようなあだ名で呼ばれた鼻に比例して口も大きいから、ビックビックと呼ばれていた。

食店に入って注文すると大盛りですかと必ず質問される。俺は大食いでもなければ大食家でもない。至って普通の胃袋を持っている。

今の研究所に入社が決まり、職場の歓迎会を開いてもらった。部屋の人達は、外食は久しぶりのようで、俺を出しにして二次会のカラオケへと誘われてしまった。カラオケは嫌いでもないが好きでもない。最新の新曲など歌えたものじゃない。部屋に入ると早速、マイクを持たされ歌わされた。理由はこうだ。

「口の大きい人は歌も上手い」という理屈をいい始めたのだ。研究者は何かとこじ付けが習慣になっていて統計的に云々を語る人が多い。新人の俺は反論することなどできるわけがなく、当然、歌ってみたら、皆を失望させてしまったのは言うまでもない。誰が言ったんだろうか。統計的に口の大きな人に歌の上手い人が多いなんて。

「馬鹿野郎、松田聖子は口が小さいぞ。人を見かけで判断してんじゃねぇよ」

結局、歌ったのはその一曲だけで、後は先輩達がマイクを占領して延々三時間も付き合わされてしまった。おそらく、曽祖父も同じ感情を抱いて生きて来たに違いないと思わずにいられない。もうこの世にいない曽祖父にしか俺の気持ちは分からないだろうと思う。

遺伝子とは恐ろしいの一言で済ませたくはないが、明らかに俺は曽祖父の遺伝子を受けついでいるのだろう。気が付けば遺伝子という漢字に子が付いている。明らかに遺伝は子孫へ受け継がれる子なのだろう。これも、研究者のこじ付けかもしれないが、理に叶った漢字に感心させられる。

俺の職業は研究所職だ。小学校の理科の時間に顕微鏡で玉ねぎ細胞の観察をした事が多分この道に興味を持ったのが始まりだったのだろうと思う。動物の細胞には細胞膜があるが、植物や菌類には膜が無く、細胞壁と呼ばれるものがある。その違いがにおおいに興味を持ったのを覚えている。気付いた時には、生物学専攻の大学に入学していた。大学では遺伝子に興味を持ち、ひたすら、DNAの配列を機械にかけて読んだ。ポリメレース・チェーンリアクション(PCR)はキャリー・バンクス・マリスによって発見され、彼はこれでノーベル賞を受賞した。この発見でDNAは誰もが簡単に扱える物となったのはTag DNA・ポリメラーゼという酵素の発見も後押ししたからだろう。本来、酵素というものはデリケートな蛋白で高温では失活してしまうがこの酵素は高温でも失活しないのでDNAがスムーズに合成されるのである。

DNAの配列は高速シークエンサーで読み取る事も今日では日常化している。長いDNAを短く切ったり、伸ばしたりも制限酵素があれば直ぐ出来る。切り出したDNAの断片をベクターと呼ばれるDNAにも簡単に組み込む事が出来るので組み込んだDNAを大腸菌、ウイルスは勿論、人の細胞へ感染させる事が容易にできる。感染させた細胞や大腸菌はDNAからRNAへと翻訳され、やがて蛋白を作らせる事も日常茶飯事である。

そんな毎日を大学でやっていたから、就職も自ずと、そう言った関係の職場を選んだ。ある意味、普通のサラリーマンが研究をやっているようなものでもあるが、研究と言う物は生産性がゼロである。新しい新薬開発は湯水の如くお金を使わなければ発見出来ない。動物実験まで辿り着けても、最終的に人に使えなければ全く意味が無いのである。


一方、山中遺伝子と呼ばれる四つの遺伝子が発表された。取りも直さず山中伸弥教授によって発見された遺伝子で、先生はこれで二0一二年にノーベル賞を受賞した。四つの遺伝子というのはOct3/4、Sox2、Klf4、c-Mycの遺伝子で、いわゆる転写因子と呼ばれるものである。転写因子はDNAに特異的に結合するタンパク質の一群であり、DNA上のプロモーターやエンハンサーといった転写を制御する領域に結合し、DNAの遺伝情報をRNAに転写する過程を促進、あるいは逆に抑制するものである。転写因子はこの機能を単独で、または他のタンパク質と複合体を形成することによって実行する。ヒトのゲノム上には、転写因子をコードする遺伝子がおよそ一八00前後存在すると推定されている。

この四つの遺伝子をウイルスによって細胞内へ運ばせ特定の遺伝子に結合させると、細胞内で今までOFFになっていた遺伝子が強制的にONにさせられる。その結果、細胞は未分化状態の細胞になるのである。いわゆる人工多能性幹細胞(iPS細胞)へと生まれ変わるのである。

元々、胚性幹細胞(ES細胞)が樹立され、クローン羊のドリーやクローン牛やマウスなど多くの動物でクローン技術は成果を成し遂げて来た。このES細胞とiPS細胞の違いはiPSの場合、受精卵を使わないので倫理問題が起こらない点である。マニュピュレターを使って細胞核の入替などの高等な技術を必要とせずに、身体のどの部分から採取された細胞でも、四つの遺伝子を組み込めばiPS細胞に出来るのである。

身体にあるほとんどの細胞は増殖をやめた細胞周期で言うとG0期である。使い古された細胞は死に向かうだけである。ところが、この死に向かっている細胞に四つの遺伝子を放り込むと細胞は若返り、どんな細胞にもなれる万能細胞に生まれ変わるのである。だから、人口多能性幹細胞(iPS細胞)と呼ばれているのだ。極最近、リンパ球を酸性培地pH5.7に保ち三十分曝すだけで、万能細胞が作れる方法も発見された。刺激で惹起された万能細胞である事から、発見した小保方はこの細胞をSTAP細胞と名付けた。まだ、マウス細胞での事象であるが今後人の再生医療や新薬、創薬に新たな期待や発見があるだろう。

話しが大分長くなったが、要するに俺は、iPS細胞を使って膵臓組織を作る仕事をしている。

研究費用を無駄遣いせずに効率良く人の治療や臓器移植を考えれば、おのずと何をやればいいのかが見えて来るものである。

膵臓組織の障害の多くは糖尿病に直結する。日本の糖尿病患者は七百万人いるとも言われ、世界で第九位である。一位はアメリカと言いたい所だが、実は隣りの中国が世界一位なのだ。ちなみに、アメリカは三位で二位はインドである。先進国の病気のようだが、けしてそうでもないのが、糖尿病の不思議な病気である。


(二)

ある日、コンピュータのサードパーティを買いに秋葉原まで行った。ウルトラブックを買ったはいいが、本体にCDやDVDを入れるドライブが無かったからだ。手頃な値段の機種を選んで金を払うと一緒にDVDが一枚付いて来た。はじめはこのドライブのドライバーだろうと思った。早速、家に帰って説明書を読んでみると商品のドライバーはネットでダウンロードして使う機種だった。

「この付録のDVDはなんだ?」

早速、封を切って開けてみるとタイトルも何も書いて無い怪しいDVDだった。タイトルもないDVDなのでひょっとしたら、データ保存用のディスクがサービスで付いて来たのだろうと思って数日間は放って置いたが、気が付くと、いつも目の前にそのディスクがあった。机の引き出しにしまって置いたはずが、いつの間にか移動している。それに気が付いたのは、今朝だった。なくしたら困るから、机の一番下の引き出しに入れたのを夕べ確認したにもかかわらず、今朝には、机の上に乗っていたからだ。気持ちが悪いのでもう一度、机の一番下にしまった。

そして、しばらくはそのDVDの事は忘れていまっていた。


「今日は火曜日か、朝からミーティングがあるな」

毎週火曜日は各自、仕事の進捗状況を口頭とプリントでの説明がノルマとされている。実験結果が出ない場合は当然、その場でディスカッションすることで解決の糸口を見付け出すが、大抵の場合は上司のアイディアに乗せられて再度挑戦する形になるのが常である。上司たる人は知識も去る事ながら、海外での経験もあり、問題の七割は解決してしまうから、驚きである。自分で解決しようとすれば一ヶ月はかかる問題でさえも、解決出来なかった三割もその日の内に糸口を見つけ適切に指摘して来るのだから、これまた驚きである。

膨大なDNAを扱うようになってその日だけではデータの整理が終わらなくなって、家でデータを整理することになった。コンピュータには既に、膨大なiPS細胞の情報が入っている。そして、いよいよ、引き出しを開けて例のDVDを使う日が来た。実験データをDVDに焼き付けて保存したいと思ったからだ。USBに保存してもいいけれど、いつコンピュータウイルスに感染するか分からないし、しょっちゅう書き込んだり、消去してるので確実に保存しておきたかった。

僕は、例のDVDを机の引き出しから出してドライブにセットした。

「ブーン」と音がしてパソコン画面が急に明るくなって表示が現れた。

「えっ、何これ?」

表示にはここをクリックしろとポインターが点滅し、見るとDNA螺旋構造のアイコンが蛍光色を発し点滅している。

不思議な光景に勝手に手がマウスを掴むと人さし指が左側のマウスをカチカチと鳴らした。

「ウソ、俺の手が勝手に?」

それは、無意識の操作だった。手慣れた捜査を無意識に行ったのか。それとも目に見えない力が手を動かしたのか。

ドライブ内のDVDが加速度を上げて一層厳しくブーンと音をたたて鳴った。その瞬間、キーボード上のアルファベットのキーがカチャカチャとタイプする音が鳴り出した。驚きで握っていたマウスを離した。それでも、キーボードのタイプする音は鳴り止まずに、パチパチとキーが自動で押されて行く。

俺は鳥肌が立つって身体がザワザワした。

ディスプレイに目を移すとATGという文字が一瞬目に入って来た。

「嘘だろう?」

ATGはDNAが蛋白に翻訳される時の最初のアミノ酸でメチオニンで始まる。

「そんな馬鹿な」

キーボードは一層加速度を増して打ち続けている。

「何が起こっている。コンピュータが壊れて暴走したのか?」と思って、慌ててメインスイッチを押してシャットダウンしようとしたがコンピュータはそれを許可しない。

「嘘だろう。壊れたか、修理に幾らかかるだろう」などと思っていると、コンピュータは更に加速してキーボードのキーを激しくたたき、ディスプレイ上には無数のDNAの配列が並んでいる。それは一本の糸が無数にとぐろを巻く様に何かを形成して行くように見えた。

「何だ、これは・・・」

ディスプレイには得体の知れない塊が少しづつ形成されて行く。キーボードは相変わらず、パチパチと音をたてている。塊はさらに、形を成して人の膵臓のような形になっている。尾部、体部、頭部が・・・。

「嘘だろう」

あっという間の出来事だった。


(三)

コンピュータが一般家庭に普及されるようになると、それに伴って様々なソフトも開発された。Macのコンピュータソフトに人の遺伝子を選んで胚細胞から人を創るソフトが売り出された事がある。広告のソフトパッケージの箱には臍の緒が付いた胎児の写真が載っていたのを今でも覚えている。正しく配列を並べないと完全な人になれず、お化けになったり、片手、片足が無かったりするソフトだった。分子生物学を学ぶ学生に人気だった。

不吉な予感がしてパソコンに繋がるコンセントを外した。

それを察知したかのようにパソコンは唸りを上げた。わずかの間に塊は更に大きくなって、体の骨格を形成する骨の再生が始まっていた。それも、数分の間に骨格を作り上げて骨の周りに筋肉、血管などが出来たと思うと心臓の鼓動がキーボードの音に合わせてドックン、ドックンと脈を打ち始めた。次々と各臓器が・・最初に作られたのは膵臓だった。そして肝臓も胃袋も作られて行く。

心臓が肺で覆われると肋骨が出来て内臓を隠した。頭部が出来つつあった。

「これは・・・」

大きな目玉がぎょろぎょろと動いている。今にも長い髪を振り乱してディプレイから這い出して来そうな勢いである。

「貞子・・・」

ディスプレイの画面に釘付けにされて身動きが出来ない。

数分の間に形が出来上がると、

「ぐぁーん」とコンピュータが音を発した。見ると、口が出来ている。俺は恐ろしくなって、DVDドライブをコンピュータから外し本棚にあった分厚い辞書でコンピュータを壊そうと腕を振り上げた。

ディスプレイには歪んだ顔がじょじょに形を作り上げている。振り上げた辞書を察知したのかコンピュータは唸りを沈め、キーボードを叩く音もしなくなった。そして、沈黙が訪れた。

静かになったコンピュータのディスプレイから、突然

「助けて」と叫ぶ声が聞こえて来た。振り上げた手がそこで止まった。

「コンピュータが助けて?」

いや、助けてと聞こえた気がした。恐る恐る、見ると、そこには、誰が見ても完全な人間の体が形成さていた。iPS細胞から出来た紛れもない人体がそこにあった。

俺は振り上げた手を下ろすし、出来上がった人体をしげしげと眺めた。

「なんと・・・」

ディスプレイの中には一糸まとわぬ少女の姿が映っていたからだ。

「・・・・・・・」

ディスプレイの下に何か分からない言葉らしき文字がタイプされている。

「처음 뵙겠습니다」

「何だこの文字は」

俺はキーを叩いた。

「お前は誰」とタイプした。

すると、直ぐに

「ミカ」と返事の文字が打たれた。

「嘘だろう‼」キーボードを叩いた手首から腕にかけて鳥肌が浮き立っていた。

コンピュータの少女はリアルで俺は真っ直ぐには見れなかった。一糸纏わぬその姿は胸の膨らみもあり、れっきとした女だったからだ。少女は再び同じ事を繰り返す。

「助けてください。賢太郎」

今度は俺の名前をはっきりタイプしてきた。今、目の前で起こっている事が現実なのか夢を見ているのか分からない。時計の針は午前十時十分を指している。パソコンに表示されてる時間も十時十分。永遠に時間が止まっているような錯覚がした。パソコンに向かって何を話しかけて良いのかも分からない。

現実を受け止めるだけの余裕も無い。しばらく無言でお互いを観察ていた。

「パチパチ」とキーボードがなり出した。

「服を着せて下さい」

「・・・・・・・」

「服を・・・」

「どうやって」とキーボードを叩いた。

「私の姿を先ずドラッグしてコピーして下さい。次にペイントソフトを立ち上げ、そこにペーストして下さい。パレットから色を選んで塗ればいい」

俺は早速、ペイントソフトを立ち上げて少女をペーストした。少女は絵に描いた質感のない人形になって動きが止まっている。裸の彼女の上にワインレッドを選択してワンピースを書いた。

「元のディスプレイに戻って下さい」

言われた通りに元の画面に戻ると驚いた事にペイントしたワインレッド色のワンピースを着て微笑んでいる少女がお辞儀をした。

「ありがとう」

「どういたしまして。名前はあるよね」

「私はミカ・ジョルジュマン」

「ミカはどうしてここに?」

「賢太郎の使命を果たすお手伝いに来ました」

少女は平然と使命などという重い言葉を喋っている。画像が小さく顔の表情や顔立ちまでははっきりと確認出来ない。

「俺の使命って何????」

「貴方は選ばれし者。人類存亡の危機を救うのです」

馬鹿さ加減に笑いそうになったが、ミカの言葉が真剣な言い方だった。

「冗談いってる場合じゃないぞ。俺が人類を救うだって」

途方もない漫画の世界にいきなり引きずり込まれたような錯覚がして来た。

「貴方の研究所に鈴木隆信先生っていたでしょう」

(鈴木先生をこいつなんで知っているんだ?)

「あぁ、いたよ。鈴木先生は定年退職した人だからね。鈴木先生が人類存亡に関わる人なのか?」

「直接ではないが、鈴木先生はある計画を立てていたのよ。そしてその計画を実行しようとしている人がいます」

「具体的に言ってもらわないと全然が分からないよ。それにいちいちキーボードを打って会話するのは面倒だよ」

パチパチ、パチパチ、キーが自動的に音を立てた。

「それじゃ、ボイス転送アプリをダウンロードして下さい」

「えっ、そんなアプリあんのか?」

俺はマウスを手に持つとグーグルを立ち上げて、検索欄にボイス転送アプリと書いてエンターキーを押した。検索項目が直ぐに現れた。世界各種の言葉が一列に並んでいる。俺は迷わず日本語を選んでボイス転送アプリのボタンをクリックした。画面は瞬時にダウンロード許可のボタンが表示され、俺はためらうことなく、ダウンロードのボタンをクリックした。しばらくすると、ダウンロード終了が表示されると早速、アプリを立ち上げた。

「聞こえるか?」

「聞こえています」

「おぉ、すげー」

「もう一つお願いが有ります」

(なんて可愛い声)

「何でしょう」

「私を連れて歩けるように、貴方のスマホに私を飛ばして下さい」

「どうやってスマホに入れるの」

「USBでパソコンとスマホを繋いで下さればこちらで入れます」

「あぁ、分かった。やってみるよ」

USBをパソコンに繋いでもう片方をスマホに接続すると、今度はスマホから声が聞こえて来た。声が小さいのでポケットから、イヤホンを取り出して耳に入れた。

「自己紹介が遅れたけど、私はミカ。あなたと共に人類を救う為に人口知能を移植されたの。これから話す事は重要かつ、真実だから、集中して聞いて下さい」

スマホの画面にはさっきパソコンで描いたワインレッドのワンピースを着た少女が話しかけている。

「これから、生死を賭けたゲームでも始めようと言うのかい」

「賢太郎、真面目に聞いて。鈴木先生は分子生物学者では有名な人よね。そして、もう一つ、彼は人口問題にも詳しいって知っていた?」

「人口問題? いや、全く知らない」

「そう、じゃ、今から説明するからよく聞いて。鈴木先生は世界の人口問題を気にしていたのよ。この日本だって、少子化と言えども、この五十年で少なくとも五千万人増えてるのよ。この日本で百歳を超えて生きている人は五万七千人もいるわ、このままだと後、百十年もすれば三億人に増えて行く計算よ。彼はこれを統計の計算式ではじき出したのよ。人口が増えれば食糧難に陥る。日本の食物採取量と人口増加を計算して割り出すと食糧危機は避けられない事を鈴木先生は知っていた。お隣の韓国ではそれを予想して、アフリカに土地を買って食料危機に備えているの。日本は何も対策を立ててない。鈴木先生はこのまま人口が増え続ければ必ず暴動が起きると確信したのよ」

「それが、人類存亡の危機だってか? 百年後なんて俺は生きてねぇよ」

「人口が増える事は地球の温暖化へも繋がっているの。ブラジルやマダガスカルの森林は毎年東京ドーム二十個分は減っている。住人は生活の為に森林を伐採するのよ。人口が増えて、伐採しないと食べて行けないからなの。誰が悪いわけじゃないのよ。みんな生きていくために必要な事をしてるだけ。だから、教授は考えたのどうしたら、良いのかって」

「・・・・・」

「まだよ。ここからが本題の話しだから、よく聞いて。鈴木先生はこの人口増加をくい止めるために開発した生物兵器があるの」

「ちょっと待て、生物兵器だって。それは・・?」俺は声が大きくなった。

「ウイルスベクターに組み込んだDNAで、人の繁殖を強力に抑制するウイルスよ。しかもそのウイルスは感染速度の速いウイルスで確実に人へ感染します。もう、おわかりね。これは、子孫を残すことを許さないウイルスなのよ。もしこれが空気中にばら撒かれたら、あっと言う間にパンデミックを起こしてあらゆる人に感染してしまうでしょう」

(こんな可愛い少女がこんな恐ろしい話しを・・なんで俺に・・・)

「感染した後、生殖以外に何か人体への影響はあるのか」

「ほとんどないよ。症状が出ないのがこのウイルスの特徴なのよ」

「大体の話しは分かったけど、なんで俺にそんな話しを・・」

「貴方は選ばれた人間なのよ」

「俺が? よしてくれよ。口と鼻のデカさなら自慢出来るけど、巨根でも大食いでもまして歌も上手く無いぜ。人類存亡の危機を俺が救えるとは思えないよ」

俺は正直に言った。スマホの小さな少女はさらに、喋り出した。

「あなたはこのDVDから私を立ち上げる事が出来た。それで十分な証拠なのよ」

「DVDから立ち上げたって、どう言う事だよ?」

「このDVDは去年から数万枚出回ってる書き込み専用のDVDだけど、私を見つけられた人はあなただけなのよ」

「馬鹿言っちゃいけないよ。俺はただドライブに入れただけだ。何もしていない」

「いいえ、DNA螺旋アイコンは普通の人には見えないアイコンなのよ。でもあなたには見えてた。そして、あなたはクリックできた」

「あぁ、見えてたよ。だけど、それだけでなんで俺が・・・」

「私の姿もあなたにしか見えないの。鈴木先生の作ったウイルスの配列は特殊な加工が施されたDVDに収められているの。そう、今回と同じように普通の人には見えないアイコンで作られているのよ。解ったでしょう」

「マジかよ。俺以外に誰かいないのかよ」

「いればネットを通して分かりますが、今の所、該当者は賢太郎ともう一人しかいません」

「そんなぁ」

「さっきの話しに戻ります。これを実行しようとしている人がいるのです。鈴木先生は生殖機能抑制遺伝子を作ったけど、実際には実行していない。何故なら、そのソフトが盗まれたのからなの」

「盗すんだ人は分かっているのか?」

「ええ、鈴木先生の熱狂的ファンで自分自身も分子生物学に詳しい人よ。名前は斎藤甫。彼がDVDのアイコンが見えるもう一人の人物よ」

「斎藤甫。聞いた事ない名前だ。こいつもアイコンが見えるのか」

「鈴木先生は元々、がんの治療薬を開発していたのよ。がんの増殖を抑えるウイルスベクターの研究をしていたの。がんの増殖や転移を抑制できれば、がんはただの良性腫瘍と同じ。切り取るだけで治癒する。動物実験では成功していたと言われているの。その一方で、人口増加を問題にしていて、もしこの新薬開発がなされれば、がんで亡くなる人はいなくなって、さらに、人口増加を招いてしまう。鈴木先生は新薬と人口問題の矛盾にぶち当たって悩んでいたのよ」

贅沢な悩みだ。俺なら間違いなくがん撲滅の新薬開発をしてるだろう。そんな新薬を開発して発表したら、間違いなくノーベル賞もんだ。

「とにかく、緊急事態なのよ。斎藤は今、フランスに留学中なの」

「待てって、ひょっとして、俺フランスに行くのか?」

「その通りよ」

「そんなの無理に決まってるよ。無理だよ。無理」

「無理は承知。人類滅亡がかかっているのよ。もしも撲滅に成功すれば」

「成功すれば・・・」

「あなたにいい事が有ります。私を信じて」

「そんな子供騙しに誰が・・乗るかよ」

「賢太郎、あなたは小学生の時に顕微鏡で玉ねぎの細胞を観察して、この道に入ったんでしょう」

「嘘、何で知っている・・」

「あなたの事はなんでも知ってるよ」

俺は目の前にいる可愛い少女が恐ろしくなった。

「しばらく、電源を切ってもいいか」

「いいよ。賢太郎、あなたはきっとフランスへ行くわ」

その会話を聞いてから、俺は携帯の電源を落とした。電源を切ったのは頭の中が混乱していたからだ。データを保存したかっただけなのにどうしてこんな事になったんだろう。ベットの上で仰向けになってミカとの会話を反復した。携帯の電源を切ると急に現実に引き戻され、夢を見ていたかのような錯覚さえして来る。

携帯を手に取って見るが、怖くてスイッチをONにできないほど動揺していた。これは夢であって欲しいと思う。フランスへ行って何が出来る。言葉も通じないし、何処をどう探せば良いのかも分からない。まして、斎藤甫の顔さえ知らないんだ。

「なんで俺なんだ。俺以外に絶対いるよ。人類存亡の危機だって、冗談じゃない。百年先の事を心配してどうなる。俺がやらなくたって、この先優秀な政治家や学者がいれば解決できんだろう」

俺には理解出来ない。こんな事が本当にあっていいのかと思えば、思うほど現実から逃げ出したくなった。

「待てよ。ウイルスが撒かれたら俺の子供は死ぬまで見れない。まぁ、その前に結婚。その前に、彼女か。彼女などと言うものが今まで出来た事も無い。過去と未来をつなぐもの、それは子孫に他ならない。俺の代で新谷家は滅びるのか」それも、悲しい事実である。


「賢太郎、いるの」

その声が賢太郎を現実に引き戻した。賢太郎を呼んだのは母の清子だった。

「いるよ」

「あんたスーツケース持ってたわね」

「持っているよ。なんで?」

「真知子が使いたいから貸してって」

俺は詳しい話しを聞く為に二階からおりて、一階の居間に顔を出した。

「何に使うの」と訪ねると姉が取材でフランスへ行くとの事だった。姉はファション雑誌社に務めて、五年になる。春物と秋物を先取りするために決まって、フランスかイタリアに出張するのである。

「俺もフランスに行っていいかな」

突然、口から出て来た言葉に自分でも驚いてしまった。

「あんたがフランスに・・何しに行くのさ」

「パスツール研究所に知り合いがいるんだ。夏休みに来ないかって誘われてるんだ」

「スーツケースはどうするのさ」

「俺はボストンバッグでいいよ」

こんな事を平気で言っている自分にも驚いた。もしかして、俺はあの子に洗脳されているのか。


(四)

次の週、俺はパリの街を歩いていた。あの日、もう一度アイホンの電源を立ち上げると、ブルブルと携帯が震え、着信の知らせがあった。応答の画面ではなかった。ミカが連絡して来たのだ。

「ごめん、大事が起きたの」と例の可愛い声で言った。

「いいよ。何?」

「今からyou tubeを立ち上げるから見て」

そう言われて俺はスマホの画面を見続けた。驚いた事に仮面を被った男がウイルスをばら撒く予告をしている動画だった。俺は一度見た後、その画像を携帯にダウンロードした。画像にはパリ市内の風景と思われる場所が一瞬映し出され、次に暗い部屋なのか洞窟なのか分からない場所が映っていた。


シャルルドゴール空港から地下鉄一番線に乗り、パレ・ロワイヤル・ミュゼ・デュ・ルーヴル駅で下車した。姉は早速、仕事があるらしくルーブル駅で待ち合わせていた仕事仲間と会うと直ぐに行ってしまった。

「弟を紹介もせずに行ってしまうとはそれでも姉か」と毒ついた。

ルーブル駅から外に出ると、美術館が正面に見えた。

ルーヴル美術館は、フランス王フィリップ二世が十二世紀に、もともと要塞として建設したルーヴル城である。現在の建物にも要塞として使用されていた当時の面影が一部残っているが、幾度となく増改築が繰り返されて、現在のルーヴル宮殿の建物となった。

フランソワ一世の改築計画以来、歴代フランス王の王宮として使用されていたルーヴル宮殿だったが、一六八二年に太陽の王と称されたフランス王ルイ十四世が、自身の王宮にヴェルサイユ宮殿を選び、ルーヴル宮殿の主たる役割は、一六九二年以来収集されてきた古代彫刻などの王室美術品コレクションの収蔵、展示場所となった。数ある美術品の中にはあのダビンチのモナリザやナポレオンの戴冠式、サモトラノニケなどの世界的に有名な作品がところ狭しと展示されている。

機内では携帯電話は使えないので電源を落としていた。姉の言う事には、機内で睡眠中ずっとうなされていたらしい。

明らかに洗脳されているのがわかったが、ここまで来て愚痴をこぼしてもしようがない。

「なんて俺は単純な男だろう」と自分に毒ついた。女の子と言ってもスマホの少女。そんな子に振り回されるなんて、情けないの一言だが少女には憎めない何かがあった。絶対に携帯を見ないと誓っても、気が付けばポケットの携帯を握っているのだ。明らかに携帯依存性になっていた。

早速、ボストンバッグを担ぐとパスツール研究所へ向った。


パスツール研究所はパリの十五区にある生物学・医学研究を行う非営利民間研究機関でルイ・パスツールが狂犬病ワクチンを開発し、一八八二年に開設したものだ。現在は病院と研究所が並んで建っている。ルーブル美術館からはバスでも行けるが、俺は歩いて行く事にした。途中で手頃なホテルがあれば予約して行こうと思ったからだ。

ルーデ・リネッツ通りを真っ直ぐ南に行けばモンパルナスがある。そこを左の道に沿って歩いて行けばパスツール研究所が見えるはずである。見慣れないゴシック様式の建て物が左右に並んでいる。文化の違いというものがもたらした建て物だが、日本の建て物とは全く異なるものだ。

モンパルナスは、パリのセーヌ川左岸十四区にある地区でモンパルナス大通りとラスパイユ大通りの交差点を中心とした一帯をさす。フランス国鉄や地下鉄のモンパルナス駅のある交通の要所となっており、ビジネスと商業の拠点としてオフィスビル、映画館、ショッピングセンターなどが集中している街だ。

また、エコール・ド・パリ時代の芸術家たちの中心地としても有名である。

モンパルナスで手頃なビジネスホテルに入って部屋の予約を済ませ、いざ出陣である。斎藤甫とはどんな人物だろうか。不安が拭えない。ポケットに入った携帯を出してミカを呼び出した。

「斎藤甫を知っているのか?」

「ええ、少しの情報ならあるよ」

「聞かせてくれ」

「斎藤甫は、薬科大学卒業よ。学生時代に分子生物学を専攻していたの。そんな時に鈴木先生を知ったようね。大学を出ると、鈴木先生の研究室へ入ったのよ。その頃は、彼は真面目でよく学会発表にも積極的だったの。ところがある日、研究室でもう一つの事実を彼は知ったの。それが今のウイルスベクターよ。鈴木先生は極秘で研究を進めていたのよ。でも斎藤がプリンターに打ち出した書き物を取りに行った時に、偶然に印刷されたDNAの配列を見つけたのよ。変わった配列が並んでいたから、直ぐに怪しいと思ったのよ。彼は直ぐに隣にあったコピー機で写しを取って、本物は鈴木先生が取りに来る直前に元に戻した。コピーした紙を持ち帰って、ホモロジーサーチをかけたが、どの遺伝子にもヒットしなかったの。彼は益々、そのDNAに興味を持った。当然、興味を持った斎藤は鈴木先生が何のためにこのDNAを作っているのか調べたわ。そして、遂に突き止めたのよ。生殖機能を抑制出来るウイルスベクターであることをね。彼はなかなか実行に移れない先生の代わりに自分がやる決意でここフランスへ留学生としてやって来たってわけなのよ。そして、YouTubeで予告映像として流したの」

「どんだけ好きな教授でも、教授自身がやらなかった事を普通はやらないと思うけどね」

「いや、彼はやる気よ。そうでなければ、予告までしないでしょう」

「ここまで来て言うのもなんだけど、俺全く自信無いからさ」

「いいえ、あなたは選ばれたの」

「そのウソ本当?」

「賢太郎、自分をもっと信じたら。あなたの悪い癖だよ」

「携帯の少女がそこまで俺に言うかなぁ」

「賢太郎、私は少女じゃないよ。見た目が少女なだけよ」

「ミカは何処から来たの」

「賢太郎って馬鹿?」

「今度はいきなり馬鹿呼ばわりかよ」

「私はあなたに作られたのよぉ」

「俺に?」

「賢太郎のパソコンには人を作れるだけの遺伝子が既に入っていたの」

「入ってたかもしんねぇけど、普通に考えれば、喋るコンピュータ人間は出来ないと思うよ」

「どうかなぁ、賢太郎、急ぎましょう」

「話しをはぐらかしたな」

「大事な事は斎藤を止める事よ」

話しに夢中になっているとパスツール研究所が目の前に姿を現した。

「これが、パスツール研究所か」

ちょっとした感動だった。パスツール研究所の門をくぐると直ぐに銅像が立っていた。受け付けで斎藤甫の名前を言って面会を依頼したが、三日前から、休んでいると返事が返ってきた。しかも、俺がここに来る前に何人か同じ質問をしに来た人がいるとの事だった。

「どうする」

「とりあえず、彼のアパートがどこかを教えてもらおうよ」俺はなるほどと頷いて、受け付けの人に再び彼の住所を訪ねた。フランス訛りの英語で、聞き取り難い。同じ事を二度聞くはめに何度もなった。

彼の住所はパスツール研究所から歩いて十分ほどの古い三階建てのビルだった。早速、彼の借用している二階の部屋のドアをノックしたが予想どおり、斎藤は部屋を空けて留守だった。

「三日も留守にしてるんだ。この辺にはいそうもないな。YouTubeの画像をもう一度見直してみた。

「ミカ、この場所分かるか?」

「分からないわ・・もっと情報が必要ね」

「ミカが分からないならもうお手上げじゃん。俺より先に研究所に何人か斎藤を訪ねて来た人がいたようだけど、彼らも同じ目的で彼を探しているんだろうね」

「youtubeから割り出した可能性があります。恐らく、フランス警察かも」

「それならもう、俺たちこの一件から手を引けるよ」

「賢太郎、前にも言ったけど、あなたにしかあのアイコンは見えないの。あのDVDを見つけて破壊するのよ。予告は二日後よ。急がないと大変よ」

「急ぐって言ってもねぇ、時差ぼけで超眠いよ」

「一旦、ホテルに戻って考えましょう。充電しないと私も死んでしまうよぉ」

「分かった。一呼吸置いて計画を練り直そう」

俺達は?俺達?ミカは人間ではない。俺とミカと言い直そう。俺とミカはモンパルナスのホテルへ戻る事にした。コンセントに電源を刺してスマホの充電を一番に行った。充電が完了するまで、部屋に備え付けテレビのリモコンを手に取って何気にスイッチを入れた。

「なんだろう。フランス語で聞き取れないが画面の右端に若い東洋人の顔写真が映っている。東洋人が映ったことで、急に意識がハッキリして来た。テレビの画面にはパリ市内を背景にパトカーが数台止まっている。東洋人が何かやらかしたのか。注意深く映像と音声に集中していると東洋人は何者かに殺されたらしい。殺された東洋人の名前がローマ字で書かれている。

「HAJIME SAITOH Japone」

「ウソだろう」

俺は素早くスマホを手に持つと充電したままのスマホのスイッチをONにした。

「ミカ、寝ている場合じゃないぞ!。斎藤が殺された」

俺の声を聞くとミカは直ぐに応答して来た。

「えぇ、私もいま知ったわ」

「どうやって分かったんだ」

「ネットよ。賢太郎のスマホはネットに繋がっているから、情報は筒抜けなのよ。それから、テレビをよく見て。彼は殺される直前にダイイング・メッセージとも言うべき、薔薇の絵を地面に描いたと報じているよ」

斎藤は俺が思っていた通りの風貌をしてテレビに映っていた。顔はインテリっぽく、目が細くて釣り上がっていた。

「薔薇?なんだろう」

「恐らく、DVDの隠し場所と関係があるんじゃないかと思う」

「なるほど、これから俺達、どうする」

「YouTubeに映っていた背景、あれは、ノートルダム大聖堂から撮影されたパリ市内よ。彼はノートルダム寺院のどこかにウイルスを撒こうとしていたのよ」

「でも、ウイルスを撒く前に殺されたってことだろう。そしたら、俺達の役目は終わりってことだろう」

「まだよ。DVDが見つかっていないわ」

「斎藤を殺した犯人が持って行ったのか」

「分からない。斎藤の部屋にまだある可能性があるかもね」

「DVDのありかも分かって、用が済んで殺した」

「賢太郎、ノートルダムへ行きましょうぉ」

「今から?ノートルダムへ。なんで」

「ノートルダムの言われを知ってる?」

「いや、知らない」

「彼の残したダイイング・メッセージの薔薇。聖母マリアは「くすしきバラの花」とも言われ、教会や大聖堂においてバラ窓はしばしば聖母マリアを暗示しているとされているのよ。ノートルダムという言葉もフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す言葉よ。聖母マリアイコール薔薇、薔薇イコールノートルダム大聖堂なのよ」

「何だって!」


 パリ、ノートルダム大聖堂はゴシック建築を代表する建物で、フランス、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂である。周辺の文化遺産とともに一九九一年にユネスコの世界遺産に登録されている。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。かの有名な帝政を宣言したナポレオン・ボナパルトの戴冠式は一八0四年十二月二日にノートルダム大聖堂で行われている。また、パリから各地への距離を表す時の起点はノートルダム大聖堂の前が起点となっている。


大聖堂に着くと、観光客が大勢いる。平和の象徴である鳩が建て物のあちらこちらで餌をついばんでいる。そんな光景は今の事件とは裏腹に、まさに平和そのものだ。俺達も観光客の団体に紛れて大聖堂の中に入ることにした。中に入ると、直ぐに目に止まったのがステンドグラスだった。

「綺麗な模様だ」

「賢太郎、ここにあるステンドグラスは薔薇を模った物よ」

確かに薔薇の花弁に似てる。円形に縁取られた色鮮やかな花弁の硝子が、外の光に反射して様々な色を映し出している。

「DVDはここにあるんだろか」

「あのダイイング・メッセージからすればここにあっても不思議じゃない」

「ミカ、薔薇にちなんだ話しだけど、ローズラインがこのフランス市内にあるって聞いた事あるよ。同じ薔薇ならそっちも意味があるんじゃないのか」

「賢太郎、それってダビンチ・コードに出て来たローズラインのことでしょう」

「そう、確か、南極と北極を繋ぐラインだったと言ってたよ」

「あれは、子午線と言って、正しくは地球の赤道に直角に交差する南極と北極を結ぶ線のことよ。わかりやすく言えば緯度のこと。国際的な標準時を何処の都市にするかで議論があっあの。当時国際的な天文台を持っていたフランスのパリ市と英国のグリニッチ市とで争いっていたのよ。

国際会議が開催されて、最終的に一ハハ四年ワシントン会議で英国グリニッチ天文台と決定されたのよ。でもフランスでは、機会ある毎に、パリ子午線と呼んで、パリ市はその位置を北と南を示した直径十二センチの円盤状のブロンズを線に沿って三五0個埋め込んだの。それをあの小説はローズラインとして上手く使ったのよ」

皮肉にもDVDの直系は十二センチだった。直径十二センチ・厚さ一・二ミリのDVDをこの広い大聖堂から探し出すのは不可能に近い。大聖堂の中は既に薄暗くなり顔の判別が着かないほどになっている。

「ミカ、もう今日は探すのは諦めよう。薄暗くなってきたし、閉館の時間だ」

「オッケー、充電が中途半端だったから私も帰りたい」

シャルルドゴール空港に着いて、ルーブル駅からパスツ-ル研究所、ノートルダム大聖堂とやってきた。途中彼のアパートへも立ち寄ったがめぼしい収獲はテレビに映し出されたダイイング・メッセージだけだった。彼が殺された理由も、DVDの行くへも全く解らないまま俺達はホテルへと重い足を運んだ。受付で鍵を貰うと部屋へ直行した。部屋に入ると直ぐにスマホに電源を繋いで充電した。


(五)

俺はシャワーを浴びると、スマホをホテルに置いて一人で外に出た。煩わしさから解放されたかったのかも知れない。モンマルトルへ行こうと思った。パリ市内の中で俺はモンマルトルが特に好きだった。大学受験で合格が決まった時に、御祝いに姉がフランスへ連れて来てくれた時にここに来た。ムーランルージュのキラキラした輝きに心が踊ったが、一方で静かに佇む絵画的な風景が印象深く心に残っていた。

モンマルトルのサクレ・クール寺院 はパリのモンマルトルの丘にあるバジリカ聖堂である。サクレ・クールとは「聖なる心臓」を意味し、イエス・キリストに捧げ、守護として祀っていることを意味する寺院である。モンマルトルの丘は、市内でもっとも高い標高一二九メートルある。セーヌ川右岸の十八区にあるパリ有数の観光名所で、サクレ・クール寺院の他にテルトル広場、キャバレーで有名なムーラン・ルージュ、モンマルトル墓地などがある。

 石畳の細い坂道や階段などがある町並みは、いたるところが絵になる風景があり俺を癒してくれる。ピカソ、ロートレック、ユトリロ、ルノワール、マティス、ゴッホら数多くの画家たちが制作の場にした地で、なんとも言えない雰囲気が好きだった。

店の外に出された椅子にもたれ夕食を注文した。姉は今頃、会社の同僚とどこかの店で宴会をやっている頃だろうか。

いにしえの画家たちが集まってどんな話しをしたのだろう。

きっと、あの女がいいとか、駄目だとか、たわいもない話しをしていたに違いない。絵を描くことで精神を削り、それを癒すためにここに来ていたのだろう。確かにここは人の心を癒してくれる何かがある。初めて来た時にも直感で感じた。夏の熱い風が喉を乾かせている。ウエイトレスの運んで来たビールを一気に喉を鳴らして流し込んだ。

「ふーっ、生き返った」

人類が発明した飲料だが、これこそがノーベル賞のもだ。炭酸の効いた冷えたビールは直ぐに無くなった。一人テーブルを独占して二杯目のグラスビールを半分ほど飲んだ頃、チーズとドレッシングのかかった野菜と肉料理が来て、腹を満たした。

食後に白ワインをグラスで頼んだ。辺りは暗くなっていたが、店の明かりで街は赤みを帯びている。

「待てよ、薔薇と言えばベルサイユの薔薇もあるのでは?」   日本人なら誰でも知ってるタイトルだ。もし、ダイイングメッセージが薔薇なら、ベル薔薇だってあり得る。ベルサイユの薔薇の薔薇って誰のことだろう?アンドレ?オスカル?それともマリーアントワネットか?。そう考えると、DVDはベルサイユ宮殿にあるのか?それともバスティーユ広場か。一人額に皺を寄せて考えたが、直ぐに諦めさせられた。向かいのテーブルに女の子が座ったからだ。諦めた気持ちは全部その子に持って行かれた。酔ってしまったのか?時差ぼけでおかしくなったのか?。向かいの女が俺に手招きしているではないか。何度も目を閉じては開いてみたが一行に風景は変わらない。俺のどんくささと慌てぶりに痺れを切らして、俺の座っているテーブルに近づいて来た。

「私を置いてけぼりにしたでしょうぉ」

「何のことだ。人違いです」とっさに言葉が出てきた。

(えっ、日本語?俺、今、日本語で喋ったか?それとも英語だったか?人違いなんて英語で言えないよ。やっぱり日本語で言ったんだ)

「なに慌てているのぉ、私よぉ」

「すみません。人違いです」

(それにしても、馴れ馴れしい日本人だよな。フランスだからか?俺、かもにされそー。早く逃げないとぼったくられて金巻き上げられるぜ)

俺は立ち上がると、お金をテーブルに置いて駆け出した。さっきまで飲んでいたアルコールが急に回り出した感じで、息切れがしてもう走れ無くなった。

「ハァ、ハァ、びっくりしたぁ」

両膝に両手を乗せた。背中がゼイゼイ言っているのが分かるくらい驚いていた。

「もう、帰ろう。モンマルトルの夜をもう少し楽しんで帰ろうと思ったのにくそー。誰だよ、ったく」

(恐らく、鈍臭い観光客を見つけては声をかけ、難癖付けると何処かに隠れているた用心棒の男が現れて金を出せと脅しに来るのだろう)

日本はやっぱり治安がいいと思わずにはいられない。

 

モンパルナスのホテルに着いたのは午後の十時だった。これからがいい雰囲気だったのにと思いながら、部屋のドアを開けた。疲れた体をベットに投げると自然に目が閉じた。長い一日だったと思う。

「モンマルトルの女、あれは誰だったのだろう?」

明日の予定が気になるが、もう目を開けていられないほど睡魔が襲ってきた。


(六)

けたたましく携帯が鳴った。その音で一気に目が覚めた。良く寝れた気がする。

(ここは、あっ、そうか、フランスだった)

携帯がまた鳴った。

「お早う」そう言ったのはミカだった。俺もスマホの中のミカの顔を見てお早うと返事を返した。

スマホの中のミカは疲れなどと言うものがないのだろう。いつもの調子と笑顔で話しかけてくる。

「昨日は一人でモンマルトルへお出かけでしたか?」

「そんなわけないだろ。ノートルダムから帰ってきて、シャワーを浴びて寝たんだよ」

ちょっと、意地悪を言ってみたくなった。わざわざ、フランスまで来たんだ。夜食ぐらい楽しみたい。昨日はそれも叶わなかったのだが。

「まぁ、いいわ。今日はもう一度ノートルダムへ行くことにしましょう」

「いいよ。俺も行かなきゃならないような予感がするんだよ」

「おっ、天性の感がやっと動き出したようねぇ」

「天性の感?そんなものは産まれた時から持っていません。臆病風なら産まれながら持っているかも」

「そうよねー、昨日も臆病風に吹かれて逃げたもんねぇ」

「逃げた?何言ってるのか分からん」

「まぁいいや、行くよぉ」

「朝食はノートルダムの近くで取っていいか?」

「オッケー」


昨日と同じく、俺たちはホテルから出るとリュクサンブール宮殿を左手に見ながら歩いて行くことにした。この宮殿はフランス元老院の議事堂として使用され、その周囲はリュクサンブール公園として一般に公開されている。また、自由の女神像の原型が設置されていることで有名な宮殿でもある。

朝食はテイクアウトにしてクロワスサン三個とカフェオレを注文した。

ノートルダム大聖堂から右手にジャン二三世広場があるので、そこで朝食を取る事にした。ジャン二三世広場はパリ四区にある。区の名称は、市の中央部から時計回りに螺旋を描くようにして各区に付けられた番号を基にしている。ジャン二三世広場はその四番目にあたることから、「四区」と名づけられている。パリでは最も歴史のある地域のひとつで、特にシテ島はパリ発祥の地といわれている。また、三区から四区にかけての地域はマレ地区と呼ばれ、歴史のある貴族の館が立ち並ぶ地域である。四区の主要な建物としては、ノートルダム大聖堂、ポンピドゥー・センター、パリ市庁舎 などがある。

「パリはこうした広場や公園が多いし、セーヌ川沿いにもお店が多いから、休憩や食事をする場所があっていいねぇ」

「・・・・」

クロワスサンを頬張りながら、スマホに話しかけたが返事がない。

「さすが、フランスのクロワスサンは美味いよ。毎日食べても飽きないな」

「・・一人で食べて美味しい?」

「一人でって・・、食べれないでしょう。スマホなんだから」

「ふん、後で食べるからいいもん」

「スマホにクロワスサンの絵でも描こうか?」

「賢太郎、馬鹿?」

「いきなり馬鹿呼ばわりですか?食べれないから、気を使って言ったのにさ」

「いいから、早く食べてよぉ。開館は八時からだから、もう一時間も前に開いてるよ」

「そんなに急ぐなよ。せっかくフランスまで来たんだ。フランスの空気を味わいたいよ。ところで、ベルサイユ宮殿って事はないよね」

「ベルサイユの薔薇って言いたいんでしょう」

「正解です」

「それは無いと思うわ。ベルサイユ宮殿はパリから二五0キロも離れているし、ウイルスを撒く事を考えたら、人口密度の高い地域を狙うはずよ。ノートルダム大聖堂はパリの中心地だし、観光客は百パーセントここを訪ねるのよ。だからベルサイユ宮殿の確率は低いと思う」

「なるほど、そういうことか」

「なに感心してるの。食べ終わったら行くよぉ」

「はい、はい、お待たせしました」

俺は電源節約のためにスマホの電源をOFFにしてポケットに入れるとノートルダム大聖堂へ向けて歩き出した。

大聖堂前は今日も朝からスケジュールの詰まった多くの観光客で賑わっている。特に日本人や中国人の団体が目に付く。島国で暮らす日本人にとって海外は異国を感じることは勿論だが、海を越えるという遙かな夢を現実のものとした旅があるのだろう。かく言う俺もその一人なわけで、ことヨーロッパなどはあこがれの国の一つである。正門を通り館内に入ると昨日と同じようにステンドグラスが天井に見えている。

「おや?」

昨日と雰囲気が違う。直感的にそう思ったのは光の入り方が違っていたからだろうか。確かに昨日ここへ来たのは午後の五時過ぎだった。光はあったが直ぐに暗くなって館内も薄暗くなり、顔の判別もつかなくなったのでホテルまで帰ってしまった。だが、今日はよく見える。ステンドグラスが昨日より明るく輝いている。差し込む光が硝子を通して色とりどりに館内を照らしている。ステンドグラスには、聖書にまつわる絵がステンドグラスに描かれている。聖書に興味の無い俺でさえ、その奥深さと鮮やかな光に目眩を覚えるほどである。天井にはノートルダム大聖堂の象徴とも言うべき薔薇の花を形どった円形のステンドグラスがはめ込まれている。

「おっ、眩しい」

見上げた薔薇模様の硝子を通した光が鏡のような物体に反射して光った。何に当たっているんだろうと光の先を見つめた。

「なんと」

ステンドグラスの薔薇の中心から赤色の光がレーザービームとなって祭壇の中心にある聖母マリアのティアラに当たって屈折し、角度を変えてまた別の場所に当たっている。その屈折した光は鏡のような反射物で真っ直ぐに俺の目を直撃しているのだ。視界が赤い光で見えなくなる。焼き付くような光に目を閉じた。

光を避けるために目を背け、時計を見た。針が午前十時九分を示していた。そして光る物体へと目をならして近づいて行った。

「なんだろう」

近づいて、俺は息を飲んだ。

「薄く丸い物だ」探していたものだろうか?俺はポケットからスマホを取り出してミカを呼んだ。

「ミカ、これを見てくれ」

俺はスマホを光る物体が良く見えるようにスマホを正面に向けた。ミカは光る物体をじっと見つめている。

「賢太郎、もっと近くに」

恐る恐る近づくとそれは紛れもなく丸裸の書き込み専用のDVDだった。

「どうしてこんな所に」

「早く、それを取ってパソコンに入れて確かめるのよぉ」

早口でミカが言った。

「わかった。急かすな」

時計の針が午前十時十分を刺していた。館内を一通り見回して、すました顔をして円盤状の物体をポケットに素早く入れ、その場を離れた。誰も気づいていないことを確認して館内を出た。時計の針は十一分んを過ぎていた。

大聖堂から外に出ると人集りの団体客が列をなして並んでいる。俺は少し興奮状態だった。ポケットに入れたDVDをもう一度確認した。

「ある。確かにある。急ごう」

もう一度辺りを見回した。


「パソコンが手元に無いよ」

「その辺にネットカフェ無いの?」

「ここは日本じゃないんだ。あるわけ無いだろう。しかも、ドライブ付きのパソコンじゃなきゃ無理だよ。どうしよう」

「探すのよぉ」

「分かった。何とかしてみるよ」

俺はパリ市内のカルチエ・ラタンに行く事にした。カルチエ・ラタンは学生が集まる地区というのがこの界隈の元々の意味でソルボンヌ大学を始めパリ大学と呼ばれる十三の大学や、高等教育機関が集中し、昔から学生街として有名な街である。

カルチエ・ラタンに着くと早速、学生が集まりそうな店を探した。

ウインドウから店の中を覗き、パソコンを使っている学生がいるかをチェックした。

「おぉ、さすが、カルチエ・ラタン」見るとパソコンを使っている学生が何人かいる。早速、店の中に入って学生に挨拶した。

かたことの英語でも拝み倒してパソコンをちょっとだけ借りる事に成功した。ポケットからDVDを取り出すとCDドライブにセットした。ドライブはブーンと音を立てるとディスプレイにアイコンが映った。当たり前の動作だが、唇が乾くほど緊張していた。

「アイコンはあるのか、見えるのか?」

直ぐに二重螺旋のアイコンが映し出された。

「おぉ、見えた」

すかさずクリックして内容を確認する。学生は何も入っていない空のDVDをクリックして納得している俺を不思議そうな顔をして見ていた。

ウイルスベクターへ組み込まれたDNAの配列らしきATGが整然と並んでいる。

フーッと緊張の解けた息が出て来た。

すかさず、DVDをパソコンから抜きとって

「サンキュー」と言葉をかけ、財布からユーロ紙幣を一枚抜き出して学生に渡して店を出た。

「終わった」

最終的にホモロジーサーチをかけて、どの遺伝子ともクロスしない事を確認しなければ本当に終わったとは言えないが、後は、ホテルで時間をかけてじっくりやるしかないだろう。そのためには、フランスでパソコンを一台買うしかない。それとも、このDVDが本物だと信じて、ここで壊してしまうか。俺は、ポケットからスマホを出してミカに相談した。

ミカはパソコンを買う事を勧めた。あくまでも、本物かどうかを確かめてからという意見だった。

偶然にも、ここは学生街でパソコンも安く手に入りそうな店はある。店に入ってSONYのVAIOを見せてもらった。CDドライブ内蔵のパソコンとインターネットを接続するケーブル代をVISAカードで支払った。OSは日本語版が無かったので英語版にした。これが唯一のフランスでの自分へのお土産となった。

ホテルに着くと早速、ケーブルをパソコンに接続して、パソコンを立ち上げた。ドライブにDVDをセットした。さっき店で見たアイコンが現れた。

「このアイコンは本当に俺にしか見えないんだろうか?」

アイコンをダブルクリックしてファイルを開いた。一方で、ネットを立ち上げてNCBIのサイトへアクセスしてコピーしたDNAの配列をペーストしてEnterキーを押す。返信欄にはgmailアドレスを打ち込んである。

Googleページからgmailを立ち上げてIDとパスワードを入力してメールを立ち上げてNCBIから返信される検索結果を待った。数分が何時間にも感じられた。ホモロジー結果をミカと一緒に見ようとポケットからスマホを取り出した。

ノートルダム大聖堂のステンドグラスの中心からレーザービームの光が聖母マリアを照らしていた。あの光は俺にしか見えなかったのだろうか?あの場所に立っていなければ、反射した光が見えなかっただろう。偶然あの場所に立っていたんだろうか。何かに導かれたのだろうか。俺はミカの言うとおり選ばれた人間なのかもしれない。

「賢太郎、来たよ」

ミカの声で我に返った。メールの受信欄の一番上に検索結果が表示されている。

「ミカ、行くぞ!」

深く深呼吸してから、マウスをしっかり握ってクリックした。ヒットした遺伝子が%刻みに並んでいる。

一番高い数値が三十パーセントと表示されている。確認の為に三十パーセントの遺伝子をクリックして見た。ドロソフィアのwntシグナルに関係する遺伝子だった。俺は深く息を吸ってゆっくり吐き出した後、部屋の天上を仰いだ。

「フーッ、終わった」

検索結果は間違いなく生殖機能を抑制するDNAとは相同性がないものだった。


(七)

作業が終わって、DVDを取り出した。このファイルを壊せば終わる。DVDをドライブから外して手に取った。壊すのは簡単な事だったが、この配列を考えた鈴木先生の事が浮かんできた。鈴木先生はこの配列に辿り着くまでにどれほどの時間を費やしたのだろうか。十年いやもっとかもしれない。そして、このDNAの配列をヒントに新しい治療薬が作れないだろうか。DVDを持ったまま俺は固まっていしまった。

「賢太郎、いろいろと創造出来ると思うけど・・・」

ミカが声をかけて来た。その声で俺は我に返った。

「ミカ、これを壊すよ。見てて」

俺は机の角にDVDを置くと、右手を強く下へ押した。DVDは「バリッ」と音をたたて真っ二つになった。それを更に二つに割った。

偉大な業績を自らの手で破壊した気分だった。

ミカは大きな仕事が終わったようにスマホの中で伸びをしている。

「賢太郎、ご苦労様」

「ミカ、ウイルスは斎藤、いや、誰かによって撒かれたのかな?」

「分からない」

「フランスまで来て言うのも何だけどさ、・・正気じゃ出来ないよな。斎藤って」

「そう、正気じゃないのよ。彼の育った環境は普通じゃなかったの」

「どう言う事だよ」

「彼の育った環境はそうせざるには済まない環境だったの。彼の母は五回も結婚しているのよ。彼はその度に違った父親を持たされたの。母親のだらしなさや、父親のだらしなさ、言い換えれば男と女のだらしなさを骨の髄まで知ってしまったのよ。ある意味では可哀想な子供だった。彼は大学に入って、鈴木先生の人口増加の問題の講義を聴いたの。そして、鈴木先生は人口増加を分子生物学を用いて止められると講義した。彼は男と女の淫らな生活を嫌と言うほど見て来た。目的は違っていたが結果的に共感したのよ」

「自分と同じような子供を無くすには生殖機能を無くせばいいってか」

「そう、その通りよ。賢太郎」

「捻じ曲げられた人間に何を言っても駄目なんだろか」

「いいえ、賢太郎、彼は母の思いを聖母マリアにすり替える事で少年時代を過ごし、薔薇の花を愛していたのかもしれない」

「鼻がでかい、口がでかい、そんな事はどうでもいいような気がして来たよ」

「あら、可愛いじゃない」

「本当にそう思うか」

「私、その鼻も口も好きよ」

「言ってくれるぜ」

スマホの中のミカは笑っている。

「私、行かなきゃ」

「何処に」

「もう、ここにはいられないの。パソコンに私を戻して」

「分かった・・・」

USBでスマホをパソコンに繋ぐとミカは直ぐにパソコンのディスプレーに映し出された。スマホで見ていた時は気付きもしなかったがもう少女のミカではなかった。

「いろいろ、迷惑かけたね。賢太郎と過ごした時間は短い間だったけど、楽しかったよ。じゃー」

ミカはそう言うとミカの輪郭がじょじょに形を失い最後は消えるように無くなった。

「ちょっと待てよ。聞きたい事がまだ残っているよ」

何も映っていないディスプレーを見ながら俺は叫んだ。

「ミカ、戻ってくれよ」

USBなんかつなげなければ良かった。そしたら、ずっと俺のスマホの中にいたんだ。パソコンからUSBを外してベットに仰向けになってスマホを握りしめた。   「俺ってなんでこんなに素直なんだろう」           余りの馬鹿さかげんに自分に腹が立った。もう、会うことも声を聞くことも出来ない。

「もういい。もう」

事件は解決したが、心は晴れる事は無かった。夕方になってから、一人で外に出た。当てもなくパリの街を歩いた。本来なら、ミカとウイルス撲滅のパーティをモンマルトルで上げたい気分だった。

気晴らしに凱旋門からシャンデリゼ通りに出た。賑やかな通りで、帰宅時間もあってか車の量も多い。

「明日は帰国だ。気晴らしにここまで来たがかえって気が重くなったぜ」

落ち着かないので、モンパルナスへ戻って、夕食を一人で取った。朝のクロワッサンも美味しいが、チーズの乗ったフランスのピザも美味しい。夜風にあたってピザを頬張る。上手いものを食べると元気が出るとは言ったものだ。そんな時にスマホのバイブが振動した。

「ミカが戻ったか?」

俺はポケットから急いでスマホを出した。ディスプレイを見るとメールアイコンに三の数字が付いている。早速メールアプリを立ち上げ三通のメールをチェックした。一つはアップルからで、もう一つはアマゾンからの宣伝メールだった。最後のメールは姉からだった。仕事が延びたから、明日は一人で帰れとの事だった。かえってそれが良かった。パリで何をしていたかと、何かとうるさいくらい質問攻めにあうのは目に見えてたからだ。結局、ミカからの返事はなかった。

「あの子に俺は何を期待しているんだろう?」

自分の馬鹿さ加減をしみじみと味わった感じだ。一銭の得にもならないのにフランスまでやって来たのだ。

「乗せられて、だまされて、とんだピエロだぜ。ただ、ミカは俺の鼻を可愛いと言ってくれた」

生まれて初めて聞いた言葉だった。

「ミカ・・・・」


翌日、チェックアウトを済ませて、シャルルドゴール空港へと向かった。予定の時刻に飛行機は飛び立った。職場へのお土産は行ってもいないエッフェル塔の硝子瓶の中に入ったキャンディと凱旋門を形どったチョコレートにした。家へのお土産は凱旋門チョコよりも値のはるトリフのチョコにした。飛行機のジェットエンジンがキュイーンと音を一段高くした。飛行機が加速度を上げると機首がふわりと持ち上がった。上空を右回りに旋回するとパリ市内が窓をとおして眼下に見えた。ノートルダム大聖堂も見えている。目を閉じると瞼に焼き付いた赤い光が今でも張り付いている。そして、マリアの像も。

「これで良かったんだよな。人口絶滅を俺は救ったのか?」

高度が上がり、パリ市内がみるみる小さくなっていく。

バックからカルチェ・ラタンで買ったパソコンを出した。出して何をするわけでもなかった。ただ、パソコンを開いておけば、ミカがもう一度ここに帰ってくるのではないかと思ったからだ。

「日本に着くまでここに置いておこう。パソコンの電源を入れたままにしておこう」

今の俺にはこれしかすることがなかった。

フランスを飛び立って直ぐに機内で放送があった。斎藤を殺した犯人が捕まったとニュースが流れた。真相は定かではないが、どうも男女の縺れらしい。フランス留学中親しくなったショットバーの女とフランス人の男と三角関係の縺れが原因らしい。いずれにしても、今回の事件とは全く関係ない事だった。その事件を聞いた後、俺は気になっていた事が全て終わり、安堵感と睡魔が一気に襲ってきた。機内も安定して、俺は深い眠りに落ちて行った。


成田に着いた時に隣の乗客に睨まれてしまった。

「お前の寝言がうるさくて寝れなかったぞ。ミカって誰だ。くそデカ鼻」

「はぁ、すいませんでした」

俺は怒られた事よりも、自分に驚いた。夢の中でもミカを探していたのだ。太い溜息が出て来た。

そうだ。家に帰ったら、あのDVDがまだある。あのDVDがあればきっと逢える。パソコンから助けてと声がしたんだ。それが始まりだった。

「さぁ、急いで帰ろう。きっと会える」


家に着くと母の質問には答えず、真っ直ぐ二階の部屋に駆け上がった。俺は神にも祈る思いでパソコンのCDドライブを開いてに例のDVDをセットした。

「来い、来い」

ドライブはブーンとなって直ぐに止まってしまった。何も起こらない。例のアイコンも現れなかった。そして、夏休みも終り、ミカを少しずつ忘れて行った。

夏休み前に趣味で書き始めた小説がまだ書き終わっていない。タイトルは風のシンフォニーだった。いつまで経っても書き終わりそうにない。


(八)

夏が終わると秋の学会シーズンがやって来た。秋から冬にかけて研究室では発表するためのデータの詰めの実験とまとめに誰もが大忙しに突入する。俺も、分子生物学会へ抄録を既に出している。iPS細胞のインスリン分泌の量とグルカゴンの分泌量を定量化しなくてはいけない。両者共に膵細胞への分化を示す蛋白である。培養した細胞の分泌物を二十四時間毎に測定してグラフ化するのだ。更に、外分泌系蛋白の測定をして細胞一個あたりの分泌量を計算で出さなくてはならない。また、陰性コントロールとして、膵細胞では作られないアルブミンの産生の有無を同じアッセイで測り陰性である事を示し、培養された細胞が膵臓に特異的である事を示さなくてはいけない。発表日まで間に合うのか?。とにかく手を動かせ。十日間ぶっとうしで測定したデータが机の上にある。エクセルにデータを入力してグラフ化しなければ。しかも、全ての実験は三回連続行い、その平均値を出して、標準偏差を出す。実験は一回で済むような実験はほとんど無い。必ず、裏を取る実験まで行うからだ。一つの実験に数ヶ月から数年かかる時もある。動物実験などは正に時間と労力とお金のかかる実験だ。下手をすれば、動物愛護団体からクレームが来る。失敗は絶対に許されないし、実験途中で給水びんが漏れて動物が溺死する事もある。

「あーっ、くそーっ、終わらねぇ」

エクセルに数字を打ち込んでも、打ち込んでも今日中に終わりそうにない。どんだけやればグラフ化出来るんだ。

「ビック賢太郎いるか?」俺の名前を呼んだのは真下先輩だった。

「はい、います」

「おー、培養室かと思ったよ。お前にお客さんだってよ」

ディスプレイに打ち込んだ数値を確認して後ろを振り向いた。

「こんにちは、ミカと申します。頑張っているんですね」

「・・・ミカ・・?」

「はい、ミカと申します」

「賢太郎と申します」

「知ってるよぉ」

ワインレッドのワンピースを着たAKB大島優子似の女の子が目の前に立って喋っている。

「なんで・・ここにお前が・・どうやって、パソコンから・・?」

「やだぁ・・iPSの膵細胞、培養してたでしょうぉ」

全身から汗が一気に吹き出したのが分かった。

「今度はアフリカへでも行くのか?今度はどんな事件なんだ!」

「このDVDをドライブに入れてよぉ」




                    




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