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もしも気づかずにいられたら

作者: 南ブロット

登場人物

岡野瑞姫(おかのみずき)

園村明良(そのむらあきら)



 友達との会話の中で、うちのお父さんお母さんがね、と呼んでいた昔をふと思い出した。

 ーーその呼び方はいつから、私の両親が、に変わってしまったんだっけーー

 中学に入ってからだっただろうか。それとも小学校高学年では既にだったろうか。

 子供たちの中で大人びていた瑞姫は背伸びを意識することもほとんどなく、そんな呼び方を早くに使い始めた。

 その呼び方は高校に入学した今となってはもうクラスでは当たり前で、何かの拍子に家族の話題になっても、小さい頃の呼び方をする人間は少数派だと思う。

 瑞姫も友達との会話ではそう呼ぶ。

 けれど、父親、母親、という呼び方をさらに改めた日のことはよく覚えている。その呼び方は幼なじみの前でしか使わないのだけれども。

 あの人達。

 あの男。

 あの女。

 瑞姫の本心である嫌悪感と拒絶を混ぜたその呼び方は、幼なじみである少年の前でしか吐き出せなかったから。



 ピリリリリリリ、と目覚ましが鳴った。家の中にいても少し肌寒くなってきた朝の空気を電子音がかき乱す。

 浅い眠りから瑞姫はすっと目を覚ました。しっかり寝たはずなのに不自然な重さが手足にまとわりついている。

 緞帳の様な厚手のカーテンを開けると透き通った日差しが部屋を隅まで明るくし、

「う、」

と瑞姫はちょっと呻いた。寝起きのアタマにはちょっと刺激が強すぎる。 洗面を済ませると寝間着のままキッチンに移動し、ハムエッグを焼いてスライスしたトマトを添える。皿に盛ったところで食パンを焼いていたトースターがチン、と軽い音を立てた。

「いただきます」

 ニュースをつけながらもそもそと洋風の食事をとる。テレビのなかではやれ株式が、やれ交通事故が、やれどこそこでお祭りの開催が、と賑やかだった。

 しばらく瑞姫一人には不釣り合いに広いダイニングに、ニュースの声とパンをはんで飲み込む音と、時折車が外を通り過ぎる音がこぼれた。

「ごちそうさまでした」

 小さい頃からの習慣として、一人でもちゃんと感謝の言葉をつぶやく。食べられる命にか、農家や加工業など生産者にか、特に意識はしていないけれど。

 学校の準備として、お弁当のおかずを別に用意する。本当は朝もっとちゃんと食べた方がいいのかもしれないが、食が細い瑞姫のおなかにはあまりはいらない。

 食器を下げて洗い終わると、掃除機を取り出し簡単に掃除をする。朝と夜に一部屋ずつと決めていて、けれど三世代が住んでも大丈夫なくらい部屋の多いこのマンションは、数日かけないと全てが掃除し終わらない。

 もっとも使っている部屋は少ないので、定期的に掃除すれば十分それでこと足りてしまうのだが。

 ニュースの時報でそろそろ学校に行く時間だと瑞姫は気づいた。教科書は昨日のうちに用意してあるので、制服を着替えるだけ。

 紺色の、髪を染めたりしている子からは地味と不評な、大多数には概ね好評な制服に着替えて外にでる。

 そういえば、行ってきます、は言わなくなっちゃったな。

 ふとそんなことを瑞姫は思って、思ってしまったことを苛立ちと共に打ち消した。



 電車で一度乗り換えて40分ほど。そこから少し歩くと瑞姫の通う高校がある。

 私立三隅女子学園。

 やや都心、というところにある中高一貫校だ。授業が始まるまでにはかなり余裕のある時間帯のグラウンドからは運動部のかけ声と靴音が聞こえてくる。

 靴を上履きに履き替えて歩く。1年生の教室は高校棟の2階だ。職員室もこの階に併設されているので、教師や質問に来ているらしい上級生等とすれ違う。その度に会釈をしながら教室へ向かう。

 ガラガラ、と扉を開けると何人かがこちらに目を向けた。まだ時間があるからか、教室にいるクラスメイトの数はまばらだ。

「おはよう」

 声をかけて瑞姫は自分の席に座って鞄を下ろす。その間に友達が周りに集まってきた。

「おはよー瑞姫」

「……おっはー」

 快活と気怠げ、正反対の挨拶を受ける。チエが生気のない声をしているのは、また昨日も夜遅くまで映画なりなんなりを観ていたからだろう。それよりも、

「ナツミがこの時間に来てるの珍しいね」

 と快活な少女に瑞姫は声をかけた。彼女は普段もう何本か遅い電車に乗るのが常なので、中々早くから来ている姿を見ることはない。

 とはいえ、その疑問はすぐ解消された。

「うーごめん、英語のプリント見せて?」

 どうやら、昨日の宿題をまだやっていないらしい。ちらりと見た彼女のプリントの計算式は途中までかいてあるものの上三分の一ほどしか埋まっていない。

「こういうのは自力でやるのが大事よ」

 瑞姫の返答にナツミが慌てる。そういえば、今日の授業ではナツミが当てられる列に座っていたような気がする。

「ファイト」

 だめ押しにもう一言言うと、後ろに回って首に手を回してきた。瑞姫に体重をかけた状態でナツミが言う。

「今日忘れたことに気づいて早めに来てやってたの! 自力でできるところまではやりました! だからセンセイ、見せてください!」

 ふてくされたようにしながら、いっそう体重を預けてくる。座った瑞姫に体前屈でもさせようとしているようにしか見えない。

 誰が先生だ重い放せほんとに重い、と思いながら言う。まあしかたないのだ。

「はい分かったから離れて離れて」

「ありがと瑞姫ー!」

 はいはい、とあやしながらナツミから逃れる。それにしても重かった。成長期なのか単にナツミが太ったのか。同じ女子として真相は追求しないことにしておくが。

 嘆息しながら瑞姫がプリントを収めたファイルを取り出そうとしていると、チエがむくりと起きあがった。

「……瑞姫せんせー。ナツミは昨日、プリント忘れたことに駅で気づいて、まいっか明日瑞姫に見せてもらえばーって言って帰りました」

 ぎろり、と瑞姫の冷たい視線がナツミの目を捉えた。告げ口したチエはまた机に突っ伏して寝てしまう。

「え、えーと、瑞姫センセ?」

「故意は過失より重罪よね?」

 瑞姫の目力に圧されたナツミがおろおろする。瑞姫はファイルをしまい込んで、朝時間があったらやろうと思っていた塾の問題集を代わりに取り出した。

「自力でファイト」

 ナツミがちょっぴり泣きそうな顔になって、我関せずとチエが枕にしていた腕をごそごそ入れ替えた。



 この日のことを、瑞姫はその後何度も否応無く思い出す。

 三寒四温。その言葉が当てはまるとおり春が来たと思ったらまだ寒い。

 その日は、三月最後の寒さとTVでは言っていた日だった。

 瑞姫は塾の春期講習の最終日で、少し薄暗くなってから家に帰ってきた。

 郵便受けを除いて何も届いていないことを確認する。マンション一階のインターホンを鳴らした。

 しかし誰も出ない。そのことに違和感を覚える。

 休日だったので、マンションには既に両親がそろっているはずだった。

 何度か鳴らす。その度にインターホンは呼び出し中のランプを点滅させ、ブツッという音と共に光が消える。

 コンビニにでもでているのだろうか?

 トイレや家事で、タイミングが悪いのか?

 疲れて寝てでもいるのだろうか?

 そう思う傍ら、頭の隅に不安が芽生えていく。

 仕方ないので鍵を取り出して扉を開ける。

 エレベータに乗って目的の階へ上がる。不安からか、以前友達と観たホラー映画の一場面を思い出してしまった。子供の幽霊が各階でのぞき込んでくるというものだ。

 目的の階に着き家に上がると、電気がついていなかった。靴もない。外に出ているのだろうか?と瑞姫は思った。

(メール入れといてくれればいいのに)

 そう思いながらダイニングに行って荷物を置いた。教科書の重みが降りて身体が軽くなった。

 キッチンでうがいをしてから水を飲む。

 生き返った、と息がもれた。

 一息ついてダイニングに戻ってくると、テーブルの上に見慣れないものが置いてあるのに気がついた。

 白いきれいな封筒だ。厚みからいって中に手紙か何か入っているのは間違いない。

(お父さんのかな……?)

 一瞬そう思って、すぐ違うと気づいた。

『瑞姫へ』

 と、封筒の表に書いてあったからだ。

(手紙?)

 誰からだろう、と思う。友達からにしては、妙に格式張った封筒だ。。それに宛名以外には住所も書かれていないし、切手も貼られていない。

 不思議に思いながらもカッターナイフで封を切る。中の便せんまで切らないよう慎重に手を動かした。

 折り畳まれた便せんを取り出す。余計なしわのつかないように丁寧に広げて瑞姫は読んだ。

 読んでしまった。

「え……何、これ」

『瑞姫へ』

 書いてある内容は瑞姫にとって信じたくないことだった。

『お父さんとお母さんはもう、互いに家族でいることに耐え切れません。』

 信じたくないけれども、理解できてしまう。

『私たちはもうどうしようもないほどすれ違ってしまいました。』

 不仲だったお父さんとお母さん。暴力は無かった。けれど、温かい言葉もなかった。

『君のことを思って、二人とも家族を続けてきたけれども、もう限界です。』

 瑞姫がいる時だけ、取り繕った居心地の悪い温かさが家族の中にあった。瑞姫はそれに気づかない振りをした。自分が気づいていることに気づかれたら、家族が本当にばらばらになってしまうことが分かっていたから。

『勝手だけれども、私たちに時間を下さい。私たちはしばらく、遠くの別々の場所に行きます。』

 時間切れだ。

 いくら瑞姫が誤魔化しても、なかったことにはならなかったのだ。

 それでも。

 何故、瑞姫を独り残していくのだろう。

 その答えは一言だった。

『今は君と一緒にいることさえつらいのです。』

 ーー私たちをつらくさせるお前が悪いーー

 聡明な瑞姫は、その文字に込められた本心を正しく理解してしまう。

(ああ、そっか)

 瑞姫はその時。はっきりと。

 自分が捨てられたことを理解した。





 今日もいつも通りに進んでいった。

 英語の時間には結局プリントを瑞姫がナツミに貸してあげた。けれど当てられたとき、ナツミは違う所の答えを慌てて答えてしまったので赤面していた。

 正直、貸さなくてもあまり変わらなかったかもしれない。

(定期試験前はまた大変かな)

 今までの経験を振り返って、くすりと笑う。ナツミの勉強不足のツケはだいたい瑞姫とチエに降りかかってくる。いや、チエは逃げるのが上手いから、ほとんど瑞姫にだ。 バイト代ぐらいもらっても罰は中るまい、とも思ってしまう。

 将来大学生になった時に今の経験が役立ってしまうかもしれない。

(将来、か)

 ふと黒板を書き写す手が止まる。無意味にシャーペンをくるくると回す。

(まだあんまり考えたくないな)

 中高一貫の三隅女子学園の中ではまだちょっと先のことで、でも後一年もすれば重くのしかかってくる。

 下手すれば一生のことを、ほんのまだ少しの猶予で決めなければいけない。

 本当はそこまで重いことではないのだろう。いくらでも転機はあって、高校卒業にその一つがあるだけのことだ。

 それでも、その転機の一つには変わりない。

 手の中のシャーペンを見る。プラスチック製の、ひどく軽いもの。

 これが今の瑞姫の武器なのだ。

 社会に出る前の、今瑞姫が研ぐことのできる、牙。

 ただの文房具と問題集と授業の時間。

 それが夢を叶えるための、瑞姫の武器だ。

 ただし、まだ叶えるべき夢は見つかっていない。

 どんな夢を見つけるのだろう。

 あるいは、胸の中にどんな夢が眠っているのだろう。

 幾ばくかの期待と不安が胸に膨らんだ。早く夢を見つけたいと思う。

 またしばらくノートにペンを走らせると、その日の授業の終わりを知らせるチャイムが流れた。




「瑞姫、今日も忙しいの?」

 授業が終わるとすぐ、ててっと寄ってきたのはナツミだ。

 さっさと席を離れようとしていた瑞姫の側で、しょんぼりした顔をする。

「ごめん、今日も塾入っちゃってるんだ」

 そう言うと、「そっかぁ」と引き下がってくれる。

 ずきり、と胸が痛む。

 最近友達を放っているのは自覚しているので、申し訳ないと思う。

「瑞姫を困らせちゃだめ」

 いつの間にか近寄っていたチエがそう言って、ナツミのおでこを指ではじく。

「あう」

 とナツミが呻いた。よろよろと下がって、そのまま近くのイスに座り込む。

「ナツミはいい子だから、ちゃーんと我慢できるよね」

 そんなことを言いながら、チエがナツミの頭を掻き抱く。ナツミのふわふわした髪がぎゅっと潰される。

「ちょ、苦しい! ていうか子供じゃないから! チエはわたしのお母さんか!」

「え……と、」

 チエの行動はいつもよく分からない。

 どうすべきか迷う瑞姫にチエがグッ!と力強く親指を立てる。

「幼気な瑞姫を邪魔する怪獣ナツゴンは私が押さえとくから、ここは先に行って」

 今のチエは何者だ。

「早く! もう長くは押さえていられない」「もがー!」

 とりあえず親指を立て返して、瑞姫は教室を後にした。



 家の最寄り駅からの帰り道をとぼとぼ歩く。適度に都心から離れた住宅街は、まだ夕方だからか人通りもそう多くない。

 秋風が吹いて、木の葉がかさかさと地面を擦った。

「また嘘、ついちゃったな」

 ナツミ達とのやり取りを思い出して罪悪感がよぎる。

 今日は塾なんて入っていない。

 忙しいのは本当だけれども、それは別の理由によるものだ。

 単純に家事をしなくてはならない。それだけ。

 両親が家を出てしまってからも、瑞姫はできるだけ変わらない生活をしている。

 体面は気にするたちだった両親は、お金だけは不自由しないように口座にお金は入れてくれている。

 血縁としては遠く、けれどつき合いは田舎の祖父母よりもずっと深い園村の家が面倒を見てくれているので、瑞姫の一人暮らしも成立している。

 瑞姫の両親と兄弟同然だった園村の叔父さんは、二人の暴挙にずっと激怒していた。しばらく園村の家に居候するよう勧められたことも一度や二度では無い。

 その度に瑞姫は断っている。

 あの人達が居なくても私はやっていける。

 そう言って断りながら、一人暮らしを続けている。

 とは言え、さすがに女子高生だけで一人暮らしができる訳もない。マンションの大家さんとの交渉やその他の地域のことは園村の叔父さん叔母さんが協力してくれなかったら、それまでのようにはいかなかった。

 今でも周囲は、両親は海外出張に行っていて、親戚が瑞姫をサポートしているだけと思っている。

 いつまで続けられるかは分からない。

 園村の家の人達にも迷惑をかけている。ナツミやチエにも、ずっと嘘を吐いている。

 詰まるところ、瑞姫のわがままなのだ。

 わがままだけれども、まだ続けなければならない。

「これが私の復讐なんだから」

 あの人達なんていらない。

 あの人達が居た頃の日常を、あの人達抜きで続けてやる。

 それが瑞姫の復讐なのだ。

「あれ瑞姫、今帰り?」

 ぼぅっとしていた所為で気づかなかったのだろう。信号待ちをしていると、横から声がかかった。

 ママチャリに乗った少年だ。どこにでも居そうな地味な格好をしている。かごにもリュックにも、何やら荷物が入っている。

「ちょうど良かった、今から瑞姫の家に行くとこだったんだ」

「ナイスタイミングね。明良」

 瑞姫は幼なじみであり遠い親戚でもある少年、園村明良に笑いかけた。



 マンションのエレベーターで上がりながら、

「ところで今日、純子さんは?」

 瑞姫が尋ねた。片手に明良が持ってきた荷物の一つ、保冷バッグを持っている。

「母さんは町内会の集まりがあるって。だから代わりに」

 明良が答えた。リュックと大きい方のバッグを持っている。

 エレベーターが止まって、扉が開く。構造の都合かバリアフリーか、乗り降りが一方通行になっているタイプだ。

 瑞姫が扉を開けて二人が入る。勝手知ったる仲なので、明良がひょいひょいと荷物をキッチンに運び込む。

 荷物の中身は、純子さんこと岡野の叔母さんからの差し入れだ。瑞姫では手が回らない所を主婦として手助けして、けれど出きる範囲には手を出さないで居てくれる配慮はとてもありがたい。

「冷蔵庫開けるよ」

 明良が断る。親しき仲にも礼儀ありを地でいく幼なじみだ。

 作り置きの料理やバーゲンセールでの食材を冷蔵庫に詰めていく。

 無理に手伝っても邪魔だろうと瑞姫は思って、リビングのソファなどを明良が使えるようにチェックする。

 と、

「あ、セロリ食べてないね」

 苦手なので使っていなかった野菜を発掘されてしまったようだ。

「純子さんには言うの禁止よ」

「わかってるって」

 園村家からの食材には瑞姫が苦手なものもたまに混じっていて、どうしようもなく苦手なものだけは残している。

 捨てるのは勿体ないし悪いので、後で明良に食べてもらうことにする。

「僕も苦手なんだけどな」

 そう呟く明良は、未来が見えているらしい。

「着替えてくるからくつろいでて」

 そう行って自分の部屋に向かった。



「ごちそうさまでした」

 二人ながら手を合わせる。

 夕飯は明良の母の作った魚の煮付けだった。ショウガがよく効いていて、身体が温まる。

 明良の母は、普段瑞姫が作れないものを重点的によこしてくれる。下準備に手間のかかる揚げ物などもそうだ。

 魚に関しては、生の魚の手触りが苦手な瑞姫があまりチョイスしないというのが実の所なのだが。

「皿、洗おうか?」

 立ち上がろうとした明良を瑞姫はむっと睨む。

「家主が何も仕事しないんじゃ立場無いわよ。リビングの方でテレビでも見てて」

「そう?」

 別に気にしないのに、とでも言うような明良を押しのける。そのままダイニングと一続きのリビングに追いやる。

 キッチンに戻ると明良がテレビをつけたのか、芸能人の笑い声が部屋に響く。それも直ぐにアナウンサーの淡々とした声に変わり、スポーツの中継に変わり、最後に何やらドキュメンタリーに落ち着いた。

 洗い物自体は五分もかからず終わった。リビングに行くとソファに埋まっている明良がいる。ドキュメンタリーはどうやら中小企業へのインタビューらしい。中年男性が、下請けの苦労について語っている。

「面白い?」

 尋ねると明良は首を傾げる。

「社会情勢の話は興味深いけど」

「けど?」

 言葉が一息に続かないのは明良の癖だ。頭の回転は悪くないが、話すのに時間がかかる。

 んん、と唸って、

「働いたことがないから、自分のことと感じるには何かこう……薄い膜、がある感じ」

「ふうん」

 何となく分かる気がする。壁と言うよりも、膜。

 押せば破れそうなのに、力が逃げていきそうな。その内押している感覚も薄れてしまいそうな。

 破れたときにはもう無い。薄い膜。

「働くようになったら分かるわよ、きっと」

「それで分からなかったら、環境かそれとも頭かが幸せなんだよ」

 明良がくすくす笑った。

「なにそれ」

 瑞姫も苦笑して、なんとなく明良の頭をはたいた。




 カリカリ。パラリ。

 文字を書く音、紙をめくる音がこぼれる。

 夕食後は勉強の時間だ。

 ダイニングのテーブルで、瑞姫は学校の課題とは別に問題集を解いている。着替えたパジャマは暖かそうで、風呂上がりの髪が艶やかにまとまり垂れている。

 明良はというと、

「…………」

 パラリ、パラリと。

「………………へえ」

 なにやら本を読んでいる。

 内容は図書館で借りた学生向けの新書だ。

 今日の本は昆虫の生態について。この前は日本の底力について。

 ある時は小説で。あるいは流行の漫画の時もある。

 とりあえず面白そうなものに手を出して読んでみるのが明良の趣味だ。

 たまにこうして瑞姫と空間を共有して、けれど行動を共有しない時、明良は趣味のことをやるのが常だった。

 いつも一緒のことをする必要性は感じないし、それで良いと思う。

 瑞姫が少しだけ不機嫌になることは理解しているけれど。それでも。あるいは、だからこそ。

 チラリ、と瑞姫の横顔を見る。その表情は尖っていて、張りつめている。瑞姫は明良の視線には気づかず、ペンをノートに走らせる。

(頑なだなあ)

 と明良は思ってしまう。

 瑞姫は自分を守っているのだ。成績というお守りを鍛えることで、気を紛らわせている。

 勉強の繰り返しの中に自分を置くことに、安心を見いだしている。

 それはきっと昔からだ。

 昔から、瑞姫は良い子だった。

 というより、良い子すぎた。

 瑞姫は聡い子供で、だから両親の不仲をずっと前から、予兆でしかないような頃から察していた。瑞姫の両親の仲が次第に悪くなって、けれどそれは表面に出ないように取り繕われていた。

 瑞姫の両親は、瑞姫を愛していたから。

 少なくとも、亀裂を娘に隠して、円満な家族を維持しようとしてくれるほどには。

 明良は知っている。瑞姫はずっと良い子だった。

 両親が瑞姫を愛するように。その愛が家族の形を保ってくれるように。

 そうなるように、瑞姫はずっと努力していた。

 我が儘を言わなかった。成績はいつもほめられるくらい良かった。問題を起こさなかった。家では親の手伝いを進んでした。両親の誕生日には、手紙を書いて、誕生日プレゼントもその時その時一生懸命に用意した。

 でも、無駄になった。

 その愛が壊れて、瑞姫は捨てられて自由になって、なお頑なだ。

 勉強することは将来のためにやっているのだと瑞姫は言う。けれど、明良に瑞姫のそれは、目隠ししたまま歩き続けているように見える。

 歩き続けてもどこにもたどり着けない目隠しの旅。

 だから、悠々としている明良の態度に瑞姫は苛立つのだと、明良は知っている。

 さながらウサギとカメだ。ただし今の二人は、休んでいるけれど目的地を見定めているウサギと、盲目で無為に歩くカメだ。カメはウサギが本気で走り始めたら自分よりずっと速くずっと遠くに行かれてしまうことを分かっているのだ。

「ねえ、瑞姫」

 明良が声をかける。直ぐに、

「何?」

 と返事があった。

「瑞姫は何になりたいの?」

「……いきなり、何?」

 手を止める瑞姫。けれど明良に顔は向けない。

「瑞姫の幸せって何?」

 明良は疑問で返す。瑞姫の答えは沈黙。ぽつり、と一言だけ返す。

「何で、そんなこと訊くの?」

 明良も短く。

「何となく。ふと思っただけ」

「………………そう」

 会話がしばらく途切れて。

 また二人はそれぞれの行動に戻る。

 苛立ったようにペンの音が鋭くなった。





「じゃちょっと出てくるね」

「さっさといってらっしゃい」

「うわ、何その言い方」

「はいはい、閉まる前に行ってらっしゃい」

 そう言って明良を家から追い出し、わざと力強く鍵をかけた。秋風のためか、「寒っ」という声が扉の外から聞こえた。

 明良は自宅に帰ったのではなく、近くの電気店に出かけたのだ。瑞姫の家の玄関の電球が切れたため、買いに行ってくれている。

「いっそLEDにしない?」「安い電球で良いわよ」

 機械好きの意見が清貧少女に切って捨てられたのは余談。

 ともあれ、今家には瑞姫だけしかいない。

 それが本来岡野家の日常だ。

 これからもずっと続いていく日常だ。

 自分を捨てた両親なんてもう要らない。むしろ自分が両親を捨てたのだ。

 そんな両親のお金で今も養われている現状が瑞姫は嫌いだ。

 大学になったら奨学金やバイト代で自活する。そして卒業したらどこかで自立する。 それが瑞姫の夢だ。

「イヤなやつ」

 なのに、何故かさっきの明良の言葉が棘のように瑞姫の胸に刺さっていた。

(ーー瑞姫の幸せは何?ーー)

 自分の幸せ。

 自分の夢。

 良い大学に入って。卒業して。どこかで働いて。

 そうしてそこで生きている自分は幸せなのだろうか。

 ふと、そんな疑問が鎌首をもたげた。

 明良の顔が思い浮かぶ。今日見ていた数時間でも、明良は自然体で柔らかい笑顔を浮かべていた。

 なんとなく自分の頬を摘んで引っ張る。幼いときにらめっこで頬を引っ張ったときより、固くなっている気がする。

 そんなことをしながら数学の問題を解いていたら、計算を間違えていた。この苛立ちも明良の所為にして計算し直すも、どこが間違っているのか上手く行かない。

(疲れた……)

 天井を仰いで伸びをするも、食後で血が頭に回っていないのか瞼が降りてくる。

 このまま計算に再挑戦するより、ちょっと寝た方が効率がいい。ケータイのタイマーをセットする。

 そこまでして急激に眠くなってきたので、机に突っ伏す。

 明良が帰ってきた時まだ寝ていても、合い鍵を叔父さんから預かっているはずだから入ってこれるだろう。

(でもそしたら寝顔見られちゃうのか……)

 そこでとろんとした思考が止まって、瑞姫は眠りに落ちた。



「起きなさい、瑞姫。いつまで寝てるの?」

 肩を優しく揺すられて目が覚めた。誰かの手でカーテンを開けられる音が部屋に響く。

「う……?」

 暖かい春の日差しも寝起きの目には少しキツい。ベッドから半分身体を起こす。

「お母さん、今何時……?」

「8時過ぎよ。日曜だけど、もう起きなさい」

 また夜まで起きてたんでしょう、と言う母に、勉強してたの、と反論する。

「着替えてきなさい。もうご飯できてるから」

 母はそう言って出ていった。瑞姫も着替えてダイニングへ向かう。

 母が料理を並べていた。日曜の朝に弱い父も、さすがにこの時間には起きている。

「手伝うね」

「あら、じゃあドレッシングとか出しておいてちょうだい」

 はい、と答えてテーブルに冷蔵庫の中のものを並べた。途中で、

「お父さんごめん」

 と言って、新聞を読んでいる父にすこし退いてもらう。父は、ああ、と答えてまた新聞を読み始めた。

 朝食の用意が整い、三人とも席に着いた。

「いただきます」

「「いただきます」」

 瑞姫の声に父と母の声が続いて唱和する。

 昨日の残り物の、肉じゃがとわかめのお味噌汁。

 テレビがBGMで鳴っていて、箸と食器の音が食卓でする。

 父が好きなコーヒーを入れていて、母が和食に合わないのにと笑っている。

 一口、お味噌汁をすする。とても温かい味がする。

 何故が涙が出そうなくらいほっとした。身体に入っていた力が氷のように溶けていく。

「瑞姫?」「どうした、瑞姫?」

 両親の声が聞こえた。その声で確信する。

 ああ。

 私の居場所はここなんだーー。

 そう思えた。瞬間、

 どこからか無慈悲な電子音のアラームが、鳴った。



「うぅ、寒い」

 電気店からの帰り。街路樹の植わった通りを明良は歩く。紅葉していた葉っぱはとっくに地面に落ちて茶色い枯れ葉となっている。

 駅前にある電気店からの道は街灯で明るくて、歩くのには何の不都合もない。ダウンを着た人々をちらほら見かける。

 ポケットの中で携帯が振動した。取り出して液晶の表示を見ると父親からだった。

「もしもし」

『おお、今どこだ?』

 野太い父親の声が聞こえる。

「今ちょっと外出中。瑞姫の家の電球が切れたから買いに行ってたよ。遅くにはなりすぎないようにする。父さんは今帰り?」

『ちょうど着いたとこだ。まだお前が帰ってないってことだったからな。ついでに瑞姫ちゃんの声も聞こうかと思ってかけたところだが』

「当てが外れたわけだ」

 そうだ、と返答がある。

『たかがこの時間で高校生の息子の帰りを心配して電話をかける父親なんて気持ち悪いだろう』

「まあうん……そうかな?」

また、そうだ、と返答がある。

『お前反抗期はどうした。そろそろ親には反抗するものだろ?』

「その言葉で僕詰んだんだけど」

 明良は苦笑した。反抗すれば”親の言うことをきいた”ことになり、反抗しなければ”反抗して親の言葉をやぶった”ことになる。

『そんな言葉遊びはどうでもいい』「まあそうだね」

 反抗期云々をあまり意識しないのは、明良よりもこの父親の方が豪快だからだ。悪い言い方をするなら、より悪ガキっぽい。

『どうだ。瑞姫ちゃん、元気してたか』

「どうかな。いつも通り」

 腹の辺りが少し重くなるのを感じながら明良は答えた。

『ううむ、まあ、そうか。そうだろうな』

 その辺りの気持ちは父親にも伝わったらしい。少し困った気配が滲む。

 瑞姫の両親が出て行ってからの瑞姫の頑なさは岡野家全員の心配の種だ。岡野家に瑞姫が遊びに来ているときも、陰りが消えることはなかった。むしろ、強くなることさえあった。

「父さん」

『なんだ』

 父親が野太い声で言った。

「瑞姫、どうなるのかな」

 ごちゃごちゃといろんな感情が胸に渦巻いた。瑞姫の幸せって何? さっき瑞姫に言った意地悪半分の言葉が罪悪感で明良の心をつついた。

『わからん。俺は予言者じゃないぞ』

「ああもうーーそんな返しはいらないって! じゃ、父さんは瑞姫にどうなって欲しいのさ」

 明良は素直に苛立ちを声に出した。

『にっこり笑えるようになって欲しいさ』

 直ぐ答えが返ってきて、明良は声に詰まった。変化球にストレートを混ぜてくるのを止めて欲しいと切に思う。

『お前だってそうだろが、ん?』

 さらに決めつけてくる。明良の言葉の意地悪じゃない方の半分、瑞姫を心配する部分を勝手にまとめられてしまっていた。つかえが取れたようになってしまったことに悔しさを覚える。

『まあ具体的にできるとこといやぁ、気長に瑞姫ちゃんが本当にやりたいことに気づくまで待ってやることぐらいだけどな』

「やっぱ、それしかない?」

 吐いた息が白くなって、夜に溶けた。歩調をゆっくりに歩道を歩く。

『それしかないかどうかはお前次第かもしれんが、簡単なことじゃないぞ。気づく時ってのはきっと、あの子の心が交通事故にあったような時だろうからな。その時支えてやれるかだ』

「…………」

 心の交通事故。その言葉が何故か明良の言葉に染み込んだ。

『近くに誰か居ることは支えになる。支え以上にはなれないが、それ以下でも決してない』

 明良は少しの間無言だった。やや間をおいて返す。

「父さん、ありがと。着いたから一旦切る」

『おう。あんまし迷惑はかけるなよ』

 いつの間にか瑞姫のマンションの前に着いていた。たまたま他の住人が出てきたので交代に一階のセキュリティドアを通り抜ける。停まっていたエレベーターに乗り組み、目的の階を押す。

 瑞姫の家の前に立った。インターホンを押そうとして、夜に迷惑かなと思って止める。預かっていた鍵を使って玄関扉を開けた。

「ただいま」

 やや小さな声で言うも返事はない。集中していて聞こえないのかもしれない。静まりかえった短い廊下を歩き、ダイニングにつながる扉を開けると、テーブルに突っ伏して眠る瑞姫の姿が見えた。

 インターホンや大声を出さずに良かったと思う。首を横に傾けて眠る瑞姫は、ずっと見たことがない程に安らいだ顔をしていた。

 このままずっと見ていたいーー

 そう思って瑞姫に近づいた。瑞姫が何か寝言で呟いた。

「お父さん。お母さん……」

 ぎくり、と明良は動きを止めた。聞いてはいけないものを聞いてしまった。そう明良が思った瞬間、

 瑞姫の携帯の、無慈悲な電子音のアラームが、鳴った。



 脳の奥底に響く無機質な音。その音にかき乱されて世界がぶれた。

 暖かい春の日差しが詰まった部屋が遠ざかり、千々に切れてどこかにいった。

 頭がぼんやりとしている。そのことすらよくわからず、とりあえず瑞姫は重い頭を持ち上げた。

 薄ぼけた視界に今までいたのと同じ部屋の壁が写る。安心して、しかしすぐにぞっとする冷たさが背筋に這い上がった。

 ダイニングに春の陽気は無く、秋の空気が重く堆積している。日めくりのカレンダーは取り払われ、寒々しい白い壁が虚ろだった。

 助けを求めるように人の気配に目を向けた。驚いたような顔をしている明良と目が合った。

 両親ではなかった。

 そのことに悲しみと寂しさを感じて、そしてそんな感情を抱いた自分に対して怒りと惨めさがわき上がって。

 焦った顔をする少年に向かって、

「来ないで!!」

 と叫んだ。



 瑞姫が。

 傷ついた顔をしている。

 幸せそうな寝顔だった。幼い頃のような、無垢な笑顔だった。

 目を覚まして、ぼんやりとした、ここがどこか分からない顔をした。

 そしてーー傷ついた顔をした。

 泣いていて、怒っていて、でもどうしようもなく傷ついた顔をしたのが分かった。

 明良は瑞姫に近づこうとした。何が瑞姫に起こったのかは良く分からない。ただ焦りが明良にそうさせた。

 足を踏み出そうとして、

「来ないで!!」

「!!」

 強く拒絶されて、足を止めた。止めさせた瑞姫も何をしたいのかはよく分からないようだった。

 明良もどうすればいいか分からなかった。ただ一つ、瑞姫を独りにしてはいけないことは分かっていた。

「私ーー私、」

 瑞姫の声が一瞬詰まった。吐き出すのを理性が押さえつけて、すぐに決壊した。

「夢を見たの」

 瑞姫の表情は奇妙な泣き笑いだった。その表情をとても可愛らしいと思ってしまったことに明良は罪悪感を覚えた。

 瑞姫は吐き出すように呟く。

「夢を見たの。お父さんとお母さんが笑ってて、一緒の時間を過ごす夢。春の日でとても暖かくって、なんで、なんであんな夢!」

 呟きは次第に、自分を切り裂くような叫びになった。

 ようやく明良も理解した。瑞姫が気づいてしまったことに気づいた。

 明良は知っていた。瑞姫が両親からの愛情にずっと飢えていたことに。

 瑞姫は嘘吐きだ。かつては両親の不仲を瑞姫の愛情で塗り固めようとした。そして今度は、失ったものを拒絶して大切ではなかったことにしようとした。

 きっと、自分がどれだけ両親が好きだったのかを、そして愛されたかったのかを受けとめてしまったら、耐えきれなかっただろうから。

 だから瑞姫は嘘を吐き続けたのだ。

「私、自分がこんなに弱いだなんて知らなかった。ーー知りたくなかった!  ずっとずっと気づかないまま生きていければ良かった!」

 ずっとーー?

 その言葉を聞いた瞬間、明良の胸の中に小さな、けれど強い熱が生まれた。

 瑞姫に向かって足を踏み出した。拒絶するように瑞姫が手を伸ばした。

 その手を明良は掴んだ。怯えて逃げようとする手をしっかりと握る。冷えた体温が明良に伝わった。

「ずっと、瑞姫は本当には笑えないまま生きていたかったの?」

 噛みしめるように言った。自分がどんな顔をしていたのか、明良は分からない。

 ただ逃げようとしていたはずの瑞姫の目は、はっとしたように明良を見ていた。

「僕は、瑞姫には幸せになって欲しい」

 こんな台詞、現実には言う機会は無いと思っていた。だけど思っていることを伝えなくてはいけなくて、言葉は不自由で、それでも伝わって欲しいと明良は瑞姫から目を離さなかった。

 握った手から力が抜けた。瑞姫の瞳から一粒、滴が落ちた。

 途方に暮れた目で、瑞姫は明良を見上げた。涙の溢れる目だった。

「私ーーお父さんもお母さんも大好きだったんだ。なのに居なくなっちゃった。どうしていいか、分からなくなっちゃった」

「うん」

「どうしていなくなっちゃったのかなあ。私、こんなに家族で居る時間好きだったのに」

「うん」

「私、そんなことも嘘ついて、お父さんお母さんも最初っから嫌いだったって思いこもうとして、私が嫌いな人たちからなら、私が捨てられても全然痛くないって思って」

「うん」

「なんで、私こんなに弱いのかなあ。強ければ、お父さんもお母さんも居なくなる前に、居なくなっちゃいやだて言えたのかなあ。居なくなってからでも、帰ってきてって言えたのかなあ」

「うん」

「強く、なりたいな」

「うん、強くなろう。僕も一緒に強くなるから」

 馬鹿みたいに、うん、とだけ繰り返した。どうやれば瑞姫を支えられるか分からなくて、それでも支えた。途方に暮れた目は、それでも力強かった。

 きっとこれからも瑞姫は自分の弱さに気づいて、気づかされて、傷ついていく。そしてその度に瑞姫は強くなっていく。

 僕も、側で一緒に強くなりたい。そう明良は願った。


「あー、父さん? 今お酒入ってないよね? うん、うん。そう。それでなんだけど、瑞姫の家まで車で来てくれない? 今日は家で泊まらせようと思って」

 片手で電話をかける。もう片手はまだ瑞姫が握っていた。

 泣き疲れた瑞姫は眠ってしまっていた。せめて寝る直前にソファに移動させられたのは救いだ。

 明良はソファに座るスペースが無く、直接床に座ってあぐらをかいている。

「違う違う。今日泣いちゃって……ってそれこそ違う! 僕が泣かせたわけじゃないから! 後で説明するからとにかく来て」

 父親に電話しているのは二人の迎えを頼むためだ。今日の瑞姫を独りにはしてさせたくないし、かといって明良が泊まり込むのはダメだと思う。なので瑞姫にとっても勝手知ったる岡野家に泊まってもらうことにしたのだ。

 とはいえ電話で経緯を説明するのは難しく、連絡は難航している。

「朝? 父さんに余裕があるなら瑞姫を家まで送ってあげてくれない? あ、うん。大丈夫なんだね」

 それから二、三言話してから電話を切った。ふう、とため息をつく。

 これは泣かせたことへの追求が激しそうだ、と思う。いまいちデリカシーがあの父親には足りないので、また母さんに怒られて終わるだろう。

「どうする、瑞姫?」

 返事がないのを承知で明良は声をかけた。もちろん返事はなく、微かな寝息だけが聞こえる。

 まだ微かに固い寝顔を見ながら。明良は戦うことを決めた少女の一時の休息を邪魔しないことにした。



END


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