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自殺屋  作者:
生と死
6/17

捨テネコ

「迷子か?」

「ううん、ちがうの」

小さい男の子と、爽やかさが印象的な青年が対峙している。

青年は、とても綺麗な顔をしていた。まるで、眉目秀麗を形にしたような。道行く人々が振り返る。

立っているだけでかなり目立っている青年は、不穏な雰囲気を纏っていた。


青年が声をかけるまで、男の子はふらついていた。

歩いているくせに、目的の場所は存在しない。まさに放浪していたのだ。

浮幽霊のように、手を放すと風に乗って浮かぶ風船のように。


男の子は幼かった。

まだ日本語をしゃべることも儘ならないような、自分で道を決めることも儘ならないような小さな男の子だった。

歳はわからないが、小学校にもまだ入学していないだろう。

そんな子供が一人でふらふらしていたら、迷子だと思うのが妥当。

そう思って声をかけたのに。

青年は男の子の否定に首を傾げ、再び問うた。

「…じゃあ、どうしたんだい?」

「おかあさん、いなくなっちゃった」

「やっぱ迷子じゃん」

「ちがうの。タマは迷子じゃないの」


親がいなくなったと言うのに、迷子ではないとはどう言うことだろうか。

青年は眉を潜め、男の子の様子を窺った。

子供の言っている言葉をいちいち理解していたらきりがないが、男の子が言う〝タマ〟とは男の子自身の呼び名なのだと勝手に決め付ける。


声を、かけなければよかったかもしれない。


「タマ、お母さんはどこにいるの?」

男の子をタマと断定し、話を進めてみる。

いなくなっちゃったと言っていたのに、意地悪な質問だな。青年は、苦笑を零す。だが、今の状況を理解しなければならない。

今更この子を見捨てて帰るのも、後味が悪い気がした。


「おかあさん、よにげしたの」

「夜逃げ!?」

意味がわかっているのか、わからないで使っているのか。

どちらにしても、こんな幼い男の子には似合わないような言葉が、タマから出てきたのは事実だった。

名前を訂正しないと言うことは、名前は本当にタマなのだろうか。

変わった名前をつける親だな、と微かに笑う。


「おとうさんがそういったの」

なんつうことを教える父親だ。

いや、もしかしたらそう教えざるを得ない状況だったかもしれない。

けれど、それはあんまりだろう。青年はため息をついた。


「んじゃ、お父さんは?」

「しんだ」

「はぁ!?」

「おとうさん、しんじゃった」

ああ、面倒なことになった。


「おとうさんはこのせかいにいないけど、おかあさんはまだいるの。ぼく、おかあさんさがさなきゃ。さがして、いっしょにすむの」

「…」


夜逃げしたのに、一緒に住むわけないだろう。

一緒に住む覚悟がなくなったから、もう子供が必要なくなったから、邪魔だから――――親は子供を捨てるのに。


タマは馬鹿だった。

幼いのだから当たり前だとは思ったが、やっぱり馬鹿だった。


信じることをやめないタマ。

否、それ以前に、母親しか頼ることができないタマ。


猫。

まるで生まれたての捨て猫のように、タマは無知で無力だった。

無知は、怖い。


良心は、痛む。痛むけれど、何か悪い予感がした。

このままタマに付き合っていたら、何か面倒くさいことになりそうで。


「そうかいそうかい。じゃあ俺行くわ。それじゃ、達者でな」

青年はつらつら、と早口で言葉を並べる。そして、タマに背を向けた。


良心が痛まないわけではない。

だが、面倒くさいのはもうごめんだ。

ずっとずっと、厄介事に首を突っ込んでいたのだから。

死の淵の旅行まで、体験したのだから。

もう、非日常なんて求めない。


母も父も逃げてしまい、借金を抱えた自分だからタマの気持ちはよくわかる。

それでも、こんな子供を相手にする余裕など、青年のどこにも存在しなかった。

もう既に、訳のわからない(やから)に目をつけられてしまったのだから。


てっきり、少年は泣き叫ぶかと思った。

それか、再びふらふらと歩き去っていくのかと。


まさか。

まさか、食い下がってくるとは。


それも――――

「いかないで」

まさか、大の大人がこんな子供に、脅されるなんて。

情けなくて涙さえ出てくる。


メキメキと悲鳴を上げる腕。

腕がちぎれてしまいそうだ。危険信号である激しい〝痛み〟が、脳を強く刺激する。

青年は、痛みに思わず叫んだ。

青年の腕には、男の子がひっついていた。

よく見ると、男の子は青年の腕を思い切り握っていた。小さなその手が、青年の腕を掴んでいる――――ただし、小さな細い手には似ても似つかないような、強い力。

腕が、更に悲鳴を上げる。


このままいけば、本当に腕がちぎれてしまう。


熱い。血が止まる。

否、熱いのは顔だけだ。腕は――――冷たい。


ちぎれる。

そんな危険を察知した青年は、男の子を宥めにかかる。

「わ…かったッ!!行かない、行かないから、は…なせッ!!」

男の子の手を、死に物狂いで振り払った。


"行かない"と、言ったからか。

強い力で握られていた青年の腕から、男の子の小さな手は案外あっさりと離れてしまった。


死ぬかと思った。

大袈裟に言っているのではない。

子供が加減と言う言葉を知らずに、全力で殴りかかる。そんなレベルではないのだ。

この子供の力は、格が違う。

こんな細い腕のどこからあんな力が出てくるのだろう、と思うくらいタマの力は強かった。


「ぼくはかいじゅうなんだ」

「怪獣…」

いや、力で言えば怪獣には劣らないだろうし、いい例えだと思う。

だけど、こんな非科学的なことがあってたまるか。

俺は、幽霊なんて信じないんだ。青年は、隠れて舌打ちをする。


これでもう一度逃げる仕草をすれば、確実に殺られる。そう考えた青年は、身震いした。


くそ、(たち)の悪い奴につかまった。

青年は、不機嫌な様子を露わにした。そんな青年の嫌嫌な雰囲気を感じ取ったのか、タマは一切騒がなかった。


我ながら大人げないな、と青年は自嘲気味に笑った。


「おにいちゃん…」

タマは俯いた。

青年は首を傾げ、タマの顔を覗く。タマの身長は青年の足ほどしかないために、しゃがんで尚且つ背中を丸めて。


もしかして、自分の態度に傷ついてしまったか。

幼い子供相手に、何をやっているんだ。


そう思いながら青年は、タマの顔を覗いたまま言葉を失った。


タマの表情は、なんとも脆かった。

ちょっとつつけば泣きそうなほど、タマは弱弱しい表情だった。


途端に青年は気付いた。

タマは子供にしては、とても落ち着きすぎていたのだと。

泣き叫ぶこともしなければ、立ち往生していることもなかった。

ただただ動くことをやめず、親を探すこともやめず、タマはずっと信じていた。

親はきっと、自分を受け入れてくれる、と。


子供にしてはあまりにも冷静で、大人にしてはあまりにも脆い。

世の中のガキは全員泣くことしか出ない、他力本願なの奴らばかりなのだと思っていた青年には、そんなタマが理解不能だった。


「おかあさん、さがして…」

もしかしたら、タマはこの破壊力のある力で苦労していたのかもしれない。

だからこんなに大人びていて、子供のくせに泣かないで。



気に食わない。


泣けばいい。

泣いて、助けを求めたらいい。


青年は自らの大きな手を、タマの小さな頭に置いた。タマの髪は、子供特有のふわふわした手触りだった。

小さな頭を撫で、ああ、こいつはまだこんなに子供なんだ、と実感した。

何せ、どうも仕草やら何やら、何一つ子供らしいと実感できる要素がなかったのだから。



タマ。

お前には、子供にはな、


「助けを求める権利があんだよ」

俺みたいな大人と違ってな、と青年は笑った。



タマを連れた青年は、あるビルへと足を踏み入れた。


ビルの中は、とんでもなく狭い。

否、建物内はそこまで狭くはない。


ただ、そこまで狭いのは、たくさんの本が積み重なって壁を作っているからだ。

その壁が、建物内の、道を塞いでいるのだ。重く厚い本から、薄い本まで。さまざまな本が種類問わずに積まれている。


青年は毎度のことながら、建物内の惨状に軽く舌打ちをする。

タマの手を優しくとり、引っ張らないように気を付けながら歩を進めた。

そして、建物のずっと奥の、黒い扉のドアノブに手をかけた。


青年が勢いよく開けると、そこにはもっと本に埋もれた世界が広がっていた。


「あ?お前、誰だそのガキ。おいおい、お前いくら容姿が良くてもな、遊んじゃいけねェよ。ガキにだって世間体はある。隠し子だなんて理解できるような歳になったら、苦労すんぞ」


どこからか、声がする。

が、どこからするのかわからない。本が、部屋からあふれている。


かかった声は低く、そのことからして声の主は男だと言うことが分かった。

青年は、眉をひそめた。

青年にとっては、聞き覚えのある声。青年の、嫌いな声。


青年は険しい表情のまま、三歩ほど前にある本の山に視線を向けた。

ごそ、と山が揺れ、積みあがった本が崩れる。すると、そこには一人の男が埋もれていた。黒髪のボサボサ頭、目の下にはうっすらクマができ、目つきが悪い。


青年は、本の山に埋もれている男を睨んだ。

「誰が遊んでるって?」

「お前だよお前、無駄に輝いた顔しやがってよ。世の中の女が皆お前に惚れると思ったら大間違いだ、馬鹿め。貢いで借金作るなよ」

「おいこら、言いたいことばっか言いやがって。貢がねえよアホ」

「せっかく俺が、お前の借金帳消しにしてやったんだから、ちゃんと働いて返せ」

「うっせぇ、(さかき)


本に埋もれている男は、榊と呼ばれた。榊は眠そうな表情のまま、身を動かす。体の上に積みあがった本を崩し落とすと、本の山からのっそりと這い出た。

埃を払うように、服を軽く叩いた榊は、「それで?」と話を切り出した。


「そのガキ、隠し子か?」

「ちげぇよ、迷子だ」

「ちがうよ、まいごじゃないよ」

青年の言葉に、すかさずタマが反論する。

榊は訳が分からず眉を顰め、不機嫌そうに青年を睨んだ。

「どう言うことだよ」


榊は、面倒くさいことが大の苦手だ。

苦手と言うより、嫌い。大嫌いだ。

青年には、榊がこうなることが大方予想がついていた。そして、協力的にならないことも、再び本の山へと帰ろうとすることも、全てお見通しだった。


榊は予想通り、元いた場所に戻ろうとする。すかさず青年は、本の山に帰る前に、榊の首根っこを掴む。

「待て待て、お前そのまま本の妖精になるつもりか?」

首根っこをぐいっと引き戻し、ため息をついた。

榊は眉を顰め、不機嫌を露わにした。


「上司の首根っこ掴む奴があるか」

「全く敬えない奴を上司とは呼ばん」

「離せ、上等だ。本の妖精になってやる」

「え、何お前。お前が真面目な顔して〝妖精になる〟とか言うと、吐き気が止まらないんですけど」


榊は尚も戻ろうとするが、青年は離さない。

にらみを利かせた榊を引きずり出し、急いで書斎を出た。


ここは、普段建築の仕事として使う、接待部屋だ。

ここなら、ゆっくり腹を割って話せる。


「実はな、こいつの母親が行方不明なんだよ」

「あん?それじゃ、やっぱ迷子なんじゃねェか」

「ぼく、まいごじゃないの」

断固として譲ろうとしないタマに、再び榊は眉を顰めた。

厄介なことに巻き込まれている、と直感したのかもしれない。


「めんどくせェな。警察でもなんでも、任せりゃいいじゃねェかよ」

「お前、こいつの破壊力知ったらそうもいかなくなるぜ?」

青年は先程の感覚を思い出し、身震いをした。

腕がちぎれるような感覚、下手したらこの腕は今ここになかったかもしれない。

そんな恐怖が、今も尚青年を襲っていた。


「こいつ、絶対怪獣にも勝てる」

そのくらい強いんだ、と青年は必死に榊に告げた。

「ふうむ」

考え込む動作を見せた榊は、笑った。


もともと榊は、笑顔を見せるような奴ではない。

にこにこ、きらきら、そんな笑顔は決して浮かべることはできないのだ。

そう、榊が見せる笑顔、それすなわち悪い笑みである。

何かを企んでいるような、そんな顔。


「なんだよ」

青年は、無意識にタマを庇う仕草をする。

「そんなに力強いんなら、うちで働かせてもいいけど?まだガキだし、裏の世界に引き込むんだったら丁度いい時期だ。親もいないんだったら尚更だぞ」


金が目的なのは丸見えだ。

建築にしても、自殺屋にしても、力仕事は山ほどあるのだろう。

青年は、タマが急に不憫に思った。

金の亡者め、と心の中で榊に悪態をつきながら。


「馬鹿力なガキの親か。大方、その"力"とやらが怖くなって逃げたんだろうよ」

「おい、空気読めよ」

青年は、榊の頭を軽く叩いた。

「いてえ、何すんだよ」

榊は青年を睨むと、舌打ちをした。

青年も、負けず劣らず榊を睨んだ。


「タマの前では言うな」


先程タマの心情を初めて露見してからか、タマは繊細なんだと感じていた。

だから、今このときタマが少し俯いたのを、見逃しはしなかった。

ただ、榊には人情というモノが欠けているため、気を遣うなんていう高度な技は不可能だ。

全く、いい大人のくせに。


「なんだよ、お前。このガキに感情移入でもしやがったのか?」

榊は鼻で笑った。嘲笑うかのように。

青年は黙ったまま、タマの頭に手を置く。

「おもいよ」

タマは青年の手を除けようとするが、青年はそのまま手を乗せたままだった。


青年は、自嘲気味に笑った。

「そうかもなぁ」

「あ?」

「同じ、捨てられた同士だ。寂しさだってわかるつもりだ」

「…」

「ガキなんだから、泣いてもいいのに。こいつは会ってから、一度も泣いてねぇんだ」

「…」


「なぁ、タマ?」


タマは首を傾げた。

青年は柔らかく笑うと、タマの頭をあやす様に優しく叩いた。


捨て猫のように、自分では何もできないタマ。

だからこそ、放ってはおけなくなった。

青年とタマは歳や状況は違うものの、同じ境遇に違いないのだから。

榊は青年の様子をジッと見つめ、それからゆっくりと息をついた。


「馬鹿か」

「なんだよ」

青年が食い下がる。

馬鹿にされると思っていた。

いつもなら、絶対されていた。


「お前は俺が拾ってやっただろうが」

「は?」

あっさりと、榊は言い放った。

「何が不満なんだよ」

帰る場所なら充分すぎるくらいあるだろう、と付け足すと、盛大に舌打ちをした。

青年は、暫く思考回路がうまく作動せずに固まった。

だがやがて我に返ると、記憶を思い起こす。



同じ、同じじゃない。


少なからず、自分は救われた。

この、憎たらしくて、本大好きで、金の亡者で、ダラけすぎなこの上司に。

救われたのだと。

そんなことを言える日は、地球が滅んでも多分あり得ない。


けれど、気に食わないけど、俺は救われてしまったのだ。


榊は、いつもの悪い笑みを浮かべた。榊の視線の先にいる青年が、複雑な心情に表情を歪めるのを悠々と眺めながら。

いつにもまして、えらそうだった。



樋口(ひぐち)さんなら、ずっと前に辞めましたけど」

樋口とは、タマの苗字―――つまり母親の苗字のことだ。

女性社員の視線がちらちらと青年に注がれる中、青年は他のことを考えていた。


タマは、青年と手を繋いでいる。

小さな手が、震えた気がした。青年は、微かにタマが動揺したことに気付いた。


おかしい。

仕事の履歴はこの会社で終わりだ。

タマの母親は出て行った後も、仕事を転々としていた。

暫く苦労していたようだ。

一番短い期間で一カ月、しょっちゅう仕事場を変えるのはとても大変な筈。

そして、母親がしていた仕事を辿り、聞き込みをして約二週間。


タマは母親が見つかるまで、青年が預かることになった。

子供を野放しにしておくわけにはいかない、さすがに心が痛む。

二週間聞き込みをして、し尽くした。


母親の仕事の履歴は、現在の場所で最後だった。

ここをやめてから、記録がないと言うことだ。

つまり、彼女はもう仕事をしていない。


無理だ。

貯金はある程度あると推定しても、仕事を転々としていた―――し過ぎていたくらいだ。切羽詰まっていたのは目に見える。

そのくらい仕事を求めていたと言うことは、一人分の生活費だって儘ならなかったと考えれば妥当だろう。

だが、仕事はもうしていない。


お金もない、と考えれば―――行きつく先は。



「――――どう言うことだ」

「だから、さっきから言ってるだろ。タマの母親は死んでいる」

「…冗談だろ」

花菱(はなびし)に調べさせた。あいつの情報は、確かだ」

榊は無表情のまま大きく欠伸をし、寝癖で酷く滑稽な髪を掻き乱した。


花菱というのは、自殺屋専属の情報屋の男だ。

自殺屋は基本、自殺を考える人間を客とするため、それら(榊曰く金ヅル)を探す情報屋を頼りにしている。


榊は、花菱という男を信用していた。

長い付き合いなのか、それとも営業上の信用なのか。

詳しいことはわからないが、一つだけわかっていた。


青年は舌打ちをした。

榊は、出会ってから一回も嘘をついたことはない。


つまり、つまりは―――そういうことなのだ。


「母親は、とっくに死んでいた。お前が調べた会社、履歴がそこで止まってたろ。あれから数日後、彼女は俺のとこに依頼に来ていた」

「何だと!?」

「俺は全く覚えてないがな、自殺屋の名簿には彼女の名前があった。だから、確かだろう」


青年は、項垂れた。

やるせない気持ちと、罪悪感が広がった。

タマを、書斎(ここ)に連れてこなかったのは正解だった。

タマは今、青年を待つために接待部屋で社員と遊んでいる。


まだ、小学校にも入学していない子供なのに。

なんでこんな惨い現実は、お構いなしに突き付けるのか。


「くそ!!」

青年は、近くにあった壁に思い切り拳を叩きつけた。

破壊音が響いたかと思うと、じぃん、と手に痛みが走った。


「どんなに足掻いても、事実は変えられん」

榊は、ぼそりと呟いた。

当たり前のように聞こえる言葉が、何故だが遠く感じた。

絶対嘘だ、と足掻く自分がいるのだ。悔しい、悔しくて―――こんな事実を突き付けられたときのタマは、どんなに崩れ去ってしまうのだろう。

人一倍我慢強く、人一倍脆いタマのことだ。

塞ぎこんで、何に対しても訊く耳を持たなくなる筈だ。


「どうする。俺があのガキに言っとくか?」

「いい、俺が言う」

榊は微かだが、気を遣っているようだった。

いつもは傍若無人な榊だから、その姿が珍しくて面白かった。

でも、何故か笑う気が起きなかったのは、きっと―――


青年は眉を潜め、ゆっくりと首を横に振った。



自殺屋を後にした二人は、無言で歩いていた。

重い足取りで歩く青年に何かを悟ったのか、タマは俯きながら青年に手を引かれていた。

暫く、二人の足音だけが響いていた。


「あのね」

不意にタマが口を開いた。


「まいごなのは、おかあさんのほうなの」

「え?」

意味のわからない言葉に、青年は首を傾げ訊き返す。

「ぼくは、まってるの」

「何を…?」

「おかあさん、きっとかえってくるから。おかあさん、つらいおもいしてたから」

「…なぁ、タマ」

聞いてられずに口をはさむ青年に、耳を貸さない。タマは喋り続ける。


「おかあさん、ずっとずっとおかねをかせいで」

「なぁ」

「だから、きっとかえってくるの」


「―――タマ!!」

青年の叫び声が、周辺に響いた。

タマは、察していた。

だから、聞く耳を持たなかった。

青年は、タマの母親を全力で恨みたくなった。


子供は、大人が思っているよりもずっと聡くて、ずっと賢いのだ。

タマにしてみたら、母親が自殺したなんてことは親の勝手な都合だ。

勝手な都合で、まだ独りで生きていける歳ではないタマが、そんな現実の中に立たされてしまった。

これ以上、同じ大人として腹立たしいことはない。


そして、タマの父親が死んでしまった今、母親がとっくに死んでいたことを信じられるなんて子供はそうそういないのだ。


タマの表情が歪んだ。

痛くて、苦しくて、その表情が青年に「その先は言わないで」と言っているようだった。だが、青年はその願いを聞き入れなかった。聞き入れられなかった。


「タマ、あのな」

青年は重々しい口を開いた。タマが小さく肩を震わせる。



「お前の母親は、死んだよ」


「やだ…ききたくない…」

「お前の母親は、ずっとずっと前に死んでいた」

「やだ…」

「この世界には、もういないんだよ」


なんて、冷たいんだろう。

この世界も、神様も。

不条理に降り注ぐ冷やかな現実が、タマをずっと苦しめている。

今も、この先も、ずっとずっと苦しめるだろう。


タマはまだ幼い。

時が経てば、心の傷は癒えるのだろうか。

それとも、ずっとずっと悲しみを背負って生きていくのだろうか。


大きくなれば、自殺の意味もいずれわかる。

今は〝会えない〟と言う事だけ理解しているが、自殺をしたと知ったらもっと辛くなる。

そんな中で、タマは母親を許して生きるのだろうか。


「うそ。だって、かえってくるんだもん」

タマは首を横に振る。思い切り、酔うんじゃないかって思うくらい。

タマの根拠のない否定は、青年の胸を痛めた。

ああ、やっぱり信じてる。母親は、絶対帰ってくるんだって。


「かえって、くるんだもん」

タマは歯を食いしばった。そのまま俯き、肩を震わせる。


「――――泣けばいい」

無意識に口を開いていた。

タマはパッと顔を上げる。青年を見つめ、大きな瞳を丸くさせていた。


「お前はいつまで、泣かずにいるつもりだ?」

「ないたら、わるいこなの。おとうさんが、おとこはないちゃだめって」

どこまでこの子供は両親を信じるのだろう。

今更、父親や母親が全て悪いとは言わない。

二人とも、タマをここまで苦しめるためにそんなことを言ったわけじゃないだろうから。

本当は、冗談めかしに言ったんだろうから。

他愛ない話の中で、タマが偶然覚えていただけ。


「じゃあ、教えてやるよ」

青年はタマと向き合った。

しゃがんで、タマと同じ目線にする。

タマは歯を食いしばりながら、青年と目を合わせた。

真っ直ぐな、汚れのない瞳。


「子供はな、泣くのが当たり前なんだ」

「…」

「辛い時も、悲しい時も、子供は泣いていい。大人になっちまえば、嫌でも泣けなくなるんだ。いろんなモノが麻痺しちまって、素直に泣くことだってできねぇ。だから、子供の内に思いっきり泣いておけ」


俺みたいに、手遅れになる前に。

俺は、素直になれず、泣けずに辛い想いをした。


お前には。

汚れを知らないお前みたいなガキはまだ。

〝我慢〟なんて知らなくていい。


青年は、ぽん、とタマの頭に手を置いた。

「な、タマ」

その一言がタマに届いた瞬間、タマは今までの抑えが全て崩れ去ってしまったように、大粒の涙が溢れた。タマは、まだ丸い曲線を描く頬に涙を伝わせ、泣いた。


やっと年相応の反応だった。

こいつは、ずっとこうやって溜めていたのかもしれない。

母親が死んでいないと信じていた頃、母親がいきなり夜逃げしたと知って、母親と会えないと知ったときも。

父親が死んで、その状況を理解した時も。


ずっとずっと、溜めていた。

タマはずっとずっと、大声で泣いた。



その後、タマは泣き疲れて寝てしまった。

青年は仕方なくタマを抱え、自殺屋の建物へと向かった。

すやすやと自分の懐で眠るタマは、正真正銘のガキだった。だらりと手足を垂らすタマを抱えていると、どうにも捨て猫を拾った気分だ。


青年はため息をつくと、苦笑した。


護りたい。

死のうと思っていた自分と、護りたいと思う自分。

どっちも同じ自分なのに、何故か心が違う。

榊に出会い、タマに出会ったことで、何かが変わったのだろうか。


「おう、帰ったか」

榊は本を読みながら、偉そうな態度で二人を迎えた。

榊の態度に少しばかり文句を言いそうになったが、グッと堪える。

榊は、タマの顔を見る。

「伝えたんだな」

青年は頷くと、近くにあったソファーにタマを寝かた。そして、羽織っていた上着を小さなタマの体に被せる。

タマの顔には涙の跡と、鼻水の跡があった。目も腫れていて、紅くなっている。


小さな、ガキ。

同じ、捨てられた同士。


でも、俺は拾われた。

拾われて、救われた。だから、今ここに俺はいるんだ。


でも、この小さなガキはまだ。

だったら。

だったら?


俺が――――


「榊、事は相談なんだが」

「いいぜ」

「おいこら、まだ話してねぇ」

「大体わかる、お前の言いたいことなんて。どうせ、そのガキを引き取りたいとか言うんだろ?」

「お前、なんでわかんの?逆に気持ち悪いわ」

青年は顔を引きつらせると、息をついた。


「引き取って、両親を忘れさせてやりてぇ」

「忘れちゃだめだろうが」

「忘れるくらい、幸せにしてやりてぇって言ってんだ」

「お前それ、タラシ文句みたいだな」

「黙れ」

せっかく真面目に言ってんのによ、と青年は舌打ちをする。

榊はそれを見て、鼻で笑った。


「いいんじゃねェの?ま、生活費はお前が働けばいいことだし、そのガキも結構いい素材らしいし、会社が繁盛すれば一石三鳥だもんな」

「お前、言ってることが人でなし」

「ま、頑張れば」

ひらりと手を振ると、榊は書斎に戻っていく。

「素直じゃねぇのな」

青年は呟き、苦笑した。

その言葉に反応したのか、それとも忘れていたのをふと思い出したのか。

榊はぴたっと足を止めると、口を開いた。

「そう言えば、そいつの名前。〝タマ〟じゃねェらしいぞ」

「は?」

「タマは家族内での愛称、母方の実家で飼ってた猫とそのガキが似てるから、親しみも込めて〝タマ〟って呼んでたらしい」

「へえ」

「そのガキの名前は〝トキワ〟だ。年齢は六歳」

「―――あ?ちょっと待てよ」

お前、それ調べたのか。そう訊こうとした。

だって榊は他人には基本干渉しないし、感情移入はしないし、人間としてどうかと思う部分は溢れるほどある。他人に興味を持つことなんて滅多にないのに。


花菱を使って?

人一倍面倒くさいことが嫌いなお前が?


そこまで考えて噴き出した。

可笑しすぎるな。

いい年こいて、大の大人二人が―――こんなガキに振り回されるなんて。

まったく、笑っちまうよな。


榊は、軽く舌打ちをした。

もしかしたら、照れ隠しなのかもしれない。


そのまま書斎に再び足を向けると、馬鹿にしたように言った。




「ま、精々頑張れよ。鳴海(なるみ)

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