悪友
自分の顔を切り刻んでやりたかった。
でも実行はしなかった、痛いのは嫌いだから。
それでもやっぱ腹が立つのは本当だから、俺自身の顔がそのまま映ってしまう罪のない鏡をぶっ壊した。
顔や姿が映るもの全てを破壊しまくったから、いつしか俺の部屋には自分の姿が映る物がなくなっていた。
自分の顔が憎いのにはワケがある。
俺は破壊をただ楽しむだけの破壊者じゃないから、理由もなく破壊なんてしない。
この顔は父や母を思い出させたのだ。
両親の面影がある顔を"憎い"とは何事だと言われるが、憎いんだから仕方がないだろう。そうでも思わなきゃ、抑えようのないこの感情はどうしたらいいんだろう。
赤黒くて熱くてドロドロとした、抑えようのないこの感情。
両親はいない。
死んだわけじゃない、逃げたんだ。
多大な借金を抱え、払えきれなくなった両親は借金を全て俺に任せて逃げた。
勝手に作った借金(大方、ギャンブルに手つけたんだろうな)をなすり付けられるという酷過ぎるとばっちりを受けた俺は、もう怒りしか浮かばない。
理不尽すぎるこの人生に、俺は終止符を打ちたかった。
でも、死ぬに死に切れなかった。
この世に未練はないはずなのに、一歩が踏み出せずにいた。
どこかのビルの屋上に行って飛び降り自殺をしようとしても、怖くて飛び降りることができない。
さっきも言ったが、俺は痛いのが苦手なんだよ。
飛び降りたとき、地面に当たる瞬間を想像したら、足は一向に動かない。
弱虫!!と自分に言い聞かせるが、生憎自分は弱虫だった。
情けねぇ、と俺は頭を垂れてため息をついた。
そのあともいろいろ試したが、だめだ。
苦しかったり、痛かったり。この世から逃げるには、苦しい方法しかないのか。
それでもやっぱり死にたくて、飛び降りることにした。
顔面から落ちればこの顔も潰れるし、痛みなんて一瞬のことだろうからな、と自分を割り切ったのだ。
自殺を決心し、その数日後、実行に移した。
ビルの屋上のフェンスの向こう側に立った。
一歩踏み出せば、死ぬ。
嬉しい気もするし、悲しい気もする。
俺は息をつくと、片足を出した。
「ばっかじゃねェの?」
まるで嘲笑うかのように、そう吐き捨てる青年の声。低くて声帯がしっかりした、大人の男の声だ。
俺は、踏み出しかけた片足を元の場所に戻し、即座に声の方向を向いた。
「なんだと!?喧嘩売ってんのか、コラ!!」
どこのどいつだ、俺の一大決心に水を差す奴は。
苛立ちが勝り、喧嘩腰に叫んだ。
ああ、また死にそびれた。
せっかく今回は腹くくったのに。そう思って舌打ちをする。
俺、昔は素直で可愛い子だったのに、いつの間にこんなに捻くれたんだよ。
心の中で自問自答してみる。
それもこれも全部両親が逃げたせいだ。
あんたらの身勝手な行動のせいで、俺はこんな不良みたいな性格になっちまったんだ。
謝ってほしい。
俺に向かって声をかけた青年は、コンクリートの床に座って本を読んでいた。
もちろん青年は安全なところにいて、悠々と本のページを捲っている。
歳は―――俺と同じくらいか。
青年は本を閉じると「馬鹿だよ、お前」と鼻で笑った。
俺は無性に腹が立ち、理性が吹っ飛んだ。
無意識にフェンスを乗り越えて、青年に飛びかかった。青年は至って冷静に俺の攻撃を軽く避けると、ため息をついた。
「なんで死のうとするのか、俺には理解不能。どうせ人間なんて未来は死しかねェのに」
「は?」
「寿命はあるし、病死もあるし、階段で滑って死ぬかもしれねェし」
「…」
「死んだって楽になるとは限らねェのにな」
なんか、妙に納得すること言いやがる、こいつ。
俺は青年の落ち着いた声に、先程よりは冷静になった。
しかし、青年の嫌味や物言いに苛立ちを感じ、唸るように言い返した。
「生きてると、いろいろ厄介だからだよ」
「何が」
青年は、訊く割に興味のなさそうな顔を浮かべている。
この野郎、ぶっとばしてやろうか。
舌打ちをしながらも、俺は答える。
「結構な借金があってな。俺の両親は俺に借金なすり付けて夜逃げ。借金取りに追いかけられて、仕事なんてできねぇし」
「なるほど、それは厄介だな」
青年は頷いた。
しかし、妙だ。
それっきり、俺が自殺しようとしていたことに関して触れてこない。
「何だ、お前。自殺を止めようとしてんじゃねぇの?」
「別に、死ぬなら死ねば?俺はただ単に、自殺願望者の動機を知りたかっただけだし」
まったくもって、冷めてやがる。
俺の視線に気づいたのか、青年は大して気にも留めていない表情のまま、一言。
「生まれつきだから」
そうして、青年は再び本を開き、黙々と読み始めた。
こいつ、人間としてどうなんだ。
人が目の前で死のうとして、止めるのが普通だろう。
別に止めてほしいわけじゃないが、なんか悔しくなった。
ちくしょう。普通なら、止めるだろ。普通なら、さ。
「ああ、普通じゃねぇのか」
「失礼だろ」
青年が、間髪入れずに口を挟んだ。
あれ、俺声に出てた?
それともお前、俺の思ってることがわかるのか?
…何にしても、不思議な奴だ。
「お前、名前は?」
「今から死ぬ奴なんかに名乗りたくないね」
なんだ、こいつ。
人をいちいち、苛々させる。
挑発の天才だ。
俺はわざとらしく、派手に舌打ちをする。
「そうかい、じゃあいいよ。じゃあ、なんでこんなところで本読んでんだ?」
「お前さ、死ぬんじゃねェの?」
青年が、呆れた声で言った。
「もうちょっと引き延ばし」
「…あっそ」
付き合ってられない。そう言っているような青年の表情に、俺は笑った。
してやったり。
密かにガッツポーズをして、青年の隣にストンと座った。
青年は一度横目で俺の顔を見つめたが、何を言っても無駄だと思ったのか、もう何も文句を言わない。視線を本に移し、文字を目で追う。
そして不意に、信じがたい真実を口にすた。
「このビル、俺の。俺、この会社の社長」
「…」
俺は、首を傾げた。
ビル?ビルって、この建物のことか?
この捻くれた本の虫が、このビルの、なんだって?
しゃ、ちょう…?
「はぁ!?」
俺は、息を呑んだ。
確かに―――適当なビルに入って、関係者以外立ち入り禁止のところを遠慮なしに入って、屋上が開いていたことに喜んで、ここで死のうとした。
そんな俺は、完全に常識外れだけども。
「だから…俺、ここの社長」
「嘘つけ」
こんな奴が、社長。
いや、それよりも。
社長がビルの屋上でサボってる挙句、本を読んで寛いでいるってどうよ。
「本当だよ。まぁ、会社っつっても小さな会社だし。表向きでは建築の仕事やってるけど、裏は違うってな」
「なんだ、それ」
裏、という言葉。
フィクションによくある秘密結社だの、裏社会の人間だの、そういう類の言葉か。
それとも、裏路地にある会社って意味か。
そこまで考えて、苦笑した。
裏路地、なわけないか。
文脈で判断しても、状況で判断しても、裏路地の可能性はないだろう。
少し気になって、「裏って?」と訊いてみる。
どうせ教えてくれないだろうな、と思いつつ、ダメもとで。
すると、青年は俺の予想とは裏腹に、一言。
「自殺屋」
軽く、まるで挨拶をしているようにあっさりと。
何の躊躇いもなく。
訊かなければよかったかもしれない、瞬時にそう直感した。
「え、自殺って…自殺…?」
「他に何があるんだよ」
「それ、なんなの」
青年は、俺の質問には答えなかった。答えの代わりに、新たな質問が返ってきた。
「お前さ、向こう側の世界は何があると思う?」
「…向こう側?」
「地獄」
「…お前、普通は死んだ後の世界は〝天国〟って言うだろ?なんで〝地獄〟なんだよ」
「ガッカリ、したくねェから」
青年は、ボソリと呟いた。
「もし天国だと思って死んでみたら、そこが地獄なんて…ガッカリだろ?」
「お前案外単純なんだな」
俺は、鼻で笑った。
その瞬間、頭に衝撃が走った。鈍い音がして、俺の視界がブレる。
どうやら、殴られたようだ。
「ってぇな!!」
「黙れ、早く死ね」
青年は苛立ちを浮かべたまま、そう吐き捨てる。
俺は青年の隣で殴られた頭を摩りながら、ぼんやりと天を仰いだ。
「あのさ」
「あん?」
こいつ、本当にガラ悪いな。
心の中で苦笑しながら、俺は青年の方を見ずに続けた。
「俺がもし、生きる選択をしたら―――どうすりゃいいと思う?」
「生きたらいいだろ」
即答だった。
あれ、なんか。
屋上から落ちようとしていたときと、景色が違う。
ちかちか、きらきら。
眩しいような、温かいような。
「…ちっげぇよ!!生きたって、借金があるだろ!?でも、払えねぇからよ」
「ふぅん」
俺の怒鳴り声を、軽く避けるように本に視線を落とした青年。ページをぱらっとめくる青年に、俺は「聞かなきゃよかった」と悪態づく。
青年は、相変わらず俺に興味なさげだ。
馬鹿らしくなって、ごろんとコンクリートの床に大の字で寝転がった。
あれ。
俺、なんだかんだ、まだ生きてる。
なんだかんだ、こいつに引き止められたんだ。
そんなことをぼんやりと思っていると、不意に隣で青年が口を開いた。
「俺んとこで働けば?」
「は?」
「もちろん、裏の方で」
裏、と言うことは"自殺屋"で、ということなのだろう。
得体の知れないところで働くことには抵抗があった。
だが、何故か、確信した。
こいつは、多分、きっと、絶対、信用できる。
「裏の世界を知ってる奴っていなくてな。表から引きずり込もうとすると、厄介なんだ。どうせ、死ぬ命なんだろ?それに俺も"裏の仕事"のこともうっかり言っちまったし。俺んとこで働けよ」
自殺屋のことを喋ったのは〝うっかり〟なのか。
てっきり、故意に言ったのかと思った。
俺は暫く考え、働いてもいいかなと思った。
しかし、素直に口には出さない。
なんか、屈したようで悔しい。
「死ぬ命ってなぁ…人間はどうせ死ぬ、だろ?」
「いちいち細けェこと言うな」
青年は口を尖らせ「どうすんだ?」と言う。
勧誘にしては確信めいた青年の言葉に、俺は苦笑しながら頷いた。
青年は、本に視線を留めながらニヤリと笑った。
「んじゃ、借金は俺が払っとくわ」
「は?」
青年の思いがけない言葉に、素っ頓狂な声が漏れた。
嘘だろ。
俺の借金は、"払っとくわ"と簡単に払える金額ではない。
会って十数分の人間に、簡単に渡す金額ではない。
だが、こいつは本気のようだった。
ああ、もしかして。
厄介な奴に捕まったかな。
少しだけ後悔するが、本当はもう死んでるんだからいいか、と考え直した。
残りの人生、こいつに託してやろうじゃねぇか。
「あとで契約書渡す」
「え」
「自殺屋をやる上での〝条件〟ってのがあってな、それも覚えてもらう」
そうと決まればとでもいうように、青年はつらつらと言葉を並べた。
よく本を読みながら、いろいろ言えるもんだな。
青年の器用さに、感心する。
すると、青年の瞳は、初めて真っ直ぐ俺を捉えた。
「俺は榊。一応お前の上司になるんだから、敬語使え」
「嫌だ、絶対嫌だわ」
青年―――榊の言葉に、俺は全力で首を振った。
まず出会いからして最悪だった俺にとって、目の前の憎たらしい人間が上司になるなんて耐えられないことだ。
俺は榊を一瞥すると、思い切り顔を背ける。
「上等じゃねェか」
榊はそう言って不敵に笑う。
「お前の名前は?」
俺は、誇らしげだった。
馬鹿みたいに、ガキのような表情で。
まるで、小学生の自己紹介のように。
そんな自己紹介、一番早く馬鹿にしそうな榊だったが、意外にも黙って俺の言葉を待っていた。
ああ、こいつ不思議だな。
「俺の名前は――――」
出会った瞬間と同じことを思った。
*
「ナル!!」
「ぐぇッ」
腹部辺りに激しい衝撃が走り、ずし、と重くなった。
何事かと、眠気があって回らない脳を必死に働かせて現状を把握する。
重さの正体は、常盤だった。
「遊ぼ!!」
常盤は、俺の上に乗って可愛らしい笑みを浮かべる。
俺はだらしなく肌蹴てしまった服を直し、目をこする。
―――――懐かしい夢だったな。
ぼんやりと思いながら、ベッドから降りた。
常盤は相変わらず俺の体にひっついたままで、右の方だけ重い。
「ナル、起きたんだ」
「起きた」
「ナルって寝起き悪いんだね」
「ああ、お前にだけは言われたくねぇ。年がら年中睡眠とろうとするお前にはね」
潤も、俺の部屋の中に遠慮なしに入ってきた。
お前らには、常識がないのか。
「なんか、清々しい顔してるね」
潤が相変わらず眠そうな顔でそう言うと、常盤も「うんうん」と賛同した。
「そうか?」
「そうだよぉ、前にお姉さんが来たときは"どよーん"としてて、気持ち悪かった」
常盤の無垢な笑みに、俺は肩を落とした。
気持ち悪いってお前。
「常盤、酷いよ。本当のこと言っちゃだめ」
「常盤は小悪魔で、お前は鬼だ」
「じゃあナルはカバね」
「今の繋がりでどうしてカバ!?」
「なんとなく」
潤は無表情のまま、淡々と言葉を紡いだ。
そして、いつもの鈍い動きの割に、軽やかな足取りで部屋の出口に向かった。
「そういえば、ナルが寝てるとき榊さんから電話あったよ」
「榊からだと!?」
「話したいことがあるんだって、明日こっち来いってさ」
「…」
俺は黙った。
潤が両手を広げると、常盤は潤に飛びついた。
微かに笑顔を浮かべた潤は、常盤と一緒に部屋を出た。
俺はまだ少し寝ぼけた顔で、眉を顰める。
「夢といい、電話といい。俺、榊に呪われてんのかな」
榊の話で、俺たち三人が随分と振り回されてしまうのは――――また次の話となる。