リセット
昔、どうしても詳しく思い出せない記憶がある。
とてつもなく短い間しか話してないのに、何故かとても親しい関係に思えて、俺にとって彼らは夢の中の存在になっていた。それくらい、薄らしか覚えていない。
これは、そのときの彼らとの出会いの話。
*
小さな小さな公園の中のブランコに、ぼうっと腰を下ろして空を見る。
最近、この世の中は〝ゲーム〟の中なのではないか、と思ってしまう。
プレイヤーは、この世界を創った張本人。
あるいは、いるかいないかもあやふやな神様。
俺たち人間は、ノンプレイヤー。つまり、世界を成り立たせるためだけの存在。
くだらない。くだらないが、最近はそんなことしか考えられない。
仕事もなく、生活もギリギリのこの状況。こんなくだらないことでも考えないと、〝ダメ〟になってしまうのだ。崩れてしまう、俺がどんどん俺を失っていくようで嫌だった。
勝手にゲームの中の住人にさせられて、生かされて、いい加減この世界が飽きてしまったものだ。
最初は楽しかった。
世界が広がっていくことに喜びを感じていた。
身長が高くなれば、視界が変わることにもとても興味を持っていた。何もかもが目新しく、目に映るもの全てに面白さを感じた。
それでも、次第にあることを感じるようになる。
そう、自分は周りとどこか違うのだ、ということを。
そして、飽きてしまった。
こんなことを思うようになったのは、二十歳が過ぎてから。今から十年程前だ。
勉強、勉強と追いやられ、周囲の期待が重すぎて耐えられなくなり挫折。それまではそこそこ優秀な成績だったのに、一気に堕落してしまった。大学をやめ、無職となってからは、持っていた貯金とバイトの稼ぎで生活をする。頼れるはずの両親は二人とも他界していた。
落ちるとこまで落ちてしまえば、見えてくるのは絶望と虚無感。
そして、それを長い間味わっていくうちに、ふと思うようになる。
〝死んでみようか〟
死んだらゲームみたいに、どこか違う世界にリセットされるのだろうか。
それとも"存在"がなくなって、俺とは別のここの"住人"たちにさっぱり忘れ去られるのだろうか。
否、もともと自分は印象の濃い奴じゃない。
だから、今覚えている奴だっていないだろう。
もう三十路だってのに、無職なんて情けない話だ。
だけど、両親がいない今、無職の今、こんなにオッサンなのに妻がいない今、俺がいなくなってしまったところで、涙を流す人はもう見当たらない。
こんなことを、毎日考えている。
「いっそ、このゲームが終わってくれたらな」
俺は独りでに呟き、ため息をついた。
ため息だって、何回ついたことか。
「こんにちは」
「こッ…んにちは?」
不意に声をかけられ、反射的に顔を上げて挨拶を返す。
ああ、人と話すこともいつ振りだろう。
「初めまして」
そう言って俺に笑いかけるのは、無駄に輝いた男だった。モデルか何かをやっていそうな、俺とはまるで人間の質が違うような、そんな男。
ただ、歳はそう離れていないようだ。
「初め、まして」
男が差し伸べた手を握ると、しどろもどろになりながら言葉を紡いだ。男は満足そうな顔をすると、俺の隣のブランコに腰を下ろした。
「一人ですか?」
「ええ、まあ」
俺は口籠りながら答える。今の言葉は、今の俺には相当胸に突き刺さった。
「ナル、肉まん買ってきた」
男に親しげに話しかける少女は、一見十五歳前後だろうか。身長は低いが、行動や言動、仕草が大人びて見える。少女の隣には、更に幼い少年が立っていた。
少女の手にはスーパーの袋があった。
ナル、と呼ばれた男は「おお、早かったな」と表情を明るくする。そして、いそいそと袋に手を突っ込み、この寒い時期にピッタリなホクホクの肉まんを手に取った。いい匂いが漂い、腹が大きく鳴る。
そう言えば、昼がまだだった。
男はその様子を見て笑うと、肉まんを半分に千切って俺に差し出した。
「いいですよ、半分あげます」
「え」
「遠慮せずに、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ずいずいと俺の方に半分の肉まんを押しつける男を見て、断ることもできず、諦めて手に取った。否、半分は肉まんのいい匂いに誘われてしまったわけだが。
俺が肉まんを齧ると、ふわっと湯気が漂った。
口元が、肉まんの熱で温かくなる。
おいしい。
「ねぇねぇナル、遊びたい。ナルも一緒に遊ぼう!!」
屈託のない笑顔で男の袖を引っ張る、幼い男の子。男は表情を一転させ、あからさまに曇らせる。げっそりとした表情、そんなに遊ぶのが嫌なのか。
「勘弁して。俺、イケメンだから、お前と遊ぶと醜くなるから」
男の言葉に、傍らにいた少女が鼻で笑う。
「安心しな、お前はもともと残念なイケメンだ」
「おま…潤、俺のどこに残念な要素があるんだ!!」
「全部」
即答、男は肩を落とす。
潤というのが、少女の名前らしい。
男は力ない声で、小さな男の子に顔を向ける。
「常盤…お前はそんなこと、言わないよな?」
「大丈夫だよ、ナル。ナルはもともと残念だから」
少年の方は常盤というらしい。
常盤はふわっと可愛らしい無垢な満面の笑みで、あっさりと男を絶望のどん底に突き落とした。男は更にショックを受け、項垂れた。
確かに、残念そうな要素はある。と、失礼ながら、心の中で子供たちの言葉に頷いた。
「ナルなんかおいといて。潤姉、遊ぼ!!」
「ええ、めんどくさい…」
常盤は無邪気に笑うと、潤の手を引っ張って滑り台の方に走っていった。男は二人の背中を眺め、「まったく」とため息をついた。ブランコを少しだけ揺らしながら、笑みを零す。鎖同士が擦り合う音が、キィ、キィ、と規則正しく響いた。
「あ、俺は鳴海といいます。自己紹介が遅れてすみませんね」
鳴海、と名乗った男は、苦笑しながら肉まんを頬張る。俺は戸惑いながらも、「俺は、尚吾と言います」と名乗った。
俺は、微かに苦笑を零す。なんだ、この和んだ空気。
「あの引っ張られた女の子は潤って言いまして、口癖が"めんどくさい"なんですよ。何に対しても、無気力でしてね。それで、元気な男の子は常盤。天然でふわふわした天使みたいな顔してますけど、実は結構腹黒いんですよ。十二歳だってのに、性格悪いんです」
訊いてもないことを喋り出した鳴海は、幸せそうに笑った。
本当に、仲が良いようだ。
でも、奥さんが見当たらない。
一緒じゃないのか?
「…」
訊こうか訊くまいか、迷ってしまう。
もし、この男の傷に触れてしまったら。
鳴海は俺の表情を見て、鋭く察したようだ。
「ああ、俺独身ですよ。あいつらは、まぁ…預かってるんです」
意外だな、と思った。
女性にはモテそうなのに、結婚していないのか。綺麗な顔をした鳴海が結婚していないと聞くと、少しだけ自分にも自信が持てた。
預かってるって言うと、親戚か何かに押し付けられたみたいなことか。でも無理矢理にしては、二人にはちゃんと愛情があるようで、二人も鳴海に懐いている。
事情があるようなので、深く触れるのはやめた。
「あの、お尋ねしたいんですけど」
「なんでしょう?」
鳴海から不意に声がかかった。
「さっき、言ってた…ゲームがどうとかって、どういう意味ですか?」
先ほど自分が〝いっそ、このゲームが終わってくれたらな〟と言っていたことを思い出した。
「ああ、あれですか。いや、初対面の人に話すような楽しい話じゃないですよ」
「結構ですよ。暇なんで、話してみてください」
「いや、でも」
「俺、相談のような仕事をしていて…お役に立ちたいんです」
「はぁ…」
カウンセリングのような仕事の類だろうか。
それにしても、何故あの言葉だけで俺が悩んでいることがわかったのだろうか。まるで、全てを見透かされているようで、少しだけ居心地の悪さを感じた。
だが、物は試し…話してみよう。
「あの、笑わないでほしいんですけど」
「はい」
「俺、昔はヒーローになりたかったんです」
「はい」
少しボケたつもりが、真面目な顔で返されて恥ずかしくなる。
なるほど、こんなこと言うのは当たり前だってか?と、少しだけ意地になる。まぁ、この話は本当のことなんだけど。
「昔はいろいろ楽しかったんですよ。よくあるでしょう?できないことができるようになったり、行けないところが行けるようになったり。ゲームでいう、レベルアップみたいなモノです。でも、人間には限界がありましてね。行きつくとこまで行ってしまえば、もうあとは下がっていく一方で…つまらなくなってしまって」
「…」
「そのうち思ったんです。この人生を、リセットしてしまったらどうかって。必ずしもリセット=(イコール)死とは限りませんが、リセットの一番の近道は死ぬことなんじゃないかって」
馬鹿らしいとは思っていた。
初対面の人に、語るようにして喋るこの口は、閉じることを知らないのだろうか。いきなり〝死ぬ〟とか言われて、動揺しない方がおかしいだろう。と思って鳴海を見る――――が、鳴海は至って冷静に、真っ直ぐ俺を見つめていた。
「自殺防止ってありますけど、その人の〝幸せ〟って結局その人が決めるモノで、周りが干渉していいわけではないと思うんです。だから、俺も…まだ見ない新たな世界―――天国って言うのかな?それを、見てみたくってね」
鳴海は、微笑んだ。
この状況で微笑むとは、どういう神経の持ち主なのだろうか。
でも、どこか普通の人とは違う反応だ。
「要は、ゲームの中から抜け出してみたいんですよ」
「そうなんですか」
鳴海が何回か頷くと、俺は弱々しい笑みを鳴海に向けた。
「俺には何もないし、死んでみようかなって思ってたんです」
鳴海は「ふむ」と考え込むと、ゆっくりと口を開いた。
「――――俺、昔は結構荒れてまして」
「はぁ?」
鳴海が急に語り出し、素っ頓狂な声を出してしまった。俺は、咄嗟に口を手で押さえた。さすがに、失礼な反応だったか。けれど、鳴海は微笑んだだけで、大して気にも留めずに話を続けた。
「人間不信になって、何回思ったか思い出せない程、死のうと思いました」
「…?」
いつの間にかカウンセリングされている筈が、する側になってしまっていた。
複雑な気分になる。
俺は気の抜けた返事を繰り返しながら、鳴海の話に耳を傾けた。
「そのときに、どうしようもないときに――――泥沼みたいな、深くて何やっても抜け出せない、真っ暗な場所から引っ張り出してくれたのが、潤と常盤でした」
「はぁ」
「いつの間にか、〝特別〟になってたんですよね。護りてぇなって思うようになって、あいつらナシじゃ、人生つまんなくなっちまって。ホント情けない話ですけど、あいつらいなかったら、俺、多分ここに今いないんですわ」
「…」
もし。
俺も〝特別〟を持ったら―――この人と同じように、"生きている"表情ができるようになるのかな。今の今まで死のうと思っていた人間の言葉じゃないけど、鳴海が羨ましくなっていたのだ。
大切なモノ、大切なヒト、大切なセカイ。
きっと鳴海の周りは、広いのだろう。
俺よりずっと、ずっと、見える世界が広い。
「だから、あいつらが俺を慕う限り、俺はあいつらを護ろうって決心したんです」
どこか真っ直ぐ向いている鳴海の横顔は、とても――――強かった。
「どうっすか、尚吾さん」
「え?」
「死んだら、〝この世界〟に戻れるかどうかもわかりません。だから、後悔しないように。尚吾さんの言う〝新たな世界〟に行く前に、充分に〝この世界〟を堪能して行ったらどうですか?死ぬな、とは言いません。結局は寿命というモノがありますからね」
鳴海が笑った。
「この世界に絶望できるのは、この世界に希望を持っているからですよ。俺が救われたように、尚吾さんだって見落とした大切なモノがあるかもしれない」
気付けば、俺はまた、カウンセリングされる側に回っていた。
「だから」
鳴海は続けた。
常盤の弾けるような笑い声が聞こえた。
潤の面倒くさそうな声が聞こえた。
鳴海のよく通る声が聞こえた。
俺の耳は、まだ衰えていない。俺の五感は、まだ衰えていない。
捨てたもんじゃないな、と思った。
世界はまだまだ広かった。
やけに太陽の光が眩しく感じた。
ゲームの中だと思っていたこの世界は、とても広かった。
狭かったのは俺の視界で、見ようとしなかったのは俺の意思だったってことだ。
鳴海は笑い、それと同時に俺の意識は遠のいていった。
信憑性がないって言うか、馬鹿らしいって言うか。
この時間全てが、俺が創りだした夢なんじゃないかって思うくらい。
そうして俺は、いつの間にか気を失っていた。
もう、思い出す気力だってない。
それでも、今ここにいるのは鳴海に出会ったから。
鳴海が言った言葉が頭の中に根強く残るから、まだ頑張ってみようって思うようになる。
相変わらず飽きたこの世界だけど、頑張って生きてみよう。
後悔、しないように。
*
寒い。
今日は朝から冷え込んでいるのに、マフラーを忘れてしまった。寒くて仕方がないから、近くにあった肉まん屋に行って肉まんを買う。
湯気が漂い、千切ればいい匂いがする。
俺はそれを口に頬り込み、近くの壁に寄りかかった。
あれ、なんつったんだっけ。
鳴海が最後に言った言葉。
声が聞こえず、映像だけしか見えない記憶。
確か、なんか言っていた。
思い出せないけど。
「ま、関係ねぇや」
そう言ってみる。
左を見ると、前を横切って通り過ぎる三人組。
一人は可愛らしくて幼い少年。
一人は眠そうな表情を浮かべた少女。
そして一人は―――無駄に輝く、眉目秀麗を人間にしたような男。
三人は悠々と俺の前を通り過ぎ、消えていった。
「あれ、今の」
もしかして、ともう一度その三人組を目で追おうとする。
けれど、そこにはもう誰もいなかった。
補足で、尚吾さんの記憶は消していません。〝自殺屋〟としての仕事ではなく、散歩の途中に尚吾に会ったので。必要ないかな?ってことで。
尚吾さんの記憶が薄れていったのは、時が経ったからです。ただ単に(笑)
だから、最後に会ったときも一瞬のことで気付かなかった、ということです。
ちなみに、鳴海の尚吾への言葉は、みなさんの想像にお任せします。