愛してください
愛してください。
私がここに生まれてきた理由をください。
何故、私はここにいて、呼吸して、立って、生きているんですか?
*
〝自殺屋〟
いかにも怪しげなサイトが引っかかった。自殺屋のサイトは、白い背景に黒い文字というシンプル、を言葉を形にしたようなレイアウトだった。
「ふーん…」
自殺屋には店舗があるらしい。私は場所を確認すると、思わず声を漏らした。
「あれ」
意外と近い場所にある。
自殺屋の店舗は、私の家から徒歩五分ほどで着く、メイド喫茶の奥の部屋だ。そのメイド喫茶には行ったことがあるが、そんな部屋があっただろうか。私は記憶を廻らせたが、覚えがないため首を傾げた。おかしいな、イタズラなのかな。とサイトを見る。
「行って、みようかな」
無ければ無いで良い。それならば独りで死ねばいいんだから。自殺なんてしたことないから(当たり前か)どうすればいいかわからなかったから、できれば自殺屋さんにお手伝い頼めればいいなぁ、と思っただけだった。
少しだけ興味を持ちつつ、例のメイド喫茶に足を向けた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
言われ慣れない。友達に誘われてここに来たことはあったんだけどな、と心の中で苦笑すると「あの…」と一人のメイドさんに声をかける。
「なんでしょう?」
「ここに、〝自殺屋〟ってお店ありますか?」
「ここに、ですか?いえ、ここはメイド喫茶しかありませんよ」
メイドさんは、何を言ってるんだろうと本気で思っているようで、私を訝しげな表情で見つめる。
私は内心焦った。
〝自殺屋〟なんて、通常の人間は求めない。メイドさんの表情の理由は、痛いほど理解できた。「そうですか」と言って曖昧に笑うと、席についた。
どうしよう、私メイドさんに会いに来たわけじゃないのに。と思いながら項垂れていたが、諦めきれずに店内を探すことに決めた。トイレに行く振りをして、探してみようと思った。
―――思ったのに。
何故、トイレの隣にいかにも怪しげな扉があるんだ。扉の上にはインテリアとして、穏やかな光を放つランプが飾ってある。明らかにメイド喫茶には似合わないデザインだ。
だが周りはまるでそんな扉が存在していないかのように、見えないかのように、何の反応も見せない。おかしいのは私だけなのか。
スタッフの扉ではないだろう。スタッフしか入ることができない扉には、立ち入り禁止の立て札があるのだから。私はごくりと生唾を飲み込むと、ゆっくりと扉の中に入った。
「いらっしゃいませ」
おっと、今度は執事喫茶に来てしまったのだろうか。
扉を開けるとそこには―――執事のようにスーツではないが、パーカーにジーパンというラフな格好で畏まっている男の人がいた。
しかし、その人がまた綺麗な顔をしていて、私に微笑んでるときたものだ。
私は、動揺した。と同時に、間違えて他の部屋に入ってしまったのだと思った。慌てて扉のドアノブに手をかけると、綺麗なお兄さんが私の肩に手を置いた。
「おっと、逃がすか」
気のせいか。
お兄さんが綺麗な顔で微笑みながら"逃がすか"って言った気がする。まるで、獲物を追い込んだ獣のよう。獣って言うと、お兄さんの優雅な雰囲気には似合わないが。
「とりあえず、座って」
私は戸惑いながらも、お兄さんの導くままにソファーに座った。よく見たら、とても広い部屋だった。整頓されていて、清潔感のある部屋。
「ん?」
あれ、そういえば家具がおいてある。
なんで、冷蔵庫やらキッチンやら、テレビやらタンスやら―――生活する上で必要な家具が勢ぞろいしているのだろう。
まるで、このお兄さんがここに住んでるみたい。ここはメイド喫茶の奥の部屋なのに。
「ナルー、暇なんだけど」
ガチャっとドアノブが回る音がした。反射的にその方向に視線を向けると、冬だというのに寒そうな格好をしている女の子がそこに立っていた。
童顔で幼顔の女の子だった。
髪は肩にかからないほど短く、寝癖なのか毛先がところどころはねている。
女の子は、薄着をしていた。確かに暖房は利いているし暖かいけど、やっぱり女の子の姿は肌寒く感じる。目元が静かで、幼顔であるもののどこか大人びている。
私は、独特な雰囲気を放つその女の子に目を奪われた。無遠慮に、じいっと見つめていると、一瞬女の子と目が合う。
「ナル、最近お客さん多いね」
「そうだな…この間だって女の子来たもんなぁ―――いやぁ、あの子は素直で可愛かった。潤、お前も見習え」
ナルと呼ばれたお兄さんは、ふうっと息をついた。
一瞬だけ、悲しそうな顔が見えた気がしたけど、気のせいか。
それを見て潤と呼ばれた少女は、呆れたようにため息をついた。見限ったようにくるっと向きを変えると、今来た扉に手をかけた。柔らかな栗色をした潤さんの髪の毛が、ゆらりと靡いた。
「うるさい、ハゲ。あたし、もう一回寝てくる」
「ハゲてねぇ!!」
お兄さんは嘆くように潤さんに向かって叫ぶが、潤さんは完全に無視した。潤さんが扉を閉め、辺りがしんと静まり返る。暫く静かな雰囲気が漂うが、それを断ち切るかのように、お兄さんがこっちを向いて微笑んだ。
「さてと、じゃ自己紹介しようか。俺は鳴海、んでさっきのが潤。ちなみにもう一人、潤より年下の男の子がいて、その子は常盤っていうんだ。会ったらよろしくしてやって」
「え、既婚者?」
「…じゃ、ないよ。俺は独身さ。二人とも事情があって俺が預かってるんだ」
うんざり、というように鳴海さんが顔を引きつらせる。
もしかして、私の他にもそう質問した人がいたのだろうか。
「なるほど」
さっき、潤さんにナルと呼ばれていたが、あれはニックネームだったのか。
本名は鳴海、らしい。
綺麗な顔をして、道を通り過ぎたら女性に思わず振り返してしまうくらい、モテそうな気がしていたのだけど、鳴海さんは意外にも既婚者ではなかった。潤さんは鳴海さんに似ていなかったから、子供だとは到底思えなかったけど。
「私は、寛子といいます」
「寛子ちゃん、ね。寛子ちゃんは随分と、自分に正直なんだね」
「え?」
「潤と俺との関係。初めて会う人は大抵、訊くのを躊躇うんだけど」
「そうでも、ないですよ」
私は笑った。
作り笑いは上手にできているだろうか。口の両端を上げて、目を細める。簡単な動作だけど、察しが良い人は下手な作り笑いじゃ気付いてしまう。
「私は、ずるいんです」
ずるくて、狂ってるんです。と、そう続ける。鳴海さんが一瞬訝しげに私を見つめた。その視線に気付いたが、敢えて反応はしなかった。
「薬とか、ありますか?」
「え?」
「死ぬための薬。苦しくても、なんでもいいです。飛び降りて死んだり、凶器で死んだりするのは、ちょっと嫌だから」
「なんで?」
「だって、血まみれになっちゃうじゃないですか。そういうのは、嫌なんです」
鳴海さんは黙った。
鳴海さんの言いたいことは、わかる。
私は変わり者で、狂っているのだ。ただ血まみれになりたくないというだけで、不安な筈の死を目の前にしても、不安を煽るような〝苦しみ〟には拒絶心をもっていない。そんな客が私以外にいるのだとしたら、会ってみたいものだ。
「あるよ、持ってくるね」
やがて鳴海さんは詮索を諦め、スッと立ち上がる。私は頷き、鳴海さんが部屋から去ったところで、ソファーの背もたれに体重を預けた。
「愛…」
愛してほしかった。
何のために生まれて、何のために生きたんだろう。
確かではない存在理由を探し求め続けるのにも、もう疲れた。だって、見つからない。
両親はいない。
生きているけど、〝いない〟のだ。もう親ではない。
父さんは優しかった。
私を大事にしてくれて、私に笑顔を向けてくれて、三人で家にいる頃はすごく楽しかった。母さんだって、最初はすごく優しかった。
でも大喧嘩を理由に離婚し、母さんが私を引き取った。
まだ小さかったから、詳しくは覚えていない。
でも、そのときから常々感じてきた虚無感。私には、何もなかった。力も、知恵も、本音を言うことができる口も。
無力なのが苦しかった。
子供だから、何もできずにただ母さんを追いかけた。
独りになりたくなくて、生きていたくて、ただただ母さんを信じて生きてきた。
愛してください。
小学校に入学しても、中学校に入学しても、成績を上げても、美術で賞をとっても、朝しっかり起きても、家を掃除しても、料理を作っても――――こっちを見ない。
こっちを、見てくれない。
愛してください。
ただ、ただそれだけでいいから。
私が生きている理由が欲しかった。母さんは私が必要なんだって、私がいなくなれば泣いてくれるって、そんな確信が欲しかった。
そんな理由で決めた自殺だ。
「お待たせ」
鳴海さんが戻ってきた。手には瓶、その中には錠剤。
あれを飲めば、終わり。
全て、終わり。
オワリ。
「寛子ちゃん?」
終わりなんだ。
愛してほしかったのに、死んだら愛してもらえない。
生きていたのに、死んだらもうこんなことさえ思えない。
「…っく、ひっ…ぅ」
歯を食いしばり、顔を腕で精いっぱい覆う。
泣くなんて思わなかった。
自分のことなのに、全然わかってないな、と心の中で苦笑する。
「寛子ちゃん」
あやす様に優しく、大きな手で撫でられた。
複雑でごちゃごちゃな感情が、また溢れ出して、目頭が熱くなってしまう。
やめて、やめてよ。死にたくなくなる。
「愛して、ほしかった」
「うん」
「ただ…ちょっとでいい…」
「うん」
「こっちを見て、欲しかったのにッ…」
「うん」
鳴海さんは私の話に相槌を打ち、私の頭を撫でると立ちあがった。
「大丈夫、俺が愛してあげるから」
鳴海さんの言葉に私は目を丸くし、それから笑った。
「それ、あんまり言わない方がいいですよ。すっごく質悪いんで」
「え」
「天然でタラシとか、本当に質悪いですね」
「鳴海の"ナル"は、"ナルシスト"の"ナル"だしな」
いきなり隣から声が聞こえ、突然のことで激しく肩を震わせてしまった。
そこにはいつの間にか、潤さんが立っていた。その隣には知らない男の子が立っていた。
さっき鳴海さんが言っていた、常盤くんだろうか。
小さくて可愛らしい顔をした常盤くんは、私の顔を見るとふわりと笑った。幼い子独特の、無垢で可愛らしい笑顔。不覚にも鼓動が高鳴った。
「ちょ、いつからいたの!?」
「今」
鳴海さんの驚いた声が、部屋中に響き渡った。潤さんは眠そうな表情のまま、素っ気なく返す。
「あ、れ」
涙が、止まっていた。
なんでだろう。
この三人を見ていると、話していると、隣にいると、心がホッとした。
「――――さぁ、もう答えは出ただろう?」
不意に、鳴海さんが微笑んだ。
「寛子ちゃん。キミはまだ、死にたいと願うかい?」
私は首を横に振った。
あれだけ決心していたはずなのに。
流れた涙が、全てを持って行ってくれたみたいに。
私の中の苦しい部分を全て、持って行ってくれたみたいに。
私の心は、いつの間にか―――すっと晴れていた。
「よかった」
鳴海さんのホッとした顔が、やけに脳裏に焼きついた。
変なの。
そんな、ホッとした顔。
ここ、自殺屋なのに。
潤さんが相変わらず寒そうな格好で、トテトテと私に近付いた。
なんだろう、と潤さんを見つめて首を傾げる。すると、潤さんは私に、小さな紙きれを差し出した。無理矢理持たされた紙には〝死なない〟と、殴り書きがしてあった。私が驚いたように顔を上げれば、潤さんは寝ぼけたようにぼうっとした顔で私に言う。
「いずれアンタはあたしらを忘れるだろうから。これ、肌身離さず持ってて」
「え?いや、忘れないよ?だってあなたたちは、私にとってすごく―――」
「忘れるよ」
大きな存在だから、そう言おうと思っていた。だけど、潤さんは、故意に私の声を遮るように断言した。私は潤さんのはっきりとした言葉に驚き、目を丸くする。悲しくも、冗談で言っているようには見えなかった。
ああ、本当なんだな。
そう悟ってしまった。もともとこの人たちやこの部屋、ここに来た時に見た全てのものに信憑性がなかったのだ。
ここは―――夢のような、幻のような、そんな場所。
だから、否が応でも納得してしまうんだ。
「じゃあまたね、寛子ちゃん。それにしても、俺に惚れないなんて女の子、この世界に存在したんだな。世界って広いよな」
「なんていうか、鳴海さんって残念なイケメンですね」
「何!?それは聞き捨てならない!!」
「いや、本当に」
このやり取りも長くは続かないのだろう。
短い間の付き合いだったのに、何故か、ずっと前からの付き合いかのように親しくて、気軽に話すことができた。だからこそ、寂しくて仕方がない。昔からの馴染みと離れるのは、とてつもなく寂しいんだよ?
それでも、駄目なんだよね。
私は、あなたたちの隣にいてはいけないんだよね。
「さよなら」
素っ気ないような潤さんの言葉が、私の耳に入る。
素っ気ない挨拶すんなよ、と鳴海さんは言う。
それでも私は、笑って答えた。
「さよなら」
*
「名前、なんで〝寛子〟にしたの?」
昔々、ぼんやりとした記憶の中で、いつか、訊いたことがあった。
ありきたりで、少しだけ不満があった自分の名前。
それでも母は、自慢げに、幸せそうに私の疑問に答えた。
「寛大な心をいつまでも持ち続けてくれるように、って」
「かんだい?」
「まだ、わからなくていいわよ」
ふふふ、と優しく笑う母の笑顔、久しぶりに見た気がした。
ああ、忘れていた。
母も、こんな風に私を真っ直ぐ見てくれる時期があったんだ。
見逃すところだった。
死んだら、もう思い出すこともできなかったよ。
私のたった一つの願い。
もう、死のうなんて思わない。
母さんにもらった命、大切にするから。
だから、
もう一度、愛してください。
*
「母さん」
「…」
私の呼び掛けに、全く反応しない。
リビングの椅子に座る母、項垂れているように座っている。
背後から見ている私は、母の背中しか見えない。
私は、くじけずにもう一度呼びかける。
「母さん」
「…」
やっぱり反応しない。
じくりと胸が痛み、ここからいなくなってしまいたいと思った。
私は変だ、狂ってるよ。
だけど、だけどね。
私は普通の人間で、弱くて、脆くて、何もできないただの子供なんだ。
だから、母さん。私を見捨てないで。
ふとポケットに突っ込んだ手に、紙の感触がした。
くしゃ、と音がした。
私は小さなその紙きれを手に取り、開いてみる。
〝死なない〟
力強く、乱暴に、書かれていた。汚い字だった。
けれど、私は無性に嬉しかった。
何故だかはわからない。
母さんと向き合おうと思ったのも、何故だろうかと思った。
昨日も同じように生活して、今日も同じように生活する筈だったのに。
でも、体が勝手に動いた。
行動しなきゃって思った。
死んじゃダメだ。
私は強く思った。
何故?何故?
死んじゃいけない、と強く思った。
何もわからないまま、曖昧なままな私は、それでも母さんと向き合った。
「母さん」
クシャリと、手にあった紙きれを握りしめる。
お守りのように、しっかりと握りしめる。
何故だろう、すごく―――勇気が湧く。
「私ね―――」
隠していた想い、ずっと溜め続けた願い、全部全部、言ってしまえばあとは流れるように出てしまう。
出てしまった言葉は止まらず、私は延々と話し続けた。
そして一言。
「愛してください」
たった一つの、私の願い。
それをずっと聞いていた母は、ゆっくりこちらを振り返ると―――――瞳から一滴の涙を流した。