最低で、最高な日
遠い遠い、昔の記憶。
現在よりずっと小さな手が、眩しい向こう側に向けて必死に伸ばしている。
鈍く聞こえる周囲の音に混じって、泣き叫ぶように必死に誰かの名前を呼んでいる。
きっと、おんなじだから。
*
「同じ?俺とお前が?」
「ああ、同じだ」
俺の言葉に、榊は訝しげな表情を浮かべた。
「大切なモノが、手から零れ落ちた寂しさってのは、消えないよな」
「大切…だと?」
「お前は、アズマが大切だったんだよ」
気付いてないんだ。
榊は自分がどれだけアズマを大切にし、アズマに手を伸ばしていたのか。
だから、素直になんてなれるはずがなかった。
〝大切〟が何なのか自体を、知らなかったのだから。
「おいこら、鳴海」
「ん」
「冗談は顔だけにしろ」
「ちょっと待て、それは聞き捨てならん」
「ただでさえ存在自体が冗談な奴に、この上アホらしい冗談を言われるとは。心外だ」
「存在自体冗談ってどういうことだ、オイ」
鳴海の突っ込みを軽く一瞥した榊は、手近にあった本を鳴海に投げつけた。
バサッと音がして、鳴海の肩に投げつけられた本が当たった。
「いッてぇな」
「つまんねェ冗談言うからだ」
平然とそう言う榊に、鳴海は少しだけ苛立ちを感じた。
「お前はどうしていつもいつもそうやって否定して―――」
「否定も何も、ちげェんだから仕方ねェだろ?」
なんでそうやって。
「お前も知ってたんだろッ?アズマはもう死ぬんだって」
自然に声が荒くなる。
「ああ」
「だったらなんで…」
なんで、ずっとお前は苦しんでんだよ。
そう続けると、歯を強く噛みしめた。
榊は、そんな俺を見て微かに目を丸くした。
俺は少しだけ眉を潜め、何がそんなに珍しいのかと訊く。
「なんでお前が泣きそうなんだよ」
榊はバツが悪そうに眉を顰め、微かにそう呟いた。
「泣きそう!?誰がッ」
「お前が」
認めたくない。
誰がお前みたいな傍若無人の為に、泣きそうになるんだよ。
この悲しさはきっと、この辛さはきっと―――未だにアズマを死なせてしまったという罪悪感が渦巻いているだけ。
きっと、それだけ。
自分のことでもないのに、こんなに取り乱すなんて。
そんなこと、意地でも認めない。
「おまッ…嘘つけよ、自分が泣きそうだからって俺を巻き込むなッ」
俺は必死に首を横に振ると、全身全霊で否定した。
「じゃあ自分で鏡見てみろよ」
榊の表情に、言葉が詰まってしまった。
ああ、本当に泣きそうなんだろうな、俺。
だっせェ。
「…」
何故、だろう。
何故俺が、泣きそうなんだろう。
その答えは、至って簡単なのだ。
榊の心情に、同情した。
だが、こんな根暗で傍若無人で、自分勝手な榊にそんなこと言えば、またからかわれるのが落ちだ。だから、こんなことは口が裂けても言えない。
認めたくない。
認めたくないんだ。
こんな奴のことで、泣きそうになるなんて。
「…」
だが、榊は黙りこくった。
聡い榊だ、多分俺の心情を大方悟ってのことだろう。
だが悟ってしまえば、馬鹿にしてくる筈の榊が、今日に限ってはそんなこともない。
今日は本当に、不思議な日だ。
明日は、槍が降るんじゃないか。
俺も次の言葉が出て来なくなり、二人で黙りこくった。
沈黙が非常に気まずいが、こんな状況で間違って「いい天気ですね」だの「調子はどう?」だの外れたことを言ってしまえば、滑るのが落ちだ。そんなのをフォローしてくれる榊ではない。
突っかかった言葉を、何とか出そうと口を開くと―――書斎の扉が開いた。
タイミングが悪い。
このタイミングには、覚えがある。否、あり過ぎる。何度もある。
突然のことと言うこともあり、緊迫した空気が一気に途切れてしまったこともあり、俺の心臓はあり得ない程に暴れていた。
あの榊でさえ、驚き過ぎて硬直している。
俺は、ため息交じりにタイミング悪く入ってきた人物の名を呼んだ。
「潤…」
扉を開けて入ってきたのは、予想通り潤だった。
そしてその後ろには、潤にしがみ付いている常盤の姿もある。
潤は二人を交互に眺めると、呆れ顔で言葉を紡いだ。
「あのさぁ」
目を細めた潤は、仁王立ちで次の言葉を吐き捨てた。
「じれったい」
唖然とする俺と榊、そんな俺たちを見下す様に見つめる潤。
稀に見る奇妙な光景だ。
見下される、相手が俺ならわかる。
いつも、年上にもかかわらず暴言を吐かれ、いじめられ続けているのだから(誇らしげに言ってるが、自慢できることでは断じてない)。
ただ榊は、あの潤にも一目置かれているような奴だったから。
まさか潤が榊を見下す日が来るなんて。
そして、それを隣で見る日が来るなんて。
固まっている榊に代わり、俺が口を開いた。
「何が…」
「何をウジウジしてるのか知らないけど、あんたらホントじれったい」
全て知っているような口ぶり。
まさかお前、聞いてたのかよ。
そんな俺の表情を読み取ったのか、潤は当たり前のような表情を浮かべながら「扉の前にずぅっといたよ」と平然としていた。
全然気付かなかった、もしかして常盤も知っているのだろうか。
常盤に視線を向けると、常盤は何に拗ねているのか、頬を膨らませてそっぽを向いた。
潤は眉を潜め、面倒くさそうに口を開いた。
「アズマって子は死んだんでしょ?」
榊は我に返り、潤の顔を見つめた。
人相の悪い榊は、傍から見れば潤を睨んでいるようにも見える。
「その子は病気だったんでしょ?」
いつの間にか潤の視線は俺にはなく、榊一点だった。
俺にはもう目もくれていない、どうやら最初から目的は榊だったようだ。
「潤…」
もうやめろ、と言おうとした俺に、今までむくれていた常盤が飛びついてきた。
あまりにも強い衝撃に、俺は唸りながら床に倒れ込んだ。
やばい、これは腹に入ったぞ。
ちくしょう、常盤もグルか。と心の中で悪態づきながら、常盤を必死に「よしよし」と宥めた。常盤はぎゅうっと服を握り、微かに震えていた。
常盤に気を取られているその間にも、潤は榊に問いかけていた。
「―――それは、榊さんのせいじゃない。違うの?」
「…」
「なんでそうやって、全部を悲観的に考えるの?」
「…」
「いい加減にしなよ」
珍しく覇気があった。
潤のいつもの寝ぼけ顔も、今は見受けられない。
その力強い言葉に、榊は驚いて目を丸くしていた。
どうやら榊も、こんな潤は見たことが無かったらしい。
潤は一旦息をつくと、力強く言った。
「独りだと思うな」
そこには、潤なりの本音があったに違いない。
潤はそこまで言うと、今度は常盤に乗っかられている俺に目を向けた。
「ナルもナルだよ。何が自殺屋だ、何が昔の嫌な過去だ。あんた、あたしらには何も言わなかったな。何も教えてくれなかったな。あたしらはあんたの何?あんたの中で、あたしらはガキなの?頼りないから?それとも、あたしらは他人だから?」
ああ。
わかってしまった。
何故、こんなに潤が怒ってるのか。
こんなこと、口に出してしまえば潤や常盤は自惚れだと言うだろうか。
榊に鼻で笑われてしまうだろうか。
どこで今回のことを知ったのかは知らないけど(否、大方予想はついている)潤や常盤には、俺から何にも教えてなかったな。
つまり――――
「ごめん、な」
俺は乗っかってしがみついている常盤の小さな頭を、優しく撫でた。
常盤は、俺の声に微かに反応すると「ナルのばぁか…」と小さく呟いた。
俺は苦笑すると、潤にも「悪かったよ」と笑った。
潤は更に眉を潜め「許さない」と吐き捨てるように言った。
素直じゃない、潤の頬が紅いのは一目瞭然なのに。
つまり、寂しかったと。
何もできなくてもどかしい自分と、何も教えてくれない俺や榊。
親しい関係だと、家族だと思っていた俺が何も言わないことに、拗ねていた。
そう言うことなのだろう。
なんと。
常盤はともかく、潤がこんなに表情豊かになるとは。
俺は少しだけ照れ臭くなり、目を逸らしながらも顔を緩ませた。
「なぁ、榊」
「あん?」
わかってしまったかもしれない。
俺らが必死こいて探していた、一つの答え。
ずっとずっと探していた、一つの答え。
「いいんじゃねぇか?」
「は、何が」
「もう、いいんだと思う」
「何がっつってんだろ」
「これ以上、複雑に入り込まなくたって、いいと思うんだ」
「…」
そう。
もう、いい。
立場や状況や、人間の心が複雑にしてきたこの一件。
もう、解いていいと思った。
「知らない」「わからない」とそんなフリをして、解ける紐も更にきつくして、自分の首まで絞め続ける。
病気で死ぬはずだったアズマ、これじゃあ浮かばないだろう。
死ぬ前に出会った最後の大切な友達が、会っても会わずしても死ぬはずの運命だった自分を想い、今も自分を責め続ける。
そんなのは、望んでいなかったはずなのだ。
「榊」
「…」
もう、いいんだ。
「泣いたらいい」
いつもならば、こんなことを言ったらぶっ飛ばされる。口よりまず足が出るあいつなら、即座にやりかねない。
だが、今日は違った。
こんな風になったからと言って、俺が榊を馬鹿にすることも無ければ、榊も俺を殴ったり蹴ったりすることもない。
今日はなんとも不思議な日。
「くそッ…」
床に小さく拳を落とし、何度も何度も呟く榊。
もう片方の手で顔を覆っているために、表情は見えない。
でもきっと、今の榊は今までに見たことが無いような、レアな顔をしているのだろう。
「くそ、くそ…」
寝癖がついた髪を乱すと、榊は息を大きく吐いた。
「辛いってのは、こんなに抉られるように…いてェんだな」
重い、声。
しかし予想に反して、榊はもういつものような軽い調子だった。
「おい、いつまでここに居座る気だ?」
俺は驚き、榊を見つめる。
声も、元の余裕そうな声に戻っている。
先ほどの新鮮な榊が、一瞬にして消えた。
「榊」
俺は少し残念な気持ちを、表に出さないように気をつけながら口を開いた。
「一生言うことはねぇと思ってた、言う気も無かった。でも、今日の俺も、今日のお前も、今は等しく頭がおかしいから、口が滑りがてら言おうと思う」
「オイ、日本語おかしい。滑りがてらってなんだ」
「俺はお前に救われた」
「聞け、コラ」
「こっちこそ聞けよ、アホめ」
俺の言葉に榊が反応し、勢いよく鳴海を睨みつけた。が、俺も怖じはせず、言葉を続ける。
「自殺屋。人間にとって、これ程恐ろしい店はないのかもしれない」
「…」
「俺たちもいっぱいいっぱい振り回された。アズマの件も、最初の原因を作ったのは紛れもねぇ、この自殺屋だった」
「…」
「でも、俺はここに来てよかったと―――本気で思ってんだ」
「何で」
榊が反応する。
振り回されたのなら何故、苦しんだのなら何故。
そう訊きたいのだろう。
欠落した感情が、気付いている筈のその〝答え〟を見逃してしまっている。
それは、何と悲しいことなのだろう。
俺はニッと笑い、榊に視線を向けた。
「ここに来て、いろんなもんを見つけた。ここに来て、いろんなもんをもらった。大切だと思う気持ちも、死にたいと願う気持ちも、秘めていたたくさんの想いも―――(気持ち悪いけど)花菱も、潤も、常盤も、それからお前もだ。今ここにいる〝俺〟は、お前ら皆にもらった〝俺〟なんだ」
俺は息をつき、ゆっくりと言った。
「俺はこういう人生も悪かないなって思った」
「…」
「だから、サンキュ」
「うわ、キモ」
「…」
額の血管が浮き出たのが分かった。
ぶっ飛ばそうとして前に出るが、常盤がそこに立ちはだかって俺を抑える。潤が横から「どうどう」と俺を宥めていた。
いや、潤。
止めないでくれ。
俺は改めて、こいつが嫌いになった。
「空気読めよ、オラァァア」
榊は俺の怒声に、どこ吹く風。
小さな男の子に抑えられる、いい年した成人男性なんて―――なんつぅ情けない図。
いやでも、常盤も結構マジで抑えている。腹に、常盤の腕がめりこん、で。
「ちょッ…締まってる、締まってるよ常盤くぅぅん!?」
怒りどころではなくなった。
「むぅぅ、ナルめ…」
「え、ちょ。まだ引きずってんの?常盤?何も言ってなかったことは謝るけども、ね?ちょッ…お前がそんなことしたら、俺死ぬって。内臓出るよ、お願い察して?」
「…やっちまえ」
「潤ちゃぁん!?なんか呪いが聞こえた気がするよ、ねぇ!!気のせいだよね、気のせいだと言って!!」
「…ッく」
あとちょっとで天に召すだろうと覚悟したそのとき、微かに声がした。
三人でピタリと動きを止め、声の方向に恐る恐る視線を向ける。
「くくッ」
抑え気味に、顔を緩ませる榊。
これは、これはもしかして―――もしかしなくても。
笑ってる。
初めて見た。
傍若無人で、変人で、感情欠落してて、本好きで、ある意味引きこもりのこいつが。
年がら年中ぶすッとしているこいつが、笑った。
いつもの悪い笑みでもなく、作り笑いでもなく。
本当に、おかしそうに笑う顔。
ああもう、なんだよ今日は。
今日はある意味、最低で最高な日だよ、まったく。
なんとなく面白くなった俺たち三人は、榊の珍しい笑い声に覆いかぶせるように―――大きく、笑った。
*
「ねぇねぇ、ナル」
「ん?」
「どこ行くのぉー?」
青空が広がり、雲ひとつない快晴。
日差しが等しく地に降り注ぎ、温かみが肌で感じられる、そんな日。
俺たち三人と、それから少しむすッとしている榊が歩いていた。まさか、このメンバーで一緒に歩くことになるとは、と少しばかり現実が受け止められていない。
榊は大層不本意そうな顔をしながら、潤に腕を引っ張られていた。
いつも眠そうな潤も、今日ばかりは眠気を振り払っているらしい。
俺は常盤に腰回りを抱きつかれながら、「ううん」と首を傾げた。
「えーと、友達…の、とこ?」
付け加えれば、榊の、だ。
あの一件から、一週間が経った。
あの騒動も今となれば過去となり、俺にしてみれば笑い話にもなる。
だって、榊があんなに取り乱すことなんて滅多にないし。
「…」
「どうしたんですか?榊さん」
突然動きを止め、しゃがんだ榊に潤は首を傾げた。
榊はブチッブチッと、小さく咲く踊子草を次々に豪快に摘む。
やがて、片手にいっぱいの踊子草を摘むと、再び歩を進めた。
今度は、先に歩いていた鳴海や常盤よりも速く。
「え、ちょ、おい。お前、場所知ってんのかよ」
「知らないわけないだろ」
ばぁか、と舌を出して見下したように言う榊は、正真正銘の榊だった。
俺は一度反論しかけたが、抑え込むと小さく舌打ちをする。
「お、着いた着いた」
声を上げた俺に、常盤が「わぁい」と両手を上げてはしゃいだ。
後ろから、潤も顔を出す。
「―――綺麗」
ひらり、ひらりと薄桃色の雪が舞い散っていた。
穏やかに、けれども豪快に。
たくさんの雪にも見える花びらが、四人の頭上に降り注いでいる。
青い空を埋め尽くさんとばかりに、薄桃色が一面に広がる。
「そっか、隣は桜の木だったか」
決して大きくはない墓地の隣には、大きな桜の木がたっていた。
薄桃色は、次々に絨毯を作り、雑草の上を埋め尽くす。
「榊、さん?」
ふと、声が聞こえた。
「…」
榊は、振り向かなかった。
「こんにちは、アズマのお母さん」
榊の代わりに、俺が頭を下げる。
アズマの母は、相変わらず柔らかな表情を浮かべていた。
アズマの母は、俺に視線を向けて、
静かに笑った。
笑って、両手で顔を覆った。
「ありがとう、ございます」
掠れた声。
でも確かに、嬉しさを噛みしめるような声。
俺は泣きそうになるのを堪え、「いえ」と首を横に振った。
その後は、何もしなかった。
ただただ皆で桜を見て、少しだけ世間話をして。
「榊、帰んぞ」
未だに、江原家と書かれた墓石の前に立つ榊に、俺は少し大きめに声をかけた。
だが、榊は微動だにしなかった。
更に声をかけようと口を開けると、潤が後ろから「行くよ、ナル」と声をかけた。
「空気読んでよ」
「いや、いっつもタイミング悪いお前にだけは、言われたくない」
「帰ろう?」
俺の突っ込みも気にせず、潤が更に言った。
さすがに俺は何も言えなくなり、そのまま帰路についた。
並んで歩いていたアズマの母が、「それじゃ、私はこっちなので」と言い、小さく礼をして去っていった。
「いいのかね、榊置いてきて。迷子になんねぇかな」
「ならないよ、あの人もう大人じゃん」
「いや、あいつ引き籠りじゃん」
「まぁ、どうにでもなるよ」
常盤が、潤の手を取った。
そしてもう片方の手で、俺の手も取った。
ちょっと幼いが潤が母親で、俺が父親で、常盤が子供。
そんな図に見えなくもないな。
そう思って少し頬を緩ませると、潤が「キモ」と吐き捨てるように言う。
その言葉に俺が少しだけショックを受けていると、潤は「まぁ、」と続けた。
「そんな家族も、悪くないよね」
欠点だらけな私たちだけど、と潤は微笑んだ。
その微笑みが、風に乗って舞い散る僅かな花びらと、温かな日差しと、鮮やかな青空で息を呑むほど美しく映えていた。
俺は「そうだなぁ」と笑って、常盤の頭を撫でた。