決意
アズマを殺したのは、自分だと思っていた。
アズマを死に追い詰めたのは、大人気ない感情に左右されて八つ当たりのように責めた自分。
だからアズマは死んだ。
そう思っていた。
もしかしたら俺は、とんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
*
「…なんだよ」
「アズマは、お前と仲良かったのかよ」
唐突の言葉に、榊は心底驚いたのだろう。
目を大きく見開き、鋭い目に俺の顔を映した。ずっとずっと憎かった自分の顔が瞳に映され、少しだけ苛立ちが胸で渦巻く。が、今はそんなことも気にしていられない。
榊は動揺した様子を微かに見せるが、すぐに落ち着いた口調で言った。
「何言ってんだ?」
「花菱に聞いたんだよ」
「…」
榊は、俺の顔を見るのをやめた。
手に持っていた本に視線を移し、ぱらっとページを捲る。
「なんのことだよ」
「アズマの母親、来てただろ」
「知らねェよ」
「今日、見かけたんだよ」
「…盗み見か、趣味悪いな」
「あんな変態情報屋と友達やってる時点で、お前も相当趣味悪いぞ」
あれは相当やばい、と俺が続けると、榊は眉を潜めて舌打ちをした。
「あいつ、ところどころに盗聴器仕掛けやがって」
「お前、気付いてたのか?」
「処理しても処理しても出てくる。あいつ、俺の身の回りに百個は仕掛けてんじゃねェの?」
吐き捨てられる榊の言葉に、俺の中の花菱のランクが、一気に底辺まで墜落した。
そこまでの気持ち悪い奴だったとは、知らなかった。
黙っていれば、花菱だって悪くない顔をしているのに、どうしてああも性格が歪んでいるのだろうか。本人も言っているが、あれはあいつなりの愛情表現なのだろうが、どうにもやり方が歪み過ぎている。
「で、アズマとは――――」
「別に、あいつは営業上の客。お前が思ってるような、仲良しこよしなアホらしい関係じゃねェ」
榊はあっさりと言い張った。
何故、榊は否定するのだろうか。
アズマがもうこの世にいない時点で、それらの感情を隠す必要性はない筈なのに。
俺に弱みを見せたくないのか、はたまた、未だにその事実自体を否定したいのか。
お前はそうやって見ないフリをして、どれだけ苦しんだんだろうな。
欠落した感情。
もしかしたら、榊は自分で自分の首を絞めているのではないだろうか。
本しか居場所がなかった榊の、不器用な愛情。
それを受けた、アズマの行く末。
何故こうも、事が捻くれてしまったのだろう。
もっと素直ならば、もっと違う場所で会っていたならば。
未来で二人が不器用ながらも笑い合えた日が、来ていたのかもしれない。
「悪かった」
そんな二人を結果的に引き裂いてしまったのは、紛れもない未熟だった俺なのだ。
謝っても謝りきれないくらい、無性に消えて無くなりたかった。
平然としている榊だが、辛くない筈なかった。
だって榊は、アズマが大切だったのだから。
「はぁ?」
深く深く頭を下げる俺の頭上から、榊の素っ頓狂な声が聞こえた。
珍しい。
榊は普段から隙のない奴だから、こんな気の抜けた声なんて滅多に出さないのに。
「なんでお前が謝んだよ」
「なんでって…」
そりゃお前、俺がアズマを――――
その言葉は、未だに気の抜けた顔を浮かべる榊に遮られた。
「お前は何も関係ねェよ」
その言葉は、俺への同情から向けられた言葉か。
それとも、本当に関係がないのか。
真意が読み取れない。
いや。
関係がない、なんてことはない。
俺が、依頼を受けたのだから。
「…んなわけねぇだろ、俺が追い詰めたからアズマは―――」
「そもそも」
榊は本を閉じた。ページ同士がぶつかって、小気味のよいパタンッという音が、部屋の中に綺麗に響く。
まるで、俺が言葉をこれ以上並べることを止めさせるように。
「アズマはどっちにしろ死んでたよ。鳴海、お前に頼んだところで、アズマがこの世に留まらねェ。いや、留まれねェ。そんなこと、とうにハッキリしてたんだ」
「え…」
「俺が、それを見届けることを拒んだ。たまたまそれを見届けたのがお前だった、ただそれだけのことだ。それらのどこに、お前が謝る必要がある?」
こいつは、何を。
何を言っているのだろう。
「どっちにしろ死んでたって、どう言うことだよ」
「あいつは変なところで強情だった。馬鹿みたいに素直で、馬鹿みたいに真っ直ぐで、だからこそ、馬鹿みたいな理由で死んでいった」
なんと。
あの榊が天井を見つめ、穏やかに優しい声色で言葉を紡いだ。
いつも強気で隙がなくて、事あるごとに嫌味を並べて、サディスティック丸出しのあの榊が。
まるで、楽しかった過去をいとしく思い出しているように。
けれども、たくさんの感情を押さえこもうと声を静めているように。
俺はその姿がどことなく痛々しく感じたが、目を逸らすまいと必死に耐えた。
「だから、お前は関係ねェ。俺が逃げた、ただそれだけだ」
「なぁ榊」
お前はいつまで、目ぇ逸らすんだよ。と続けた。
口が思うように動かず、少しだけぎこちなくなってしまった。
だけど確かに、それは言葉として榊に届いた。
榊は何も言わず瞼を下ろし、息をついた。
そして何かを言おうと口を開いた瞬間、タイミングよく(いや、悪いのか)、がちゃッと扉が開いた。
このタイミングの悪さには覚えがある。
「潤ちゃぁーん…勘弁してよ…」
はぁぁと深くため息をつき、体から力がスッと抜けて床に座り込んだ。
一方何食わぬ顔をして入ってきた潤は、相変わらず寝ぼけた顔だった。
いつも見慣れている顔だからか、余計気が抜けてしまう。
なんともすごい、潤マジックだ。
「あのさ、お客さん来てる」
「え、誰?」
「えっと、誰かのお母さんだって言ってたけど…確か…あ、あ…」
「アズマ?」
「そう、それ」
やばいやばい、思わぬ事態だ。
この空気、この状況でラスボスのように現れたアズマの母。
俺は対峙する勇気が湧いてこなくて、榊に視線を移す。
だが榊は故意にか無意識にか(多分わざとだ)、こっちを見ようともしない。
あいつ、都合が悪いといっつもこれだコノヤロウ。
「行ってこいってか、俺が行ってこいってかッ」
「…」
「無視か、オラ」
半分ヤケになって榊の書斎を出ると、玄関に四十代前後の女性が立っていた。
ああ、この人がアズマの母か。
どことなく、優しげな目元がアズマとよく似ている気がする。
「こんにちは」
「…う、あ…はい」
口が思ったように動かない。
しどろもどろになりながら、俺は懸命に耐えた。
すると、アズマの母親は俺の様子を窺うように、そっと俺を見る。
「あの、失礼ですがあなたは…」
そう言えば、初対面なのだ。
「俺は…その…」
「?」
「アズマくん…の、担当をしていた、鳴海です…」
歯切れ悪く、変わらぬ事実を紡ぐ。
アズマの母は、一瞬驚いたような顔を浮かべたが、すぐさま元通り優しい顔つきに戻った。
「そうですか」
一言、穏やかに呟いた。
怒声を、浴びせられるのかと思った。
そうでなければ、泣き叫ばれるのかと。
予想外の反応に、俺は言葉を失う。
さすがに、自殺屋の従業員の家族の、事情を知っている者であれば、大体の言葉は把握しているのだろう。この人は多分、〝担当〟という言葉だけで、俺がアズマの死に加担してしまったことは気付いている。
そうなれば、アズマの母が最も憎むべき存在は――――俺。
「アズマが、大変お世話になりました」
俺、のはずなのに。
何故。
何故そうやって、何もかもを許しているような笑みで笑うのだろう。
こんな笑顔を向けられたら、土下座でもして謝ろうという決心が一瞬で吹き飛んでしまうではないか。
「榊さんは、どこに…」
「え、と…榊は、ですね…」
生贄にさせられたようで非常に腹立たしいが、今榊の場所を言ってしまったら俺が出てきた意味がなくなってしまうため、俺は出かかった言葉を呑みこんだ。
「今は外出中でして…」
咄嗟に、嘘をついた。
アズマの母は残念そうに眉を下げ「そうですか」と困ったように笑った。
「あの、鳴海さん」
「…は、い」
「よかったら、アズマに会いにきてくれませんか」
「え…と…」
「あの子、あんまり人付き合いが上手じゃなくて…会いに来てくれる人がいないんです。今年はもう、私だけしか来ていないんです」
アズマの母は懐かしむように穏やかな声で微笑み、俺の顔に視線を移した。
「それでも、〝規約〟を侵してまで仲良くしてくださった榊さんには、会いに来てほしかったんですけどね…あの人、変なところで強情で…アズマにそっくりなんです」
ふふ、と静かに笑みを零し、アズマの母は続けた。
「もし、榊さんが心変わりしてアズマに会いに来てくださるようなら、鳴海さんから…アズマの居場所を教えてくれませんか?」
「…それは」
お安いご用ですが、と俺は続けた。
「あの…あなたは辛くないんですか?」
我ながら不躾な質問だと思った。
その質問には、二つの意味が込められていた。
一つは、"アズマが死んでしまって"だ。
そしてもう一つは、"アズマの死の理由を作った人物を、アズマに会いに行かせて"である。
一番謎なのだ。
仇とも言える俺や榊を、アズマに会いに行かせるなど―――俺には考えられない。
たとえアズマの母がどんなに優しくて、懐が広い人物でも、その人が人間である限り、許すことはできない。大切なモノを突然、それも人の手で失くしてしまったのだから。
アズマの母は黙り込み、目線を落とした。
俺は息をついて「すみません、失礼な質問をしてしまって」と続けた。
しかし、アズマの母は顔を上げた。
予想に反し、落とした目線を俺の顔に定め、笑ったのだ。
「辛くないって言えば嘘になります。当然、息子が"早々に"死に追い詰められた理由であるあなた方にも、憎しみはあるんです。私は、息子に少しでも長く生きていてもらいたかった」
ああ、やっぱり。
やっぱり憎まれていた。
真意が明らかになった安堵と、真意が明らかになってしまった痛みが、複雑に胸の中で混じる。
それをどうすることもできなくて、無意識に胸に当てた拳を力いっぱい握りしめる。
―――早々に?
待てよ、今、早々にと言ったか。
どういう、ことだろう。
「それでも」
アズマの母は凛とした口調で、俺の思考を遮るように言葉を紡いだ。
「あの子は、もう長くなかったんですよ」
「は…」
すッと、体中が一気に冷たくなった気がした。
「あの子、原因不明の病にかかっていて、余命は既に一カ月だったんです」
「それって…」
「アズマは、もう…」
死ぬしかなかったんです。
静かに告げるアズマの母は、小さく悲しみに耐えているようだった。
*
「母さん、母さん」
「なぁに?」
「父さん、帰ってこないね」
「…そうねぇ」
「…俺が死んでも、帰ってこないかなぁ…」
「…」
あの子は、生まれつき体が弱くて、しょっちゅう病院で入院しては退院する生活を送っていたんです。そのせいで塞ぎこみがちになって、人付き合いもどんどんできなくなって、あの子はどんどん社会から孤立していきました。
そんなアズマは、旦那―――父に憧れてたんです。
何の仕事をしているかわからない、全然帰ってこない。
そんな他人にも近いような父でしたけど、アズマは憧れていました。
記憶に微かに残る、力強く優しい父に。
アズマが仮退院したある日、突然あの子はいなくなりました。
私は焦って探しまわりました。
あの子はとても行動力があって、変なところで頑固なので、どこか外に出てしまったのではないかって思って。
案の定、玄関にあの子の靴はありませんでした。
何か手掛かりはないかって家の中を探してみると、いつも締め切っている父の部屋の扉が、微かに開いていました。綺麗好きの父の机の上が、微かに荒らされた形跡がある。
即座に気付きました。あの子は父に会いにいってしまったのだ、と。
父は仕事について、息子には何も明かしませんでした。
私は、あの人に仕事の内容だけは教えてもらっていましたが、詳しくは教えてくれませんでした。
でも、収入だけは安定していました。
「大丈夫だから」と、あの人は笑うので、私は、何も言えなかったんです。
あの人は、前科持ちでした。昔は地元で名のある暴走族の頭だったらしくて…その過去のせいで、仕事に就けなくなってしまって、私たちも一緒に路頭に迷わせるわけにはいかないと、毎日毎日頑張っていました。
だから、仕事が見つかったと言ったときには、ビックリしました。
だけど、その仕事について何も訊くことはできなくて、少し―――ほんの少し怖かったんです。
そんな仕事をしている父に、アズマが会いに行ってしまった。
その事実だけで、身が震えあがるほど怖くなりました。
でも、私にはどうすることもできなかった。
だって私には、父がどこで仕事をしているのかも、アズマがどこに行ってしまったのかも、全てわからない。
母として、妻として、何も知らなかったんです。
「ただいま」
アズマが平然と笑って帰ってきたときには、体全体の力が抜けてしまいました。
知らない内に、ずっと緊張してしまっていたんだなって実感しました。
「どこ行ってたの?怪我は?体調悪くない?」
「外、もうあとどれくらい歩けるかわからないから、散歩してきた。怪我もないし、今日は調子がいいんだ。ほら、見て。顔色いいでしょ?」
アズマは自分の顔を指差して、にこっと笑いました。
〝あとどれくらい歩けるかわからない〟。
こんなことを自分の息子に言わせなければいけない不甲斐なさと、息子の無垢で楽しそうな笑顔を見てしまったら、何も言えなくなりました。
ああ、この子はもう長くないんだ。
情けないですけど、まだ小さな子供に諭された気分でした。
結局、父に会いにいったのかと問いただすこともできず、私は目を瞑ることにしました。
どうせ、問いただしたってあの子は答えない。
変なところで強情で、頑固な子ですから。
顔色が良かったのは本当なんです。
アズマが出かけて、帰ってくるときの顔が生き生きしていて―――まるで、俺は今生きているんだよって、私に言っているようで。
*
「―――そして、あの子は死にました」
「…」
「それでいいと、今でも思っているんですよ。私としては、長く、生きていてほしかったけれど。あの子は、死ぬ運命だった。死に場所とタイミングを決めただけ。変わらない現実で、苦しみながら死んでいくより、一瞬の恐怖で死ぬことができたのですから…」
榊が言っていた〝アズマはどっちにしろ死んでいた〟という言葉は、こういう意味だったのだろう。
榊は知っていた。
アズマがいずれ、死んでしまうということを。
それを見届けなかったのも、アズマと向き合わなかったのも、全て榊自身が決めた。
そう言いたかったのだろう。
なんで、なんでこうも――――神様は二人に冷たいんだ。
「着きましたよ」
歩きながら、アズマの母はずっと先を指差した。
俺は、アズマの母の指の先に視線を向けた。
「墓、か」
当たり前だ。
アズマはもう死んでいるんだ。
ただ、実感が無かった。
もしかしたらアズマは、生きていたのではないかって思えてならない。
これが、現実逃避というやつなのだろう。
人間は弱い。
特に、死を目の前にすると弱くなる。
俺も、怖かった。
なぁ、アズマ。
――――――俺は、アナタのように…強くないよ…!!
「違うんだ」
俺は、
「強くない」
「…鳴海さん?」
俺は、死ねなかったんだよ。
お前と違って、一歩が踏み出せなかった。
なぁ、死ななきゃいけないってのは、苦しかったか?
死のうとするってのは、怖かったか?
ごめん、俺には何もわからない。
お前じゃないから。
俺、お前に最後の最後まで酷いこと言った。
大人なのに、お前の傷抉るようなこと。
蘇るように、脳裏に響く俺の声。
嫉妬のような、ドロドロしている俺の声。
対峙するのは、あのそばかすの少年。
〝両親に裏切られたんだ〟
優しかった両親、幸せだった家庭。
〝おかげで俺は借金まみれになって、死ぬ一歩手前までいったんだ〟
それでも、死ななければならない寂しさ、恐怖。
〝その点、キミはいいじゃない〟
抗えない―――運命。
大切なモノがあった。
やっと榊っつぅ友達だってできた。
お前は俺よりずっと年下なのに、俺より世界を知っているようで。
それなのに、綺麗に笑うから。
〝母さんはいるんだろう?〟
だからなんだ。
〝父さんはキミの英雄なんだろう?〟
だから、なんだよ。
会えなきゃ意味無いんだ。
会えなきゃ、意味なんて為さない。
優しくて自分のことをたくさん考えてくれる母。
家族を養うために、身を削って仕事を見つけた優しい父。
「アズマ」
お前は強いよ。
俺よりずっと。
ずっと、
強かだったんだよ。
「ぜってぇ、連れてくる」
自分の中で、あやふやだった目的が固まった気がした。
今俺は、アズマの為に何ができるだろう。
もしそれが抗えない運命だったとしても、苦しめたことは事実でしかないから。
「お前に未だ会いに来てない、本好きで変人な毒舌馬鹿、ぜってぇ連れてくるから」
償いをしたい。
せめて、あるかどうかもわからない天国で、お前が笑っていられるように。
「待ってろよ」