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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
七章

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第166話 影が世界のどこかを震わせるとき

 感情粒が影の奥へ沈んでいったあと、空気は静けさを保ったまま、“遠くのどこかが震えているような気配”を帯び始めた。


 震えといっても地震ではない。

空気が揺れているわけでもない。


 ただ、世界の奥で“影が未来に触れた影響が、別の場所へ跳ね返っている”ときだけ生まれる特有の“反響の気配”だった。


 リーナはその気配に気づき、思わず周囲を見回した。


「……ねぇ……なんか……遠くで音がした気がする……ここじゃない場所で……何かが動いたみたいな……」


 カイは眉を寄せ、耳を澄ませた。

その表情は、驚きと不安と期待が入り混じっていた。


「聞こえた。でも……この部屋じゃない。もっと遠く……別の場所だ」


 影が低く呟いた。


「……反響層が動き始めたな。未来に触れた影の影響が、世界のどこかへ跳ね返っている」


 リーナは驚いて影を見る。


「世界って……そんなふうに反応するの……?未来に触れたのに……別の場所が震えるなんて……」


 セイルは静かに頷いた。

その目はいつもより深く、どこか遠くを見ていた。


「世界はね、名前が未来に触れたとき、その影が“どこに影響を返すか”を先に知ろうとするんだ。それが反響層。未来の影響が、現在のどこかへ跳ね返る場所だよ」


 リーナは胸を押さえた。


「……そんな大きなものに……カイの影が触れてるの……?なんか……怖い……」


 カイはリーナの手を握った。


「怖くないよ。俺はここにいる。影がどこへ跳ね返っても……ちゃんと戻ってくる」


 リーナは涙をこらえながら笑った。


「……戻ってきてよ……絶対……」


 その瞬間、名の座標核の周囲に“反響の粒”が生まれた。


 粒はこれまでのどの粒とも違い、形がなく、まるで空気の中に“誰かの声の残響”が浮かんでいるようだった。


 影が息を呑んだ。


「……反響粒だ。これは世界がカイの影を“どこへ跳ね返すか”を示す粒だ」


 アークは粒の動きを見つめた。


「吸われていく……影の奥じゃない。これは影の影響が、別の場所へ向かっている証拠だよ」


 リーナは不安そうにカイの袖を掴んだ。


「……ねぇ……どこに跳ね返るの……?危ない場所じゃないよね……?」


 カイは優しく笑った。


「危ないなら……世界はこんなふうに静かに震えないよ。これは……誰かの心に届く反響だ。たぶん……誰かが救われたり、気づいたり……そういうものだ」


 セイルが静かに言った。


「反響粒はね、願いの“届き方”に敏感なんだ。リーナの願いがどんなふうに広がるかで、影の反響は変わる」


 リーナは驚いてカイを見る。


「……私の気持ちが……影の反響まで……?」


「そうだよ」


 セイルは優しく微笑んだ。


「名前って、呼ばれるたびに未来のどこかに反響を残すものだから。願いがその反響に影響するのは自然なことだよ」


 リーナは震える声で言った。


「……じゃあ……私の願いが届かなかったら……カイの影の反響も届かないの……?」


 カイは即座に否定した。


「届いてるよ。リーナの願いは……いつも誰かに届いてる。それが……俺の影の反響になるんだ」


 リーナは涙をこらえながら笑った。


「……そんなふうに言われたら……もう……どうしたらいいかわかんない……」


 反響粒がゆっくりと空気のどこかへ吸い込まれていく。


 吸い込まれるたびに、遠くのどこかで“かすかな音”が生まれた。


 その音は、まるで世界の別の場所で誰かがそっと息を吸ったような、そんな小さな気配だった。


 リーナはその変化を見つめながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……カイの影……どこへ届くんだろ……誰の心に……響くんだろ……」


 カイは周囲の空気を見渡した。

そこにはまだ何も起きていない。

ただ、世界のどこかで“何かが動き始めた気配”だけがあった。


 その気配は曖昧ではなく、形がないわけでもなく、ただ確かに、世界のどこかが、カイの影に応えて震え始めていた。


 世界のどこかで生まれたその変化は、まるで遠い場所の空気がひとつ息を吸ったように、静かに、しかし確実に広がっていった。


 リーナはその広がりを感じ取り、胸の奥がじわっと熱くなるのを止められなかった。


「……ねぇ……今の……誰かが……気持ちを決めたみたいな感じがした……私だけ……?」


 カイはゆっくりと目を開け、周囲の空気を確かめるように見渡した。


「いや……俺にもわかった。誰かが……“動く理由”を見つけたんだと思う。影が……その理由の一部になったんだ」


 影が低く呟いた。


「分岐層の反応が強まっている。影が触れた未来の揺れが、今この瞬間のどこかへ届いたんだ」


 アークは空気の奥を見つめながら、小さく息を吐いた。


「この感じ……久しぶりだな。誰かの選択が変わる瞬間って、世界の奥が少しだけ“軽くなる”んだよ」


 リーナは驚いてアークを見る。


「軽く……?どういうこと……?」


 アークは少し考えてから、言葉を選ぶようにゆっくり話した。


「選択ってね、迷ってる間は重いんだ。どっちに進むか決められないから。でも……決めた瞬間、その重さが世界からひとつ消えるんだよ」


 リーナは胸に手を当てた。


「……じゃあ……今の軽さって……誰かが……迷いを手放したってこと……?」


 セイルが優しく頷いた。


「そう。そしてその迷いを手放すきっかけの一部に、カイの影が触れたんだ」


 カイは少し照れたように笑った。


「なんか……不思議だな。俺、何もしてないのに……誰かの背中を押したみたいで」


 リーナはカイの手を握りしめた。


「してるよ。カイの影が……誰かの未来を少しだけ明るくしたんだよ。それって……すごいことだよ」


 その瞬間、名の座標核の周囲に“分岐の揺れ”が生まれた。


 粒ではない。

光でも影でもない。


 ただ、空気の奥に“誰かの選択が変わった痕跡”が薄く残っているような揺れだった。


 影がその揺れを見つめ、静かに言った。


「……今、ひとつの選択が終わった。そして……新しい選択が始まろうとしている」


 リーナは息を呑んだ。


「新しい選択……?誰の……?」


 アークは首を振った。


「わからない。でも……この揺れ方は……“連鎖”が起きるときの揺れだ」


 カイは眉を寄せた。


「連鎖……?」


 セイルが説明した。


「ひとりの選択が変わると、その人の周りの誰かの選択も変わることがある。それが連鎖。影が触れた未来は、ひとつだけじゃなくて、いくつも枝分かれして広がることがあるんだよ」


 リーナは驚きで目を見開いた。


「じゃあ……カイの影が……誰かの選択を変えて……その人の周りの誰かも……変わるかもしれないってこと……?」


 カイはゆっくりと息を吐いた。


「……そんな大げさなこと……俺にできるのかな……」


 リーナは首を振った。


「できるよ。だって……今、世界が動いてる。カイの影が……そのきっかけになってるんだよ」


 その瞬間、空気の奥で“二つ目の揺れ”が生まれた。


 一つ目よりも少し強く、少し広く、まるで誰かが新しい決意を胸に抱いたような揺れだった。


 影が静かに言った。


「……二つ目の分岐だ。連鎖が始まった」


 リーナは胸を押さえた。


「……すごい……カイの影……本当に誰かの未来を変えてる……」


 カイはその揺れを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。


「……誰かが前に進んでくれるなら……それだけで十分だよ」


 空気の奥で、三つ目の揺れが生まれた。


 それは小さく、でも確かに、世界のどこかで、またひとつ新しい選択が生まれた。

その選択の端に、カイの影が触れていた。

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