第126話 東へ向かう朝 【六章開幕】
このお話は、ここから六章が開幕します。
夜が明ける少し前、神殿の空気はひんやりしていた。
昨日までの緊張がまだ残っているのか、石壁の冷たさがいつもより強く感じられる。
静けさは深く、呼吸をするたびに胸の奥まで冷たい空気が入り込んでくる。
胸の奥の欠片は、夜のあいだ静かに脈を刻んでいた。
森の修復のときのような荒い揺れはない。
ただ、どこか遠くへ向かう“方向”だけが、薄く、途切れずに続いている。
(……東だな)
目を覚ました瞬間にわかった。
欠片の脈が、迷いなくそちらへ向いている。
まるで夜のあいだずっと、向こう側の世界が“呼び続けていた”みたいに。
支度を整えて外へ出ると、リーナがすでに待っていた。
まだ眠気の残る顔なのに、目だけはしっかりと覚めている。
その目の奥に、昨日までとは違う緊張が宿っていた。
「おはようございます。……早いですね」
「欠片が、もう動いてるみたいだ」
「やっぱり……今日、行くんですね」
リーナは言葉を選ぶようにゆっくり話した。
不安というより、覚悟を固める前の静かな時間。
その雰囲気が、朝の空気と妙に合っていた。
神殿の外はまだ薄暗く、空の端だけがわずかに明るくなり始めている。
鳥の声もまだ聞こえない。
世界が目を覚ます直前の、あの独特の静けさ。
神官長が少し遅れて姿を見せる。
いつも通りの落ち着いた歩き方なのに、その背中には、どこか緊張が混じっていた。
「欠片の脈はどうだ」
「夜のあいだ、ずっと東へ向いてました」
「ならば、向かうしかない。アステルは遠い。今日のうちに出るのがいい」
リーナが小さく息を呑む。
「……アステルって、どんな場所なんですか?」
神官長は少しだけ視線を落とし、それから静かに答えた。
「記録が途切れた街だ。人がいた痕跡は残っているが、存在の輪郭が薄れている。世界の層が崩れたのではなく、“記録そのものが消えた”場所だ」
リーナは眉を寄せた。
「記録が……消える?」
「世界の層が薄い場所では、存在の記録が弱くなることがある。アステルはその極端な例だ」
胸の奥の欠片が、静かに脈打つ。
その脈は、森のときとは違う。
もっと深く、もっと静かで、どこか“遠い呼び声”のような感覚を持っていた。
(……行かないと)
自分でも驚くほど自然にそう思った。
欠片が示す方向を、もう迷いなく受け止められるようになっている。
神官長は俺の表情を見て、わずかに目を細めた。
「覚悟はできているようだな」
「……行くしかないですから」
「そうだ。向こう側の世界が示した以上、お前が向かわねばならない」
リーナは少しだけ近づいて言った。
「……カイさん。私も行きます。近くにはいられなくても、ちゃんと見守ります」
その言葉は、決意というより、“当たり前のことを言っている”ような自然さがあった。
胸の奥の欠片が、また脈打つ。
東へ向かう準備が整ったことを告げるように。
神官長は静かに言った。
「では、出発だ。アステルは遠い。今日のうちに、街の外縁まで辿り着けるだろう」
朝の光が神殿の床に伸びていく。
その光の中で、胸の奥の欠片が静かに脈を刻んだ。
(……行こう)
東の空は、まだ薄い色をしていた。
その色は、まるで新しい流れの始まりを告げているようだった。
神殿の門を出ると、朝の空気が一気に広がった。
夜の名残がまだ残っていて、空気は冷たく、肌に触れるたびに少しだけ身が引き締まる。
東の空は、薄い灰色からゆっくりと青へ変わり始めていた。
その境目が、まるで世界が新しい一日を描き始める線のように見える。
リーナは肩にかけた荷物を少し持ち直し、俺の横に並んだ。
「……なんか、昨日より空気が澄んでますね」
「そうだな。世界が、次の揺らぎを示す準備をしてるのかもしれない」
「準備……って、世界が?」
リーナは少し首を傾けた。
その仕草が、朝の光に照らされて柔らかく見えた。
「向こう側の世界は、揺らぎが生まれる前に気配を拾うんだ。欠片が反応してるのは、その気配のせいだと思う」
「……なるほど。じゃあ、カイさんの胸の中は、世界の“予告”みたいなものなんですね」
「予告……か。そう言われると、少し気が楽になるな」
リーナは小さく笑った。
その笑顔は、昨日までの緊張を少しだけ溶かしてくれる。
神官長は少し前を歩きながら、東の空をじっと見つめていた。
「アステルまでは長い道のりだ。途中で世界の層が薄い場所がいくつかある。欠片が反応するだろう」
「反応って……痛くなったりしますか?」
リーナの問いに、神官長は首を横に振った。
「痛みではない。ただ、向こう側の世界が“近い”と感じるだろう。森のときとは違う種類の揺らぎだ」
胸の奥の欠片が、静かに脈打つ。
その脈は、森のときのような荒さはない。
もっと深く、もっと静かで、どこか“遠い呼び声”のような感覚を持っていた。
(……アステル……)
名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が少しだけ熱を帯びる。
リーナはその変化に気づいたのか、少しだけ近づいてきた。
「……また光ってます」
「欠片が反応してるんだと思う」
「東の方角に向かってるんですよね?」
「うん。迷いなく、そっちだって示してる」
リーナは東の空を見た。
まだ朝の光が弱く、空の端だけが淡く色づいている。
「……遠いんですよね、アステル」
「遠い。でも、行かないといけない」
「わかってます。だから、ちゃんとついていきます」
その言葉は、決意というより、“当たり前のことを言っている”ような自然さがあった。
神官長は歩みを止め、振り返った。
「ここから先は、世界の層が薄くなる。欠片の脈が強くなるかもしれない。だが、恐れる必要はない。向こう側の世界が、お前を導いている」
胸の奥の欠片が、また脈打つ。
その脈は、まるで神官長の言葉に応えるようだった。
(……導いてる……)
自分でも驚くほど自然に、その言葉を受け入れられた。
リーナは少しだけ歩幅を合わせてきた。
「カイさん。もし、途中で苦しくなったら言ってくださいね」
「苦しくはならないと思う。ただ……強くなるかもしれない」
「強くなるって、どんな感じですか?」
「……胸の奥が、誰かに呼ばれてるみたいになる」
リーナは少しだけ目を見開いた。
「誰か……?」
「向こう側の世界の誰か。名前はわからないけど……気配だけは、なんとなく感じる」
リーナはその言葉を聞いて、少しだけ表情を曇らせた。
「……それって、アリスさんですか?」
胸の奥の欠片が、微かに脈打った。
その脈は、森のときとは違う。
もっと静かで、もっと深い。
「……わからない。でも、向こう側の世界の誰かが見てる気はする」
リーナはその答えを聞いて、ほんの少しだけ安心したように見えた。
「なら……よかったです」
神官長は再び歩き始めた。
「アステルは、記録が途切れた街だ。存在の輪郭が薄れ、影が消え、音が遅れて届くこともある。森とは違う危険がある」
リーナは息を呑んだ。
「音が……遅れる?」
「世界の層が薄い場所では、存在の記録が弱くなる。その影響だ」
胸の奥の欠片が、また脈打つ。
その脈は、まるで“急げ”と言われているようだった。
(……行かないと)
東の空は、少しずつ明るくなっていく。
その光が、まるで新しい流れの始まりを告げているようだった。
リーナはその空を見ながら、
ぽつりと言った。
「……なんか、今日から世界が変わる気がします」
「変わるかもしれないな」
「でも……カイさんがいるなら、きっと大丈夫です」
その言葉は、朝の光よりも温かく感じられた。
胸の奥の欠片が、最後にひとつ脈打った。
(……行こう)
東の道は、まだ薄い色をしていた。
その道の先に、アステルがある。
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