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第九章 龍神の鱗

# 無刀流 鉄心 第九章「龍神の鱗」


滝が、逆流していた。


那智の大滝——古来より神聖視されてきた紀伊国の名瀑が、自然の摂理を無視して天に向かって流れている。轟音と共に舞い上がる水飛沫は、まるで龍が天へと昇っていくかのようだった。


鉄心は、滝壺から百間ほど離れた場所に立ち、その異様な光景を見つめていた。文政五年、梅雨の最中。本来なら雨で増水し、一層激しく流れ落ちるはずの滝が、重力に逆らって空へと舞い上がっている。


(これは、尋常ではない)


三百年の生涯で、これほど明確な天変地異を目にしたことはなかった。妖怪の仕業であれば、まだ理解できる。だが、これは違う。もっと根源的な、この国の基盤を揺るがすような異常だった。


「お侍様」


背後から声をかけられ、鉄心は振り返った。


五十を過ぎたであろう巫女が立っていた。白い髪を後ろで結い、古風な白装束を身に纏っている。皺が刻まれた顔には、長年の苦労が滲んでいたが、その瞳だけは若々しく光っていた。


「波婆と申します」


女は深く頭を下げた。


「この滝の神主を務めている者です」


「神主が女とは」


「代々、この地の巫女が滝の神を祀っております」波婆は苦笑した。「まあ、正式な神主ではございませんが」


鉄心は滝を見やった。逆流する水は、天高く舞い上がっては霧となって散っていく。


「いつから、こうなった」


「五日前からです」波婆の声が暗くなった。「最初は小さな異変でした。水の流れが少し乱れる程度の。ですが、日を追うごとに酷くなり、昨日の夜からは完全に」


「原因は」


「龍神様の、お怒りです」


波婆は、滝の方角に向かって合掌した。


「この滝には、古来より東海龍王の使いである青龍が住まわれています。その御心を何者かが害したのでしょう」


東海龍王。その名に、鉄心の記憶が反応した。確か、琵琶湖で出会った竜も東海龍王の眷属だと言っていた。そして、三振りの刀——村雨丸、天叢雲、竜哭丸の話も。


「その青龍は、今どこに」


「滝の奥、神域におられます」波婆は眉を寄せた。「ですが、もう三日も姿を現されません。代わりに現れるのは」


「何だ」


「瑠璃様です」


瑠璃。初めて聞く名だった。


「瑠璃とは」


「青龍様のお使いの、龍女でございます」波婆は声を潜めた。「お美しい方ですが、今はお怒りが激しく」


その時、地面が激しく揺れた。


地震——ではない。これも逆流する滝と同じく、自然現象を超えた何かだった。大地が、まるで巨大な生き物の鼓動のように律動している。


「まただ」


波婆が慌てて手すりにつかまった。


「この五日間、一刻おきにこの揺れが」


揺れが収まると、鉄心は波婆に向き直った。


「神域とは、どこだ」


「滝の奥にございます。ですが、今は近づくだけでも危険が」


「案内しろ」


鉄心の言葉に、波婆は困惑の表情を見せた。


「お侍様、あなた様は武芸の心得がおありでしょうが、相手は龍神様です。刀剣など通用いたしません」


「分かっている」


鉄心は、腰の小太刀に軽く触れた。鳴神と稲妻が、微かに震えている。刀もまた、この異常事態を感じ取っているのだろう。


「だが、このままでは国が沈む」


「国が?」


「この異変、紀伊国だけではあるまい」


波婆ははっとした顔になった。


「そういえば、昨日、大坂から来た商人が申しておりました。畿内各地で地震や豪雨が続いていると」


やはり。鉄心は頷いた。これは局所的な現象ではない。日本全土を巻き込む天変地異の始まりだ。


「七日後には、この国は海に沈むだろう」


波婆の顔が青ざめた。


「そんな、まさか」


「龍神の怒りとはそういうものだ」鉄心は滝を見上げた。「海を司る龍王が本気で怒れば、島国など簡単に海中に没する」


それは、三百年前に正宗から聞いた話だった。刀鍛冶は、様々な伝承に精通していた。その中に、龍王の力に関する記述もあった。


「では、どうすれば」


「まず、原因を探る必要がある」


鉄心は歩き始めた。


「案内しろ。神域に」


波婆は躊躇したが、やがて重い足取りで先に立った。


***


神域への道は険しかった。


滝の右手に細い山道があり、それを辿って山の中腹へと登っていく。普通の山道であれば、鉄心の脚力をもってすれば造作もないことだ。だが、今は違った。


一歩進むごとに、空気が重くなる。まるで水中を歩いているような抵抗感があった。そして、時折吹く風は氷のように冷たく、夏の暑さを完全に無効化していた。


「ここから先は、異界でございます」


波婆が立ち止まり、前方を指差した。


木立が途切れ、小さな開けた場所があった。その中央に、古い鳥居が立っている。鳥居の向こうには、深い霧が立ち込んでいて、先が見えない。


「あの鳥居をくぐると、もう人間の世界ではございません」


「分かった」


鉄心は躊躇なく鳥居に向かった。


「待ってください」


波婆が慌てて追いかけてきた。


「お一人では危険です。せめて、これを」


差し出されたのは、小さな鈴だった。銀製で、精巧な彫刻が施されている。


「龍神除けの鈴でございます。龍は金属の音を嫌います」


また鈴か。鉄心は苦笑した。これで何個目になるだろうか。おゆきの鈴、つばきの鈴、そして今度は龍神除けの鈴。


だが、断るわけにもいかない。鉄心は鈴を受け取り、懐にしまった。他の鈴と触れ合って、微かな音を立てた。


「では、行く」


鉄心は鳥居をくぐった。


瞬間、世界が変わった。


霧の中を一歩歩くと、そこは別世界だった。地面は雲のように柔らかく、足音が全く聞こえない。空は深い青色で、時折金色の雲が流れていく。そして、遠くから太鼓の音のようなものが聞こえてくる。


(これは、龍の鼓動か)


鉄心は確信した。今、自分は巨大な龍の体内にいるのだ。いや、正確には龍の精神世界というべきか。


霧の中を進んでいくと、やがて建物が見えてきた。


宮殿だった。


中国風の絢爛豪華な建築で、屋根には龍の装飾が施されている。全体が青い光に包まれており、まるで水中にあるかのように揺らめいていた。


宮殿の前には、一人の少女が立っていた。


年の頃は十六、七歳。青い髪を長く垂らし、同じく青い着物を身に纏っている。肌は透き通るように白く、瞳は深い海のような青色だった。美しいが、どこか人間離れした印象を与える。


「あなたが、鉄心ね」


少女が口を開いた。声は、まるで水が流れるように澄んでいた。


「瑠璃か」


「そう。東海龍王様のお使いを務めております」


瑠璃と名乗った龍女は、鉄心を見下ろすような表情で言った。


「わざわざお出でいただいたのは恐縮ですが、お帰りください」


「断る」


鉄心の即答に、瑠璃の表情が変わった。


「この異変の原因を探りに来た」


「原因など、決まっています」瑠璃の声が冷たくなった。「人間の愚かさと欲深さです」


「具体的には」


瑠璃は、宮殿の奥を指差した。


「紀伊国の守護大名、紀伊守重政がやったことです」


紀伊守重政。徳川家の分家である紀州藩の藩主だった。鉄心も名前は知っている。


「何をしたのだ」


「龍神の聖域を穢し、神聖なる鱗を盗み取ったのです」


瑠璃の怒りが、周囲の空気を震わせた。宮殿の青い光が激しく明滅する。


「龍の鱗を?」


「そう。それも、ただの鱗ではありません」瑠璃の瞳が炎のように燃えた。「東海龍王様の心臓に最も近い場所にあった、力の鱗です」


「それを盗んで、何をするつもりだ」


「決まっているでしょう」瑠璃は嘲笑った。「権力です。龍の力を手に入れて、この国を支配するつもりなのです」


なるほど。鉄心は状況を理解した。大名が龍の鱗を盗み、その力で何かを企んでいる。そして、それに怒った龍神が、国土を沈めようとしている。


「その鱗は、今どこに」


「重政の手中です」瑠璃は歯噛みした。「彼は、鱗の力で既に人を超えた存在になってしまいました」


「人を超えた?」


「半分龍になったのです。人の心を失い、龍の力だけを手に入れた化け物に」


鉄心の脳裏に、ある可能性が浮かんだ。


「その鱗を返せば、龍王の怒りは収まるか」


瑠璃は首を振った。


「もう遅いのです。聖域を穢された怒りは、簡単には収まりません」


「では、どうすれば」


「罰を受けることです」瑠璃は鉄心を見つめた。「人間の代表として、誰かが龍王様の罰を受ける。そうすれば、あるいは」


「わしが受けよう」


鉄心の言葉に、瑠璃は驚いたような顔をした。


「あなたが?」


「不死の身だ。どんな罰でも受けられる」


瑠璃は、しばらく鉄心を見つめていた。その瞳に、微かな戸惑いの色が浮かんでいる。


「なぜ、そこまで」


「このままでは、無辜の民が死ぬ」


鉄心は空を見上げた。金色の雲の向こうに、巨大な影がゆらめいているのが見える。おそらく、東海龍王の真の姿だろう。


「罪もない者たちを巻き込むわけにはいかん」


瑠璃の表情が、わずかに和らいだ。


「あなたは、変わった人間ですね」


「人間かどうかは、分からん」


鉄心は苦笑した。


「ただ、やるべきことをやるだけだ」


瑠璃は、長い間考えていた。やがて、重い口を開いた。


「龍王様に、お伺いを立てましょう。ですが」


「何だ」


「まず、重政を止める必要があります。このまま彼が鱗の力を使い続ければ、取り返しのつかないことになります」


「どこにいる」


「和歌山城です。ですが、今の彼は人間ではありません。普通の武器では傷つけることもできないでしょう」


瑠璃は、宮殿の中から一振りの刀を持ってきた。鞘は深い青色で、龍の鱗のような模様が描かれている。


「これは」


「水龍剣です。龍の力を封じることができる唯一の刀」


鉄心は刀を受け取った。かなり重い。通常の刀の倍はあるだろう。


「だが、この刀は諸刃の剣です」瑠璃が警告した。「使えば、使った者も龍の呪いを受けます」


「呪い?」


「永遠に水中でしか生きられなくなるのです」


つまり、この刀で重政を倒せば、自分は陸上で生活できなくなる。不死であろうと関係ない。永遠に海や川の中で過ごすことになる。


だが、他に方法はないようだった。


「分かった」


鉄心は水龍剣を腰に差した。


「あなたは、本当に人間なのですか」


瑠璃が、不思議そうに鉄心を見つめた。


「普通の人間なら、そんな犠牲を払おうとは思いません」


「三百年生きていれば、色々なことを学ぶ」


鉄心は踵を返した。


「待ってください」


瑠璃が呼び止めた。


「お名前を、教えてください」


「鉄心だ」


「本当のお名前を」


鉄心は振り返った。瑠璃の瞳が、真剣に鉄心を見つめている。


「柳生鉄之進」


「鉄之進様」瑠璃が深く一礼した。「もし、重政を倒すことができたら、龍王様に必ずお願いします」


「何をだ」


「呪いを解く方法を教えていただけるよう」


呪い。村雨丸の呪いのことだろう。


「龍王なら、知っているのか」


「存じ上げているかもしれません」瑠璃は微笑んだ。「龍王様は、この世のあらゆる秘密をご存知ですから」


それは、希望の光だった。三百年間探し続けてきた答えが、ようやく見えてきたのかもしれない。


「では、行ってこよう」


鉄心は霧の中に歩き去った。


瑠璃は、その後ろ姿をじっと見つめていた。


「あの方は、きっと」


宮殿の奥から、低い唸り声が響いてきた。東海龍王が、何かを言っているようだった。


瑠璃は、慌てて宮殿の中に走った。


***


現実世界に戻ると、波婆が心配そうに待っていた。


「お侍様、ご無事でしたか」


「ああ」


鉄心は、瑠璃から受け取った水龍剣を見せた。


「これで、決着をつける」


「その刀は」


「龍神から借りた」


鉄心は山を下り始めた。波婆も慌ててついてくる。


「どちらへ」


「和歌山だ。城に用がある」


和歌山城までは、那智から北西に一日の道のりだった。だが、今の状況では、まともに移動できるかどうか分からない。各地で地震が起きているし、道も寸断されているかもしれない。


だが、やるしかない。


鉄心は、急ぎ足で山道を下った。


滝は、相変わらず逆流していた。だが、先ほどより勢いが増している気がする。時間がない。


***


和歌山城に着いたのは、翌日の夕方だった。


道中、予想通りの混乱に遭遇した。地震で橋が落ち、山道は崩れ、各地で洪水が発生していた。人々は恐慌状態で、街道には避難する民衆が溢れていた。


だが、不思議なことに、和歌山城の周辺だけは静かだった。


地震も洪水もなく、まるで異変が起きていないかのようだった。それがかえって不気味だった。


城下町に入ると、人の姿が全く見えない。店は閉まり、家々の雨戸も下りている。まるで、街全体が死んでいるかのようだった。


(これは、龍の鱗の影響か)


鉄心は、腰の水龍剣を確認した。刀身が微かに振動している。近くに龍の力があることを感じ取っているのだろう。


城の正門は、固く閉ざされていた。だが、鉄心にとってそんなものは障害にならない。塀を飛び越え、城内に侵入した。


中庭も、人の気配がない。


本丸に向かう途中、ようやく人影を発見した。だが、それは生きている人間ではなかった。


石になっていた。


家臣らしい男が、恐怖の表情を浮かべたまま完全に石化している。その周りにも、数十人の石化した人々がいた。


(これは、月姫の石化と同じか)


だが、規模が違う。月姫の場合は数人だったが、ここでは城中の人間が全て石になっている。


本丸に向かうと、さらに異様な光景が待っていた。


天守閣の最上階から、青い光が立ち上っていた。まるで、巨大な松明のように空を照らしている。そして、その周囲には黒い雲が渦巻いていた。


(あそこに、重政がいる)


鉄心は天守閣に向かった。


内部も石化した人々で満ちていた。侍、女中、小姓。皆、何かから逃げるような姿勢で石になっている。


最上階に向かう階段を登る。一歩上がるごとに、空気が重くなる。まるで水中を歩いているような感覚だった。


そして、最上階に到着した。


そこには、もはや人間とは呼べない化け物がいた。


体は人間だが、全身が青い鱗に覆われている。頭には角が生え、口からは牙が覗いている。手足は爪が伸び、まるで龍の爪のようになっていた。


化け物——かつて紀伊守重政だった存在は、部屋の中央で何かの儀式を行っていた。


床には巨大な魔法陣が描かれ、その中央に青く光る鱗が浮かんでいた。龍の鱗——それが、今回の騒動の元凶だった。


「誰だ」


化け物が振り返った。顔は人間の面影を残していたが、瞳は完全に龍のそれだった。縦に細く、爬虫類的な瞳。


「邪魔をするな。今、この国を水没から救う儀式を行っているのだ」


「救う?」


鉄心は鼻で笑った。


「その鱗を使って、国を支配するつもりではないのか」


「支配?」化け物も笑った。「そんな小さなことは、もうどうでもいい」


化け物は両手を広げた。


「見よ、この力を。龍の力があれば、この国を水没から守ることも、新たな大陸を作ることも可能だ」


「その代償として、民を石に変えたか」


「石になることで、彼らは永遠の命を得た」化け物は満足そうに言った。「感謝してもらいたいくらいだ」


完全に狂っている。重政は、龍の力に取り憑かれて正気を失っていた。


「その鱗を返せ」


鉄心は水龍剣に手をかけた。


「返す?」化け物は首を振った。「これは、もう私の一部だ。返すわけにはいかん」


化け物が手を伸ばすと、鱗が宙を舞って彼の胸に張り付いた。瞬間、化け物の体が巨大化し始めた。


人の形を完全に失い、部屋いっぱいに広がる青い龍になった。だが、それは美しい龍ではない。歪み、腐敗し、狂気に満ちた醜い龍だった。


『我こそが、新たな龍王だ!』


龍となった重政が咆哮した。その声で、天守閣が激しく揺れる。


『この国は、我が支配する!』


龍の爪が、鉄心に向かって振り下ろされた。


鉄心は横に跳んで避けた。爪は床を粉砕し、大きな穴を開けた。


「瑠璃の言った通りだな」


鉄心は水龍剣を抜いた。


刀身は深い青色で、まるで海の底のように深い光を放っていた。柄を握ると、冷たい水が体に流れ込むような感覚があった。


『何だ、その刀は』


龍が警戒の色を見せた。本能で、この刀の危険性を感じ取ったのだろう。


「龍殺しの刀だ」


鉄心は、小柄な体を活かして龍の巨体の下に潜り込んだ。


水龍剣を下から突き上げる。


刀身が、龍の腹を貫いた。


『ぐあああああ!』


龍が苦悶の声を上げた。傷口から青い血が流れ出る。


だが、龍はまだ生きていた。


『この程度で!』


龍の尻尾が、鞭のように鉄心を襲った。


鉄心は後方に跳んで避けたが、尻尾の先端が右肩を掠めた。瞬間、肩の肉が凍りついた。


(これは、氷か)


龍の攻撃には、氷結の効果があるようだった。肩の感覚が失われていく。


だが、不死の力で凍傷はすぐに回復する。鉄心は再び龍に向かった。


今度は、首を狙った。


龍も必死に抵抗する。巨大な顎で鉄心を噛み砕こうとした。


鉄心は、龍の口の中に飛び込んだ。


『何を!』


龍が驚く間に、鉄心は喉の奥から水龍剣を突き上げた。


刀身が、龍の脳髄を貫く。


『ぐうう……』


龍の動きが止まった。巨体が、ゆっくりと崩れていく。


そして、龍の体から青い光が抜けていった。それは、龍の鱗だった。


『ありがとう……』


龍が消える直前、人間の声が聞こえた。重政の声だった。


『正気に……戻れた……』


完全に龍が消えると、部屋には静寂が戻った。


床に、青く光る鱗が転がっている。それと、石化が解けて人間に戻った重政の遺体が。


鉄心は鱗を拾い上げた。


手に取ると、とてつもない力を感じる。これを使えば、確かに国すら動かせるだろう。だが、その代償も大きい。重政のようになってしまう危険性がある。


鉄心は、鱗を懐にしまった。これを瑠璃に返さなければならない。


***


再び那智の滝に戻った時、異変は収まっていた。


滝は正常に流れ落ち、地震も止んでいた。全てが、元通りになっていた。


神域に向かうと、瑠璃が待っていた。


「お疲れさまでした」


「これを」


鉄心は龍の鱗を差し出した。


瑠璃は、恭しく鱗を受け取った。


「ありがとうございます。これで、龍王様のお怒りも収まるでしょう」


鱗は瑠璃の手の中で光り、やがて消えた。おそらく、龍王の元に戻ったのだろう。


「さて、約束の件だが」


鉄心が言うと、瑠璃は頷いた。


「龍王様にお伺いしました」


「それで?」


瑠璃の表情が曇った。


「申し訳ございません。龍王様も、村雨丸の呪いを解く方法はご存知ありませんでした」


鉄心は、落胆した。だが、予想していたことでもあった。


「ですが」


瑠璃が続けた。


「一つだけ、手がかりを教えてくださいました」


「何だ」


「天叢雲剣です。その剣があれば、あるいは」


やはり、天叢雲剣か。全ての道は、その聖剣に通じている。


「その剣は、今どこに」


「『雲の上』にあると」


雲の上。それは、以前竜からも聞いた言葉だった。


「雲の上とは、文字通りの意味か」


「いえ、おそらくは比喩でしょう」瑠璃は首を振った。「『最も高い場所』という意味かもしれません」


最も高い場所。それが何を指すのか、まだ分からない。


「それと、これを」


瑠璃は、小さな鱗を鉄心に渡した。


「龍王様から、お礼の品です」


「何に使う」


「危機の時に、一度だけ龍王様の力を借りることができます」瑠璃は微笑んだ。「きっと、お役に立つでしょう」


鉄心は鱗を受け取った。温かく、生きているように脈動している。


「では、お元気で」i


瑠璃が手を振ると、霧が立ち込めて彼女の姿が見えなくなった。


霧が晴れた時、そこには誰もいなかった。まるで、最初から何もなかったかのように。


***


那智の滝を後にして、鉄心は街道を歩いていた。


今回の出来事で、また一歩真実に近づいた。天叢雲剣の在り処に関する手がかりを得た。そして、いざという時に使える龍の力も。


だが、まだ道のりは長い。


『雲の上』が何を意味するのか。それを突き止めなければならない。


夕日が、山の端に沈もうとしていた。


オレンジ色の光が、街道を染めている。


ふと、鉄心は立ち止まった。


前方に、人影がいた。


旅装束の少年が、道の真ん中に座り込んでいる。年の頃は十二、三歳だろうか。


「どうした」


鉄心が声をかけると、少年は顔を上げた。


涙を流していた。


「お侍様……」


少年の声は震えていた。


「お母さんが……お母さんが……」


「どうした」


「黄泉の国に……連れて行かれてしまいました」


黄泉の国。


鉄心の胸が、ざわついた。それは、次の物語の始まりを予感させる言葉だった。


「詳しく話してみろ」


鉄心は、少年の隣に座った。


夕日の中で、新たな物語が動き始めようとしていた。


龍神の一件は終わった。だが、また新たな謎が現れた。


三百年の旅は、まだまだ続いていく。


そして、その旅路の先に、天叢雲剣が待っている。


(雲の上……)


鉄心は空を見上げた。


雲の間から、一筋の光が差し込んでいた。まるで、道しるべのように。


第九章 完

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