第八章 狐の嫁入り
狐火が、千本鳥居を駆け抜けていった。
鉄心は立ち止まり、朱色の鳥居が永遠に続くかのような参道を見上げた。皐月の満月が雲間から顔を覗かせ、その光が無数の鳥居を幻想的に照らし出している。伏見稲荷大社——古来より狐の神を祀る、この国有数の霊場。
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空気が、違う。
三百年の経験が、鉄心にそう告げていた。ただの神域ではない。人と人ならざる者の境界が、今夜は特に薄くなっている。
「助けて……誰か……」
風に乗って、若い女の声が聞こえてきた。だが、その声は現実のものか、それとも狐の幻術か。鉄心は小太刀の柄に手を置きながら、声の方向へと歩を進めた。
参道を外れ、竹林の中へ入る。月光が竹の葉を透かして、地面に複雑な影絵を描いていた。
やがて、小さな祠の前に出た。
そこに、一人の若い女が倒れていた。年の頃は十八、九といったところか。町娘の着物を着ているが、その質からして相当な商家の娘だろう。
だが、鉄心の目は別のものを捉えていた。
女の首筋に、微かに赤い毛が見える。人間のものではない。そして、月光の下で、その黒髪が一瞬、狐の尾のように見えた。
(狐か)
鉄心は警戒しながら近づいた。
「大丈夫か」
女が薄く目を開けた。その瞳が、一瞬、金色に光った。やはり、只の人間ではない。
「お侍様……私を……助けて……」
女は鉄心の袖を掴んだ。その手は、氷のように冷たかった。
「追われて……いるのです……」
「誰に」
「狐の……一族に……」
鉄心は眉をひそめた。狐が狐に追われている?
その時、周囲の気配が変わった。
竹林がざわめき、風が止んだ。そして、無数の狐火が、ゆらゆらと現れ始めた。
「来たか」
鉄心は、鳴神と稲妻を抜いた。
狐火に囲まれながら、人影が現れた。いや、人の姿をしているが、その気配は明らかに妖狐のものだ。
先頭に立つのは、白髪の老人。だが、その背後に九本の尾が揺らめいているのが、鉄心には見えた。
「そこの侍よ」
老人が口を開いた。声に、妖力が込められている。常人なら、その声だけで操られてしまうだろう。
「その女を渡してもらおう」
「断る」
鉄心の即答に、老人は眉をひそめた。
「愚かな。人間が妖狐の争いに介入すれば、命はないぞ」
「それは、こちらの台詞だ」
鉄心は、二刀を構えた。小太刀が月光を反射して、青白く光る。
「ほう……」
老人の目が細まった。
「その刀……鳴神と稲妻か。そして、その身に宿る気配……まさか、不死者か」
「だとしたら、どうする」
老人は、しばらく鉄心を見つめていた。そして、意外なことを言った。
「ならば、話し合いで解決しよう」
***
場所は変わって、伏見稲荷の社務所。
深夜にも関わらず、神主が恭しく茶を出してきた。この神主も、狐の血を引く者のようだ。
鉄心と、倒れていた女——名を紺という——そして白髪の老人が、向かい合って座っていた。
「私の名は、白面金毛九尾」
老人が名乗った。その名を聞いて、鉄心は内心驚いた。九尾の狐といえば、妖狐の頂点に立つ存在。
「紺は、我が一族の者だ」
「しかし、見たところ五尾といったところか」
鉄心の指摘に、白面は頷いた。
「よく見抜いた。いかにも、紺は五尾の狐。私の孫娘にあたる」
紺が顔を上げた。
「祖父様、私は……」
「黙っていろ」
白面の一喝に、紺は口をつぐんだ。
「紺は、一族の掟を破った。人間と恋に落ち、妖狐の身を捨てようとしている」
なるほど、そういうことか。鉄心は、紺を見た。
確かに、よく見れば妖狐の気配は薄い。人間になろうとしているのか。
「それの何が問題だ」
「妖狐と人間は、相容れぬ存在。それが千年来の掟だ」
白面の声に、怒りが滲んだ。
「だが、最近の若い者は、その掟を軽んじる。人間の町に紛れ込み、人間のように生きようとする」
「それで?」
「紺を連れ戻す。そして、妖狐の世界で生きるよう、改めて教育する」
紺が震え声で言った。
「私は……佐吉様と一緒にいたい……」
佐吉。恐らく、紺が恋した人間の男の名だろう。
「愚かな」
白面が吐き捨てるように言った。
「人間の寿命は短い。五十年、長くても七十年。それに対し、妖狐は千年を生きる。最初から、釣り合わぬ恋だ」
その言葉に、鉄心の胸が痛んだ。
不死者である自分も、同じ苦しみを知っている。愛する者は老い、死んでいく。だが、自分だけは変わらない。その孤独と絶望を。
「紺」
鉄心が口を開いた。
「そなたは、本当に人間になりたいのか」
「はい」
紺は、迷いなく答えた。
「たとえ、寿命が短くなっても、佐吉様と同じ時を生きたい」
「後悔はないか」
「ありません」
その決意の強さに、鉄心は頷いた。
「白面金毛九尾」
鉄心は、老狐を見た。
「紺の決意は固い。認めてやってはどうだ」
「できぬ」
白面は首を振った。
「これは、一族の問題だ。部外者は口を出すな」
「部外者ではない」
鉄心は立ち上がった。
「わしは、紺を保護した。ならば、責任がある」
白面の目が、危険な光を帯びた。
「不死者よ、過信するな。いくら不死といえど、魂を封印されれば、永遠の苦しみを味わうことになる」
脅しか。だが、鉄心は引かなかった。
「やってみるか」
二人の間に、緊張が走った。
一触即発の空気の中、紺が立ち上がった。
「待ってください!」
紺は、白面と鉄心の間に入った。
「祖父様、お願いです。私に一つ、機会をください」
「機会?」
「三日間……いえ、一日でいいです。佐吉様と話をさせてください。その上で、もし佐吉様が私を拒絶したら、おとなしく妖狐の世界に戻ります」
白面は、孫娘を見つめた。
「佐吉は、お前の正体を知っているのか」
「いいえ……」
「ならば、知れば必ず拒絶する。人間とはそういうものだ」
紺の顔が曇った。それでも、諦めなかった。
「それでも、試させてください」
白面は、長い沈黙の後、頷いた。
「よかろう。明日の夜、月が最も高い時刻に、この場所で会おう。それまでに、決着をつけよ」
そう言うと、白面は狐火と共に消えた。
残された紺は、その場に崩れ落ちた。
「大丈夫か」
鉄心が声をかけると、紺は涙を流しながら頷いた。
「ありがとうございます……でも、祖父様の言う通りかもしれません……」
「佐吉という男は、どんな人物だ」
「優しくて、真面目で……呉服問屋の跡取りです」
呉服問屋か。確かに、商家の人間なら、妖狐を受け入れるのは難しいかもしれない。
「だが、試してみなければ分からない」
鉄心は、紺を立たせた。
「案内しろ。その佐吉とやらに会いに行く」
***
京の町は、夜更けでも人通りがあった。
特に、祇園界隈は灯りが消えない。芸者や舞妓が行き交い、客を楽しませる店が軒を連ねている。
紺の案内で着いたのは、その祇園から少し離れた、静かな商家町だった。
「あれが、佐吉様のお店です」
紺が指差したのは、「近江屋」という看板を掲げた大きな呉服問屋だった。
もう深夜だというのに、二階の一室にまだ灯りが見えた。
「あれは、佐吉様の部屋です」
「まだ起きているのか」
「最近、よく遅くまで帳簿をつけていらっしゃいます」
紺の声に、愛おしさが滲んでいた。
二人は、店の裏手に回った。紺が、慣れた様子で塀を越える。鉄心も後に続いた。
「よく来るのか」
「はい……夜な夜な、こうして会いに」
それは、恋する女の行動だった。人も妖狐も、恋をすれば変わらない。
二階に上がり、障子の前に立つ。
中から、筆を走らせる音が聞こえる。
「佐吉様」
紺が小声で呼ぶと、筆の音が止まった。
「紺か?」
障子が開き、青年が顔を出した。
二十二、三の好青年だった。実直そうな顔立ちで、確かに紺が惚れるのも分かる。
「こんな時間に、どうした……」
佐吉は、紺の隣に立つ鉄心に気づいて、警戒の色を見せた。
「この方は?」
「私の……恩人です」
紺が説明すると、佐吉は礼をした。
「それは、ありがとうございます。私は近江屋の佐吉と申します」
「鉄心だ」
簡潔に名乗り、鉄心は佐吉を観察した。
なるほど、悪い男ではなさそうだ。だが、妖狐を受け入れられるかは別問題だ。
「佐吉様、お話があります」
紺が、意を決したように言った。
「私の……本当のことを」
佐吉は、紺の真剣な表情を見て、頷いた。
「分かった。中に入ってくれ」
三人は、佐吉の部屋に入った。
質素だが、整頓された部屋だった。商人らしく、算盤と帳簿が並んでいる。
「実は……」
紺が話し始めようとした時、佐吉が遮った。
「紺、その前に、俺から言いたいことがある」
佐吉は、紺の手を取った。
「俺は、お前と結婚したい」
突然の求婚に、紺は目を見開いた。
「でも……私は……」
「分かっている」
佐吉の次の言葉に、鉄心も驚いた。
「お前が、普通の人間じゃないことは」
紺が息を呑んだ。
「知って……いたのですか?」
「全てを知っているわけじゃない。でも、お前の体温が低いこと、月の夜にしか会いに来ないこと、そして時々、瞳が金色に光ること」
佐吉は、優しく微笑んだ。
「最初は怖かった。でも、それ以上に、お前を愛していることに気づいた」
「佐吉様……」
「だから、正体が何であろうと、俺は構わない」
紺の目から、涙が溢れた。
だが、鉄心は冷静だった。
「本当に、覚悟はあるのか」
鉄心が口を挟むと、佐吉は鉄心を見た。
「あります」
「紺は、妖狐だ。人間ではない」
はっきりと告げると、佐吉は一瞬たじろいだ。だが、すぐに頷いた。
「そうですか……妖狐……」
「恐ろしくないのか」
「恐ろしいです。でも」
佐吉は、紺を見つめた。
「この人を失う方が、もっと恐ろしい」
その言葉に、嘘はなかった。
鉄心は、微かに頷いた。この男なら、あるいは——
その時、突然部屋の温度が下がった。
「誰だ」
鉄心が身構えると、部屋の隅から、黒い影が立ち上がった。
影は、徐々に人の形を取っていく。現れたのは、黒装束の男だった。顔は、狐の面で隠されている。
「紺様、お迎えに上がりました」
男の声は、感情がなかった。
「黒狐……」
紺が震え声で呟いた。
「祖父様は、明日まで待つと」
「白面様は、そう仰いました。しかし、族長様は違います」
族長。白面よりさらに上の存在がいるのか。
「族長様は、今すぐ紺様を連れ戻せと」
黒狐が一歩前に出た。その瞬間、佐吉が紺の前に立ちはだかった。
「紺は渡さない」
勇気ある行動だったが、無謀でもあった。
黒狐が手を振ると、佐吉は見えない力で壁に叩きつけられた。
「佐吉様!」
紺が駆け寄ろうとしたが、黒狐がそれを阻んだ。
「紺様、素直に従ってください。でなければ、この人間を殺します」
「やめて!」
「ならば、来なさい」
紺は、絶望的な顔で頷きかけた。
その時、鉄心が動いた。
鳴神を抜くと同時に、黒狐との間合いを詰める。
黒狐は反応したが、鉄心の方が速かった。
鳴神の切っ先が、狐の面を弾き飛ばす。
面の下から現れたのは、若い男の顔だった。だが、その顔の半分は、狐の毛で覆われている。半妖か。
「貴様……」
黒狐が、鉄心を睨んだ。
「邪魔をするな、人間」
「人間ではない」
鉄心は、稲妻も抜いた。
「不死者だ」
二刀を構える鉄心に、黒狐は舌打ちした。
「不死者が、なぜ妖狐の問題に」
「成り行きだ」
鉄心と黒狐が対峙する中、紺が口を開いた。
「黒狐、お願い。もう少しだけ、時間を」
「無理です。族長様の命令は絶対」
「なら、力ずくで」
鉄心が一歩踏み出した時、部屋に新たな気配が現れた。
今度は、白い狐火と共に、一人の女性が現れた。
銀髪の美女。だが、その背後には、白い狐の尾が九本揺れている。
「母様!」
紺が叫んだ。
母親か。ということは、白面の娘。
「紺、もうお止めなさい」
女性——紺の母の声は、優しかった。
「あなたのために言っているのよ」
「でも、私は」
「人間との恋は、悲劇しか生みません」
母の目に、深い悲しみが宿っていた。
「私も、かつて人間を愛しました」
その告白に、紺が驚いた。
「母様も?」
「ええ。でも、その人は私の正体を知って、去っていきました」
母は、佐吉を見た。
「この人間も、いずれ同じことをする」
「違います!」
佐吉が、よろめきながら立ち上がった。
「俺は、紺を裏切らない」
「人間の誓いなど、信じられません」
母の声が、冷たくなった。
「紺、選びなさい。妖狐として生きるか、それとも——」
母が手を上げると、部屋の中に無数の狐火が現れた。
「この場で、人間と共に灰になるか」
脅しではなかった。母の瞳には、本気の殺意が宿っている。
紺は、震えながらも前に出た。
「分かりました、母様」
「紺?」
佐吉が、信じられないという顔をした。
紺は振り返り、佐吉に微笑んだ。
「ごめんなさい、佐吉様。私は、妖狐として生きます」
「嘘だろ……」
「これが、私の選択です」
紺は、母の元へ歩いていく。
だが、鉄心には分かっていた。紺の選択の理由が。
佐吉を守るためだ。このままでは、本当に殺される。それを避けるために、紺は自分を犠牲にしようとしている。
「待て」
鉄心が声をかけた。
「紺、それでいいのか」
「はい」
紺は振り返らずに答えた。
「佐吉、お前もそれでいいのか」
鉄心の問いに、佐吉は立ち上がった。
「よくない!」
佐吉は、よろめきながらも紺に近づいた。
「紺、俺を見てくれ」
紺が振り返ると、佐吉は懐から何かを取り出した。
小さな、銀の鈴だった。
「これは……」
「お前が初めて店に来た時、落としていった鈴だ」
佐吉は、鈴を鳴らした。澄んだ音が、部屋に響く。
「この音を聞くと、お前を思い出す。そして、決めたんだ。お前が何者であろうと、俺はお前を愛すると」
「佐吉様……」
「だから、行かないでくれ」
佐吉は、紺の手を取った。
「妖狐でも、人間でも、何でもいい。ただ、一緒にいてくれ」
紺の目から、再び涙が流れた。
母が、ため息をついた。
「愚かな人間……」
母が再び手を上げようとした時、鉄心が前に出た。
「少し、いいか」
鉄心は、母を見据えた。
「あなたは、人間に裏切られたと言った。だが、本当にそうか?」
「どういう意味です」
「あなたが愛した人間は、恐怖から去ったのではない。あなたを守るために、去ったのではないか」
母の顔色が変わった。
「な、何を根拠に」
「三百年生きていると、色々なものが見える」
鉄心は、静かに続けた。
「人間と妖怪の恋は、確かに困難だ。だが、不可能ではない。現に」
鉄心は、懐から小さな勾玉を取り出した。
影隠れの里で、楓から受け取ったものだ。
「これは、かつて人間を愛した妖怪の想いが込められている。悲劇に終わったが、それでも後悔はなかったと」
勾玉が、微かに光を放った。
母は、その光を見つめていた。そして、深い息をついた。
「紺」
母が、娘の名を呼んだ。
「あなたは、本当に人間として生きる覚悟があるの?」
「はい」
「寿命が尽きても、後悔しない?」
「しません」
紺の答えは、迷いがなかった。
母は、長い沈黙の後、頷いた。
「分かりました」
そして、懐から小さな玉を取り出した。
「これは、妖狐の力を封じる珠。これを持っている限り、あなたは人間として生きられます」
「母様……」
「ただし、一度封じたら、二度と妖狐には戻れません」
それは、重い選択だった。
紺は、珠を見つめた。そして、迷いなく手に取った。
「ありがとうございます、母様」
珠を握った瞬間、紺の体から妖気が消えた。完全な人間になったのだ。
黒狐が、驚きの声を上げた。
「奥方様、族長様に何と」
「私が説明します」
母は、黒狐を見据えた。
「これは、私の娘の選択。文句があるなら、私が相手になります」
九尾の妖狐の威圧に、黒狐は黙り込んだ。
母は、紺に向き直った。
「幸せになりなさい、紺」
「母様……」
母と娘は、抱き合った。
そして、母は鉄心を見た。
「不死者よ、礼を言います」
「礼を言われることはしていない」
「いいえ、あなたのおかげで、私も昔の想いに決着がつけられました」
母は、微笑んだ。
「もし、困ったことがあれば、伏見稲荷にいらしてください。妖狐一族は、あなたに借りができました」
そう言うと、母と黒狐は、狐火と共に消えた。
残されたのは、鉄心と、紺と佐吉。
佐吉が、紺を抱きしめた。
「よかった……本当によかった」
「佐吉様……ごめんなさい、隠していて」
「謝ることはない。これからは、正直に生きよう」
二人の姿を見て、鉄心は静かに部屋を出ようとした。
「鉄心様!」
紺が呼び止めた。
「本当に、ありがとうございました」
「恩に着ることはない」
鉄心は振り返らずに言った。
「ただ、幸せに生きろ。それが、人間として生きる選択をした者の務めだ」
鉄心は、近江屋を後にした。
***
翌日の昼、鉄心は伏見稲荷に参拝していた。
約束の時間には早いが、白面金毛九尾に報告するためだった。
本殿で手を合わせていると、後ろから声がかかった。
「結局、丸く収まったようだな」
振り返ると、白面が立っていた。昨夜とは違い、普通の老人の姿をしている。
「知っていたのか」
「孫娘のことだ。大体の予想はついていた」
白面は、鉄心の隣に立った。
「娘——紺の母も、説得してくれたようだな」
「そのようだ」
「実は、あの娘も、かつて同じ選択を迫られた。だが、その時は妖狐として生きることを選んだ」
白面の目に、複雑な感情が浮かんだ。
「今でも、時々思うのだ。あの時、違う選択をしていたら、と」
「後悔しているのか」
「後悔ではない。ただ、違う人生もあったのだろうと」
白面は、空を見上げた。
「不死者よ、お前も同じだろう」
鉄心は答えなかった。答える必要もなかった。
「一つ、聞きたい」
白面が言った。
「お前は、なぜ紺を助けた。見ず知らずの妖狐を」
鉄心は、少し考えてから答えた。
「同じだからだ」
「同じ?」
「人と人ならざる者の境界で生きる者。その孤独と苦しみを、わしも知っている」
白面は、鉄心を見つめた。
「不死者よ、お前は優しいな」
「優しさではない。ただの共感だ」
「それを、世間では優しさと言う」
白面は、懐から何かを取り出した。
「これを」
それは、小さな狐の面だった。手のひらに収まるほどの大きさ。
「これは?」
「護符だ。妖狐一族の加護がある。いつか、役に立つだろう」
鉄心は、面を受け取った。
「恩に着る」
「恩ではない。これは、取引だ」
白面の目が、真剣になった。
「不死者よ、一つ頼みがある」
「何だ」
「いずれ、大きな災いが起こる。その時、紺と佐吉を守ってほしい」
災い。白面は、何か知っているのか。
「どんな災いだ」
「まだ、はっきりとは分からん。だが、妖狐の間で噂になっている。百年に一度の大災厄が、近づいていると」
百年に一度。鉄心の記憶が、何かを探り当てようとした。だが、思い出せない。
「分かった。できる限りのことはしよう」
「それで十分だ」
白面は、踵を返した。
「では、さらばだ。不死者よ」
「待て」
鉄心が呼び止めると、白面が振り返った。
「天叢雲という刀を知っているか」
白面の顔が、一瞬強張った。
「なぜ、その名を」
「探している」
「……東の海の向こうにあると聞いたことがある」
東の海。それは、また漠然とした情報だ。
「それ以上は知らん。だが、一つ忠告しておく」
白面の声が、低くなった。
「天叢雲は、村雨丸と対を成す聖剣。だが、それを手にすることは、新たな呪いを受けることでもある」
新たな呪い。
「覚悟はあるか、不死者よ」
鉄心は、迷いなく答えた。
「ある」
白面は、深く頷いた。
「ならば、探すがいい。だが、気をつけろ。天叢雲を求める者は、お前だけではない」
それだけ言うと、白面は本当に姿を消した。
鉄心は、一人残された。
千本鳥居を見上げる。朱色の鳥居が、どこまでも続いている。
まるで、自分の旅のようだ。終わりが見えない、永遠の道。
だが、今日は少し違った。
紺と佐吉の幸せな顔が、心に残っている。人と妖狐の恋が、成就した瞬間。
(不可能も、可能になることがある)
ならば、自分の呪いも、いつか——
鉄心は、歩き始めた。
次の目的地は決まっていない。だが、東を目指すことにした。
天叢雲の手がかり。それが、どんなに曖昧でも、追い求める価値はある。
伏見稲荷を後にし、街道を東へ向かう。
道の先で、商家の若夫婦が仲良く歩いているのが見えた。紺と佐吉だった。
二人は、鉄心に気づいて手を振った。
鉄心も、小さく手を上げて応えた。
そして、別の道へと曲がっていった。
彼らには彼らの人生がある。そして、自分には自分の道がある。
交わることのない、平行線。
だが、一瞬でも交差したことに、意味はあった。
鉄心の小柄な後ろ姿が、夏の日差しの中を歩いていく。
その影は、今日は少し、軽やかに見えた。
***
三日後、鉄心は琵琶湖のほとりにいた。
宿で聞いた噂によると、この辺りで奇妙なことが起きているという。
夜な夜な、湖から竜のような何かが現れ、漁師の舟を襲うというのだ。
(竜か)
もし本当なら、天叢雲と何か関係があるかもしれない。古来より、竜と聖剣には深い繋がりがあると聞く。
日が沈み始めた頃、鉄心は湖畔に立っていた。
静かな湖面が、夕日を反射して金色に輝いている。
と、その時、水面が波立った。
何かが、水中から上がってくる。
鉄心は、小太刀に手をかけた。
水飛沫を上げて現れたのは——
「鉄心殿ではないか」
意外な人物だった。白雲法師。影隠れの里で別れて以来だ。
「白雲殿、なぜここに」
「それは、こちらの台詞です」
白雲は、苦笑しながら水から上がってきた。全身ずぶ濡れだ。
「実は、竜神様の封印が解けかけているのです」
「竜神?」
「はい。琵琶湖には、古来より竜神が祀られています。しかし、最近その封印に綻びが」
白雲は、懐から濡れた札を取り出した。
「これを貼り直しに来たのですが、どうも上手くいかなくて」
札は、水でふやけて使い物にならなくなっていた。
「手伝いましょうか」
「恐れ入ります」
二人は、湖畔の祠へ向かった。
小さな祠だが、確かに強い霊気を感じる。そして、その奥から、何か巨大な存在の気配が。
「この下に、竜神が」
「はい。正確には、竜神の一部。鱗だそうです」
鱗。鉄心の脳裏に、何かが引っかかった。
「その鱗は、いつから」
「三百年前からと聞いています」
また三百年前。全てが、その時代に繋がっている。
白雲が新しい札を取り出し、祠に貼ろうとした時、轟音と共に地面が揺れた。
「地震か!」
いや、違う。これは——
湖の中央から、巨大な水柱が立ち上がった。
その中から、何かが姿を現す。
竜だった。
正確には、竜の形をした水の塊。だが、その中心に、青く光る鱗が一枚見える。
『誰だ……我が眠りを……妨げる者は……』
竜の声が、直接頭に響いてきた。
白雲が慌てて礼をした。
「申し訳ございません、竜神様。封印を直しに」
『封印……そうか……我は……封印されていたのか……』
竜は、ゆっくりと首を巡らせた。そして、鉄心を見た。
『お前は……』
竜の声が、驚きに変わった。
『村雨丸の……呪いを受けし者……』
「いかにも」
鉄心が答えると、竜は大きく笑った。水柱が激しく揺れる。
『面白い……実に面白い……』
「何がおかしい」
『知らぬのか……村雨丸と……天叢雲……そして我ら竜族……全ては繋がっている……』
竜の言葉に、鉄心は身を乗り出した。
「詳しく聞かせてもらおう」
『よかろう……だが……代価を払え……』
「代価?」
『我と……戦え……』
竜が大きく口を開けた。水の奔流が、鉄心に向かって放たれる。
鉄心は横に跳んで避けた。水流は地面を抉り、大穴を開けた。
「危ない!」
白雲が叫んだが、鉄心は既に動いていた。
鳴神と稲妻を抜き、竜に向かって駆ける。
だが、竜の体は水。斬っても斬っても、すぐに再生する。
『無駄だ……物理的な攻撃は……効かぬ……』
ならば——
鉄心は、無刀流の構えを取った。
心剣一体。
青白い光が、鉄心の体から立ち上がる。
『ほう……それは……』
竜が興味深そうに見つめる中、鉄心は心剣を振るった。
精神の刃が、竜の水の体を切り裂く。
今度は、再生しなかった。
『見事……』
竜が満足そうに言った。
『合格だ……話してやろう……』
竜は、ゆっくりと水に戻りながら語り始めた。
『三百年前……五郎入道正宗は……三振りの刀を打った……』
三振り? 村雨丸だけではないのか。
『一つは……村雨丸……呪いの妖刀……』
『一つは……天叢雲……祝福の聖剣……』
『そして最後の一つは……』
竜の声が、途切れそうになった。
『竜哭丸……りゅうこくまる……我らの鱗を……材料とした……最強の刀……』
竜哭丸。初めて聞く名だ。
『その刀は……今……どこに……』
竜の姿が、完全に水に戻ろうとしていた。
『東……東の果て……雲の上……そこに……三振りは……』
それきり、竜の声は聞こえなくなった。
湖は、何事もなかったかのように静かになった。
白雲が、呆然と立っていた。
「今のは……」
「竜神の本体の一部でしょう」
鉄心は、湖を見つめていた。
東の果て。雲の上。
天叢雲だけでなく、竜哭丸という刀も存在する。
謎は深まるばかりだった。
「鉄心殿」
白雲が、真剣な顔で言った。
「私も、共に東へ行きます」
「なぜ」
「三振りの刀が揃う時、何かが起こる。良いことか、悪いことか分かりませんが、陰陽師として見届ける責任があります」
鉄心は、少し考えてから頷いた。
「好きにしろ」
二人は、東へ向かって歩き始めた。
琵琶湖の水面が、最後の夕日を反射していた。
まるで、竜の鱗のように、青く、美しく。
第八章 完




