第七章 天狗の試練
山が、呼んでいた。
鉄心は立ち止まり、霧に包まれた霊峰を見上げた。文政五年春分の日、大和国の天狗岳は異様な雰囲気に包まれていた。山頂を覆う雲が時折赤く染まり、まるで山全体が息をしているかのように見える。麓の修験者の里から響く太鼓の音が、規則正しく山腹にこだまし、鴉の群れが不穏な円を描いて飛び交っている。
三日前、江戸への道中で奇妙な噂を耳にした。天狗岳で「試練」が始まったという。各地から集まった武芸者たちが次々と山に登り、そして二度と戻らない。いや、正確には戻ってくるのだが、皆一様に廃人同然となり、刀を見るだけで震え上がるという。
(また、面倒事か)t
鉄心は軽くため息をついた。三百年も生きていると、この手の怪異には慣れたものだが、それでも関わらずに済むなら、それに越したことはない。だが、山が呼んでいる。文字通り、山全体から発せられる霊気が、鉄心の中の何かを刺激していた。
「お侍様、こちらへは初めてですかな」
振り返ると、杖をついた老人が立っていた。修験者の装束を身に着けているが、その目には只ならぬ光が宿っている。
「ああ、通りすがりだ」
「通りすがりで、この時期に天狗岳へ向かわれるとは」老人は意味深に微笑んだ。「お侍様も、試練を受けに?」
「試練?」
「はい。山頂におわす大天狗様が、百年に一度、武芸者に試練をお与えになるのです」
百年に一度。その言葉に、鉄心の記憶が反応した。二百年前、確かに似たような話を聞いたことがある。当時は関わらなかったが。
「その大天狗とは、何者だ」
老人の顔が真剣になった。
「紅葉丸様。千年を生きる武術の祖にして、天狗の長。人であった頃は、どんな流派の技も一目で見切り、千の武術を極めたお方」
千の武術。大げさな話だと思いつつも、鉄心は興味を惹かれた。
「そなたは、修験者か」
「はい。この里で、山の番人をしております」
「では、聞くが、なぜ武芸者たちは廃人になって戻る」
老人は辺りを見回し、声を潜めた。
「恐怖です。絶対的な力の差を見せつけられ、己の無力を思い知らされる。それに耐えられず、心が折れるのです」
「なるほど」
鉄心は山を見上げた。確かに、尋常ではない気配が漂っている。
「お侍様」老人が言った。「失礼ながら、お一人では危のうございます。今年は特に、多くの若者が挑戦しておりまして」
「若者?」
「はい。中でも、剣心という少年が。まだ十七だというのに、既に三つの流派を極めたという天才剣士です」
天才、か。鉄心は苦笑した。三百年の間に、何人の天才を見てきたことか。
「その剣心とやらは、今どこに」
「三日前に山に入りました。まだ戻っておりません」
三日。通常なら、とうに心が折れて戻ってくる頃だ。
「面白い」
鉄心は歩き始めた。
「お待ちください!」
老人が止めようとしたが、鉄心は振り返らなかった。ただ、一言。
「心配無用」
***
山道は、予想以上に険しかった。いや、険しいというより、異様だった。
重力が場所によって変化し、時には体が浮き上がりそうになり、時には地面に押し付けられそうになる。木々の生え方も不自然で、まるで上下が逆転したかのような光景が広がっている。
一の鳥居を過ぎた辺りから、幻覚が始まった。
突然、目の前に巨大な蜘蛛が現れたかと思えば、次の瞬間には深い谷底に立っている。だが、鉄心は動じなかった。幻覚には慣れている。二百年前、幻術使いとの戦いで散々経験した。
「小細工だな」
鉄心は目を閉じ、心眼で道を探った。すると、幻覚は霧のように消え、本来の山道が見えてきた。
二の鳥居に差し掛かると、今度は重力の異常が激しくなった。一歩進むごとに、体重が倍になったり半分になったりする。普通の人間なら、とうに体のバランスを崩しているだろう。
だが、鉄心の小柄な体は、この変化に素早く適応した。重心を低く保ち、猫のような身のこなしで進んでいく。むしろ、大柄な武芸者の方が、この試練には苦労するだろう。
「ほう、なかなかやるな」
声が、どこからともなく聞こえてきた。若い男の声だ。
振り返ると、岩の上に一人の少年が座っていた。年の頃は十七、八。鋭い目つきと、腰に差した二振りの刀が印象的だった。
「剣心か」
「いかにも」少年は飛び降りて、鉄心の前に立った。「あんたは?」
「鉄心」
「鉄心……聞いたことがある名だ」剣心の目が光った。「まさか、不死身の鉄心?」
「そう呼ぶ者もいる」
剣心は、鉄心を頭からつま先まで眺めた。
「小さいな。俺より頭一つ低い」
「体の大きさと強さは関係ない」
「それは同感だ」剣心は苦笑した。「俺の親父も、そう言っていた」
「そなたの父は?」
「剣聖と呼ばれた男だ。もう死んだがな」
剣聖。その呼び名に心当たりがあった。五十年前、一度だけ手合わせしたことがある。確かに、見事な剣術だった。
「それで、そなたはなぜここに」
「親父を超えるためだ」剣心の目に、狂気にも似た執念が宿っていた。「親父は、生涯不敗を誇った。だが、一度だけ、引き分けた相手がいると言っていた」
「ほう」
「小柄な坊主頭の侍。まさか、あんたか?」
鉄心は答えなかった。記憶を探る。確かに、五十年前の相手とは引き分けた。互いに決め手を欠いたまま、夜明けまで戦い続けた末の引き分けだった。
「まあいい」剣心は踵を返した。「俺は先に行く。山頂で会おう」
「待て」
鉄心が呼び止めたが、剣心は振り返らなかった。
「忠告はいらない。俺は、誰の助けも借りない」
少年の後ろ姿が、霧の中に消えていった。
(意地っ張りな小僧だ)
鉄心は苦笑しつつ、先を急いだ。
***
三の鳥居を過ぎると、時間の流れが歪み始めた。
一歩進むのに、まるで水の中を歩いているような抵抗を感じる。逆に、時折急激に時間が加速し、気がつくと数十メートルも進んでいることがある。
この異常な現象の中を進みながら、鉄心は過去の記憶が蘇るのを感じていた。
三百年前、まだ柳生鉄之進だった頃の記憶。兄・鉄馬と共に剣術の稽古に明け暮れた日々。そして、あの運命の夜——
「うわああああ!」
叫び声で、鉄心は我に返った。
前方で、誰かが倒れている。近づいてみると、若い武芸者だった。目を見開いたまま、がたがたと震えている。
「大丈夫か」
鉄心が声をかけると、男は飛び上がった。
「く、来るな! 化け物!」
男は這うようにして逃げ出した。恐怖で正気を失っているようだ。
(これが、廃人になって戻るということか)
更に進むと、同じような武芸者が何人も倒れていた。皆、恐怖に顔を歪ませ、うわごとのように何かを呟いている。
「強すぎる……」
「勝てない……絶対に勝てない……」
「人間じゃない……あれは人間じゃない……」
その言葉から、彼らが見たものの恐ろしさが伝わってきた。
やがて、霧が晴れ、視界が開けた。
そこは、山頂近くの平地だった。天然の闘技場とでも言うべき、円形の空間。そして、その中央に——
巨大な影が立っていた。
身の丈三メートルはあろうかという巨躯。赤い顔に、長い鼻。背中には漆黒の翼。手には鋼鉄のような羽団扇。
大天狗・紅葉丸。
その足元に、剣心が膝をついていた。全身傷だらけで、刀も折れている。
「まだやるか、小僧」
紅葉丸の声は、雷鳴のように響いた。
「ま、まだだ……」
剣心は立ち上がろうとしたが、体が言うことをきかない。それでも、目だけは紅葉丸を睨み続けている。
「見事な執念だ。だが、それだけでは勝てぬ」
紅葉丸が羽団扇を振るうと、突風が巻き起こり、剣心の体が吹き飛ばされた。岩に叩きつけられ、意識を失う。
「次は誰だ」
紅葉丸の視線が、鉄心を捉えた。
「ほう、また小さいのが来たか」
鉄心は、ゆっくりと前に出た。
「鉄心と申す」
「鉄心……その名、どこかで」紅葉丸の目が細まった。「そうか、貴様が不死身の鉄心か」
「いかにも」
「なるほど、確かに只者ではない気配だ」紅葉丸は興味深そうに鉄心を眺めた。「その身に宿る、異様な力。村雨丸の呪いか」
さすがに千年を生きる存在、一目で見抜かれた。
「では、問おう」紅葉丸が羽団扇を構えた。「貴様は、何のために武を磨く」
「生きるため」
「ほう」
「死ねない身となった以上、生き続けるしかない。そのためには、強くあらねばならぬ」
紅葉丸は、しばし沈黙した。
「つまらぬ答えだ」
次の瞬間、紅葉丸が消えた。
いや、消えたのではない。あまりの速さに、目が追いつかないのだ。
本能的に、鉄心は横に跳んだ。直後、立っていた場所に羽団扇が振り下ろされ、地面が深くえぐれた。
「反応は悪くない」
紅葉丸の攻撃は止まらない。羽団扇を振るうたびに、暴風が巻き起こり、岩が砕け、地面が割れる。
鉄心は、その攻撃を紙一重でかわし続けた。小柄な体を最大限に活かし、最小限の動きで回避する。
「ちょこまかと、鬱陶しい」
紅葉丸が苛立ち始めた頃、鉄心は初めて小太刀を抜いた。
鳴神と稲妻。
二振りの小太刀が、陽光を反射して光る。
「ようやく抜いたか」
鉄心は無言で構えた。右手に鳴神、左手に稲妻。小太刀二刀流の基本の構えだが、重心が異様に低い。
「来い」
紅葉丸の挑発に、鉄心が動いた。
地を蹴り、低い姿勢のまま突進する。紅葉丸の羽団扇が横薙ぎに振るわれるが、鉄心はそれを予測していた。身を沈め、羽団扇の下をくぐり抜ける。
そして、懐に入った瞬間——
雷光一閃。
右手の鳴神が、紅葉丸の脇腹を狙う。だが——
ガキィン!
金属音と共に、鳴神が弾かれた。紅葉丸の左手が、素手で刃を受け止めていた。
「甘い」
紅葉丸の右手が、鉄心の頭を掴もうとする。鉄心は身を翻し、距離を取った。
「なるほど、素手でも刃を止められるか」
「当然だ。千年も生きれば、この程度は造作もない」
紅葉丸は、にやりと笑った。
「だが、貴様も只者ではない。三百年の経験は伊達ではないな」
再び、二人は対峙した。
今度は、紅葉丸から仕掛けた。羽団扇を大きく振りかぶり、全力で振り下ろす。その一撃は、まるで山が崩れるような威力だった。
鉄心は、真正面からその攻撃を受けた。
二刀を交差させ、羽団扇を受け止める。凄まじい衝撃が全身を襲い、足元の地面が砕けた。
「ぬう!」
鉄心の小柄な体が、衝撃に耐えている。いや、耐えているだけではない。少しずつ、押し返し始めた。
「馬鹿な」
紅葉丸の目に、初めて驚きの色が浮かんだ。
「小さき体に、この力……まさか」
鉄心は、歯を食いしばりながら言った。
「体の大きさと、力は、関係ない」
そして、渾身の力で羽団扇を弾き返した。
紅葉丸が、わずかによろめく。その隙を、鉄心は見逃さなかった。
雷光連斬——
回転しながらの十六連撃。小太刀が嵐のように舞い、紅葉丸を襲う。
だが、紅葉丸は冷静だった。羽団扇を自在に操り、全ての攻撃を受け流す。そして、最後の一撃を——
「そこだ!」
紅葉丸の羽団扇が、鉄心の左手を打った。稲妻が、手から弾き飛ばされる。
「片手になったな」
紅葉丸が勝利を確信した、その時——
鉄心は、鳴神も手放した。
「なに?」
無手になった鉄心が、紅葉丸に向かって突進する。
「無謀な」
紅葉丸が羽団扇を振り下ろす。だが、鉄心はそれを素手で受け止めた。
「!」
紅葉丸が驚愕する中、鉄心の手が青白く光った。
無刀流——心剣一体。
心そのものを剣とする、究極の技。
鉄心の手刀が、紅葉丸の胸を貫こうとした瞬間——
「待て」
紅葉丸が叫んだ。同時に、すさまじい気迫が爆発した。
鉄心は、吹き飛ばされて地面を転がった。立ち上がると、紅葉丸の姿が変化していた。
巨大な翼が広がり、全身から赤い霊気が立ち上っている。まさに、天狗の真の姿。
「面白い。実に面白い」紅葉丸が笑った。「三百年ぶりだ。ここまでやる奴は」
「三百年前にも、誰かいたのか」
「ああ。名は忘れたが、坊主頭の小柄な侍だった」
鉄心は、苦笑した。それは、間違いなく自分のことだろう。ただ、三百年前の記憶は、村雨丸の呪いで曖昧になっている部分が多い。
「それで、どうする」紅葉丸が問うた。「まだやるか」
「無論」
鉄心は、落ちていた小太刀を拾い上げた。
「だが、その前に一つ聞きたい」
「何だ」
「そなたは、なぜ天狗になった」
紅葉丸の笑みが消えた。
「なぜ、そんなことを聞く」
「千年前、そなたも人間だったはずだ。なぜ、人を捨てた」
長い沈黙が流れた。風が、二人の間を吹き抜けていく。
「強さを求めたからだ」
紅葉丸の声は、静かだった。
「最強になりたかった。誰よりも強く、何者にも負けない存在に。そのためなら、人間であることなど、些細なことだと思った」
「それで、最強になれたか」
「なれた。千の武術を極め、もはや勝てる者はいない」
「では、満足か」
紅葉丸は、答えなかった。
その沈黙が、全てを物語っていた。
「やはり、そうか」鉄心は小太刀を構えた。「ならば、教えてやろう。真の強さとは何かを」
「ほざけ、小僧が」
二人は、再び激突した。
今度の戦いは、先ほどとは次元が違った。紅葉丸は、千の武術の技を次々と繰り出してくる。中国拳法、天竺の武術、西洋の剣術……ありとあらゆる技が、seamlessに繋がり、鉄心を襲う。
鉄心も、三百年の経験を総動員して応戦した。柳生新陰流、無刀流、そして各地で学んだ技を組み合わせ、紅葉丸の攻撃を受け流し、反撃する。
二人の戦いは、もはや人間の領域を超えていた。残像が幾重にも重なり、衝撃波が周囲の岩を砕いていく。
「これは……」
気がつくと、剣心が意識を取り戻し、戦いを見つめていた。
「化け物同士の戦いだ……」
剣心には、二人の動きがほとんど見えなかった。ただ、光の軌跡と、轟音だけが感じ取れる。
やがて、鉄心の動きが変わった。
攻撃を止め、ただ受け流すだけになった。
「どうした、もう限界か」
紅葉丸が嘲笑した。
だが、鉄心は静かに言った。
「そなたの技は、全て見切った」
「何だと」
「千の武術。確かに凄い。だが、所詮は寄せ集めだ」
鉄心は、小太刀を下げた。
「真の武術とは、一つを極めることだ」
「戯言を」
紅葉丸が、全力の一撃を放った。千の武術の粋を集めた、究極の一撃。
それを、鉄心は——
避けなかった。
「馬鹿な!」
紅葉丸の攻撃が、鉄心を貫こうとした瞬間——
鉄心の姿が、消えた。
いや、消えたのではない。紅葉丸の攻撃が、空を切ったのだ。
「なに?」
紅葉丸が振り返ると、鉄心は背後に立っていた。
「これが、無刀流の奥義」
鉄心の手が、ゆっくりと動いた。まるで、空間を切り裂くように。
「虚空斬り」
その瞬間、紅葉丸の体が凍りついた。いや、体だけではない。周囲の空間そのものが、切り離されたかのように静止した。
「これは……時空を、切った?」
紅葉丸の驚愕の声が響く。
「いや、違う」鉄心は静かに言った。「切ったのは、そなたの心だ」
紅葉丸の目から、光が消えた。そして、ゆっくりと膝をついた。
「負けた……私が、負けた……」
巨大な体が、地面に崩れ落ちる。だが、その顔には、なぜか安らぎの表情が浮かんでいた。
「久しぶりだ……敗北の味は」
鉄心は、紅葉丸の前に立った。
「そなたは、強い。だが、強さに囚われすぎた」
「そうかもしれん……」
紅葉丸の体が、少しずつ小さくなっていく。天狗の姿から、人間の姿へと戻っていく。
現れたのは、一人の老人だった。白髪に、深い皺。だが、その目には、若々しい光が宿っていた。
「私の本当の名は、源義経」
鉄心の目が見開かれた。源義経——平安末期の英雄。
「まさか、あの義経公が」
「そうだ。私は最強を求めて、人間をやめた。兄頼朝に追われ、逃げ延びた先で、天狗の力を得た」
義経は、懐から何かを取り出した。羽団扇の羽根が一枚。
「これを持っていけ」
「これは」
「一度だけ、空間を跳べる。いつか、必ず役に立つ」
鉄心は、羽根を受け取った。
「それと、もう一つ」義経は、真剣な顔で言った。「忠告だ」
「忠告?」
「近い将来、真の敵が現れる。村雨丸の呪いを解く鍵を持つ者が」
「それは、天叢雲のことか」
義経は頷いた。
「天叢雲と村雨丸。二つの剣が揃う時、世界の運命が決まる」
「世界の運命?」
「詳しくは知らん。だが、予言がある」義経は立ち上がった。「鋼鉄の鳥が空を飛び、稲妻が地を這う時代。その時、不死者たちの戦いが始まる」
鋼鉄の鳥? 稲妻が地を這う? 意味が分からない。
「それは、いつのことだ」
「二百年後……いや、もっと先かもしれん」
義経は、山頂を指差した。
「登れ。山頂に、もう一つの真実がある」
そう言うと、義経の姿が霧のように消えた。まるで、最初から幻だったかのように。
「待て!」
だが、もう遅かった。
鉄心は、落ちていた羽根を見つめた。確かに、これは現実だ。
「おい」
声がして振り返ると、剣心が立っていた。傷だらけの体で、それでも真っ直ぐに立っている。
「あんた、何者だ」
「ただの、旅の侍だ」
「嘘つけ」剣心は鋭く言った。「あんな技、見たことがない。虚空斬り? あれは、剣術じゃない」
「そうだな。あれは、心の技だ」
鉄心は、剣心に背を向けた。
「お前も強くなりたいなら、剣だけに頼るな。心を磨け」
「心を……」
「力だけでは、真の強さは得られない。それは、紅葉丸が証明した」
剣心は、しばらく黙っていた。そして——
「分かった」
意外な答えに、鉄心は振り返った。
「あっさりと納得するのだな」
「親父も、似たようなことを言っていた」剣心は苦笑した。「『剣は心なり』と」
「賢明な父親だ」
「ああ」剣心は、折れた刀を見つめた。「俺、考え直すよ。強さの意味を」
そして、山を下り始めた。
「どこへ行く」
「医者になる」
意外な答えに、鉄心は眉を上げた。
「医者?」
「人を斬るより、人を救う方が、難しくて価値がある。そう思わないか」
剣心は、振り返って笑った。
「それに、医術も武術も、根本は同じだろう。人を知ることだ」
なかなか、面白い考えだ。
「そうかもしれんな」
「あんたとは、また会いそうな気がする」剣心は手を振った。「その時は、医者として」
剣心の姿が、山道に消えていった。
***
鉄心は、一人山頂を目指した。
義経が言った「もう一つの真実」とは何か。
山頂に着くと、そこには小さな祠があった。古い、とても古い祠だ。千年は経っているだろう。
祠の扉を開けると、中には一枚の鏡があった。銅鏡ではない。何か、不思議な材質でできた鏡。表面には、見たことのない文字が刻まれている。
鏡を覗き込むと——
映っていたのは、鉄心の顔ではなかった。
見知らぬ街並み。空高くそびえる、ガラスと鉄でできた塔。地を走る、鉄の箱。そして、空を飛ぶ銀色の鳥。
「これは……未来?」
鏡の中の景色が変わった。
今度は、一人の男が映っている。黒い服を着た、坊主頭の小柄な男。顔は、鉄心にそっくりだが、雰囲気が違う。もっと、現代的というか——
男が、こちらを見た。
『やっと、繋がったな』
声が、頭の中に響いた。
「誰だ」
『俺は、お前だ。二百年後の』
二百年後の、自分?
『正確には、二百二年後。西暦2025年』
2025年。聞いたことのない暦だ。
『聞け、時間がない』未来の鉄心が言った。『七人の不死者が集まる時が近づいている。その時、世界の運命が決まる』
「七人の不死者……白雲が言っていたことと同じだ」
『そうだ。そして、その戦いの鍵は、天叢雲剣にある』
「天叢雲は、どこにある」
『それは、まだ言えない。時が来れば、分かる』
鏡の映像が、乱れ始めた。
『最後に、一つだけ』未来の鉄心の声が、遠くなっていく。『孤独に耐えろ。いつか、必ず、仲間ができる』
そして、鏡は元に戻った。ただの鏡に。
鉄心は、しばらく鏡を見つめていた。
未来の自分。二百年後も、まだ生きている。そして、戦い続けている。
(これが、俺の運命か)
羽根を懐にしまい、鉄心は祠を後にした。
山を下りながら、色々なことを考えた。
紅葉丸との戦い。虚空斬りという新しい技。そして、未来からのメッセージ。
全てが、大きな流れの一部のような気がした。
***
麓の里に戻ると、修験者たちが待ち構えていた。
「お侍様! ご無事でしたか」
最初に会った老人が、驚きの表情で迎えた。
「ああ」
「紅葉丸様は?」
「去られた」
老人たちは、顔を見合わせた。
「去られた……倒されたのですか」
「いや、悟られたのだ。千年の時を経て、ようやく」
老人は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。これで、山も平穏に戻るでしょう」
鉄心は、特に返事をせず、歩き始めた。
「お待ちください」
呼び止められて振り返ると、一人の少女が立っていた。十六、七歳だろうか。巫女の装束を身に着けている。
「あなた様は、鉄心様ですね」
「そうだが」
「私は神楽と申します」少女は深く一礼した。「紅葉丸様から、伝言を預かっています」
「伝言?」
「はい。『武の極致は、無に通じる。無の先にあるものを見つけよ』と」
無の先にあるもの。それは、何を意味するのか。
「それと、これを」
神楽は、小さな守り袋を差し出した。
「中には、天狗の羽が入っています。魔除けになります」
また、お守りか。鉄心は苦笑しながら受け取った。もう、いくつもらったことか。
「ありがとう」
「いえ」神楽は、不思議そうな顔で鉄心を見つめた。「あの……失礼ですが」
「何だ」
「あなた様の周りに、不思議な光が見えます。まるで、時の流れから外れているような」
さすが、巫女だけある。霊感が強いようだ。
「気のせいだ」
鉄心は、踵を返した。
「鉄心様」
神楽が、最後に言った。
「いつか、すべての謎が解ける日が来ます。その時まで、お体を大切に」
その言葉が、予言めいて聞こえた。
鉄心は、振り返らずに手を上げて応えた。
***
里を出て、街道を歩きながら、鉄心は考えていた。
この一連の出来事は、偶然ではない。何者かの意志が働いている。それも、時空を超えた壮大な意志が。
懐の中で、羽根が微かに震えている。まるで、次の出来事を予感しているかのように。
(まだ、三人目か)
七人の不死者。自分、正宗、そして今日垣間見た未来の自分は別として、まだ四人いるはずだ。
彼らは、どこにいるのか。そして、どんな呪いを背負っているのか。
夕日が、山の端に沈もうとしていた。
オレンジ色の光が、街道を染めている。
ふと、鉄心は立ち止まった。
遠くから、笛の音が聞こえてくる。もの悲しい、でもどこか懐かしい音色。
音のする方を見ると、一人の旅芸人が歩いてきた。女だ。顔は、編み笠で隠れている。
すれ違う時、女が立ち止まった。
「お侍様」
声が、妙に色っぽい。
「何か」
「今宵、月が満ちます。狐の嫁入りには、良い晩」
意味深な言葉を残して、女は歩き去った。
狐の嫁入り。
(まさか、次は妖狐か)
鉄心は、苦笑した。
天狗の次は狐。この国の妖怪と、順番に出会うことになるのだろうか。
月が、東の空に昇り始めた。
満月まで、あと少し。
鉄心は、再び歩き始めた。
どこへ向かうかは、決めていない。ただ、導かれるままに。
運命の糸に引かれるままに。
虚空斬り。
新たに会得した技の感触が、まだ手に残っている。時空を切るのではなく、心を切る技。これは、いつか必ず役に立つだろう。
風が吹いた。
春の風は、まだ少し冷たい。
だが、どこか希望を感じさせる風だった。
七人の不死者。
天叢雲剣。
そして、二百年後の世界。
全ての謎が解ける時まで、まだ長い道のりだ。
だが、今日、一歩前進した。
虚空斬りという技を得て、そして——
(仲間ができる)
未来の自分が言った言葉が、心に残っている。
三百年間、ずっと一人だった。
だが、いつか、仲間ができる。
それが、いつになるかは分からない。百年後か、二百年後か。
でも、その日を信じて、歩き続けよう。
鉄心の小柄な影が、月光の中を進んでいく。
その影は、今日もまた、少しだけ重くなった。
だが、同時に、少しだけ軽くもなった。
希望という名の光が、その重さを和らげているからだ。
遠くで、狐の鳴き声がした。
次の物語が、始まろうとしていた。
第七章 完




