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無刀流 鉄心「第五章 海鳴りの果て」

海が、死者の声で唸っていた。


鉄心は断崖の上に立ち、眼下に広がる荒海を見下ろしていた。初冬の日本海は、まるで生き物のように荒れ狂っている。灰色の雲が低く垂れ込め、時折、稲妻が海面を照らした。潮の匂いに混じって、何か違和感のある臭いが鼻をつく。それは腐敗臭でもなく、血の匂いでもない。もっと原始的な、海そのものが発する警告のような匂いだった。


(嫌な予感がする)


三百年の経験が、危険を告げている。だが、それが何なのか、まだ掴めない。


風間流水との決闘から三月が経っていた。血染めヶ原での死闘の後、鉄心は再び流浪の旅に出た。風間から聞いた村雨丸と天叢雲の真実。その重い知識を抱えながら、海沿いの道を北へと向かっていた。


「助けて……誰か……」


風に乗って、か細い声が聞こえてきた。子供の声だ。鉄心の足が自然と早まる。崖下の浜辺へと続く険しい道を、猿のような身軽さで駆け下りていく。


浜辺に着くと、奇妙な光景が広がっていた。


少年が一人、波打ち際に倒れている。年の頃は十二、三歳か。だが、異様なのはその姿だった。髪が海の色をしている。深い青緑色の髪が、濡れて顔に張り付いていた。そして、その肌には、うっすらと鱗のような模様が浮かんでいる。


「大丈夫か」


鉄心が声をかけると、少年の瞼がゆっくりと開いた。瞳も海の色だった。まるで、海そのものが人の形を取ったかのようだ。


「兄……様……」


少年が呟いた。なぜか、初対面の鉄心を兄と呼んだ。


「わしは、そなたの兄ではない」


「でも……兄様みたいだ……強くて、優しくて……」


少年の意識が朦朧としている。鉄心は少年を背負い、近くの漁村へと向かった。


***


黒潮藩の港町・潮風の里は、かつては栄えた港だった。


北前船の寄港地として、多くの商人が行き交い、異国の品物も多く流通していた。だが、今は見る影もない。家々の戸は固く閉ざされ、港に繋がれた船も少ない。まるで、町全体が何かに怯えているようだった。


鉄心は、港近くの宿屋「潮騒亭」に入った。


「いらっしゃ……」


番台の老人が顔を上げ、鉄心が背負っている少年を見て顔色を変えた。


「そ、その子は!」


「知っているのか」


「海童だ……海童が出た……」


老人は震え声で呟いた。


海童。妖怪の名前だ。だが、この少年は確かに人間のようでもある。


「とにかく、手当てが先だ。部屋を借りる」


鉄心は有無を言わさず、二階の部屋に少年を運んだ。布団に寝かせ、濡れた着物を脱がせる。その時、鉄心は息を呑んだ。


少年の足に、はっきりと鱗があった。膝から下が、まるで魚のように鱗で覆われている。だが、不思議なことに、それは徐々に薄れていき、普通の人間の足のように見え始めた。


(これは……)


「お侍様」


振り返ると、老人が恐る恐る立っていた。


「その子には、関わらない方がよろしいかと」


「なぜだ」


老人は周囲を見回し、声を潜めた。


「この町では、最近、奇怪なことが起きているのです」


老人の話によると、一月前から漁師が次々と行方不明になっているという。出漁した船が戻らない。戻ってきても、乗っていた者が一人、また一人と消えていく。そして、消えた者たちは皆、満潮の時刻に姿を消すのだという。


「生き残った者の話では、海から手招きする人影を見たと」


「人影?」


「はい。消えた漁師たちの姿をした何かが、海の中から手招きしていたと」


鉄心は、寝ている少年を見た。穏やかな寝顔をしている。とても、人を海に引きずり込む妖怪には見えない。


「この子は、違う」


鉄心は断言した。


「溺れていたところを助けただけだ」


老人は不安そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。


***


夜になって、少年が目を覚ました。


「ここは……」


「宿屋だ。そなた、名は何という」


少年は、しばらく考えるような顔をした。


「海童……皆、わたしをそう呼ぶ」


「本当の名は?」


「分からない……覚えていない……」


海童と名乗った少年は、悲しそうに俯いた。


「覚えているのは、海の中にいたことだけ。ずっと、ずっと海の中に。でも、ある日、陸に上がりたくなった」


「なぜだ」


「人間になりたかったから」


海童は、自分の手を見つめた。


「わたしは、人間じゃない。でも、人間になりたい。人間として生きたい」


鉄心は、複雑な表情で海童を見た。人間でないものが、人間になりたがる。それは、かつての自分と逆だった。自分は人間なのに、もはや人間とは呼べない存在になってしまった。


「兄様」


海童が鉄心を見上げた。


「わたしを、ここに置いてください。お願いします」


「なぜ、わしを兄と呼ぶ」


「分からない。でも、兄様は優しい。わたしを助けてくれた」


海童の瞳は、純粋だった。嘘や偽りのない、澄んだ瞳。


「一つ聞く」


鉄心は真剣な表情で言った。


「漁師たちが消えている件を、知っているか」


海童の顔が曇った。


「知っている……でも、わたしじゃない」


「では、誰が」


「海が……海が怒っている」


海童は震え始めた。


「二十年前、この町の漁師が、人魚を殺した。海の神様の娘を。それから、海は怒っている」


人魚。また妖怪の話か。だが、海童がいる以上、人魚の存在も否定できない。


「その漁師は、誰だ」


「知らない。でも、まだこの町にいる。海は、その者を探している」


鉄心は窓の外を見た。月のない夜で、海は黒々と広がっている。その海が、復讐を求めているというのか。


翌朝、鉄心は町を歩いた。


港には、漁師たちが集まっていたが、誰も船を出そうとしない。皆、海を恐れている。


「もう、この町も終わりだ」


一人の漁師が呟いた。


「海に出られなきゃ、俺たちは生きていけねぇ」


「黒潮の親分に頼むしかねぇか」


別の漁師が言った。


黒潮。その名前に、鉄心は反応した。


「黒潮とは?」


漁師たちは、鉄心を警戒の目で見た。


「よそ者か」


「旅の者だ。黒潮というのは?」


「黒潮の鉄蔵。この辺りの海を仕切ってる海賊の頭だ」


海賊。鉄心は眉をひそめた。


「海賊がいるのに、代官所は?」


漁師たちは苦笑いを浮かべた。


「代官所? あんなもん、何の役にも立たねぇ。それより、黒潮の親分の方がまだ話が分かる」


「そうだ。親分は元々漁師だったからな」


元漁師の海賊。鉄心は興味を持った。


「その黒潮は、どこにいる」


「沖の無人島に砦を構えてる。でも、今は……」


漁師は言いかけて、口をつぐんだ。


「今は?」


「いや、何でもねぇ」


漁師たちは、そそくさと散っていった。


鉄心が宿に戻ると、海童が窓際に座って海を見ていた。


「海が、呼んでいる」


海童が呟いた。


「わたしを、呼んでいる。帰って来いと」


「帰りたいのか」


海童は首を振った。


「帰りたくない。人間として生きたい。でも、海は許してくれない」


その時、階下から騒ぎ声が聞こえてきた。


「海賊だ! 黒潮の手下が来たぞ!」


鉄心は立ち上がった。


「ここにいろ」


海童に言い残し、階下へ降りていく。


宿の前には、荒くれた男たちが五人立っていた。皆、潮焼けした顔に、獰猛な目をしている。


「おい、昨日、妙な小僧を連れた侍が来たそうじゃねぇか」


頭らしき男が言った。


「その小僧を渡してもらおう」


「なぜだ」


鉄心が前に出た。


男たちは、小柄な坊主頭の侍を見て、一瞬怯んだ。だが、すぐに気を取り直した。


「親分の命令だ。その小僧は、海童だろう?」


「だとしたら?」


「親分が会いたがってる。大人しく渡せば、悪いようにはしねぇ」


鉄心は、男たちを見据えた。


「断る」


「なんだと?」


男たちが、腰の刀に手をかけた。


「相手が悪かったな、坊主」


頭の男が刀を抜いた。他の者たちも続く。


鉄心は動かなかった。ただ、静かに言った。


「五人では足りぬ」


「舐めやがって!」


男が斬りかかってきた。


次の瞬間、男は地面に倒れていた。いつの間にか、鉄心が背後に回り、峰打ちで気絶させたのだ。


「なっ!」


残りの四人が同時に斬りかかる。だが、鉄心の動きは、まるで風のようだった。小柄な体が、刃の間をすり抜ける。そして、一人、また一人と倒れていく。


わずか十秒で、五人全員が地面に転がっていた。


「強い……」


見物していた町人たちが息を呑んだ。


「一人で、黒潮の手下を……」


鉄心は、倒れた男たちを見下ろした。


「伝えろ。海童は渡さぬと」


男たちは、這うようにして逃げていった。


***


その夜、潮風の里に異変が起きた。


満潮の時刻、海から不気味な歌声が聞こえてきたのだ。それは、人間の声のようでもあり、風の音のようでもあった。


海童が震えていた。


「来る……海の怒りが来る」


「落ち着け」


鉄心は海童の肩を掴んだ。


「わしがいる」


だが、海童の震えは止まらなかった。


「兄様でも、海には勝てない。海は、全てを飲み込む」


その時、宿の戸が激しく叩かれた。


「開けろ! 大変だ!」


戸を開けると、漁師が血相を変えて立っていた。


「黒潮の親分が! 親分が海に入っていった!」


「何?」


「自分が人魚を殺した償いをするって! でも、このままじゃ死んじまう!」


黒潮鉄蔵が、二十年前の犯人だったのか。鉄心は海童を見た。


「行くぞ」


「え?」


「そなたも来い。海を鎮めるには、そなたの力が必要かもしれぬ」


二人は、港へと走った。


港には、多くの人が集まっていた。皆、沖を見つめている。月明かりの下、一艘の小舟が波に揺られているのが見えた。舟の上には、一人の男が立っている。


「親分! 戻って来い!」


海賊たちが叫んでいる。だが、男——黒潮鉄蔵は動かない。


鉄心は、一艘の舟を借りて海に出た。海童も一緒だ。


波は荒い。まるで、海が怒り狂っているかのようだ。だが、不思議なことに、海童が舟に乗ると、波が少し静まった。


黒潮の舟に近づくと、男の姿がはっきりと見えた。


四十五歳ぐらいの、日に焼けた顔。かつては漁師だったという話も頷ける、海の男の顔だった。だが、その目には、深い悲しみが宿っていた。


「来るな!」


黒潮が叫んだ。


「これは、俺の償いだ!」


「償い?」r


「二十年前、俺は人魚を殺した。若気の至りで、仲間と賭けをして。美しい人魚を銛で突いた」


黒潮の声は、慟哭に満ちていた。


「人魚は、死ぬ間際に言った。『お前の大切なものも、海に奪われるだろう』と。その通りになった。翌年の津波で、女房と子供を失った」


鉄心は黙って聞いていた。


「それから俺は、海賊になった。海に復讐するために。だが、違った。俺が復讐すべきは、自分自身だった」


黒潮は、海を見つめた。


「今夜、全てを終わらせる。俺の命と引き換えに、この町を許してくれ」


その時、海が大きく盛り上がった。


巨大な何かが、海中から現れる。それは、海坊主だった。家ほどもある巨体が、月光を浴びて聳え立つ。


「海神の使いか」


鉄心が呟いた。


海坊主は、黒潮を見下ろしていた。その目は、怒りに満ちている。


『愚かな人間よ。汝の命ごときで、償えると思うか』


声が、直接頭に響いてきた。


『我が娘を殺した罪は、永遠に許されぬ』


海坊主の巨大な手が、黒潮に向かって振り下ろされる。


だが、その時、海童が叫んだ。


「待って!」


海坊主の手が止まった。


「お父様!」


海童の言葉に、皆が驚いた。


海坊主の目が、海童を見た。


『汝は……』


「わたしは、あの人魚の子です」


海童が立ち上がった。その姿が、月光の下で変化し始める。髪がさらに青くなり、肌に鱗が浮かび上がる。


「母は、死ぬ前にわたしを産みました。そして、わたしを海に託しました」


海童は、黒潮を見た。


「この人を、許してあげてください。この人も、苦しんでいます」


『許せと言うのか。母を殺した者を』


「母なら、許すと思います」


海童の目から、涙が流れた。


「母は、優しい人でした。きっと、復讐なんて望んでいません」


海坊主は、しばらく黙っていた。やがて、大きなため息をついた。


『汝が、そう言うなら』


海坊主の体が、徐々に小さくなっていく。そして、普通の人間の大きさになった時、それは白髪の老人の姿になった。


「孫よ」


老人は、海童を優しく見つめた。


「お前は、人間として生きたいのだな」


「はい」


「それも良いだろう。だが、忘れるな。お前には、海の血が流れている」


老人は、黒潮を見た。


「人間よ。お前の罪は重い。だが、孫が許すと言うなら、わしも許そう」


黒潮は、膝をついた。


「申し訳ございません……本当に……」


「だが、条件がある」


老人は厳しい顔で言った。


「この子を、息子として育てよ。そして、二度と海を汚すな」


「は、はい!」


黒潮は深々と頭を下げた。


老人は、鉄心を見た。


「不死なる者よ」


鉄心は驚かなかった。やはり、見抜かれていたか。


「この子を、頼む。時々でいい、様子を見てやってくれ」


「分かった」


老人は微笑んだ。そして、海に向かって歩いていく。その姿が、波間に消えていった。


***


翌朝、潮風の里は久しぶりに活気を取り戻していた。


海は穏やかで、漁師たちは次々と船を出していく。まるで、昨夜の出来事が嘘だったかのようだ。


港で、鉄心は黒潮と海童に別れを告げた。


「本当に、行ってしまうのか」


黒潮が残念そうに言った。


「ああ。まだ、旅を続けねばならぬ」


海童が、鉄心の袖を掴んだ。


「兄様、また会えますか?」


「会えるさ」


鉄心は、海童の頭を撫でた。


「そなたが、立派な人間になった時に」


海童は、涙を堪えながら頷いた。そして、首にかけていた真珠の首飾りを外した。


「これを、兄様に」


「これは?」


「母の形見です。これがあれば、海のどこにいても、わたしを呼べます」


鉄心は、首飾りを受け取った。真珠は、朝日を受けて七色に輝いている。


「大切にする」


「兄様」


海童が言った。


「兄様も、いつか家族を見つけてください」


家族。その言葉が、鉄心の胸に響いた。三百年間、一度も持ったことのないもの。いや、持てないと諦めていたもの。


「そうだな」


鉄心は微笑んだ。


「いつか、な」


黒潮が、懐から小さな包みを取り出した。


「これは、旅の路銀です。受け取ってください」


「いらぬ」


「いや、受け取ってくれ。あんたのおかげで、俺は救われた。これは、その礼だ」


鉄心は、黒潮の真剣な目を見て、包みを受け取った。


「では、もらっておく」


「それと」


黒潮は声を潜めた。


「南の方で、妙な噂を聞いた。天から降ってきた剣があるとか」


天から降ってきた剣。もしかして、天叢雲の手がかりか。


「詳しく聞かせてくれ」


「詳しくは知らねぇが、紀州の山奥に、天女が持っていた剣が祀られているとか。ただの与太話かもしれねぇが」


「いや、ありがたい」


鉄心は礼を言って、歩き始めた。


「お侍様!」


振り返ると、海童が手を振っていた。黒潮も、その隣で手を上げている。


鉄心も、軽く手を上げて応えた。


***


町を出て、山道を登りながら、鉄心は海童の言葉を反芻していた。


家族か。


不死の身となって三百年。多くの人と出会い、別れてきた。皆、老いて死んでいく。自分だけが、変わらずに残される。だから、深い絆を作ることを避けてきた。


だが、海童は違った。あの子もまた、人間ではない。もしかしたら、自分と同じぐらい長く生きるかもしれない。


(いや、考えても仕方ない)


鉄心は、首に下げた真珠の首飾りに触れた。温かい。まるで、海童の体温が残っているかのようだ。


道の先に、深い森が見えてきた。紀州への道は、まだ長い。


だが、急ぐ旅でもない。鉄心には、時間だけは無限にある。


風が吹いた。潮の匂いが、微かに混じっている。


「さて、次はどんな出会いが待っているか」


鉄心は、独り言を呟いて歩き続けた。


その時、懐の中で何かが音を立てた。取り出してみると、黒潮からもらった包みの中に、小さな機械の破片が入っていた。


表面に、小さな文字が刻まれている。


『GPS 2025』


意味の分からない文字。だが、なぜか、不吉な予感がした。


(時空が、歪み始めているのか)


鉄心は、破片を懐にしまった。そして、再び歩き始める。


空を見上げると、渡り鳥の群れが南へ向かって飛んでいた。季節は、冬へと向かっている。


だが、鉄心の旅に、終わりはない。


少なくとも、今はまだ。


第五章 完

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