無刀流 鉄心「第三章 偽りの殿様」
初春の朝は、偽りの匂いがした。
桜ヶ丘藩三万石の城下町に入った鉄心は、立ち止まって深く息を吸った。梅の香りに混じって、何か違和感のある匂い。それは血の匂いでもなく、死の匂いでもない。もっと陰湿な、腐敗の匂いだった。
「ここが、桜ヶ丘藩か」
鉄心は、小柄な体を旅装束に包み、笠を深くかぶって顔を隠していた。茶屋で聞いた噂が本当なら、今この城下は大混乱のはずだ。偽の藩主が暴かれ、謎の侍が現れたという。
だが、町の様子は妙に静かだった。
いや、静かすぎる。
商店は開いているが、客の姿はまばら。往来を歩く人々も、何かに怯えるように俯いて足早に過ぎていく。まるで、見えない何かに監視されているかのようだ。
城下町の構造は典型的なものだった。中心に城があり、その周りを武家屋敷が囲む。さらにその外側に町人地、寺町、そして最も外側に下層民の住む地域。身分制度が、そのまま都市構造に反映されている。
鉄心は、通りの角にある飯屋に入った。
「いらっしゃい」
店主が愛想笑いを浮かべたが、その笑顔は引きつっていた。
「朝飯を頼む」
「へい、ただいま」
店内には、他に客が二人。商人風の男と、浪人らしき若者。両者とも、黙々と飯を食べている。会話はない。
(異様だな)
普通、飯屋は情報交換の場だ。特に朝は、昨夜の出来事や噂話で賑わうもの。だが、この静寂は何だ。
飯と味噌汁が運ばれてきた。鉄心が箸を取ろうとした時、店主が小声で言った。
「お侍様、長居はなさらぬ方が」
「なぜだ」
店主は周囲を見回し、さらに声を潜めた。
「町中に、隠密が」
隠密。なるほど、それで皆が口を閉ざしているのか。
「偽藩主の件は、どうなった」
店主の顔が青ざめた。
「し、知りません。何も」
明らかな嘘だった。だが、これ以上聞いても無駄だろう。恐怖が、人々の口を封じている。
鉄心は黙って飯を食べ、代金を置いて店を出た。
外に出ると、甲冑を着た侍が五人、通りを歩いていた。藩の警備兵のようだが、その目つきは尋常ではない。獲物を探す猟犬のような目で、往来の人々を睨みつけている。
「おい、そこの坊主」
一人が、鉄心を呼び止めた。
「何か」
「どこから来た」
「旅の者だ」
「旅の者が、なぜこの町に」
「寺参りだ。この近くに、名刹があると聞いた」
侍は疑わしそうに鉄心を見たが、小柄な坊主頭の姿に脅威は感じなかったらしい。
「さっさと参って、出て行け。この町は今、物騒でな」
「物騒とは」
「知らんのか。昨夜、辻斬りがあった」
辻斬り。鉄心の眉が微かに動いた。
「それは、穏やかではないな」
「三人も斬られた。しかも、皆、藩の正義を訴えていた連中だ」
藩の正義を訴えていた者が殺される。これは、単なる辻斬りではない。
「犯人は」
「分からん。だが」侍は声を潜めた。「小柄な侍だったという目撃証言がある」
小柄な侍。まさか、本当に自分と同じような者がいるのか。それとも——
「とにかく、さっさと消えろ」
侍たちは、そう言い残して去っていった。
鉄心は、彼らの後ろ姿を見送りながら考えた。
偽藩主が暴かれたという噂は嘘だったのか。それとも、何か別の力が働いているのか。
***
鉄心は、城下町を歩き回った。
表通りから裏通りへ、武家地から町人地へ。どこも同じような雰囲気だった。恐怖と沈黙が、町全体を支配している。
やがて、寺町に入った。ここは比較的静かで、僧侶や参拝者の姿も見える。
鉄心は、一番大きな寺——法泉寺に入った。
本堂で手を合わせていると、後ろから声がかかった。
「珍しい。最近は、参拝者も減る一方でしてな」
振り返ると、初老の僧侶が立っていた。穏やかな顔をしているが、目は鋭い。
「住職か」
「はい。法泉寺住職の慈海と申します」
慈海和尚は、鉄心を見つめた。
「お侍様は、旅の方ですか」
「そうだ」
「この時期に、この町へ来られるとは。余程の事情がおありかと」
鉄心は、慈海の目を見た。この僧侶は、何か知っている。
「単刀直入に聞く。この町で、何が起きている」
慈海は、周囲を見回した。誰もいないことを確認して、声を潜めた。
「本堂の裏へ」
二人は、本堂の裏手にある小さな庵に入った。
「ここなら、誰にも聞かれません」
慈海は、茶を淹れながら語り始めた。
「三日前の夜、確かに城で騒ぎがありました。謎の侍が現れ、藩主と家老を襲ったと」
「それで?」
「しかし、翌朝には何事もなかったかのように、藩主も家老も無事でした」
鉄心の目が細まった。
「つまり、噂は嘘だったと」
「いえ」慈海は首を振った。「何かが起きたのは確かです。ただ、それが隠蔽されている」
「隠蔽?」
「はい。そして、昨夜から辻斬りが始まりました。殺されたのは皆、藩の不正を訴えていた者たちです」
口封じか。鉄心は考えた。
「藩主は、本物なのか」
慈海は、驚いた顔をした。
「なぜ、そのようなことを」
「答えてくれ」
慈海は、しばらく黙っていた。そして、重い口を開いた。
「三年前から、藩主様の様子がおかしいという噂はありました。人が変わったように冷酷になり、重税を課し、反対する者は容赦なく処罰する」
三年前。鬼丸が追放された時期だ。
「それまでの藩主は?」
「温厚で、民思いの方でした。桜井信政様は、名君と呼ばれていました」
「では、今の藩主は」
「分かりません。ただ」慈海は声を震わせた。「城に出入りする商人から聞いた話では、藩主様の体に、以前はなかった大きな傷跡があるとか」
偽物。やはり、噂は本当だったのか。
「家老の黒田重蔵については」
「あの方は、三年前に突然現れました。元は商人だったとか。しかし、今では藩の実権を握っています」
商人が家老に。異例の出世だ。何か裏があるに違いない。
その時、庵の戸が開いた。
「住職様、お茶を——」
入ってきたのは、若い女だった。二十二、三歳だろうか。侍女の装束を着ているが、その身のこなしは尋常ではない。
女は、鉄心を見て一瞬立ち止まった。
「これは、失礼しました」
「構わん。小鈴、お茶を頼む」
慈海が言うと、小鈴と呼ばれた女は静かに茶を淹れ始めた。
だが、鉄心は気づいていた。この女、只者ではない。呼吸、姿勢、そして何より、殺気を完全に消している。これは、相当な修練を積んだ者にしかできない技だ。
(忍びか)
小鈴が茶を置いて下がろうとした時、鉄心が口を開いた。
「甲賀か、伊賀か」
小鈴の動きが止まった。慈海が驚いて二人を見比べる。
「何のことでしょう」
小鈴は微笑んだが、その目は笑っていない。
「その身のこなし、忍びの技だ」
一瞬の沈黙の後、小鈴は苦笑した。
「さすがですね。見抜かれましたか」
「小鈴、お前……」
慈海が驚愕している。
「申し訳ありません、住職様。隠していて」
小鈴は慈海に頭を下げ、そして鉄心に向き直った。
「甲賀の抜け忍、小鈴と申します」
抜け忍。つまり、組織を裏切った忍びか。
「なぜ、この町に」
「ある方を、お守りするためです」
「ある方?」
小鈴は、迷うような顔をした。そして、覚悟を決めたように口を開いた。
「本物の藩主様の娘君です」
鉄心と慈海が、同時に息を呑んだ。
「本物の藩主に、娘が」
「はい。今年で十歳になられます。今は、私がお匿いしています」
「どこに」
「それは……」
小鈴は口を噤んだ。
「信用できないか」
「申し訳ありません。あなた様が何者か分からない以上」
当然の警戒だ。鉄心は頷いた。
「わしは鉄心。ただの、通りすがりの侍だ」
「鉄心……まさか、不死身の鉄心?」
小鈴の目が見開かれた。
「与太話だ」
「いえ、私は信じます。その目、その雰囲気。常人ではありません」
小鈴は、深く頭を下げた。
「お願いします。力を貸してください」
「何故、わしに」
「三日前の夜、城に現れた謎の侍。あれは、あなたではありませんか?」
鉄心は首を振った。
「わしは昨日、この町に着いたばかりだ」
「では、誰が……」
その時、外から騒ぎ声が聞こえてきた。
「住職! 大変だ!」
寺男が血相を変えて飛び込んできた。
「また辻斬りが! 今度は昼間っから!」
***
現場は、寺町から少し離れた河原だった。
既に野次馬が集まり、藩の役人が現場を封鎖している。
鉄心は、人混みに紛れて様子を窺った。
死体は一つ。中年の武士のようだ。一太刀で首を落とされている。見事な剣技だ。
「また、藩政改革を訴えていた者だ」
誰かが囁いた。
「これで四人目……」
「犯人の目撃者はいないのか」
役人が叫んでいるが、誰も名乗り出ない。
と、その時、一人の老人が前に出た。
「わ、わしは見ました」
「何を見た」
「小柄な侍が……坊主頭の……」
鉄心の背筋に悪寒が走った。
坊主頭の小柄な侍。まさに、自分の特徴だ。
「顔は見たか」
「いえ、笠を深くかぶっていて……ただ、二刀を持っていました」
二刀。これも自分と同じだ。
誰かが、自分に成りすまして殺人を犯している。
「おい、そこの坊主!」
突然、役人の一人が鉄心を指差した。
「お前、二刀を差しているな」
周囲の視線が、一斉に鉄心に集まった。
「疑いをかけるのか」
鉄心は静かに言った。
「とりあえず、来てもらおう」
役人たちが、鉄心を取り囲んだ。
逃げることは簡単だ。だが、それでは本当に犯人だと思われる。
「分かった。行こう」
鉄心は、大人しく連行された。
***
桜ヶ丘藩の牢獄は、城の北側にあった。
薄暗く、湿気た場所だ。鉄心は、一番奥の独房に入れられた。
「取り調べは後だ。大人しくしていろ」
役人たちが去った後、鉄心は静かに座禅を組んだ。
これも、何かの巡り合わせか。偽の藩主を探るには、むしろ都合が良いかもしれない。
しばらくすると、足音が近づいてきた。
一人ではない。数人の足音。そして、その中に、重い足取りが混じっている。
「これが、辻斬りの犯人か」
低い声が響いた。
牢の前に、数人の男が立っていた。中央にいるのは、豪華な着物を着た武士。年の頃は四十過ぎ。顔には大きな傷跡がある。
(これが、偽の藩主か)
「顔を上げろ」
鉄心は、ゆっくりと顔を上げた。
男——偽藩主と思われる男は、鉄心を見て眉をひそめた。
「小柄だな。本当にこんな奴が」
「はい、目撃証言と一致します」
脇にいる家老らしき男が答えた。五十歳ほどの、商人上がりといった風貌。恐らく、これが黒田重蔵だろう。
「名は何という」
「鉄心」
「鉄心……聞いたことがある名だ」
偽藩主が、鉄心を睨みつけた。
「お前が、あの夜、城に忍び込んだ者か」
「知らん」
「とぼけるな!」
偽藩主が怒鳴った。
「お前は、何者だ。誰の差し金だ」
「だから、知らんと言っている」
鉄心の落ち着いた態度に、偽藩主は苛立った。
「黒田、こいつを拷問にかけろ」
「はっ」
黒田が手を上げると、屈強な男たちが牢に入ってきた。
「連れて行け」
鉄心は、抵抗せずに連行された。
拷問部屋は、地下にあった。
石造りの部屋に、様々な拷問具が並んでいる。
「さて、聞こうか」
黒田が、にやりと笑った。
「誰の命令で、城に忍び込んだ」
「だから、知らんと」
鉄心の言葉が終わらないうちに、鞭が振るわれた。
バシッ!
鋭い音と共に、鉄心の背中に鞭が叩きつけられる。普通なら、悲鳴を上げるところだ。
だが、鉄心は無表情だった。
「ほう、我慢強いな」
黒田が感心したように言った。
「では、これはどうだ」
今度は、焼けた鉄の棒が持ち出された。
ジュッ!
鉄心の胸に、焼き鏝が押し当てられる。肉の焼ける匂いが立ち込めた。
だが、鉄心は微動だにしない。
「なんだ、こいつは」
拷問人が驚いた。
黒田も、訝しげな顔をしている。
「まさか、痛みを感じないのか」
「感じる」
鉄心が口を開いた。
「ただ、慣れているだけだ」
「慣れている?」
黒田の目が細まった。
「お前、本当に只者ではないな」
黒田は、拷問人に目配せした。
「水責めだ」
鉄心は、水槽に顔を押し込まれた。
一分、二分、三分……
常人なら、とっくに気を失っている時間だ。
「上げろ」
鉄心の顔が水から上げられた。
だが、鉄心は平然としている。呼吸すら乱れていない。
「化け物か」
拷問人が青ざめた。
黒田は、鉄心を見つめた。その目に、恐怖と興味が混じっている。
「お前、まさか……不死身なのか」
鉄心は答えなかった。
「試してみるか」
黒田は、刀を抜いた。
「腕を切り落としても、生えてくるか?」
刃が振り下ろされようとした時、扉が開いた。
「待て」
入ってきたのは、偽藩主だった。
「殿、どうされました」
「こいつは、普通の拷問では口を割らん。別の方法を考えろ」
偽藩主は、鉄心を見下ろした。
「それに、こいつは利用価値がある」
「利用価値?」
「辻斬りの犯人として、処刑する。民衆の不満をそらすには、ちょうど良い」
なるほど、そういう魂胆か。鉄心は内心で苦笑した。
「明日の朝、公開処刑だ。準備しろ」
「はっ」
偽藩主が去った後、黒田は鉄心に近づいた。
「残念だったな。明日で、お前の命も終わりだ」
「そうかな」
鉄心の言葉に、黒田は眉をひそめた。
「まだ余裕があるのか」
「死んだことは、何度もある」
意味深な言葉に、黒田は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
鉄心は、再び牢に戻された。
***
夜になった。
牢の中で、鉄心は瞑想していた。
体の傷は、既に治り始めている。鞭の跡も、焼き鏝の跡も、見る見るうちに薄くなっていく。これが、村雨丸の呪いの力。
と、微かな気配を感じた。
「誰だ」
闇の中から、人影が現れた。
小鈴だった。
「やはり、あなたは不死身なのですね」
小鈴は、鉄心の治りかけの傷を見て言った。
「どうやって入った」
「忍びの技です。見張りは眠らせました」
小鈴は、鍵を取り出した。
「逃げてください」
「なぜ、助ける」
「あなたは、辻斬りの犯人ではない。それは分かっています」
「では、誰が」
小鈴は、苦い顔をした。
「恐らく、黒田の手の者でしょう。藩政改革を訴える者を、始末しているのです」
「そして、わしに罪を被せる」
「はい」
鉄心は、立ち上がった。だが、牢から出ようとはしなかった。
「逃げないのですか」
「まだ、やることがある」
「やること?」
「本物の藩主は、どこにいる」
小鈴は驚いた。
「ご存知なのですか」
「城の地下牢だろう」
小鈴は頷いた。
「はい。しかし、厳重に警備されていて」
「案内してくれ」
「今からですか?」
「ああ。それと、藩主の娘も連れてきてくれ」
小鈴は、迷うような顔をした。
「危険です」
「このままでは、いずれ殺される。動くなら今しかない」
小鈴は、覚悟を決めた。
「分かりました。姫君をお連れします」
「頼む」
小鈴が消えた後、鉄心は牢を出た。
見張りは、言われた通り眠っている。忍びの眠り薬だろう。
鉄心は、音もなく通路を進んだ。
城の構造は、大体把握している。地下牢は、恐らく天守の真下だ。
途中、何人かの警備兵とすれ違ったが、鉄心の気配消しの技で、誰にも気づかれなかった。
やがて、地下への階段を見つけた。
下りていくと、松明の明かりが見えてきた。
「誰だ!」
見張りが二人、立っていた。
鉄心は、一瞬で間合いを詰めた。
峰打ちで、二人を気絶させる。
奥へ進むと、鉄の扉があった。
鍵がかかっているが、鉄心の怪力なら問題ない。
ギィィィ……
扉を開けると、中は真っ暗だった。
「誰か、いるか」
闇の奥から、弱々しい声が返ってきた。
「誰……だ」
鉄心は、松明を持って中に入った。
牢の奥に、一人の男が鎖に繋がれていた。
痩せこけて、髭も髪も伸び放題。だが、その顔立ちは、確かに高貴な雰囲気を残している。
「桜井信政公か」
男——本物の藩主は、目を見開いた。
「その声……まさか、助けが」
「そうだ」
鉄心は、鎖を斬った。
「立てるか」
「三年も、ここに……足が」
鉄心は、藩主を背負った。
「しっかりしろ。娘が待っている」
「美鶴が……生きているのか」
「ああ」
藩主の目から、涙が流れた。
二人が地上に出ると、小鈴が待っていた。隣に、十歳ほどの少女がいる。
「父上!」
少女——美鶴姫が、藩主に駆け寄った。
「美鶴……無事だったか」
親子の再会に、小鈴も涙ぐんでいる。
だが、感動している場合ではない。
「早く、ここを出よう」
鉄心が言った時、周囲から兵士たちが現れた。
「やはり、罠か」
黒田が、にやりと笑いながら現れた。
「小鈴、お前も裏切り者だったか」
「違います! 私は、姫君を守るために」
「言い訳は聞かん。全員、斬れ」
兵士たちが、刀を抜いた。
二十人はいる。
鉄心は、藩主を下ろし、前に出た。
「下がっていろ」
「しかし、一人では」
小鈴が心配そうに言う。
「問題ない」
鉄心は、鳴神と稲妻を抜いた。
月光の下、二振りの小太刀が青白く光る。
「来い」
兵士たちが、一斉に襲いかかってきた。
鉄心は、地蜘蛛の構えを取った。
極限まで姿勢を低くし、地面すれすれに身を沈める。
最初の兵士の太刀が振り下ろされる瞬間、鉄心は横に跳んだ。
そして、その兵士の足を薙ぎ払う。
兵士が倒れる間に、既に次の敵の懐に入っている。
柄頭で鳩尾を突き、気絶させる。
三人目、四人目……
鉄心の動きは、まるで舞のようだった。小柄な体が、縦横無尽に動き回る。
誰も、鉄心を捉えることができない。
「化け物め!」
黒田が叫んだ。
「鉄砲を持って来い!」
まずい。いくら不死身でも、銃弾を受ければ動きが止まる。
その時、城の中から火の手が上がった。
「火事だ!」
「天守が燃えている!」
混乱が広がった。
「今だ!」
小鈴が叫んだ。
鉄心は、藩主を再び背負い、走り出した。
小鈴と美鶴姫も後に続く。
「逃がすな!」
黒田の声が響くが、もう遅い。
四人は、城から脱出した。
***
城下町の外れにある廃寺に、四人は身を隠した。
「火事は、誰が」
鉄心が聞くと、小鈴が答えた。
「私の仲間です。甲賀の」
「抜け忍ではなかったのか」
「半分は本当です。でも、姫君を守るという任務は続けています」
なるほど、そういうことか。
「これから、どうする」
藩主が口を開いた。
「江戸に行きます。将軍家に、この三年間の真実を訴えます」
「証拠は」
「私自身が、証拠です」
藩主の目には、強い決意が宿っていた。
「それに、黒田の悪事の証拠も、密かに集めていました」
小鈴が、懐から書状を取り出した。
「商人との癒着、年貢の横領、全て記録があります」
「では、わしの役目は終わりだな」
鉄心が立ち上がった。
「待ってください」
美鶴姫が、鉄心の袖を掴んだ。
「お侍様のお名前は」
「鉄心」
「鉄心様……恩は一生忘れません」
幼い姫君の純粋な瞳に、鉄心は微かに微笑んだ。
「忘れてくれて構わん。それより、強く生きろ」
鉄心は、廃寺を出た。
外では、まだ城が燃えている。
偽藩主と黒田は、どうなったか。恐らく、混乱に乗じて逃げたのだろう。
だが、もう鉄心には関係ない。
本物の藩主が解放され、真実が明らかになる。それで十分だ。
***
翌朝、鉄心は桜ヶ丘藩を発った。
城下町は、大騒ぎになっていた。
偽藩主の正体が暴かれ、本物の藩主が帰還したという噂が、瞬く間に広がっていた。
黒田重蔵は行方不明。偽藩主も、同じく消えたという。
辻斬りの真犯人も、黒田の手下だったことが判明した。
鉄心への疑いは晴れたが、鉄心自身の行方も分からなくなっていた。
「まるで、最初からいなかったみたいだ」
人々は、そう噂し合った。
鉄心は、それを聞きながら苦笑した。
いつものことだ。現れて、事を成し、そして消える。三百年間、ずっとそうしてきた。
街道を歩きながら、鉄心は昨夜のことを思い返していた。
あの拷問。
普通なら、耐えられない苦痛のはずだ。だが、自分は平然としていた。
(人間の心を、失いつつあるのか)
痛みを感じなくなったわけではない。ただ、それに対する反応が、鈍くなっている。
これも、不死の呪いの一部なのか。
懐から、小さな紙片を取り出した。
小鈴が、最後に渡してくれたものだ。
『古戦場・血染めヶ原で、風間流水という男が、あなたを待っています』
風間流水。
その名前に、鉄心の記憶が反応した。
風間家。三百年前、自分の兄を死に追いやった一族。
ついに、その因縁と向き合う時が来たのか。
鉄心は、紙片を懐にしまい、歩みを速めた。
血染めヶ原までは、五日の道のり。
そこで、何が待っているのか。
***
三日目の夕方、鉄心は小さな宿場町で休憩していた。
茶屋で団子を食べていると、隣の席から会話が聞こえてきた。
「聞いたか? 桜ヶ丘藩の騒動」
「ああ、偽の殿様が三年も」
「それを暴いたのが、謎の侍だとか」
「小柄な坊主頭の侍だったらしいぞ」
「まるで、不死身の鉄心みたいだな」
「まさか、本当にいるわけが」
鉄心は、黙って聞いていた。
伝説。
自分はいつの間にか、伝説になっていた。
だが、伝説の正体は、ただの呪われた男だ。死ぬことも許されず、永遠を彷徨う、哀れな存在。
「お侍様」
茶屋の女将が声をかけてきた。
「お代わりはいかがですか」
「いや、結構」
鉄心は代金を置いて立ち上がった。
外に出ると、夕日が山の端に沈もうとしていた。
赤い夕日が、まるで血のように見える。
血染めヶ原。
その名の通り、多くの血が流れた場所。
そこで、風間流水が待っている。
因縁の対決。
三百年の時を経て、ついに過去と向き合う時が来た。
鉄心は、腰の小太刀に手を置いた。
鳴神と稲妻が、微かに震えている。
まるで、来るべき戦いを予感しているかのように。
「行くか」
鉄心は、血染めヶ原への道を歩き始めた。
その小柄な後ろ姿は、夕日に照らされて、長い影を作っていた。
三百年の重みを背負った、孤独な影を。
***
四日目の朝、鉄心は奇妙な夢を見た。
兄の顔が、目の前にあった。
『鉄之進、なぜだ』
兄の声が、頭の中に響く。
『なぜ、お前が私を』
「違う! わしは……」
鉄心は、汗だくで目を覚ました。
野宿していた森の中で、朝日が木々の間から差し込んでいる。
(また、あの夢か)
三百年経っても、この悪夢から逃れられない。
兄を裏切った、あの夜の記憶。
いや、裏切ったのか、それとも——
記憶が曖昧なのだ。あの夜、何があったのか。なぜ兄は死に、自分は生き残ったのか。
そして、なぜ村雨丸の呪いを受けたのか。
全ての答えが、血染めヶ原にあるような気がしてならない。
鉄心は、身を起こし、旅支度を整えた。
あと一日。
明日には、血染めヶ原に着く。
風間流水。
その男は、何を知っているのか。
***
その日の昼過ぎ、鉄心は街道沿いの村を通りかかった。
村は、妙に静かだった。
人の姿が見えない。
いや、よく見ると、家々の窓から、怯えたような目がこちらを覗いている。
「何かあったのか」
鉄心が呟いた時、前方から馬の蹄の音が聞こえてきた。
武装した侍が、十騎ほど。
先頭の男が、鉄心を見て馬を止めた。
「おい、坊主」
「何か」
「この先で、男を見なかったか。六十がらみの、白髪の侍だ」
風間流水のことか。
「見ていない」
「そうか」
男は舌打ちした。
「もし見かけたら、すぐに知らせろ。賞金が出る」
「賞金?」
「ああ。風間流水という男だ。人斬りでな」
人斬り。風間が?
「何人斬った」
「この一月で、十人以上。皆、一太刀で斬られている」
一太刀。相当な使い手だ。
「理由は」
「分からん。無差別に斬っているようだ」
いや、それは違う。鉄心は直感した。
風間は、自分をおびき出すために、人を斬っているのだ。
「分かった。見かけたら知らせよう」
「頼んだぞ」
侍たちは、馬を走らせて去っていった。
鉄心は、考えた。
風間流水。
ただの敵討ちではなさそうだ。何か、もっと深い理由がある。
鉄心は、歩みを速めた。
血染めヶ原まで、あと半日。
***
日が西に傾き始めた頃、鉄心は血染めヶ原の入り口に立っていた。
広大な原野が、夕日に染まって赤く見える。
まさに、血に染まった原のようだ。
ここは、古来より多くの合戦が行われた場所。
関ヶ原にも近く、戦国時代には幾度となく戦場となった。
今は、ただの原野だが、よく見ると、あちこちに古い塚や碑が立っている。
戦死者を弔うものだろう。
鉄心は、原野の中央へと歩いていった。
風が吹いている。
草の匂いに混じって、微かに血の匂いがする。
いや、これは過去の記憶が呼び起こす幻臭か。
やがて、人影が見えてきた。
原野の中央に、一人の男が立っている。
白髪の老人。だが、その立ち姿は若々しい。
腰に、一振りの太刀。
風間流水。
間違いない。
鉄心は、ゆっくりと近づいていった。
十間ほどの距離で、足を止める。
「風間流水か」
「いかにも」
老人——風間が振り返った。
六十五歳というが、その目は鋭く、油断がない。
「待っていたぞ、鉄心」
「なぜ、わしを」
「三百年前の因縁を、清算するためだ」
やはり、そうか。
「そなたは、風間家の」
「風間流水。風間家当主にして、最後の一人だ」
最後の一人。つまり、風間家は絶えるということか。
「恨みか」
「いや」風間は首を振った。「これは、宿命だ」
風間は、懐から古い書状を取り出した。
「これを読め」
鉄心は、書状を受け取った。
古い紙に、かすれた文字で何かが書かれている。
読み進めるうちに、鉄心の顔色が変わった。
これは——
「驚いたか」
風間が言った。
「三百年前の真実だ」
書状には、こう書かれていた。
柳生鉄之進は、兄・鉄馬を裏切ってはいない。
むしろ、兄を守ろうとして、自ら罪を被った。
だが、それを知らない風間家の先祖が、鉄馬を斬った。
そして、鉄之進は、その復讐のために風間家の者を殺そうとしたが、村雨丸の呪いを受けて、それも叶わなくなった。
「これが、本当なのか」
「ああ。我が家に代々伝わる記録だ」
鉄心の手が震えた。
自分は、兄を裏切ってはいなかった。
三百年間、自分を責め続けてきた罪は、存在しなかった。
「だが、なぜ今更」
「贖罪だ」
風間が、太刀を抜いた。
「風間家は、三百年前、無実の者を殺した。その罪を、私の命で償う」
「待て、そなたに罪はない」
「血の罪は、血で贖う。それが、武士の道だ」
風間は、正眼に構えた。
「さあ、来い。柳生鉄之進」
その名を呼ばれて、鉄心の中で何かが弾けた。
三百年ぶりに、本当の名で呼ばれた。
「分かった」
鉄心は、鳴神と稲妻を抜いた。
「だが、死なせはせん」
「それは、こちらの台詞だ」
風間が、不敵に笑った。
「私も、ある秘薬を飲んでいる。簡単には死なんぞ」
秘薬。まさか、風間も——
二人は、同時に動いた。
風間の太刀が、一直線に振り下ろされる。
神速の一撃。
だが、鉄心はそれを二刀で受け止めた。
ガキィィン!
金属音が、原野に響き渡った。
「速い!」
風間が驚嘆した。
「さすがは、不死身の鉄心」
鉄心は、風間の太刀を弾き返し、間合いを取った。
「そなたも、只者ではないな」
「神速抜刀術、風間流の奥義だ」
風間は、再び構えた。
今度は、上段。
「行くぞ」
風間の姿が、消えた。
いや、消えたのではない。あまりの速さに、目が追いつかないのだ。
だが、鉄心には見えていた。
三百年の経験が、風間の動きを読み取る。
右だ!
鉄心は、右に跳んだ。
風間の太刀が、鉄心がいた場所を薙ぎ払う。
地面が、深く抉られた。
「よくぞ避けた」
風間が感心した。
だが、攻撃は止まらない。
連続の斬撃が、鉄心に襲いかかる。
上、下、右、左、斜め——
全方向からの攻撃。
鉄心は、二刀を駆使して防御する。
火花が散り、金属音が響き続ける。
二人の戦いは、まるで舞のようだった。
老人と小柄な男の、命を賭けた舞。
やがて、風間の動きが止まった。
息が上がっている。
「流石に、歳には勝てんか」
「無理をするな」
「無理ではない。これが、我が生涯最後の戦いだ」
風間は、構えを変えた。
下段。
「風間流奥義——神風一閃」
風間の全身から、凄まじい気が立ち上った。
これは、まずい。
鉄心は直感した。
この一撃は、避けられない。
ならば——
鉄心も、構えを変えた。
無刀流——空心流の構え。
左手を前に出し、右手の小太刀を後ろに引く。
「無心流——」
鉄心の体からも、青白い光が立ち上った。
二人の気が、ぶつかり合う。
原野の草が、風圧でなぎ倒される。
「はあああああ!」
二人は、同時に動いた。
風間の神風一閃。
音速を超えた一撃。
鉄心の無心流。
心と技が一体となった一撃。
二つの剣技が、激突した。
一瞬の静寂。
そして——
カラン。
風間の太刀が、地面に落ちた。
風間は、膝をついた。
胸から、血が流れている。
「見事だ……」
風間が、苦笑した。
「これで、風間家の罪も」
「死ぬな」
鉄心は、風間に駆け寄った。
「傷は深くない。手当てすれば」
「いや、いい」
風間は、首を振った。
「私は、もう充分生きた」
風間は、空を見上げた。
夕日が、地平線に沈もうとしている。
「美しい夕日だ」
「風間」
「鉄心……いや、鉄之進よ」
風間は、鉄心を見つめた。
「一つ、伝えねばならんことがある」
「何だ」
「村雨丸の呪いを解く方法がある」
鉄心の目が見開かれた。
「本当か」
「ああ。天叢雲という刀を使えば」
天叢雲。また、その名前が出てきた。
「天叢雲は、どこに」
「それは……」
風間の声が、途切れた。
目が、ゆっくりと閉じられる。
「風間!」
だが、もう遅かった。
風間流水は、息を引き取った。
安らかな顔をしていた。
鉄心は、風間の亡骸を抱きかかえた。
「すまない……」
三百年前の因縁が、ここで終わった。
だが、新たな謎が生まれた。
天叢雲。
その刀は、どこにあるのか。
鉄心は、風間を丁重に葬った。
原野の一角に、小さな墓を作る。
墓標には、こう刻んだ。
『風間流水之墓 武士として生き 武士として死す』
手を合わせ、鉄心は立ち上がった。
日は、完全に沈んでいた。
月が、東の空に昇っている。
満月だった。
月光に照らされて、血染めヶ原は幻想的な光景を見せていた。
鉄心は、歩き始めた。
どこへ行くか、決めていない。
ただ、天叢雲を探す旅が始まることは確かだった。
そして、その先に、七人の不死者との出会いが待っている。
運命の歯車は、止まることなく回り続ける。
鉄心の小柄な影が、月光の中を歩いていく。
その影は、今日もまた、少しだけ重くなったようだった。
第三章 完
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