無刀流 鉄心「第二章 呪われた村」
霧は生き物のようだった。
白く濃密な霧が、鉄心と白雲の体にまとわりつき、視界を奪い、方向感覚を狂わせる。一歩進むごとに、世界が歪んでいくような錯覚に陥った。
「この霧は、ただの自然現象ではありませんな」
白雲の声が、すぐ隣にいるはずなのに、遠くから聞こえるように響いた。
「結界か」h
鉄心が呟いた。三百年の経験が、この異常な空間の正体を見抜いていた。
「その通りです。影隠れの里は、元々外界から隔絶された場所でした。しかし今は、その結界が歪み、内と外の境界が曖昧になっています」
二人が歩みを進めるにつれ、霧の質が変わってきた。白い霧に、赤黒い筋が混じり始める。血の色にも、瘴気の色にも見えた。
「止まれ」
鉄心が突然立ち止まった。白雲も足を止める。
前方から、何かが近づいてくる気配がした。足音ではない。もっと、本能的な恐怖を呼び起こす何かが。
霧の中から、影が現れた。
人影——いや、人だったものの影だった。
ゆらゆらと揺れながら近づいてくるそれは、顔の半分が腐り落ち、片腕がだらりと垂れ下がっている。死体が歩いているようだった。
「村人です」
白雲が苦い声で言った。
「まだ生きているが、もはや人ではない。鬼蜘蛛の瘴気に侵され、生ける屍と化しています」
生ける屍は、鉄心たちに気づくと、うめき声を上げながら襲いかかってきた。動きは緩慢だが、その目には飢えた獣のような光が宿っている。
鉄心は小太刀を抜こうとしたが、白雲が止めた。
「斬っても無駄です。既に死んでいるようなもの。それに、彼らも被害者です」
「では、どうする」
「こうします」
白雲は懐から一枚の札を取り出した。朱で呪文が書かれた霊符だ。
「臨兵闘者皆陣列在前!」
九字を切りながら、白雲が札を投げた。札は光を放ちながら飛び、生ける屍の額に貼りついた。
ピタリと、動きが止まった。
そして、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。完全に事切れたようだ。
「成仏させました。これが、今の私にできる精一杯です」
白雲の顔には、深い疲労の色が浮かんでいた。
「体力を消耗するのか」
「はい。特に、この濃い瘴気の中では」
鉄心は周囲を見回した。霧の中に、まだいくつもの影が蠢いている。全てを成仏させていては、白雲の体が持たない。
「先を急ごう」
二人は、生ける屍を避けながら進んだ。
やがて、霧が薄くなり、視界が開けてきた。
影隠れの里が、眼前に現れた。
それは、死の村だった。
かつては五十戸ほどの家があったであろう集落は、今や廃墟と化していた。家々の戸は開け放たれ、道には物が散乱し、あちこちに倒れている人影が見える。
生きているのか、死んでいるのか、判別がつかない。
空気は重く、息をするのも苦しい。瘴気が村全体を覆い、生命を蝕んでいる。
「ひどい……」
白雲が呟いた。
「三日前に来た時より、さらに悪化しています」
鉄心は、小太刀の柄に手を置いた。鳴神と稲妻が、今までにないほど激しく震えている。この地に、強大な妖気を感じ取っているのだ。
「生存者はいるのか」
「村長の屋敷に、まだ何人か」
白雲が指差した先に、他の家より大きな屋敷が見えた。唯一、門が閉じられ、何らかの結界が張られているようだ。
二人が屋敷に近づくと、門の内側から声がした。
「どなたですか」
若い女の声だった。警戒心に満ちている。
「白雲です。助けを連れてきました」
門が細く開き、女が顔を覗かせた。二十歳ほどの美しい女だったが、顔は青白く、目の下には深い隈ができている。
「白雲様……本当に来てくださったのですね」
女は安堵の表情を浮かべたが、すぐに苦痛に顔を歪めた。
「つばき殿、大丈夫ですか」
「はい……まだ、何とか」
つばきと呼ばれた女は、鉄心を見た。
「この方が?」
「はい。鉄心殿と申します。腕の立つ侍です」
つばきは、鉄心の小柄な体格を見て、一瞬不安そうな顔をしたが、何も言わなかった。
「中へどうぞ。父が……村長がお待ちしています」
屋敷の中は、外よりはましだったが、それでも瘴気の影響は明らかだった。
畳は湿気で腐りかけ、柱には黒い染みが広がり、空気は澱んでいる。
奥の間に、十数人の村人が集まっていた。皆、病人のような顔色をしている。
「白雲殿……」
床に伏せっている初老の男が、弱々しく声を上げた。村長のようだ。
「お久しぶりです、村長」
白雲が膝をついた。
「約束通り、助けを連れてきました」
村長は、鉄心を見た。曇った目に、微かな希望の光が宿る。
「お侍様……どうか、村をお救いください」
「状況を聞かせてもらおう」
鉄心が言うと、村長は咳き込みながら語り始めた。
「一月ほど前のことでした。村の奥にある封印の祠で、異変が起きたのです」
「封印の祠?」
「はい。三百年前に、鬼蜘蛛という妖怪を封じた祠です」
三百年前。また、その数字だった。鉄心の眉が微かに動いた。
「代々、我が家が祠の管理をしてきました。月に一度、供物を捧げ、封印の札を新しくする。それを怠ったことはありません」
「では、なぜ封印が」
村長は首を振った。
「分かりません。ただ、あの日の夜、地震のような揺れがあり、祠から黒い煙が立ち上ったのです」
つばきが言葉を継いだ。
「それ以来、村人が次々と倒れ始めました。最初は風邪のような症状でしたが、やがて……」
「生ける屍になる」
鉄心の言葉に、つばきは頷いた。
「はい。そして、夜になると……」
「夜になると?」
つばきは震え声で答えた。
「祠の方から、恐ろしい声が聞こえるのです。女の泣き声のような、獣の咆哮のような……」
白雲が口を開いた。
「鬼蜘蛛は、元は人間の女だったという言い伝えがあります」
「人間?」
「はい。三百年前、この地の長者の娘で、名を楓といいました」
楓。その名を聞いて、鉄心の心臓が大きく脈打った。まさか——いや、偶然だろう。楓という名は、珍しくない。
「楓は美しく、多くの男が求婚しました。しかし、彼女が愛したのは、一人の刀鍛冶でした」
白雲の話は続いた。
「その刀鍛冶は、天才と呼ばれた男でした。しかし、楓との愛を成就させるため、禁断の刀を打とうとしました」
鉄心の手が、無意識に震えた。
「その刀こそ、後に妖刀と呼ばれる——」
「村雨丸」
鉄心が呟いた。
白雲が驚いて鉄心を見た。
「ご存知でしたか」
「……聞いたことがある」
嘘だった。知っているどころか、その刀は今も鉄心の魂に刻まれている。そして、楓という女の名も——
(まさか、あの楓が、鬼蜘蛛に?)
三百年前の記憶が、濁流のように押し寄せてきた。
刀鍛冶——五郎入道正宗。
その恋人——楓。
そして、失敗作として生まれた妖刀——村雨丸。
全てが繋がった。
「鉄心殿?」
白雲の声で、鉄心は我に返った。
「いや、何でもない。続けてくれ」
白雲は訝しげな顔をしたが、話を続けた。
「村雨丸を打つ過程で、楓は命を落としました。しかし、その魂は刀に宿り、やがて怨念と化して、鬼蜘蛛という妖怪になったと」
「それを封印したのが、三百年前」
「はい。当時の陰陽師たちが総出で封印しました。以来、この村がその封印を守ってきたのです」
鉄心は、深く息を吸った。
運命とは、かくも残酷なものか。三百年前、村雨丸によって不死となった自分が、今、その刀の生みの親とも言える存在と対峙することになるとは。
「祠を案内してもらえるか」
鉄心の声は、決意に満ちていた。
「しかし、危険です」
村長が止めようとしたが、鉄心は首を振った。
「このままでは、村が全滅する。行くしかあるまい」
祠への道は、死の道だった。
つばきの案内で、鉄心と白雲は村の奥へと進んだ。進むにつれて、瘴気は濃くなり、呼吸すら困難になってきた。
道の両側には、おびただしい数の死骸が転がっている。人間のものも、動物のものも。全て、生気を吸い取られたように干からびている。
「もうすぐです」
つばきが震え声で言った。彼女も限界に近い。顔は土気色で、足取りもおぼつかない。
「つばき殿、ここで待っていてください」
白雲が言ったが、つばきは首を振った。
「いえ、最後まで案内します。これは、村長の娘としての務めです」
その決意の強さに、鉄心は微かに感心した。か弱く見えて、芯の強い女だ。
やがて、木立が開け、広場に出た。
その中央に、祠があった。
いや、祠があった場所、と言うべきか。
建物は半壊し、封印の札は千切れ、扉は内側から破られたように外に倒れている。そして、祠の周囲の地面には、巨大な蜘蛛の巣のような模様が刻まれていた。
「これは……」
白雲が息を呑んだ。
「完全に封印が破られています。それも、内側から」
「内側から?」
「はい。つまり、鬼蜘蛛自身の力で破ったということです。三百年の間に、それほどの力を蓄えていたとは」
鉄心は、祠に近づいた。
瞬間、頭の中に声が響いた。
『来たわね……』
女の声だった。妖艶で、悲しみに満ちた声。
『あなたも、村雨丸の呪いを受けた者……』
鉄心は立ち止まった。
「鬼蜘蛛か」
『その名で呼ばないで……私は楓……ただの、愛に殉じた女……』
声は、祠の奥から聞こえてくる。いや、聞こえるというより、直接脳に響いてくる。
「姿を見せろ」
『ふふふ……見たいの? この醜い姿を……』
祠の奥から、何かが這い出してきた。
それは、蜘蛛だった。
体長三メートルはあろうかという巨大な蜘蛛。だが、その頭部は人間の女の顔をしていた。美しかったであろう面影が、醜く歪んでいる。
「これが、三百年の成れの果てか」
鉄心の声に、感情はなかった。
『あなたも同じでしょう? 村雨丸に魂を縛られ、死ぬことも許されず、永遠を彷徨う……』
鬼蜘蛛——楓が、八本の足で地面を掻きながら近づいてくる。
『でも、あなたは違う……あの人の魂を感じる……』
「あの人?」
『正宗様……私の愛した人……』
鉄心の胸が、また大きく脈打った。
やはり、この楓は、五郎入道正宗の恋人だった楓だ。そして、正宗は——
「正宗は、今も生きている」
鉄心の言葉に、楓の動きが止まった。
『嘘よ! 三百年も前の人間が生きているはずが……』
「生きている。村雨丸の呪いによって」
正確には違う。正宗は、別の理由で不死となった。だが、今はそれを説明している場合ではない。
『正宗様が……生きて……』
楓の八つの目から、涙が流れた。黒い、粘性のある涙。
『会いたい……もう一度、会いたい……』
その瞬間、楓の様子が変わった。
『でも、ダメ! こんな姿で会えるわけがない!』
楓は絶叫した。その声に呼応して、地面から無数の小蜘蛛が湧き出してきた。
「下がれ!」
鉄心が叫んだ。白雲とつばきが後退する。
小蜘蛛の群れが、波のように押し寄せてきた。
鉄心は、鳴神と稲妻を抜いた。
雷光連斬!
二刀が旋風のように回転し、蜘蛛の群れを薙ぎ払う。だが、斬っても斬っても、蜘蛛は湧き出してくる。
『無駄よ! 私の子供たちは無限に生まれる!』
楓が哄笑した。
『あなたも、私と同じ地獄を味わいなさい!』
楓の口から、紫色の糸が吐き出された。毒糸だ。
鉄心は横に跳んで避けたが、糸は地面を溶かした。強力な毒性がある。
(これは、まずいな)
不死身とはいえ、毒で動けなくなれば、永遠に苦しみ続けることになる。
「白雲殿、結界を!」
鉄心が叫ぶと、白雲が印を結んだ。
「東西南北、四方結界!」
光の壁が、つばきと白雲を守るように展開された。だが、それが精一杯のようだ。白雲の顔から、血の気が引いていく。
鉄心は、再び楓と向き合った。
「楓、聞け。そなたの苦しみは分かる。だが、罪のない村人を巻き込むな」
『罪がない? 笑わせないで!』
楓が吼えた。
『三百年間、私を封印し続けた村よ! 私の苦しみを知らず、ただ化け物として封じ込めた村よ!』
「それは——」
『あなたに私の苦しみが分かる? 愛する人のために全てを捧げ、その結果がこの姿よ!』
楓の八本の足が、地面を強く打った。地震のような振動が起こる。
『でも、もういい……全てを終わらせる……この村も、私自身も……』
楓の体が、膨張し始めた。
「自爆する気か!」
白雲が叫んだ。
「あの大きさの妖怪が自爆したら、村どころか、山一つ吹き飛びます!」
鉄心は、覚悟を決めた。
小太刀を鞘に収める。
「何を……」
白雲が驚いたが、鉄心は構わず前に出た。
「楓、一つ教えてやる」
鉄心は、静かに語り始めた。
「正宗は、今も苦しんでいる。そなたを失った悲しみ、村雨丸を生み出した後悔、そして、不死の呪い」
楓の膨張が、少し緩んだ。
「だが、それでも生きている。なぜか分かるか」
『……』
「いつか、そなたに会えると信じているからだ」
嘘ではなかった。鉄心は、正宗本人から聞いたことがある。百年前、偶然出会った時に。
『本当……?』
「ああ。だから、こんな形で終わるな」
鉄心は、ゆっくりと楓に近づいた。
「わしが、そなたを救ってやる」
『救う? どうやって……』
「こうやってだ」
鉄心は、無刀流の構えを取った。
空心流——最奥義。
心剣一体。
「これは……」
白雲が息を呑んだ。
鉄心の体から、青白い光が立ち上った。それは、剣の形を取り、鉄心の頭上に浮かんだ。
心の剣。物質ではなく、精神そのものが形を成したもの。
「心剣一体——楓、そなたの呪いを断つ」
鉄心が、心剣を振り下ろした。
青白い光が、楓を包み込む。
『あああああ!』
楓が絶叫した。だが、それは苦痛の叫びではなかった。
光の中で、楓の姿が変わっていく。醜い蜘蛛の体が崩れ、人間の姿が現れる。
美しい女性の姿。三百年前の、楓本来の姿。
『これは……私……』
楓は、自分の手を見つめた。人間の、白い手。
「これが、そなたの本当の姿だ」
鉄心が言った。
「呪いは、そなた自身が生み出したもの。それを断ち切れるのも、そなた自身だ」
楓の目から、今度は透明な涙が流れた。
『ありがとう……でも、私はもう……』
楓の体が、光の粒子となって崩れ始めた。
「楓!」
『いいの……これで、やっと楽になれる……』
楓は、微笑んだ。三百年ぶりの、安らかな笑顔。
『あなた、名前は?』
「鉄心」
『鉄心……覚えておくわ……もし、正宗様に会ったら、伝えて……』
「何を」
『ごめんなさい、そして、ありがとう……と』
楓の体が、完全に光となって消えた。
後には、小さな勾玉が一つ、地面に落ちていた。
鉄心は、それを拾い上げた。温かい。楓の魂の欠片が、込められているようだった。
楓が消えた瞬間、村を覆っていた瘴気が晴れ始めた。
黒い霧が薄れ、太陽の光が差し込んでくる。
「やった……やったのですね!」
つばきが歓声を上げた。
白雲も、安堵の表情を浮かべた。
「見事でした、鉄心殿。まさか、心剣一体を使えるとは」
「昔、少し習っただけだ」
鉄心は、勾玉を懐にしまった。いつか、正宗に会った時に渡そう。
三人が村に戻ると、奇跡が起きていた。
生ける屍と化していた村人たちが、次々と正気を取り戻していたのだ。
「父様!」
つばきが、起き上がった村長に駆け寄った。
「つばき……わしは、一体……」
「もう大丈夫です。鬼蜘蛛は、鉄心様が退治してくださいました」
村長は、鉄心を見た。そして、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。命の恩人です」
他の村人たちも、次々と鉄心に礼を言った。
「これで、村は救われました」
「本当に、ありがとうございます」
だが、鉄心の表情は晴れなかった。
楓を救えたのか、それとも殺したのか。答えは出ない。
「鉄心殿」
白雲が声をかけた。
「少し、話があります」
二人は、村長の屋敷の離れに移った。
「単刀直入に聞きます」
白雲の目が、鋭く光った。
「あなたは、何者ですか」
鉄心は、黙って白雲を見返した。
「村雨丸の呪いを受けた不死者。それは分かります。しかし、それだけではない」
白雲は、鉄心の顔を見つめた。
「三百年前の出来事を、まるで見てきたかのように知っている。楓と正宗の関係も。そして、心剣一体という、失われたはずの技も」
「……」
「もしかして、あなたは——」
「柳生鉄之進」
鉄心が、静かに本名を名乗った。
「三百年前に死んだはずの、柳生鉄之進」
白雲の目が見開かれた。
「やはり……不死身の鉄心の伝説は、真実だったのですね」
「伝説?」
「はい。各地に、不死身の侍の伝説があります。時代を超えて現れ、人々を救い、そして消える。坊主頭の小柄な侍」
鉄心は苦笑した。
「伝説か。大層なものだな」
「いえ、あなたは伝説そのものです」
白雲は、真剣な顔で続けた。
「そして、私があなたを呼んだのは、偶然ではありません」
「どういう意味だ」
「実は、私は安倍晴明の二十七代目の子孫です」
鉄心の眉が動いた。安倍晴明——平安時代の大陰陽師。
「先祖代々、ある使命を受け継いでいます。それは、不死者を探し出し、ある真実を伝えること」
「真実?」
白雲は、懐から古い巻物を取り出した。
「これを」
鉄心が巻物を開くと、そこには地図が描かれていた。日本全国の地図に、七つの印がつけられている。
「これは」
「七人の不死者の居場所です」
鉄心は、白雲を見た。
「七人? わし以外にも、不死者がいるのか」
「はい。そして、その七人が集まる時、世界の運命が決まると」
白雲は、地図の中央を指差した。そこには、赤い印がつけられている。
「ここが、集合地点です」
「これは……江戸?」
「はい。より正確には、江戸城の地下です」
江戸城の地下。鉄心の記憶に、微かな引っかかりがあった。
「いつ集まるのだ」
「それは分かりません。ただ、その時は必ず来ると」
白雲は、巻物を鉄心に渡した。
「これを、お持ちください。いつか、役に立つ時が来るでしょう」
鉄心は、巻物を受け取った。
七人の不死者。その一人が自分。では、他の六人は——
「一つ、聞きたい」
鉄心が言った。
「五郎入道正宗は、その七人に入っているか」
白雲は頷いた。
「はい。第六の不死者として」
やはり、正宗も不死者だった。
「彼とは、いずれ会うことになるでしょう」
白雲は立ち上がった。
「私の役目は、これで終わりです」
「待て、まだ聞きたいことが」
「申し訳ありません。私も、これ以上は知らないのです」
白雲は、深く一礼した。
「ただ、一つだけ」
「何だ」
「天叢雲という刀をご存知ですか」
天叢雲——村雨丸と対を成すという、聖剣。
「知っている」
「その刀が、全ての鍵を握っています。村雨丸の呪いを解くのも、七人の不死者の運命を変えるのも」
白雲は、意味深な笑みを浮かべた。
「そして、その刀の守護者は、あなたが既に出会っている」
「何?」
だが、白雲はそれ以上語らず、部屋を出て行った。
鉄心は、一人残された。
(既に出会っている? 誰のことだ)
脳裏に、おゆきの顔が浮かんだ。まさか——
その時、つばきが入ってきた。
「鉄心様、村長が宴の準備をと」
「いや、結構だ」
鉄心は立ち上がった。
「もう発つ」
「え? でも、まだ日も高いですし」
「長居は無用だ」
鉄心は、刀を腰に差した。
外に出ると、白雲の姿はもうなかった。まるで、最初からいなかったかのように。
「鉄心様」
つばきが、何か言いたそうにしていた。
「何だ」
「あの……私、夢を見たんです。鬼蜘蛛と戦っている時」
「夢?」
「はい。美しい女性が、泣きながら感謝していました。そして、『いつか必ず恩返しを』と」
楓か。成仏してもなお、想いは残っているのか。
「それから、これを」
つばきは、小さな鈴を差し出した。
「村の守り鈴です。魔除けの力があります」
また鈴か。鉄心は苦笑した。おゆきにも鈴をもらったばかりだ。
「ありがたく受け取ろう」
鉄心は鈴を受け取り、懐にしまった。二つの鈴が、微かに共鳴するような音を立てた。
「では」
鉄心は歩き始めた。
「鉄心様!」
つばきが叫んだ。
「また、いつか、この村にいらしてください!」
鉄心は振り返らず、手を上げて応えた。
村を出て、山道を下りながら、鉄心は考えていた。
七人の不死者。
天叢雲の守護者。
そして、正宗との再会。
全てが、大きな流れの中で動き始めている。三百年間、ただ彷徨うだけだった自分の運命が、急速に動き始めている。
(これは、偶然ではない)
何者かの意志が働いている。それが善なのか悪なのか、分からない。だが、もう流れには逆らえない。
懐の中で、楓の勾玉が温かく脈動していた。まるで、生きているかのように。
「楓、そなたも、この流れの一部なのか」
答えはない。
ただ、風が吹いた。
晩秋の風は冷たく、木々の葉を散らしていく。
鉄心は、ふと立ち止まった。
前方に、人影が見える。
旅装束の若い男が、道の真ん中に立っていた。腰に、一振りの太刀を差している。
「あんたが、鉄心か」
男が言った。声は若いが、目は獣のように鋭い。
「そうだが」
「俺は、黒田藩の浪人、佐々木小次郎」
小次郎? まさか、あの巌流島の——いや、時代が合わない。
「先祖と同じ名を名乗っているだけだ」
男が鉄心の心を読んだように言った。
「あんたに、勝負を申し込みたい」
「理由は」
「強い奴と戦いたい。それだけだ」
若者特有の、純粋な闘争心。鉄心は、かつての自分を見るようだった。
「断る」
「なぜだ」
「戦う理由がない」
鉄心は、男の横を通り過ぎようとした。
だが、男が太刀を抜いた。
「これでも、理由がないか」
刃が、鉄心の首筋に突きつけられた。
鉄心は、ため息をついた。
「若いな」
次の瞬間、鉄心の姿が消えた。
「何っ!?」
男が驚く間もなく、鉄心は男の背後に立っていた。小太刀の柄が、男の後頭部に軽く当てられている。
「これで、終わりだ」
男は、愕然として振り返った。
「速い……いや、消えた?」
「縮地法だ。大したものではない」
鉄心は、小太刀を鞘に収めた。
「腕は悪くない。だが、まだ青い。もっと修行してから出直せ」
「待ってくれ!」
男が叫んだ。
「あんた、本当に不死身なのか」
鉄心は立ち止まった。
「なぜ、そう思う」
「あんたの目だ。普通の人間の目じゃない。何百年も生きてきたような……」
勘の良い男だ。
「だから何だ」
「もし本当なら、教えてほしい。強さの極致を」
鉄心は振り返った。
「強さの極致か」
「ああ」
「それは、わしも探している」
鉄心の答えに、男は驚いた。
「あんたほどの使い手が?」
「強さに終わりはない。どこまで行っても、その先がある」
鉄心は、遠くを見つめた。
「だが、一つ言えることがある」
「何だ」
「強さとは、守るべきものがあって初めて意味を持つ」
男は、考え込むような顔をした。
「守るべきもの……」
「それがない強さは、ただの暴力だ」
鉄心は歩き始めた。
「おい、名前を教えてくれ! 本当の名前を!」
男が叫んだ。
鉄心は、一瞬迷った。そして、振り返らずに答えた。
「柳生鉄之進。だが、その名はもう捨てた」
そして、歩き去った。
残された男——佐々木小次郎は、しばらくその場に立っていた。
「柳生鉄之進……まさか、三百年前の……」
男は、刀を鞘に収めた。
「面白い。いつか必ず、再戦を」
日が傾き始めた頃、鉄心は街道沿いの茶屋で休憩していた。
団子を食べながら、今日の出来事を反省していた。
楓との戦い。白雲の言葉。そして、若い剣士との出会い。
全てが、何かの予兆のような気がしてならない。
「お侍様、お茶のお代わりはいかがですか」
茶屋の女将が声をかけてきた。
「いや、結構」
鉄心が立ち上がろうとした時、女将が言った。
「そういえば、お侍様。桜ヶ丘藩で、大変なことが起きているそうですよ」
桜ヶ丘藩。鬼丸がかつて仕えていた藩だ。
「大変なこととは」
「なんでも、藩主様が偽物だったとか」
鉄心の目が鋭くなった。
「偽物?」
「はい。本物の藩主様は、地下牢に幽閉されていて、偽物が三年も藩主を演じていたとか」
三年前。鬼丸が追放された時期と一致する。
「それで、どうなった」
「昨日、偽物が暴かれて、大騒ぎだそうです。黒幕は、筆頭家老の黒田様だったとか」
黒田重蔵。その名前に、鉄心は聞き覚えがあった。
「詳しく聞かせてくれ」
女将は、嬉々として噂話を始めた。
曰く、昨夜、謎の侍が城に忍び込み、偽藩主と黒田を成敗したという。
曰く、その侍は小柄で、二刀流の使い手だったという。
曰く、誰も、その侍の顔を見た者はいないという。
(まさか、わしと勘違いされているのか)
鉄心は苦笑した。だが、気になることがある。
「その謎の侍は、その後どうなった」
「それが、忽然と消えたそうです。まるで、最初からいなかったかのように」
鉄心は、代金を置いて立ち上がった。
「詳しい話、感謝する」
「お侍様も、桜ヶ丘藩へ?」
「いや、ただの通りすがりだ」
鉄心は茶屋を出た。
だが、心の中では決めていた。
桜ヶ丘藩へ行く、と。
夜道を歩きながら、鉄心は考えていた。
偽の藩主。黒田重蔵。そして、謎の侍。
これも、運命の流れの一部なのか。
懐の中で、二つの鈴が鳴った。おゆきの鈴と、つばきの鈴。
そして、楓の勾玉が、温かく脈動している。
(女たちに、守られているのか)
皮肉なものだ。不死身の自分が、死すべき人間に守られている。
月が昇ってきた。満月まで、あと数日。
白雲の言葉を思い出す。
『七人の不死者が集まる時、世界の運命が決まる』
その時は、いつ来るのか。
そして、自分は何を選ぶのか。
永遠の命か、それとも——
「考えても仕方ないか」
鉄心は、歩みを速めた。
桜ヶ丘藩まで、あと二日の道のりだ。
そこで、何が待っているのか。
新たな出会いか、それとも別れか。
ただ一つ確かなことは、もう後戻りはできないということ。
運命の歯車は、既に回り始めている。
鉄心の小柄な影が、月光に照らされて長く伸びた。
その影は、まるで巨人のようにも見えた。
三百年の重みを背負った、孤独な巨人のように。
第二章 完