第十三章「医心伝心」
死の匂いが、風に乗って流れてきた。
文政五年八月、盛夏の陽射しが容赦なく照りつける街道を、鉄心は黙々と歩いていた。京から東へ向かう道中、下野国の宿場町に差し掛かったところだった。後ろを歩く白雲も、何かを感じ取ったのか眉をひそめている。
「鉄心殿、この匂いは……」
「死だ」
鉄心は短く答えた。三百年以上生きてきた中で、この匂いを嗅いだことは数え切れない。戦場の匂い、疫病の匂い、そして——絶望の匂い。
宿場町の入り口には、誰もいなかった。
普段なら賑わっているはずの時刻だが、人通りは全くない。店は閉まり、家々の戸は固く閉ざされている。路地から聞こえてくるのは、苦しげな呻き声と、誰かを呼ぶ弱々しい声だけだった。
「これは……疫病ですな」
白雲が額に手を当て、霊視の術を発動した。瞳が青白く光る。
「しかし、ただの疫病ではない。何か、霊的な力が混じっています」
鉄心は町の中心部へと歩を進めた。すると、一軒の家から若い女が飛び出してきた。髪は乱れ、着物は汚れている。目は虚ろで、何かに怯えているようだった。
「来ないで! 来ないで!」
女は鉄心を見るなり悲鳴を上げて逃げ出した。路地の奥へと消えていく。
「怯えている……」
白雲が呟いた。
「疫病だけではない。何かが、人々の心を蝕んでいます」
鉄心が町の中心部まで来ると、そこには一人の男が立っていた。
いや、座っていた。地面に座り込み、無数の薬包みに囲まれて、茫然としている若い男。年の頃は二十を少し過ぎた程度だろうか。医者の装束を身に着けているが、その顔には疲労と絶望が刻まれていた。
「剣心……」
鉄心の口から、その名が漏れた。
男——剣心は、鉄心の声に反応した。顔を上げ、その目が鉄心を捉える。一瞬、驚きの表情が浮かんだ。
「鉄心、様?」
剣心はゆっくりと立ち上がった。三年前、天狗岳で出会った時よりも背が伸びている。少年から青年へと成長していたが、その目には深い苦悩が宿っていた。
「久しいな、剣心」
「まさか……ここで会えるとは」
剣心は力なく笑った。
「しかし、最悪のタイミングです。この町は、もう終わりです」
「終わり?」
「ええ。一ヶ月前から、原因不明の熱病が流行り始めました。最初は数人だったのが、今では町民の半数以上が倒れている」
剣心は地面に散らばった薬包みを見下ろした。
「何をやっても効かない。漢方も、蘭方も、祈祷も。何もかもが無駄でした」
その声には、深い自己嫌悪が込められていた。
「俺は……医者になると決めたのに。人を救うと誓ったのに。何もできない」
鉄心は剣心の肩に手を置いた。小柄な体格ゆえ、剣心より頭一つ低い鉄心だが、その手には確かな力があった。
「まだ諦めるな」
「でも……」
「症状を教えてくれ。詳しく」
剣心は一瞬躊躇したが、やがて説明し始めた。
「最初は高熱です。四十度を超える熱が出て、幻覚を見始める。そして、恐怖に囚われる」
「恐怖?」
「ええ。患者は皆、何かに怯えています。見えない何かが自分を襲ってくると訴える。そして……」
剣心の声が震えた。
「三日後には、心臓が止まります。まるで、恐怖で死ぬかのように」
白雲が前に出た。
「それは、医学的な病ではありませんな」
「どういうことですか?」
「霊的な攻撃です。恐怖そのものが、人を殺している」
白雲は町全体を見渡した。
「しかも、この町全体に、不吉な気配が満ちている。何か、霊的な媒介物があるはずです」
「媒介物?」
剣心が首を傾げた時、一人の老人が家から這い出してきた。
「助けて……くれ……」
老人の手には、小さな守り札が握られていた。木製の札に、金色の刻印が押されている。
鉄心は瞬時にそれが何か理解した。
「正宗の刻印……」
白雲も駆け寄り、札を検分した。
「やはり。これは贋作ですが、強い霊的な力を持っています。そして……」
白雲の顔が青ざめた。
「影の気配がある。正宗影です」
正宗影——正宗の名を騙る邪霊。江戸で鴉と戦った時にも現れた、あの邪悪な存在。
「この札が原因か」
鉄心は老人から札を受け取った。触れた瞬間、冷たい悪寒が腕を伝って走る。
「剣心、この札はどこから?」
「ああ、それは……」
剣心が答えようとした時、また別の家から女性の悲鳴が聞こえた。
「お願い! 誰か! 息子が!」
鉄心は即座に駆け出した。小柄な体が、風のように路地を駆け抜ける。
***
家の中は、地獄だった。
十歳ほどの少年が床に転がり、激しく痙攣している。母親らしき女性が必死に抱きかかえているが、少年の目は虚ろで、何も見えていないようだった。
「化け物が……化け物が来る……」
少年が震え声で呟く。
「食べられる……みんな食べられる……」
剣心が医療道具を取り出し、少年の脈を取った。
「脈拍が異常に速い。このままでは心臓が……」
「白雲殿」
鉄心が呼びかけると、白雲は既に術の準備を始めていた。
「浄化の術を試します」
白雲が印を結び、呪文を唱える。青白い光が少年の体を包み込んだ。
一瞬、少年の痙攣が収まった。
だが、すぐに再発する。それも、さらに激しく。
「効かない……なぜだ」
白雲が困惑した。
「浄化の術は確かに発動している。しかし、何かが抵抗している」
鉄心は部屋の隅を見た。そこに、あの守り札があった。金色の正宗刻印が押された、贋作の札。
「剣心、あの札を破壊しろ」
「え? でも、これは疫病除けの御守りで……」
「それが原因だ」
鉄心の言葉に、剣心は一瞬躊躇したが、すぐに決断した。札を手に取り、真っ二つに引き裂く。
その瞬間、札から黒い煙が立ち上った。
煙は少年の体から離れ、空中で蠢いた。そして、おぞましい形を取り始める。
人の顔に似ているが、どこか歪んでいる。目はなく、口だけが大きく開いている。
低級霊だった。
「これが……」
剣心が息を呑んだ。
「病の正体……」
黒い霊は、鉄心を見ると怯えたように後退した。だが、すぐに他の家へと逃げていく。
「待て」
鉄心は鳴神と稲妻を抜いた。小太刀二刀流の構え——地蜘蛛の構え。小柄な体を極限まで低くし、両刀を交差させる。
「雷光連斬」
十六連撃が、黒い霊を捉えた。霊体が光の刃に切り裂かれ、消滅していく。
だが、その瞬間、家の外から無数の悲鳴が聞こえてきた。
鉄心が外に出ると、町中から黒い煙が立ち上っているのが見えた。
数十、いや数百の低級霊が、一斉に顕現していた。
「まずいですな」
白雲が額の汗を拭った。
「影の刻印を破壊したことで、封じられていた霊が一斉に解放されました」
「封じられていた?」
「そうです。影の刻印は、低級霊を引き寄せながら、同時に封じ込めていたのです。恐怖を増幅させながら、霊そのものは見えないようにしていた」
なるほど、そういう仕組みか。
人々は守り札が疫病を防いでくれると信じていた。だが実際は、その札こそが恐怖を増幅させ、低級霊を引き寄せていた。そして、最終的には札が破壊された時、全ての霊が解放される。
巧妙な罠だった。
「鴉の仕業か」
鉄心は呟いた。
江戸で出会った、影を操る不死者・鴉。あの男が、ここにも影の刻印を仕込んでいたのだろう。
「剣心」
鉄心は振り返った。
「お前は患者の手当てに専念しろ。霊は、わしと白雲殿が始末する」
「でも……」
剣心は自分の無力さに歯噛みした。
「俺は、何もできないのか」
「できることをやれ」
鉄心の声は、厳しくも温かかった。
「お前は医者だ。医者にしかできないことがある」
その言葉に、剣心は決意を固めた。
「分かりました」
剣心は医療道具を掴み、隣の家へと走った。
***
低級霊との戦いが始まった。
鉄心は小太刀二刀流で、次々と霊を斬り払っていく。小柄な体躯が素早く動き、狭い路地でも自在に戦える。
「縮地法」
瞬間移動的な高速移動で、鉄心は複数の霊を一瞬で斬り倒す。
白雲も陰陽術で応戦していた。
「式神召喚——青龍」
青い龍の霊体が現れ、低級霊を飲み込んでいく。
だが、霊の数が多すぎた。
一体倒せば、また二体が現れる。まるで無限に湧き出てくるかのようだった。
「このままでは、切りがない」
白雲が叫んだ。
「根源を断たねば」
根源——つまり、影の刻印の大元。
鉄心は懐から天叢雲剣の片鞘を取り出した。この鞘には、本物の正宗刻印が刻まれている。それを使えば、贋作の刻印を感知できるはずだ。
片鞘を掲げると、微かな共鳴音が響いた。
方角は——町の北西、廃寺の方向。
「あそこだ」
鉄心は白雲に目配せし、廃寺へと駆け出した。
***
廃寺は、町外れの小高い丘の上にあった。
かつては立派な寺だったのだろうが、今は荒れ果てている。本堂の屋根は崩れ、境内は雑草に覆われている。
そして、本堂の前に、一人の男が立っていた。
黒装束の男。顔は深い頭巾で隠されている。
「鴉」
鉄心が名を呼ぶと、男は振り返った。
「やあ、柳生鉄之進。また会ったな」
鴉の声は、どこか愉快そうだった。
「まさか、この辺鄙な宿場町まで追ってくるとは。お前の執念には感服する」
「貴様の仕業か」
「ああ、そうだ」
鴉は肩をすくめた。
「影の刻印を使った社会実験さ。恐怖が人をどれだけ蝕むか、興味があってね」
「ふざけるな」
鉄心の声が、低く響いた。
「罪もない人々を、実験の道具にするな」
「罪がない? 笑わせるな」
鴉の声に、初めて冷たさが混じった。
「この世に罪のない人間などいない。誰もが、心の奥底に闇を抱えている。俺は、それを引き出しているだけだ」
鴉が手を振ると、本堂の扉が開いた。
中には、巨大な祭壇があった。そして、その中央に—— in
数百枚の影の刻印が、渦を巻くように配置されていた。
「これが、影の刻印の源泉だ」
鴉が説明した。
「ここから、町全体に恐怖のエネルギーが流れている。これを破壊すれば、確かに霊は消えるだろう」
「ならば、破壊するまでだ」
鉄心が一歩踏み出した時、鴉が刀を抜いた。
影刀・朧月——影そのもので作られた刀。
「させるか」
鴉が刀を振ると、黒い三日月が宙を舞った。霊的な斬撃が、鉄心に襲いかかる。
鉄心は地蜘蛛の構えから横に跳び、回避する。そして、懐から四つのアイテムを取り出した。
おゆきの銀鈴、つばきの勾玉、海童の真珠、そして紺から受け取った狐鈴。
四つが共鳴し、青白い光を放つ。
「心剣一体——四霊共鳴」
新たな技だった。
鉄心の体から、四色の光の刃が立ち上がる。銀、翠、青、金——それぞれが異なる属性の霊力を持つ刃。
「ほう、新しい技か」
鴉が興味深そうに見つめた。
「だが、俺の影にどこまで通用するかな」
鴉の体が影になり、地面に溶け込む。そして、本堂の影から影へと移動し始めた。
だが、鉄心は動じなかった。
「白雲殿」
「承知」
白雲が印を結んだ。
「陰陽五行術——光明結界」
本堂全体が、まばゆい光に包まれた。影を消す光の結界。
「ぐっ」
鴉が影から弾き出された。人間の姿に戻る。
「やるな」
鴉は刀を構え直した。
「だが、これはどうだ」
鴉が呪文を唱えると、祭壇の影の刻印が一斉に活性化した。
無数の低級霊が、本堂の中に溢れ出してくる。
「うわあああ」
霊たちの叫び声が、本堂を満たした。
鉄心は四霊共鳴の心剣を振るう。四色の光刃が、霊を次々と浄化していく。
だが、霊の数が多すぎる。
白雲も式神を総動員して応戦しているが、限界が近い。
「鉄心殿、このままでは」
「分かっている」
鉄心は決断した。
奥の手を使う時が来た。
鉄心は四つのアイテムを空中に放り投げた。それぞれが宙で回転し、複雑な陣形を描く。
「心剣多重展開——四神降臨」
四つのアイテムから、巨大な霊獣が現れた。
東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武。
四神——古来より伝わる、四方を守護する霊獣。
「これは……」
鴉が初めて、驚愕の表情を見せた。
「四神を召喚するとは。お前、どれほどの霊力を持っている」
四神が一斉に咆哮し、低級霊を一掃していく。青龍の雷撃、白虎の突風、朱雀の炎、玄武の水流——四つの力が本堂を満たし、全ての霊を浄化した。
そして、祭壇の影の刻印も、光に包まれて消滅していく。
「くそ……」
鴉が舌打ちした。
「また負けたか。お前は、本当に面白い男だ」
鴉の体が再び影になり始めた。
「だが、まだ終わりじゃない。次は、もっと面白いものを用意しておく」
「待て」
鉄心が叫んだが、鴉はもう消えていた。地面の影に溶け込み、跡形もなく。
***
影の刻印が破壊された瞬間、町全体の空気が変わった。
重苦しい雰囲気が晴れ、清浄な風が吹き始めた。
鉄心が町に戻ると、剣心が必死に患者の手当てをしていた。
汗だくになりながら、一人一人の脈を取り、薬を飲ませ、額を冷やしている。
「剣心」
鉄心の声に、剣心は顔を上げた。その顔には、疲労と——希望の光があった。
「鉄心様! 患者たちの容態が、急に良くなり始めました!」
確かに、先ほどまで苦しんでいた人々の顔色が、少しずつ良くなっている。
恐怖が消えたのだ。影の刻印が破壊され、低級霊が浄化されたことで、人々の心から恐怖が取り除かれた。
後は、体力の回復を待つだけ。
「剣心、お前がやったのだ」
鉄心が言った。
「俺は霊を倒しただけだ。人を救ったのは、お前だ」
剣心の目から、涙が溢れた。
「俺は……俺は、何もできなかったのに……」
「できたじゃないか」
鉄心は剣心の肩を叩いた。
「最後まで、諦めずに患者の傍にいた。それが、医者の仕事だ」
剣心は膝をついて泣いた。三年間、医術を学びながら、常に無力感に苛まれていた。剣の道を捨てて医の道を選んだが、果たして自分に本当に人を救えるのか——その疑問が、ずっと心にあった。
だが、今日、その答えが出た。
自分は医者として、人を救える。
「ありがとうございます、鉄心様」
剣心が顔を上げた。その目には、もう迷いはなかった。
「俺、やっと分かりました。剣も医術も、根本は同じだって」
「そうだ」
鉄心は微笑んだ。
「人を理解し、人を救う。それが全てだ」
***
三日後、町は完全に回復していた。
死者は一人も出なかった。剣心の献身的な治療と、鉄心の霊的な浄化が、全ての町民を救ったのだ。
出発の朝、町民たちが見送りに集まった。
「本当に、ありがとうございました」
町の長老が深々と頭を下げた。
「あなた方がいなければ、我々は全滅していました」
「礼には及ばん」
鉄心は短く答えた。
剣心も、鉄心の隣に立っていた。
「鉄心様、俺も一緒に行っていいですか?」
「何?」
「俺、もっと学びたいんです。剣術も、医術も、そして——」
剣心は鉄心を真っ直ぐ見つめた。
「人を救うということを」
鉄心は少し考えた。
旅の仲間が増えることは、必ずしも良いことではない。自分は不死者で、いずれ別れが来る。それを見送る辛さを、また味わうことになる。
だが——
「白雲殿はどう思う」
白雲は微笑んだ。
「若い力は、歓迎すべきでしょう」
「では、来い」
鉄心は剣心に言った。
「ただし、覚悟しろ。わしの旅は、常に死と隣り合わせだ」
「覚悟はできています」
剣心は力強く頷いた。
そして、三人は町を後にした。
東へ。風の参道へ。
懐の中で、四つのアイテムが温かく脈動していた。そして、新たに——
町の人々が感謝の印として贈ってくれた、小さな薬袋が加わっていた。袋の中には、様々な薬草が入っている。
「これは?」
剣心が尋ねた。
「いつか役に立つ」
鉄心は答えた。
薬袋の底に、小さな紙片が入っていた。それを取り出すと、そこには文字が刻まれていた。
『風の参道、第三の関門——心を癒す者のみ通過を許す』
これは、風の参道の試練の一つだったのか。
意図せずとも、鉄心たちは試練をクリアしていた。剣心の医術と、鉄心の武術。そして、白雲の霊術。三つの力が合わさって、初めて人を救えた。
「鉄心様」
剣心が尋ねた。
「風の参道って、何ですか?」
「天叢雲剣への道だ」
鉄心は空を見上げた。
「そして、わしの呪いを解く、最後の希望だ」
夏の空が、どこまでも青く広がっていた。
蝉の声が、遠くから聞こえてくる。
新たな仲間を得て、鉄心の旅は続く。
三百年の孤独な旅に、少しずつ、仲間が増え始めていた。
***
【幕間——剣心の日記より】
文政五年八月二十日
今日から、鉄心様と旅をすることになった。
三年前、天狗岳で出会った時、俺は剣の道を捨てて医者になると決めた。
でも、正直言って、ずっと迷っていた。
本当に自分は人を救えるのか。剣を捨てたことは正しかったのか。
今回の疫病で、その答えが出た。
俺は、医者になって良かった。
剣で人を斬るより、医術で人を救う方が、遥かに難しい。
でも、遥かに価値がある。
鉄心様は、剣も医術も、根本は同じだと言った。
人を理解し、人を救う。
その言葉が、今の俺の全てだ。
これから、どんな旅が待っているのか分からない。
でも、鉄心様がいれば、きっと大丈夫だ。
あの方は、三百年以上も生きていると白雲様が言っていた。
信じられない話だけど、あの方の目を見れば分かる。
とてつもなく深い、時間の重みが、あの瞳にはある。
俺も、いつか、人を本当に理解できる医者になりたい。
鉄心様みたいに、誰かの支えになれる人間になりたい。
そのために、この旅で、たくさんのことを学ぼう。
——剣心
***
その夜、一行は街道沿いの小さな宿に泊まった。
夕食の後、鉄心は一人縁側に座り、星を見上げていた。
白雲が隣に座った。
「剣心を仲間にして、良かったのですか?」
「分からん」
鉄心は正直に答えた。
「だが、あの目を見ていたら、断れなかった」
「あの目?」
「生きる意志が、溢れていた」
鉄心は自分の手を見つめた。
三百年、不死の呪いに縛られて生きてきた。死にたくても死ねない。その苦しみは、生きる意志とは真逆のものだった。
だが、剣心の目には、純粋な生きる意志があった。
人を救いたい、成長したい、意味のある人生を送りたい——そんな、人間の根源的な欲求が。
「羨ましいのですか?」
白雲の問いに、鉄心は答えなかった。
ただ、夜空を見上げるだけだった。
満月まで、あと二十五日。
八月十五日——影の守護者からの手紙に記されていた日付。
その日、風の参道の終点で、何が待っているのだろうか。
天叢雲剣か。
それとも、新たな戦いか。
あるいは——
「鉄心様」
剣心が縁側に出てきた。
「明日は、どちらへ?」
「東だ」
鉄心は短く答えた。
「常陸の国、鹿島の方角へ」
「鹿島……」
剣心は地図を広げた。
「確か、鹿島神宮がある場所ですね」
「ああ。そして、風の参道の、最初の関門がある場所だ」
鉄心は立ち上がった。
「早く寝ろ。明日は、長い道のりになる」
「はい」
剣心が部屋に戻った後、鉄心は再び星を見上げた。
北斗七星が、くっきりと輝いている。
七人の不死者——その一人である自分。
そして、鴉。
他の五人は、どこで何をしているのだろうか。
全員が、天叢雲剣を狙っている。
いずれ、全員が一堂に会する日が来る。
その時、何が起こるのか。
鉄心は懐の村雨丸に触れた。
この妖刀と、天叢雲剣。
二振りが出会う時、三百年の呪いは終わるのだろうか。
それとも——
風が吹いた。
夏の夜風は、まだ温かい。
だが、その中に、微かに秋の気配が混じっていた。
季節は巡る。
時は流れる。
そして、運命の日は、確実に近づいている。
鉄心は、静かに目を閉じた。
明日への、準備のために。
***
【第十三章 完】




