第十一章 影奉行(かげぶぎょう)
江戸の春は、偽りの匂いがした。
文政五年四月、桜の散る頃。鉄心は深川の大通りに立ち、往来を行き交う人々を眺めていた。表向きは平和な町並みだが、その奥に潜む異常な気配を、三百年以上生きた感覚が敏感に察知する。
「鉄心殿、ここが噂の材木町でございます」
隣に立つ白雲が、小声で説明した。竜神の一件以来、陰陽師はしばらく鉄心と行動を共にしていた。七人の不死者の謎を追うためもあるが、最近各地で頻発している「正宗刻印の贋作」事件に、霊的な力が関わっていることが判明したからでもある。
「材木座の問屋街は、江戸でも指折りの賑わいでございますが」白雲は眉を寄せた。「ここ数日、妙な静けさです」
確かに、活気があるはずの材木問屋街にしては、人通りが少ない。店先に立つ職人たちの表情も、どこか緊張している。まるで、見えない何かに監視されているかのようだ。
鉄心は懐から、第十章で得た天叢雲剣の片鞘を取り出した。質素な造りだが、内側に刻まれた正宗の真筆刻印が、偽物との判別において決定的な役割を果たす。雲上宮での橘姫の霊の言葉が蘇る。
『正宗様の真筆による刻印。これこそが、正宗刀の真偽を見分ける基準となる』
「白雲殿」
鉄心が片鞘を白雲に示した。
「この真筆と照らし合わせて、贋作を見分けられるか」
白雲は片鞘を受け取り、霊視の術で検分した。瞬間、彼の瞳が青白く光る。
「これは……まさしく正宗殿の霊的刻印。強い浄化の力を感じます」白雲は感嘆の声を漏らした。「これがあれば、どんな精巧な贋作でも判別可能でしょう。贋作には必ず、霊的な『歪み』がありますから」
「歪み?」
「はい。本物の正宗刻印は清浄な霊力を放ちますが、贋作は……」白雲は声を潜めた。「何らかの邪悪な力に汚染されています。特に最近の贋作には、『影』のような、不吉な気配が」
影。その言葉に、鉄心の記憶が反応した。与惣次が言っていた「黒衣の男」のことだろうか。
「まずは情報収集だ」
鉄心は片鞘を懐に戻し、材木座の中心部へ向かった。
***
材木座の一角に、「千代田屋」という古い道具屋があった。店先には様々な日用品が並んでいるが、奥には武具や骨董品も扱っているという。このような店こそ、贋作の正宗刻印が流通する温床になりやすい。
「いらっしゃいませ」
店主は五十を過ぎた小太りの男で、愛想の良い笑顔を浮かべていたが、その目は客を値踏みするように鋭い。
「旅の者だが、少し見せてもらえるか」
「もちろんでございます。何かお探しの品が?」
鉄心は店内を見回した。日用品の陰に、確かに刀剣類が並んでいる。そして、その中の一振り——短刀の柄に、金色の刻印が見える。
「あの短刀を見せてくれ」
店主の表情が、微かに強張った。
「あ、あれでございますか。実は」
「どうした」
「お客様、武士の方でいらっしゃいますね」店主は声を潜めた。「実は、最近、刀剣の売買について、お上からお達しが」
お達し。何かしらの規制が敷かれているということか。
「詳しく聞かせてもらおう」
店主は周囲を見回し、奥の部屋に案内した。
「実は、一月ほど前から、正宗刻印のある刀剣の売買が禁止されまして」
「禁止?なぜだ」
「偽物が大量に出回っているからだと。しかし」店主は困惑の表情を見せた。「おかしなことに、その『偽物』とやらが、本物以上の霊力を持っているという噂で」
本物以上の霊力を持つ偽物。矛盾しているようだが、雲上宮での体験を思い出せば、あり得ない話ではない。与惣次の刀も、贋作でありながら相当な霊的力を有していた。
「その禁止令を出したのは」
「深川の与力、柊屋宗十郎様です」
柊屋宗十郎。その名に覚えはない。
「どのような人物だ」
「厳格な方で、正義感も強い。最近は、夜な夜な町内を巡回し、不正を働く者を直々に取り締まっておられます」店主は声を落とした。「ただ、その手法が少々」
「何だ」
「『夜裁き』と呼ばれる私刑を行うのです。法に背いた者を、その場で裁いてしまう」
私刑による裁き。それは確かに異常だ。いかに正義感が強いとはいえ、与力が独断で刑を執行するなど、江戸の法制度では許されない。
「その夜裁きで、何人が」
「この一月で、十五人」店主の顔が青ざめた。「皆、正宗刻印の贋作に関わった者たちです」
十五人。単なる取り締まりの域を超えている。
「柊屋とはどこで会える」
「夜になれば、必ず町内を巡回しております。しかし」店主は鉄心を心配そうに見た。「お侍様、関わらない方が。あの方は、最近少し」
その時、店の外で騒音が響いた。
「何だ」
鉄心が外を見ると、町人たちが慌てて家の中に逃げ込んでいく。そして、遠くから太鼓の音が聞こえてくる。
「『夜裁き』の始まりです」店主が震え声で言った。「柊屋様が来る」
まだ日は沈んでいない。なのに『夜裁き』とは。
鉄心は店を出た。白雲も後に続く。
大通りの向こうから、一行が現れた。先頭を歩くのは、四十を過ぎたと思われる侍。背は高く、痩せ型で、顔は能面のように無表情だ。後ろに従うのは、同心や岡っ引きと思われる男たち十数人。
「あれが柊屋宗十郎か」
鉄心の目が、宗十郎の腰の刀に向けられた。立派な拵えで、柄には確かに金色の刻印が見える。しかし、距離が離れているため、真贋の判別はできない。
宗十郎一行は、材木座の中央に止まった。
「町の者よ、聞くがよい」
宗十郎の声が、広場に響いた。低く、威厳に満ちた声だった。
「正義に背く者は、いかなる身分であろうと、罰を受けねばならぬ。法が裁けぬなら、この宗十郎が代わって裁く」
町人たちが、窓の隙間からこそこそと覗いている。誰も表立って反対する者はいない。
「昨夜、偽りの正宗刻印を売りさばいていた者がいると聞く。名乗り出よ」
しばらく沈黙が続いた。そして、一人の若い商人が震えながら前に出てきた。
「は、はい。私が」
「名は」
「伊勢屋の佐助と申します」
宗十郎は佐助を睨みつけた。その瞳に宿る光は、正義感というより、何か異様な執念のようなものだった。
「偽りの刻印と知りながら売ったのか」
「い、いえ。本物だと思って」
「嘘だ」
宗十郎が刀に手をかけた。
「偽物は霊的な『影』を帯びている。商人なら分かるはずだ」
霊的な影——白雲が言っていた、贋作特有の気配のことだろうか。だが、一般の商人がそれを感知できるとは思えない。
「お許しください」
佐助が土下座した。だが、宗十郎は刀を抜いた。
刀身が陽光を反射して輝く。確かに美しい刀だが、鉄心の目には何かしらの違和感があった。
「正義の名において、汝を裁く」
宗十郎が刀を振り上げた時——
「待て」
鉄心の声が響いた。
宗十郎の手が止まる。一行の視線が、鉄心に向けられた。
「何者だ」
「通りすがりの浪人だ」
鉄心は、ゆっくりと歩み出た。小柄な体躯が、宗十郎の長身と対照的だ。
「その男を斬る理由を聞かせてもらおう」
宗十郎の目が、鋭くなった。
「理由?正義に理由など必要ない」
「偽物を売ったと言うが、それが事実かどうか、どうやって確かめた」
「この目で見れば分かる」宗十郎は自分の刀を掲げた。「正宗様の真の刻印を持つ者には、偽物の『影』が見える」
正宗の真の刻印。宗十郎の刀もまた、正宗作だと言うのか。
鉄心は懐から片鞘を取り出した。
「ならば、これと照らし合わせてみよ」
片鞘を見た瞬間、宗十郎の表情が変わった。驚愕と、微かな恐怖が混じっている。
「それは」
「天叢雲剣の鞘だ。正宗の真筆刻印が刻まれている」
鉄心は片鞘を掲げた。瞬間、宗十郎の刀から微かな光が失われたような気がした。
「もし貴殿の刀が真の正宗作なら、この鞘と共鳴するはずだ」
宗十郎は一瞬躊躇したが、やがて刀を差し出した。
鉄心が片鞘を宗十郎の刀に近づけると——
キィィィン
不協和音のような音が響いた。金属同士の摩擦音ではない。もっと不気味な、霊的な不調和の音だった。
「これは」
白雲が驚きの声を上げた。
宗十郎の刀の柄に刻まれた刻印が、黒く変色し始めたのだ。そして、刀身全体から、煙のような黒い影が立ち上がってくる。
「偽物だ」
鉄心は断言した。
「しかも、ただの偽物ではない。何らかの邪悪な力で汚染されている」
宗十郎の顔が青ざめた。だが、すぐに怒りの表情に変わる。
「馬鹿な!この刀は祖父の代から伝わる名刀だ!」
「では、なぜ片鞘と反発する」
「それは、そちらの鞘が偽物だからだ!」
宗十郎は逆上し、鉄心に斬りかかってきた。
鉄心は身を沈め、攻撃を避ける。地蜘蛛の構え——小柄な体を活かした独特の戦法だ。
「やめぬか!」
同心たちが慌てて止めに入ろうとしたが、宗十郎は聞かない。次の一撃が横薙ぎに放たれる。
鉄心は後ろに跳んで距離を取った。宗十郎の剣技は確かだが、技に『影』が混じっている。正統な剣術の中に、邪悪な力が染み込んでいるのだ。
「白雲殿」
「はい」
「あの刀の影を見極めてくれ。どのような邪気が憑いている」
白雲は霊視の術を発動した。瞳が青白く光り、宗十郎の刀を見つめる。
そして、血の気を失った。
「これは……正宗影」
「正宗影?」
「正宗の名を騙り、人の心を惑わす邪霊です。刀に憑りつき、持ち主の正義感を歪ませ、暴走させる」
なるほど、それで宗十郎は私刑を繰り返していたのか。正義感そのものは本物だが、それが邪霊によって増幅・歪曲されている。
「どうすれば祓える」
「心剣による霊的な攻撃しかありません。物理的な力では祓えない」
心剣一体。無刀流の奥義だ。だが、ここで使えば、多くの人に正体を知られてしまう。
(仕方ない)
鉄心は鳴神と稲妻を鞘に収めた。
「何をする」
宗十郎が困惑した。武器を手放すなど、自殺行為に見える。
「心剣一体」
鉄心の体から、青白い光が立ち上がった。精神の剣——物理的な刀身を持たない、心そのものが剣となる技だ。
「これは」
宗十郎が驚愕した。同心たちも、息を呑んで見守る。
鉄心の頭上に、光の刀身が現れた。それは美しく、清浄で、見る者の心を洗うような輝きを放っている。
「正宗影よ、立ち去れ」
光の刀身が、宗十郎の刀に向けて振り下ろされた。
接触の瞬間、凄まじい音が響いた。雷鳴のような轟音と共に、宗十郎の刀から黒い影が剥離していく。
『うわあああああ』
人ならざる声が響いた。正宗影が断末魔の叫びを上げているのだ。
黒い影は空中で蠢き、やがて一つの形を取った。正宗の顔に似ているが、どこか歪んでいる。偽りの正宗——正宗の名を騙る邪霊の正体だった。
『覚えておけ……これで終わりではない……』
邪霊はそう言い残し、煙のように消え去った。
宗十郎の刀は、ただの古い刀に戻っていた。刻印も消え、霊的な力も失われている。
「これは……一体」
宗十郎が呆然と呟いた。正宗影が祓われたことで、彼の心も正常に戻ったのだ。
「正気に戻ったか」
鉄心は心剣を消し、宗十郎に向き直った。
「俺は、一体何を」
「邪霊に操られていた。だが、もう大丈夫だ」
宗十郎の顔に、深い悔悟の色が浮かんだ。
「私は……十五人も殺してしまった」
「償いは後からでもできる。今は、贋作の出所を突き止めることが先決だ」
鉄心は宗十郎を見据えた。
「その贋作の正宗刻印、どこから仕入れた」
宗十郎は考え込んだ。記憶が曖昧になっている。邪霊の影響で、正確な経緯を思い出せないのだろう。
「確か……黒衣の男が」
やはり、与惣次が言っていた「黒衣の男」だ。
「どのような男だった」
「顔は見えませんでした。しかし」宗十郎は額に手を当てた。「確か、深川の材木座で商いをしているという話でした」
材木座の商人。この近くにいるということか。
「店の名前は」
「思い出せません。ただ、『鴉』という通り名で呼ばれていた男でした」
鴉。白雲が言っていた、七人の不死者の一人だろうか。
その時、周囲に異変が起こった。
佐助をはじめとする町人たちが、急に苦しみ始めたのだ。
「うっ……頭が」
「何だ、これは」
皆、頭を抱えて蹲っている。まるで、何かしらの霊的な攻撃を受けているかのようだ。
「白雲殿」
「これも正宗影の仕業です」白雲は慌てて術を発動した。「邪霊が祓われた反動で、影響を受けていた者たちに異常が」
「治せるか」
「時間をください」
白雲は呪文を唱え始めた。陰陽師の浄化の術だ。
だが、その時——
「フフフ」
どこからともなく、笑い声が響いた。低く、不気味な笑い声。
「誰だ」
鉄心が周囲を見回すと、材木座の屋根の上に人影があった。
黒装束の男。顔は深い頭巾で隠されているが、その体型から中年の男性と推測される。腰には刀を差しているが、柄は見えない。
「久しぶりだな、柳生鉄之進」
男は鉄心の本名を知っていた。
「お前が鴉か」
「その通りだ」鴉は屋根から飛び降りた。まるで本物の鴉のように、音もなく舞い降りる。「七人の不死者の一人、鴉と呼んでくれ」
やはり、不死者だった。
「何故、正宗影を流布する」
「面白いからだ」鴉は肩をすくめた。「人間の正義感ほど、歪めがいのあるものはない。少し力を与えれば、すぐに暴走する」
宗十郎が歯を食いしばった。自分が踊らされていたことに、屈辱を感じているのだろう。
「貴様の目的は何だ」
「目的?」鴉は首を傾げた。「強いて言えば、退屈しのぎかな。三百年も生きていると、刺激が欲しくなる」
三百年。鉄心と同じ期間を生きているのか。
「だが、今日はもう飽きた」鴉は懐から札束のようなものを取り出した。「これが最後のプレゼントだ」
札束——いや、それは札ではない。木製の型板を束ねたものだった。
「正宗刻印の木型だ。これがあれば、いくらでも贋作を作れる」
鴉は型板を地面に投げつけた。
瞬間、型板が爆発した。
いや、爆発ではない。型板から無数の影が溢れ出し、周囲に飛び散ったのだ。それぞれの影が、小さな正宗影に変化していく。
「うわあああ」
町人たちの悲鳴が響いた。小さな正宗影たちが、人々に取り憑き始めている。
「白雲殿」
「術を中断できません」
白雲は浄化の術に集中しており、新たな邪霊に対処できない。
鉄心は再び心剣一体の構えを取った。
「心剣多重展開」
今度は一本ではない。数十本の光の刀身が、鉄心の周囲に現れた。
「雷光心剣乱舞」
光の刀身が、無数の正宗影に向けて放たれる。一本一本が精密に標的を捉え、邪霊を浄化していく。
「ほう、なかなかやるな」
鴉が感心したような声を出した。だが、その表情は見えない。
「だが、これはどうだ」
鴉が腰の刀を抜いた。
その刀身には、刻印がない。だが、全体が黒く、まるで影そのもので作られているかのようだった。
「影刀・朧月」
鴉が刀を振ると、黒い三日月が宙を舞った。物理的な攻撃ではない。霊的な斬撃だ。
鉄心は身を沈めて避けたが、三日月は途中で分裂し、無数の小さな刃となって襲いかかってきた。
「縮地法」
鉄心は瞬間移動的な高速移動で回避した。小柄な体躯が、目にも留まらぬ速さで動く。
「やはり、同じ不死者だけのことはある」鴉は愉快そうに言った。「だが、俺の方が一枚上手だ」
鴉の姿が、急に薄くなった。まるで影絵のように、実体性を失っていく。
「影化の術か」
「そうだ。俺は影になることができる。物理的な攻撃は一切通用しない」
確かに、影になった相手に刀剣は効かない。だが——
「心剣なら通用する」
鉄心は光の刀身を鴉に向けた。
「試してみろ」
鴉は影のまま、鉄心に突進してきた。影刀・朧月が、再び三日月を描く。
鉄心は心剣で受け止めた。
光と影がぶつかり合い、火花が散る。
「面白い」
鴉の声に、初めて真剣味が込められた。
「だが、まだ手の内を見せていない」
鴉の影が、急に巨大化した。人間サイズから、家一軒分の大きさまで膨れ上がる。
「影法師・巨人化」
巨大な影が、鉄心を押し潰そうとした。
鉄心は真上に跳躍し、回避する。空中で心剣を振るい、影の一部を切り裂いた。
「効いている」
だが、影は切り裂かれても、すぐに修復される。無限に再生するのか。
「どうした、終わりか」
巨大な影が、鉄心を見下ろして嘲笑した。
その時、白雲の術が完成した。
「浄化完了」
町人たちの苦しみが和らぎ、小さな正宗影たちも消え去った。
「白雲殿、あの巨大な影を」
「承知いたしました」
白雲が新たな術を発動する。今度は攻撃の術だ。
「陰陽五行術・光明照射」
白雲の体から、まばゆい光が放射された。影を打ち消す、純粋な光の攻撃。
「ぐあああ」
巨大な影が苦悶の声を上げた。光に晒され、縮小していく。
「やるな、陰陽師」鴉の声に、初めて焦りが混じった。「だが、まだ終わりではない」
影が人間サイズに戻った時、鴉は刀を鞘に収めた。
「今日のところは、この辺にしておこう」
「逃げるのか」
「逃げるのではない。戦略的撤退だ」鴉は頭巾の奥で笑った。「だが、最後に一つ教えてやろう」
「何だ」
「正宗影の本当の目的は、贋作の流布ではない」
鴉の体が、再び薄くなり始めた。
「本当の目的は、『稲荷の白き道』の封印を解くことだ」
稲荷の白き道。初めて聞く言葉だった。
「それは何だ」
「自分で調べろ」鴉は完全に影になった。「ヒントは、伏見稲荷にある」
伏見稲荷。京都の有名な神社だ。
「では、また会おう。柳生鉄之進」
鴉の影が地面に溶け込み、消え去った。
***
騒動が収まった後、材木座には静寂が戻った。
宗十郎は深々と頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。私の愚行により、多くの方にご迷惑を」
「済んだことだ」鉄心は宗十郎を見た。「それより、償いをどうするかを考えろ」
「はい」宗十郎は決意を固めた。「私刑で殺めた十五人の遺族に謝罪し、自首いたします」
「それでよい」
鉄心は振り返らず、歩き始めた。白雲も後に続く。
「鉄心殿」
白雲が小声で言った。
「稲荷の白き道とは、何でしょうか」
「分からん。だが」鉄心は空を見上げた。「恐らく、天叢雲剣に関わる何かだろう」
鴉の言葉が気になる。正宗影の真の目的が、その『稲荷の白き道』の封印を解くことだとすれば、今回の事件は序章に過ぎない。
「伏見稲荷か」
鉄心は懐の片鞘に触れた。橘姫から託された、天叢雲剣の鞘。これが、次の手がかりを示してくれるはずだ。
「白雲殿」
「はい」
「京都に向かう」
「承知いたしました」
二人は材木座を後にした。江戸の春の夕暮れが、街並みを茜色に染めている。
桜の花びらが、風に舞って散っていく。美しい光景だが、鉄心の心に不安の影がちらつく。
鴉との初戦は終わったが、真の戦いはこれからだ。七人の不死者の謎、正宗影の陰謀、そして天叢雲剣の行方。
すべてが複雑に絡み合い、巨大な陰謀の全貌が見え始めている。
だが、鉄心は歩き続ける。三百年の長い旅路も、ついに終局に近づいているのかもしれない。
手に入れた片鞘が、微かな温もりを放っている。まるで、進むべき道を示すかのように。
京都・伏見稲荷へ。次なる謎の地へ。
鉄心の小さな足音が、江戸の石畳に響いていく。その足音は今日もまた、運命という名の大河の流れに乗って、未知なる明日へと向かっていた。
## 第十一章 完
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