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第十章 雲上の社

海が、空に浮かんでいた。


下総国・犬吠の沖合十里。本来なら地平線の彼方に水平線が見えるはずの場所に、巨大な海の塊が宙に浮いている。まるで天が逆さまになったかのような光景だった。


鉄心は漁船の船べりに立ち、その異様な蜃気楼を見上げていた。文政五年二月、まだ寒風の厳しい季節。だが今日の海は奇妙なほど凪いでいる。波一つない海面が、鏡のように空の海を映し出していた。


「あれが雲上宮でございます」


船頭を務める老漁師・太兵衛が、震え声で呟いた。


「三日前から現れるようになりました。最初は小さな島ほどの大きさでしたが、日に日に大きくなって」


蜃気楼——本来なら、遠い海上の島影が大気の屈折により空に映る現象だ。だが、これは違う。空に浮かぶ海の中に、確かに建造物が見える。朱塗りの柱、瓦屋根、石造りの基壇。まさしく神社の姿だった。


(竜神の示した『東の果て、雲の上』とは、これのことか)


三月前、那智の大滝で龍女・瑠璃から聞いた言葉が蘇る。天叢雲剣の在り処は『雲の上』にある、と。それが文字通りの意味だったとは。


「お侍様」


太兵衛が不安そうに声をかけた。


「本当に、あそこへ向かわれるので?ここ数日、あの方角へ向かった船は皆、戻ってきません」


「戻ってこない?」


「はい。昨日も、漁師仲間の勘太の船が向かいましたが」太兵衛は首を振った。「夜になっても戻らず、今朝、船だけが漂着しました。勘太の姿はどこにも」


船だけが戻る。乗っていた者は消失。これは尋常な蜃気楼ではない。


「引き返すなら、今のうちです」


太兵衛の言葉に、鉄心は首を振った。


「構わん。近づけ」


決意は揺らがない。天叢雲剣の手がかりがあそこにあるならば、危険を冒してでも向かわねばならない。


船が蜃気楼に近づくにつれて、異変が起こり始めた。


まず、海水の色が変わった。深い紺色から、透明に近い薄青へと変化していく。そして、水温も上がっている。二月の外洋にしては暖かすぎる。


「これは……」


太兵衛が呻いた。櫂を漕ぐ手が震えている。


海面から、淡い光が立ち上り始めた。蛍のような、しかしもっと神聖な光。それが数千、数万と海面を舞い踊っている。


「龍神様の……お怒りか」


「違う」


鉄心は光の一つを手のひらで受けた。温かい。生命力を感じる。


「これは祝福の光だ」


祝福? だが、なぜ船乗りたちは戻ってこないのか。


その疑問は、すぐに解けた。


蜃気楼の真下に差し掛かったとき、海面が急激に盛り上がった。


「うわあああ!」


太兵衛が叫ぶ間もなく、船は巨大な水柱に巻き込まれた。上昇する水流に逆らうことはできない。まるで逆さ滝に飲み込まれるように、船は空へと舞い上がっていく。


鉄心は船べりにしがみつきながら、この現象を冷静に分析した。


(これは物理現象ではない。霊的な力による空間移動だ)


水流の中に、龍の鱗のような光が混じっているのが見える。竜神の力が働いているのは間違いない。


やがて、船は空中の海面に到達した。


着水の衝撃で、太兵衛は船底に叩きつけられた。気を失っている。鉄心は無事だったが、周囲の光景に驚愕した。


本当に、空に海があったのだ。


足下に船が浮かぶ海面。その上に広がる空。しかし、その空の向こうに見えるのは、下界の海ではなく、別の空だった。まさに異空間。現世と隔絶された場所。


「ようこそ」


澄んだ女性の声が響いた。


振り返ると、海面から上半身を出した美しい女性がいた。髪は青緑色で、首筋から下に細かな鱗がある。人魚——いや、龍族だろう。


「久しぶりですね、鉄心様」


「瑠璃か」


それは、那智で出会った龍女・瑠璃だった。だが、あの時とは雰囲気が異なる。より神々しく、威厳に満ちている。


「はい。こちらが私の本来の姿です」瑠璃は微笑んだ。「下界では、人間に合わせて力を抑えていましたが、ここでは必要ありません」


「ここは?」


「雲上宮の海域です。東海龍王様の御座所の一つ。そして」瑠璃の表情が厳しくなった。「侵入者たちが立て籠もっている場所でもあります」


侵入者。それが行方不明になった漁師たちのことか。


「何者だ」


「海上盗賊の一団です。頭目は真壁与惣次という男」瑠璃は忌々しげに言った。「奴らは雲上宮の神宝を盗もうと企んでいます」


神宝。それが天叢雲剣に関わるものなのか。


「三日前、この海域に侵入して以来、龍神様の怒りが収まりません。本来なら、私たちの力で排除するところですが」瑠璃は困った表情を見せた。「奴らは奇妙な武器を持っています」


「奇妙な武器?」


「正宗の刻印が刻まれた刀剣の数々です。しかし、それらは全て贋作。だというのに、なぜか霊的な力を有している」


贋作の正宗刻印。しかも霊的な力を持つ。これは尋常ではない。


「龍族の力を封じる効果があり、近づくことができません」瑠璃は鉄心を見つめた。「そこで、お願いがあります」


「聞こう」


「盗賊どもを排除し、神宝をお守りください。代償として、天叢雲剣の手がかりをお教えします」


やはり、ここに天叢雲剣の秘密があるのか。


「ただし」瑠璃の声が警告を含んだ。「雲上宮は特殊な空間です。時間の流れが異なり、重力も不安定。さらに、宮を守る蜃が出現します」


蜃——蜃気楼を操る巨大な蛤の妖怪。龍族の眷属として知られる。


「構わん」


鉄心は立ち上がった。腰の小太刀・鳴神と稲妻が、微かに震えている。この異空間の霊的エネルギーに反応しているのだろう。


「では、雲上宮へお送りします」


瑠璃が歌うような声で呪文を唱えると、船の周囲に水柱が立ち上がった。今度は横方向への移動だった。


***


雲上宮は、想像以上に巨大だった。


海上に浮かぶ島全体が神社の敷地となっており、中央に壮大な社殿が建っている。朱塗りの柱、金色に輝く瓦屋根。まるで陸上の大社をそのまま海に移したようだ。


だが、その美しさは戦火に汚されていた。


社殿の周囲に、盗賊たちが陣を構えている。粗末な天幕が張られ、盗んだと思われる神具が散乱している。男たちの数は二十人ほど。皆、荒くれ者の風体をしていた。


そして、中央にいる男——真壁与惣次と思われる人物の腰には、確かに刀が差されている。柄に金色の刻印が見える。正宗の偽刻印だろう。


「おい、また船が来たぞ!」


見張りの一人が叫んだ。盗賊たちがざわめき始める。


「今度は一人か。楽勝だな」


「船頭はどうした?」


「気を失ってる。放っておけ」


盗賊たちが鉄心を取り囲む。だが、鉄心の姿を見て、何人かが身構えた。武芸者だと見抜いたのだろう。


「待て」


低い声が響いた。盗賊たちが道を開け、一人の男が進み出てきた。


真壁与惣次。四十を過ぎた大男で、顔には古い刀傷が残っている。元は武士だったと思われるが、今は海賊に身をやつしている。腰の刀は確かに立派な拵えだが、鉄心の目には贋作であることが明白だった。


「俺が真壁与惣次だ」男は威圧的に言った。「貴様は何者だ。なぜここに来た」


「通りすがりの浪人だ」


鉄心は淡々と答えた。名乗る必要はない。


「浪人が」与惣次は嘲笑した。「ここが何処だか分かっているのか。ここは俺たちが占拠した雲上宮。神々の宝庫だ」


「神々の宝庫を汚しているのは、貴様らだろう」


鉄心の言葉に、与惣次の顔が歪んだ。


「生意気な口を利くな!」


与惣次が刀に手をかけた時、異変が起こった。


空中に巨大な影が現れたのだ。


蛤のような、しかし家一軒ほどもある巨大な殻を持つ生物。蜃だった。


『汚れた者どもよ』


蜃の声が、直接脳内に響いてくる。


『我が主の聖域を穢し、神宝を盗みし罪、今こそ償わん』s


蜃の口から、濃密な霧が噴出された。普通の霧ではない。触れた者の生命力を奪う霊的な霧だった。


「うわああ!」


盗賊たちが悲鳴を上げた。霧に包まれた者から順に、石像のように動きを止めていく。石化の術だった。


「くそ!」


与惣次が刀を抜いた。贋作とはいえ、正宗の刻印があるためか、霧を払う力がある。しかし、それも限界があった。


「野郎ども、刀を抜け!正宗様の刻印が守ってくれる!」


盗賊たちも慌てて刀剣を抜いた。皆、正宗の刻印が刻まれている。しかし、そのほとんどが粗悪な贋作だった。効果は限定的で、霧の侵食を完全に防ぐことはできない。


鉄心は、この状況を冷静に観察した。


蜃の霧は確かに強力だが、無差別攻撃だった。自分も標的に含まれている。しかし、盗賊どもを排除するチャンスでもある。


鉄心は鳴神と稲妻を抜いた。


小太刀二刀流の構え——地蜘蛛の構え。小柄な体を極限まで低くし、両刀を体の前で交差させる。


「雷光連斬」


鉄心が動いた時、十六の光が同時に走った。霧を切り裂き、盗賊たちを両断する連続攻撃。蜃の霧すらも一瞬、切り裂かれた。


「何だと!」


与惣次が驚愕の表情を浮かべた。だが、すぐに戦闘態勢に入る。さすがに頭目だけあって、只者ではない。


「貴様、何者だ!そんな技を使うのは」


「名乗る価値もない相手に、名前は教えん」


鉄心は静かに答えた。既に盗賊の大半は倒れている。残るは与惣次と、その直属の部下数名のみ。


蜃は霧の攻撃を止め、鉄心を観察している。敵ではないと判断したのだろう。


「面白い!」


与惣次が笑った。狂気を含んだ笑い声だった。


「久しぶりに骨のありそうな相手に出会った。こいつは楽しい!」


与惣次が刀を振り上げた時、その刻印が光った。贋作なのに、なぜこれほどの霊的な力を?


疑問が氷解したのは、刀身を見た時だった。


刻印は確かに贋作だが、刀身の一部に本物の正宗の破片が仕込まれている。恐らく、本物の正宗刀を砕いて、その破片を贋作に埋め込んだのだろう。だからこそ、贋作でありながら霊的な力を有している。


「正宗様の刀の前では、どんな名剣も無力だ!」


与惣次が斬りかかってきた。


確かに強い。剣技は一流で、刀の霊的な力も相当なものだ。だが——


「浅い」


鉄心が呟いた時、与惣次の刀が空を切った。


縮地法——瞬間移動的な高速移動で、鉄心は与惣次の死角に回り込んでいた。


「心剣一体」


鉄心の体から青白い光が立ち上る。精神の剣——無刀流の奥義だった。


心剣は、物理的な刀身を持たない。しかし、霊的な存在に対してはこちらの方が有効だ。与惣次の刀に込められた正宗の霊的な力を、心剣が切り裂く。


「なっ……何だこれは!」


与惣次の刀から光が失われていく。正宗の霊力が剥離されているのだ。


「正宗の名を騙る贋作など、所詮はこの程度」


鉄心は鳴神で与惣次の刀を払い、稲妻で首筋を狙った。


だが、その瞬間——


「危ない!」


瑠璃の声が響いた。


海面から巨大な水柱が立ち上がり、鉄心と与惣次を引き離した。直後、鉄心がいた場所に巨大な蜃の殻が墜落した。蜃が攻撃を仕掛けてきたのだ。


「蜃様、何を!」


瑠璃が慌てて声をかけた。


『この小男、雲上宮の神宝を盗もうとしておる』


蜃の声が怒りに震えていた。


『盗賊の仲間ではないか!』


誤解している。鉄心は盗賊を倒そうとしているのに、蜃にはそれが神宝を巡る争いに見えているのだ。


「違います!」


瑠璃が必死に説明しようとしたが、蜃は聞く耳を持たない。


『黙れ、瑠璃。お前も騙されておるのだ』


巨大な殻が再び鉄心に向かって落下してくる。鉄心は横に跳んで避けたが、着地点の神社の床が砕けた。ここは雲上の社。足場が限られている。


与惣次は混乱の隙に距離を取り、部下たちを集めていた。


「野郎ども、今のうちに神宝を奪え!あの化け物が邪魔してくれている間に!」


「待て!」


鉄心は与惣次を追おうとしたが、再び蜃の攻撃が襲ってきた。霧ではない。今度は物理的な体当たりだ。


巨大な殻が宙を舞い、鉄心を押し潰そうとする。鉄心は縮地法で回避したが、着地点がない。雲上宮は所々が崩れ始めており、足場が刻一刻と減っている。


(このままでは、与惣次に逃げられる)


その時、懐の中で何かが震えた。


おゆきの銀の鈴だ。第一章で彼女から受け取った、あの小さな鈴が激しく震えている。


そして、つばきの勾玉も光を放ち始めた。


さらに、第七章で受け取った紅葉丸の羽根も温かくなっている。


三つのアイテムが共鳴している。これは——


「そうか!」


鉄心は閃いた。瑠璃が言っていた言葉を思い出す。白雲も以前、似たようなことを言っていた。


『風と鈴と心剣の三位一体が開扉条件』


鉄心は鳴神と稲妻を鞘に収め、おゆきの鈴を手に取った。そして、つばきの勾玉を握り締め、心剣一体の構えを取る。


「心剣一体——鈴音の調べ」


新たな技だった。心剣の青白い光に、鈴の澄んだ音色が重なる。そして、勾玉の温かな光が全体を包み込んだ。


三つの力が融合した瞬間、雲上宮の中心部——社殿の奥から、まばゆい光が立ち上がった。


『これは……』


蜃の動きが止まった。その光を見て、何かを理解したようだ。


光の中から、一人の巫女が現れた。


いや、巫女の霊だった。透明な体で、古式ゆかしい白装束を身にまとっている。美しい女性だが、どこか哀しげな表情をしていた。


『久しい……久しいな』


巫女の霊が、鉄心を見つめて微笑んだ。


『三百年ぶりに、真の求道者が現れた』


「あなたは?」


『私は、天叢雲剣の初代守護者——橘姫』


天叢雲剣の守護者! 鉄心の心臓が激しく打った。


『そなたこそ、村雨丸の呪いを受けし不死者……柳生鉄之進』


初対面なのに、なぜ名前を知っている?


『正宗様から聞いている。いずれ、そなたがここに来ると』


正宗が? まさか、この出会いも計画されていたものなのか?


『そなたに渡すべき物がある』


橘姫の霊が、社殿の奥を指し示した。


そこには、古い刀掛けがあり、一振りの鞘が置かれていた。刀身はない。鞘だけだ。


『天叢雲剣の鞘——通称「片鞘かたさや」』


橘姫が説明した。


『刀身は別の場所にある。だが、この鞘があれば、いつか刀身と再会した時に、真の力を発揮できる』


鉄心は片鞘に歩み寄った。質素な造りだが、触れた瞬間、強大な霊力を感じた。村雨丸とは正反対の、清浄で温かな力。


『それだけではない』


橘姫が続けた。


『鞘の内側を見よ』


鉄心が片鞘の内側を覗くと、古い文字が刻まれていた。正宗の刻印——本物だ。


『正宗様の真筆による刻印。これこそが、正宗刀の真偽を見分ける基準となる』


つまり、この片鞘があれば、贋作と本物を判別できるということか。


『さあ、受け取るがよい』


鉄心が片鞘に手を伸ばした時、再び騒音が響いた。


与惣次たちが、社殿の宝物庫を荒らしている音だった。


「くそ、どこにあるんだ!天叢雲剣は!」


与惣次の怒声が聞こえる。彼らも天叢雲剣を狙っていたのか。


『急ぐがよい』


橘姫の霊が警告した。


『奴らが宝物庫を破壊すれば、雲上宮全体が崩壊する。この空間自体が消滅してしまう』


鉄心は片鞘を掴んだ。瞬間、全身に暖かな力が流れ込んできた。


「蜃よ」


鉄心は巨大な蛤妖怪に向かって呼びかけた。


「わしは盗賊ではない。雲上宮を守るためにここに来た」


『むう……』


蜃は鉄心と片鞘を交互に見つめた。そして、ようやく理解したようだ。


『そなたが、真の守護者か。では、あの盗賊どもを』


「任せろ」


鉄心は片鞘を懐に収め、再び鳴神と稲妻を抜いた。


宝物庫から、与惣次たちの声が聞こえる。


「おい、変な鞘があるぞ!」


「それだ!それが天叢雲剣の鞘だ!」


彼らは別の偽物を見つけたようだ。本物の片鞘は既に鉄心が持っている。


だが、偽物でも宝物庫から持ち出されるのは許せない。


鉄心は宝物庫に向かって駆けた。


「待て、泥棒共!」


宝物庫の中は想像以上に広かった。古代から蓄積された神宝が、所狭しと並んでいる。その中央で、与惣次と残った部下たちが、手当たり次第に宝物を袋に詰め込んでいた。


「おっと、邪魔が入ったな」


与惣次が振り返った。その手には、確かに古い鞘が握られている。偽物だが、それなりに価値がありそうだ。


「それを置け」


「嫌だと言ったら?」


与惣次が嘲笑った。だが、その表情はすぐに歪んだ。


鉄心の姿が、突然消えたのだ。


縮地法——だが、今度は単なる高速移動ではない。片鞘の力が加わり、まるで瞬間移動のような速度を実現していた。


鉄心は与惣次の背後に現れ、鳴神で偽物の鞘を弾き飛ばした。


「な、何だこの速さは!」


与惣次が慌てて刀を振り回すが、鉄心はすでに次の位置に移動している。部下の一人を稲妻で斬り倒し、さらに別の部下に向かう。


「化け物め!」


与惣次が怒号を上げた。だが、彼の動きは明らかに鈍っている。先ほどの心剣で、正宗の霊力を奪われた影響が出ているのだ。


「お前たちの負けだ」


鉄心は静かに宣言した。


残った部下たちを一瞬で無力化し、ついに与惣次と一対一の状況を作り出した。


だが、与惣次は最後の切り札を持っていた。


「くそ……ならば、これでどうだ!」


与惣次が懐から取り出したのは、小さな鈴だった。しかし、それは普通の鈴ではない。黒く濁った金属でできており、不吉な響きを放っている。


「呪いの鈴だ!これを鳴らせば、雲上宮全体が崩壊する!」


与惣次が鈴を振ろうとした時——


「させるか」


鉄心の手には、おゆきの銀の鈴があった。


二つの鈴が同時に音を立てた。


澄んだ銀の音色が、濁った呪いの音を打ち消していく。


「馬鹿な!これは龍王の逆鱗から作った呪いの鈴だぞ!」


「龍王の逆鱗?」


鉄心は眉をひそめた。それは龍族にとって最も忌むべき部位。それを鈴にするとは、なんと冒涜的な。


「どこでそんなものを」


「黒衣の男から買った!正宗の偽刻印と一緒にな!」


黒衣の男——その言葉に、鉄心の記憶が反応した。白雲が話していた、七人の不死者の一人だろうか。


だが、今はそれより目の前の状況だ。


鉄心はおゆきの鈴を高く掲げた。そして、心剣の力を鈴に込める。


「鈴音心剣——浄化の響き」


銀の鈴が、この世のものとは思えぬ美しい音色を奏でた。その音は呪いの鈴を完全に無力化し、さらに宝物庫全体を清浄な空気で満たした。


「う、うわああああ!」


与惣次が苦悶の声を上げた。長年の悪行に穢れた魂が、浄化の響きに耐えられないのだ。


彼の体から、黒い霧のようなものが立ち上がった。怨念の塊だった。それが浄化され、消えていく。


与惣次は膝をついた。もはや戦う力は残っていない。


「どうして……俺は、ただ……」


彼が呟いた。


「ただ、金が欲しかっただけなんだ。女房と子供を養うために」


鉄心は剣を収めた。


「家族がいるのか」


「ああ……だが、俺は元武士。商いも手に職もない。海賊になるしか、生きる道がなかった」


与惣次の目に涙が浮かんだ。悪人だが、根っからの悪ではない。時代の被害者でもある。


「改心するなら、道はある」


鉄心は言った。


「罪を償い、正しく生きろ。それが家族のためでもある」


与惣次は深く頭を下げた。


「ありがとうございます……鉄心様」


彼は鉄心の名前を知っていた。恐らく、不死身の侍の噂を聞いていたのだろう。


その時、宝物庫が大きく揺れた。


『急げ!雲上宮が崩れ始めた!』


瑠璃の声が響いてくる。


「何?」


鉄心は宝物庫を出て外を見た。雲上宮の基盤である空中の海が、不安定になっている。あちこちで渦巻きが発生し、建物が傾き始めていた。


『時間切れです!』


瑠璃が必死に叫んだ。


『雲上宮は一定時間しか現世に現れることができません。もうすぐ異空間に戻ってしまいます!』


異空間に戻る——つまり、鉄心も一緒に飲み込まれてしまう可能性がある。


「脱出しなければ」


だが、どうやって? ここは空中だ。泳いで帰るわけにもいかない。


その時、懐の中で紅葉丸の羽根が激しく震えた。


天狗の羽根——空間跳躍の力を持つと言われていた。


鉄心は羽根を取り出した。黄金色に輝く美しい羽根。第七章で天狗・紅葉丸から受け取った、一回限りの宝物。


「これを使う時か」


鉄心は羽根を高く掲げた。


「紅葉丸よ、力を貸してくれ」


羽根が光った。そして、鉄心の体が宙に浮き始めた。


「与惣次、部下たちを連れて船に戻れ」


「鉄心様は?」


「わしは別の方法で戻る」


鉄心は瑠璃に向かって叫んだ。


「瑠璃、彼らを船まで送れ。そして下界に帰してやれ」


『承知いたしました!』


瑠璃が与惣次たちを水流で包み、船の方向へ送っていく。


『蜃様も、ありがとうございました!』


蜃は静かに頭を下げた。


『真の守護者よ、またいつか会おう』


雲上宮の崩壊が加速している。もう時間がない。


鉄心は紅葉丸の羽根に全神経を集中した。


「頼む、下総の海岸まで」


羽根の光が最高潮に達した時、鉄心の体は空間を超越した。


次の瞬間、鉄心は犬吠埼の岩場に立っていた。


遥か沖合で、雲上宮がゆっくりと消えていくのが見えた。蜃気楼のように、幻のように。


羽根は完全に光を失い、普通の鳥の羽となって風に散った。紅葉丸の力は使い果たされた。


だが、代わりに手にしたものがある。


天叢雲剣の片鞘。


そして、正宗の真筆刻印による、贋作判別の手段。


さらには、黒衣の男——もう一人の不死者の存在に関する手がかり。


「まだ、始まりに過ぎない」


鉄心は片鞘を見つめた。


これで天叢雲剣に一歩近づいた。だが、刀身はまだ別の場所にある。


そして、贋作の正宗刻印を流通させている黒衣の男の正体も突き止めなければならない。


夕日が海に沈みかけていた。


今日という日も終わろうとしている。だが、鉄心の旅はまだまだ続く。


片鞘を懐に収め、鉄心は歩き始めた。


次の目的地は決まっている。江戸だ。贋作の正宗刻印の出所を突き止めるために。


そして、黒衣の男——七人の不死者の一人との対決に備えて。


海風が頬を撫でていく。しょっぱい潮の香りが、故郷を思い出させた。


だが、鉄心にはもう故郷はない。あるのは、果てしない旅路だけ。


不死の呪いを解くまで、歩き続けなければならない道のり。


だが、今日はいつもと少し違った。


希望という名の光が、心の奥で微かに灯っているのを感じる。


天叢雲剣の手がかりを得た。真の正宗刻印を見つけた。そして、同じ不死者の存在を知った。


全ての謎が解ける日は、まだ遠い。だが、確実に近づいている。


鉄心の小さな足音が、夕暮れの海岸に響いていく。


その足音は、今日もまた、少しだけ軽やかだった。


第十章 完

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