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無刀流 鉄心「第一章 鬼の宿場」

 血の匂いが、三百年前のあの日を思い出させた。

 鉄心は立ち止まり、鼻腔を満たす鉄錆びた香りに眉をひそめた。初秋の風が山陰道を吹き抜け、路傍の彼岸花を揺らしている。赤い花弁が血のように、いや、血が花弁のように見えた瞬間、小柄な坊主頭の侍は本能的に腰の小太刀に手を伸ばした。


 この感覚を、何度経験してきたことか。元亀二年の姉川、慶長五年の関ヶ原、そして——記憶の底から、望まぬ映像が浮かび上がってくる。


(また、か)


 鉄心は軽く頭を振り、過去を追い払った。三百年も生きていると、現在と過去の境界が時として曖昧になる。特に血の匂いは、記憶の扉を容赦なく開いてしまう。


「助けて……」


 か細い声が、風に乗って聞こえてきた。鉄心の歩みが速まる。声の主は若い女だ。恐怖と絶望が入り混じった、聞き慣れた響き。三百年の間に何度も耳にした、死に瀕した者の最後の叫び。


 峠道の曲がり角を越えると、血に染まった着物の少女が道端に倒れていた。


 鉄心は素早く周囲を確認する。敵の気配はない。だが、この血の量は尋常ではない。少女の傍らに膝をつき、脈を確かめた。弱いが、まだ生きている。


「大丈夫か」


 短い問いかけに、少女の瞼がかすかに開いた。黒い瞳が鉄心を捉える。その瞳の奥に、一瞬、不思議な光が宿ったような気がしたが、すぐに苦痛に曇った。


「山賊が……鬼丸が……父様と母様を……」


 言葉は途切れ途切れだったが、鉄心には十分だった。鬼丸。その名は、この鬼ヶ峠一帯を荒らし回る山賊の頭領として、旅人の間で恐れられていた。


「傷は浅い。死にはせん」


 鉄心は懐から薬包を取り出し、手早く止血を施した。長年の経験で培った手際の良さだった。薬草の配合も、百年前に出会った蘭方医から学んだものと、さらに古い時代の陰陽師から教わった秘薬を組み合わせた独自のものだ。


 少女の顔に安堵の色が浮かぶ。年の頃は十八といったところか。宿場町の娘らしい、質素だが清潔な着物が血に汚れている。


「お侍様……お願いです。仇を……」


「まずは手当てが先だ。話はその後でよい」


 鉄心は少女を背負い、峠を下り始めた。小柄な体格ゆえ、大柄な侍なら苦労するような山道も、低い重心で安定した足取りで進んでいく。背中で少女が小さくすすり泣いているのを感じながら、鉄心は無言で歩き続けた。


 不意に、少女が呟いた。


「お侍様は、お強いのですね。こんな細い体なのに……」


「体の大きさと強さは関係ない」


 鉄心は淡々と答えた。


「わしの師は、わしよりさらに小柄だった。だが、その師に勝てる者はいなかった」


 それは嘘ではなかった。二百年前、無刀流を教えてくれた無明老人は、身長百五十センチにも満たない老人だった。しかし、その技は神業の域に達していた。


 鬼ヶ峠の宿場町は、夕暮れ時だというのに不自然なほど静まり返っていた。


 通りに人影はなく、家々の雨戸は固く閉ざされている。まるで町全体が息を潜めているようだった。普段なら、この時刻は旅人で賑わい、飯屋から味噌汁の香りが漂い、子供たちの遊ぶ声が聞こえるはずだ。


 鉄心は宿場の中ほどにある大きな旅籠「近江屋」の前で立ち止まった。看板は立派だが、最近手入れが行き届いていない様子が見て取れた。


「ここが、そなたの家か」


 背中の少女が小さく頷いた。鉄心が戸を叩くと、中から恐る恐る声がした。


「どちら様で……」


「旅の者だ。怪我人を連れている」


 戸が細く開き、初老の男が顔を覗かせた。少女を見るなり、男の顔色が変わる。


「おゆき様!」


 戸が大きく開かれ、男——近江屋の番頭らしい——が飛び出してきた。


「源蔵、私は大丈夫……それより、父様と母様は……」


 源蔵と呼ばれた男の顔が曇った。その表情が、全てを物語っていた。


「申し訳ございません、おゆき様……旦那様も奥様も……」


 おゆきの体から力が抜けた。鉄心は彼女を支えながら、静かに宿の中へと入った。


 近江屋の中は、外観以上に広かった。玄関から続く土間には、旅支度を解く場所があり、奥には囲炉裏を囲む板の間が見える。二階建ての構造で、客室は十室ほどありそうだった。


「こちらへ」


 源蔵に案内され、奥の座敷におゆきを寝かせた。他の奉公人たちも集まってきたが、皆一様に暗い顔をしている。


 しばらくして、おゆきが落ち着いた頃、鉄心は源蔵から詳しい話を聞いた。


 座敷には、源蔵の他に、宿場の有力者らしい老人が数名同席していた。


「三日前の朝でございました」


 源蔵は涙を拭いながら語り始めた。


「旦那様と奥様は、隣の峰山宿での商談に出かけられました。いつもなら護衛を付けるのですが、その日に限って『大げさだ』とおっしゃって……」


「それで?」


「昼過ぎに、山道で鬼丸一味に襲われたようです。金品を奪われた上で……」


 源蔵は言葉を詰まらせた。


「遺体は、夕方に山仕事の者が見つけました。奥様は即死、旦那様は、最期におゆき様の名を……」


 鉄心は黙って聞いていた。この手の話は、三百年の間に嫌というほど聞いてきた。時代が変わっても、人の営みと悲劇は変わらない。


「おゆき様だけは、奇跡的に逃げ延びられました。木の陰に隠れていたところを、鬼丸の部下に見つかったが、崖から飛び降りて逃げたと」


「崖から?」


「はい。普通なら死んでもおかしくない高さですが……」


 源蔵の言葉に、鉄心は微かに眉を動かした。普通なら死ぬ高さから生還。それも、致命傷を負わずに。偶然にしては出来すぎている。


「その鬼丸とやらは、どこにいる」


「山の中腹に砦を構えております。手下は三十人ほど。皆、腕の立つ荒くれ者ばかりで……」


「それで、なぜ代官所は動かぬ」


 この問いに、同席していた庄屋らしい老人が答えた。


「恥ずかしい話ですが、代官所の役人どもは、賄賂を受け取って見て見ぬふりでございます」


「ほう」


「それに……」老人は声を潜めた。「鬼丸には、ある噂があるのです」


「噂?」


「鬼丸は元は桜ヶ丘藩の侍でした。何か藩の不正を訴えて追放されたとか。詳しいことは分かりませんが、代官所が手を出せない何か後ろ盾があるのではないかと」


 元武士か。鉄心の目が細まった。武士が山賊に堕ちる。珍しい話ではない。この三百年の間に、幾度となく見てきた光景だった。


 応仁の乱の後、主を失った侍が野盗になった。関ヶ原の後、西軍の残党が山賊になった。そして今また、幕府の権威が弱まり始めたこの時代に、同じことが繰り返されている。


「しかも」別の商人が口を挟んだ。「鬼丸の剣術は、示現流だと聞いております」


「示現流か」


 鉄心は興味深そうに呟いた。薩摩の実戦剣術。一撃必殺を旨とする、荒々しくも効果的な流派だ。


「お侍様」


 襖が開き、おゆきが入ってきた。着替えを済ませ、髪を結い直した彼女は、先ほどまでの弱々しい少女とは別人のような鋭い眼差しをしていた。


「私に、剣を教えてください」


 鉄心は無表情におゆきを見つめた。


「仇討ちか」


「はい。この手で、必ず」


「やめておけ。素人が付け焼き刃で挑んでも、返り討ちに遭うだけだ」


「それでも構いません!」おゆきの声が震えた。「死んでも……死んでも構わないんです!」


 その言葉に、鉄心の胸の奥で何かが軋んだ。死んでも構わない。かつて、自分もそう思った時期があった。


 兄を裏切り、家を失い、全てを失った夜。死のうとした。何度も何度も。だが、村雨丸がそれを許さなかった。不死の呪いが、死ぬことすら許さなかった。


「死ぬのは簡単だ」


 鉄心の声が、低く響いた。


「生きる方が、よほど難しい」


 おゆきは、その言葉に込められた重みに気圧されたように黙り込んだ。


「三日だ」


 鉄心が呟いた。


「三日待て。それで決着をつけてやろう」


 その夜、鉄心は近江屋の離れに泊まることになった。


 離れは、本館から渡り廊下で繋がった小さな建物で、上客用の特別室だった。床の間には、見事な山水画の掛け軸がかかり、小さいながらも庭が見える。


 月明かりが障子を通して部屋を照らしている。鉄心は腰の小太刀を抜き、刃を月光にかざした。


 刃長四十五センチ、通常より十センチ短い特注品。「鳴神」と名付けられたこの刀は、三百年前から鉄心と共にあった。刀身には、見る角度によって雷のような紋様が浮かび上がる。それは、打った刀匠の技なのか、それとも長年の使用で生まれた何かなのか、鉄心にも分からない。


 もう一振り、「稲妻」と対を成す小太刀を抜く。こちらも同じ刀匠の手によるもので、二振りを同時に振るうと、微かに共鳴するような音が生まれる。


 二刀を構え、無音で型を始めた。


 雷光流——小太刀二刀流の型は、鉄心の小柄な体格に最適化されている。通常の剣術が上段、中段、下段と構えを分けるのに対し、雷光流は常に変化し続ける。地を這うような低い構えから、突然跳躍しての上段攻撃。回転しながらの連続斬撃。全ては、小柄な体格の弱点を補い、利点を最大化するために編み出された技だった。


(この体も、随分と使い慣れたものだ)


 鉄心は自嘲気味に思った。若い頃は、この小柄な体格を恨んだこともあった。兄は六尺近い堂々たる体躯だったのに、なぜ自分はこんなに小さいのかと。


 だが今では、この体こそが自分の武器だと理解している。低い重心は安定をもたらし、軽い体重は素早い動きを可能にする。狭い場所での戦いでは、大柄な侍より遥かに有利だ。


 ふと、障子の向こうに人の気配を感じた。


「入れ」


 障子が開き、おゆきが正座した。夜着姿の彼女は、月光を浴びて青白く光っている。


「眠れぬか」


「はい……お侍様も」


「慣れている」


 おゆきは鉄心の坊主頭を見つめた。月光の下、その頭皮には無数の古傷が浮かび上がっている。


「失礼ですが、お侍様はなぜ髪を」


「過去を断ち切るためだ」


 嘘ではない。だが、真実の全てでもない。三百年前、兄を裏切ったあの夜、鉄心は髪を剃り落とした。二度と過去の自分に戻らぬように。そして、不死となってからは、毎朝髪を剃ることが、自分がまだ人間であることの証明のような儀式になった。


「私も……剃ろうかと思います」


 鉄心はおゆきを見た。彼女の長い黒髪が、風に揺れている。


「やめておけ。そなたには似合わぬ」


「でも、強くなりたいんです。お侍様のように」


「強さとは何だ」


 突然の問いに、おゆきは言葉を詰まらせた。


「殺す力ですか? それとも……」


「分からぬ」鉄心は刀を鞘に収めた。「三百……いや、長い間考えているが、未だに答えは出ぬ」


 おゆきは不思議そうな顔をした。三百、と言いかけたように聞こえたが、聞き間違いだろうか。


 鉄心は座り直し、おゆきと向き合った。そして、静かに語り始めた。


「昔、ある男がいた。剣の腕は立つが、体は小さかった。その男は、強くなりたいと願った。誰にも負けない強さを」


 おゆきは、黙って聞いていた。


「男は修行を重ね、ついに望んだ強さを手に入れた。だが、その強さと引き換えに、大切なものを失った。家族も、友も、愛する人も。全てを」


 鉄心の声が、微かに震えた。


「強さを求めた末に、男は一人になった。そして気づいた。一人で生きる強さなど、本当の強さではないと」


「では、本当の強さとは?」


「それを、まだ探している」


 鉄心は立ち上がり、縁側に出た。おゆきも後に続く。


 庭の池に、月が映っている。水面に映る月は、本物の月と同じように見えるが、触れようとすれば砕け散る。


「水面の月のようなものかもしれぬな」鉄心は呟いた。「追い求めても、決して掴めぬもの」


「でも」おゆきが言った。「追い求めることに、意味があるのではないでしょうか」


 鉄心は、おゆきを見た。十八歳の娘の言葉とは思えない深さがあった。


「そうかもしれぬな」


 二人は、しばらく月を眺めていた。


「お侍様」


 おゆきが口を開いた。


「一つ、お聞きしてもよろしいですか」


「何だ」


「お侍様は、人を殺したことがありますか」


 鉄心は答えなかった。殺したことがあるか、だと? 数え切れないほど殺してきた。百人か、二百人か、もっとか。正確な数など、とうに忘れた。


「ある」


 短い答えに、おゆきは息を呑んだ。


「どんな気持ちでしたか」


「最初は、何も感じなかった。二人目も、三人目も。だが、いつからか、重くなった」


「重く?」


「殺した者の重さが、積み重なっていく。それは、時とともに重くなる一方で、決して軽くなることはない」


 鉄心は自分の手を見つめた。この手で、どれだけの命を奪ってきたことか。


「だから、できることなら、そなたにはその重さを背負ってほしくない」


 おゆきは、鉄心の横顔を見つめた。月光に照らされたその顔は、とても悲しそうに見えた。


 翌朝、近江屋の裏庭で、鉄心はおゆきに簡単な護身術を教えていた。


 朝露が草に光る中、二人は木刀を手に向かい合っていた。


「力で勝とうとするな。相手の力を利用しろ」


 鉄心は自分の小柄な体格を最大限に活かした動きを実演する。重心を低く保ち、相手の攻撃を受け流す。そして、相手の体勢が崩れた瞬間に反撃する。


「私には無理です……」


 何度も転ばされ、おゆきは息を切らしていた。朝稽古を始めて既に一刻(二時間)が経っている。


「そなたは軽い。それは弱点ではなく、利点だ」


 鉄心はおゆきの構えを直した。手を取り、正しい握り方を教える。おゆきの手は、思ったより硬かった。家業を手伝っていたからだろう。


「いいか、戦いとは力比べではない。特に、体格で劣る者にとってはな」


 鉄心は、おゆきの後ろに回り、一緒に木刀を構えた。


「相手が振りかぶった瞬間、その腕の下は空く。そこが狙い目だ」


 二人で一緒に動きを繰り返す。最初はぎこちなかったおゆきの動きが、徐々に滑らかになっていく。


「そう、その調子だ」


 稽古を見物していた宿場の人々が、徐々に集まってきた。皆、鬼丸への恐怖と、目の前の小柄な侍への期待が入り混じった表情をしている。


 中には、子供たちの姿もあった。彼らは、鉄心の動きを真似して、木の枝を振り回している。


「おじさん、強いの?」


 一人の男の子が、鉄心に聞いた。


「さあな」


「でも、鬼丸をやっつけてくれるんでしょ?」


 子供の無邪気な質問に、鉄心は少し困った顔をした。


「やっつける、か」


 鉄心は子供たちを見回した。


「お前たちは、鬼丸が怖いか?」


「怖い!」


 子供たちは口々に答えた。


「でも、鬼丸も昔は子供だった。お前たちと同じように、遊んで、笑って、泣いていた」


 子供たちは、不思議そうな顔をした。


「悪い人も、昔は子供だったの?」


「そうだ。誰も、生まれた時から悪人ではない」


 この時、人垣の中から、一人の老人が進み出た。宿場の庄屋だった。


「お侍様」


 庄屋は深々と頭を下げた。


「不躾ながら、お尋ねしたい。本当に、鬼丸を討ってくださるのですか」


「討つ、とは言っていない」


 鉄心の答えに、人々がざわめいた。


「ただ、決着をつける。それだけだ」


「しかし、相手は人でなしの山賊です。情けは無用かと」


 鉄心は老人を見つめた。その目には、三百年の歳月が宿っているようだった。


「人でなし、か。では聞くが、鬼丸はなぜ山賊になった」


 老人は口ごもった。


「それは……藩を追放されたと聞いておりますが」


「なぜ追放された」


「藩の不正を訴えたとか……」


「その不正とは何だ」


 誰も答えられなかった。鉄心は静かに続けた。


「悪人だから討つ。簡単な理屈だ。だが、悪人を作るのは何だ? 人か、世か、それとも……」


 鉄心は言葉を切った。そして、視線を遠くの山に向けた。


「わしは昔、ある男を知っていた」


 人々は、黙って聞いていた。


「その男は、正義感が強く、曲がったことが大嫌いだった。藩の不正を見つけると、身分も顧みず訴え出た。結果、藩を追われ、家族を失い、全てを失った」


 鉄心の声は、淡々としていたが、どこか悲しみを帯びていた。


「その男は、世を恨み、人を恨み、やがて山賊になった。奪われたから奪い返す。そう言って」


「それは……」


「鬼丸と同じだな」


 人々は、複雑な表情で顔を見合わせた。


「だから、わしは討つとは言わない。決着をつける。それが、相手を人として扱うということだ」


 老人は、深くため息をついた。


「お侍様の言われることは、正しいのかもしれません。しかし、我々には難しすぎます」


「難しくて結構」鉄心は稽古を再開した。「簡単な答えなど、この世にはない」


 その日の午後、鉄心は一人で山に入った。


 鬼丸の砦の偵察が目的だった。山道を登りながら、鉄心は周囲の地形を頭に叩き込んでいく。退路、待ち伏せに適した場所、戦いに有利な地形。三百年の経験が、瞬時に戦術を組み立てていく。


 砦は、思ったより堅固だった。山の中腹の自然の要害を利用し、柵と堀で守られている。正面からの攻撃は困難だろう。


(だが、わしは一人だ。正面から行く必要はない)


 鉄心は、砦の裏手に回った。そこには、断崖絶壁があった。常人なら登攀不可能な岩壁だが、鉄心なら可能だ。


 と、その時、下から声が聞こえてきた。


「頭、本当にあの侍と戦うんですか?」


「ああ」


 鬼丸の声だ。鉄心は、息を殺して聞き耳を立てた。


「でも、相手は一人ですよ。皆でかかれば」


「馬鹿を言うな」鬼丸の声が鋭くなった。「相手は侍だ。正々堂々と戦う」


「でも、頭は山賊になったんでしょう?」


「山賊にはなった。だが、侍の魂まで売った覚えはない」


 部下は黙り込んだ。


「それに」鬼丸の声が和らいだ。「あの小さな侍、何か普通じゃない気がする」


「確かに、妙な迫力がありましたね」


「ああ。あれは、修羅場を潜り抜けてきた者の目だ。並の経験じゃない」


 鉄心は、苦笑した。さすがに元武士、見る目がある。


「明日の決闘、俺が負けたら、お前たちは山を下りろ」


「頭!」


「いいから聞け。俺が負けるということは、相手が本物だということだ。そんな相手に、お前たちが勝てるわけがない」


「でも……」


「これは、俺個人の戦いだ。お前たちを巻き込むわけにはいかない」


 鬼丸の言葉に、鉄心は考えを改めた。この男、根っからの悪党ではない。部下思いの、一本筋の通った男だ。


(ならば、なおさら生かさねばならぬ)


 鉄心は、音もなくその場を離れた。


 夕方、宿に戻ると、おゆきが待っていた。


「お侍様、明日はいよいよ……」


「ああ」


「私も連れて行ってください」


「だめだ」


「でも!」


 おゆきの目に、涙が浮かんだ。


「両親の仇を、この目で見たいんです」


「仇を見て、どうする。鬼丸が死ぬところを見て、そなたの心は晴れるのか」


 おゆきは、唇を噛んだ。


「分かりません。でも……」


「仇討ちは、死んだ者のためではない。生きている者の自己満足だ」


 鉄心の言葉は、厳しかった。


「死んだ者は、もう何も望まない。望むのは、生きている者だけだ」


「では、私はどうすればいいのですか」


 おゆきの声は、震えていた。


「生きろ」


 鉄心は、おゆきの目を真っ直ぐ見つめた。


「両親の分まで、生きろ。それが、そなたにできる唯一のことだ」


 おゆきは、崩れるように座り込んだ。嗚咽が、静かな部屋に響いた。


 鉄心は、黙ってその場を離れた。慰めの言葉など、持ち合わせていない。三百年生きても、人の悲しみを癒す術は身につかなかった。


 その夜、鉄心は眠れなかった。


 いや、正確には、眠る必要がなかった。不死の体は、普通の人間ほど睡眠を必要としない。それでも、人間らしさを保つために、毎日数時間は眠るようにしていた。


 だが、今夜は違った。


 明日の決闘のことを考えていたわけではない。鬼丸程度の相手なら、恐れる理由はない。問題は、その後だった。


(また、一人か)


 鬼丸との決着がつけば、この宿場を離れることになる。そして、また一人で旅を続ける。いつまで? 百年? 二百年? それとも、永遠に?


 ふと、縁側に人の気配を感じた。


 障子を開けると、おゆきが立っていた。


「眠れないのか」


「はい。お侍様も」


 鉄心は、縁側に腰を下ろした。おゆきも、隣に座る。


「お侍様」


「何だ」


「もし、明日、お侍様が負けたら」


「負けはせぬ」


「でも、もしも」


 鉄心は、おゆきを見た。月光の下、彼女の横顔は美しかった。


「もし、わしが負けたら、逃げろ。できるだけ遠くへ」


「逃げません」


 おゆきの声は、静かだが、芯の強さがあった。


「私も、戦います。お侍様が教えてくださった技で」


「一日や二日の稽古で、何ができる」


「できなくても、やります」


 おゆきの決意は固かった。鉄心は、小さくため息をついた。


「そなたは、強い」


「え?」


「わしより、ずっと強い」


 おゆきは、不思議そうな顔をした。


「だって、お侍様は」


「わしは、逃げているだけだ」


 鉄心の言葉に、おゆきは驚いた。


「過去から、現在から、未来から。全てから逃げている」


 それは、三百年で初めて口にした本音だった。


「でも、そなたは違う。逃げずに、立ち向かおうとしている」


 鉄心は立ち上がった。


「だから、生きろ。わしの分まで」


 そう言い残して、鉄心は部屋に戻った。


 おゆきは、その後ろ姿を見送りながら、呟いた。


「お侍様も、生きてください。私たちと一緒に」


 その言葉が、鉄心の耳に届いたかどうかは、分からなかった。


 約束の日が来た。


 朝から、宿場は異様な緊張に包まれていた。商売も手につかず、皆が固唾を呑んで時を待っている。


 昼過ぎ、鉄心は一人で宿場を出た。おゆきは必死に同行を願ったが、鉄心は許さなかった。


「待っていろ。必ず、戻る」


 それだけ言い残して、鉄心は歩き始めた。


 枯れ沢への道は、昨日の偵察で頭に入っている。足取りは軽く、迷いはない。


 枯れ沢は、宿場から山に向かって半里ほどの場所にある。夏には清流が流れるが、今は岩がごろごろと転がる荒れ地だった。決闘には、うってつけの場所だ。


 鉄心が到着すると、既に男たちが待っていた。


 三十人の山賊が、沢を囲むように配置されている。そして、中央に一人の男が立っていた。


 鬼丸権三郎。


 左頬の大きな傷跡が、陽光の下ではっきりと見える。身長は百八十センチを超え、鉄心より頭一つ以上高い。腰には一振りの太刀。刃渡り三尺二寸はあろうかという大業物だった。銘は見えないが、かなりの名刀のようだ。


「来たか」


 鬼丸の声は、静かだった。


「約束通りだ」


「てめぇが、おゆきの用心棒か」


「用心棒ではない。ただの、通りすがりだ」


「通りすがりが、命を懸けるか」


「命など、とうに捨てている」


 鬼丸は、鉄心を見つめた。


「小せぇな。俺の腰までしかねぇじゃねぇか」


 山賊たちが嘲笑した。だが、鬼丸は笑わなかった。


「だが、その目。只者じゃねぇ」


 鬼丸は、ゆっくりと歩み出た。


「名を聞いておこう」


「鉄心」


「鉄心……聞いたことがある名だ」鬼丸の目が細まった。「まさか、不死身の鉄心という与太話の」


「与太話で結構」


 鉄心は二刀を抜いた。通常より短い刀身が、陽光を反射して光る。鳴神と稲妻が、微かに震えている。まるで、戦いを喜んでいるかのように。


「ほう、小太刀二刀流か。雷光流と見た」


「よく分かったな」


「俺も、昔は侍だったんでね」


 鬼丸もゆっくりと太刀を抜いた。刀身に、美しい刃紋が浮かび上がる。乱れ刃の見事な作りだ。


「名刀だな」


「ああ、親父の形見だ。唯一、藩を出る時に持ち出せたものだ」


 鬼丸の目に、一瞬、懐かしさが宿った。


「示現流、鬼丸権三郎。推して参る」


 その瞬間、鬼丸の気配が変わった。山賊の頭領ではなく、一人の武士の顔になった。


 二人は、ゆっくりと間合いを詰めていく。


 五間(約9メートル)。


 三間(約5.4メートル)。


 二間(約3.6メートル)。


 ここが、通常の剣術の間合いだ。だが、二人はさらに近づく。


 一間半(約2.7メートル)。


 ここで、鬼丸が止まった。示現流の間合いだ。


 だが、鉄心はさらに踏み込んだ。


 一間(約1.8メートル)。


 鬼丸の眉が動いた。小太刀の間合いにしても、近すぎる。


 だが、次の瞬間、鉄心は地に伏せた。


 地蜘蛛の構え。極限まで姿勢を低くし、地面すれすれに身を沈める。小柄な体格が、さらに小さくなる。まるで、地面と一体化したかのようだ。


「面白い構えだ」


 鬼丸は正眼に構えた。示現流の基本にして奥義、一の太刀の構えだ。


 風が止んだ。


 山賊たちも、固唾を呑んで見守っている。


 蝉の声が、急に大きく聞こえた。


 最初に動いたのは鬼丸だった。


「ちぇええええい!」


 気合いと共に、必殺の一撃が振り下ろされる。示現流の一の太刀。初太刀で相手を叩き斬る、一撃必殺の剛剣。


 だが、鉄心はその場から消えていた。


 地蜘蛛の構えから、横に跳ぶ。いや、跳ぶというより地を這うような動き。鬼丸の太刀は、鉄心がいた場所の岩を真っ二つに割った。


 岩が砕ける音が、谷間に響いた。


「速い!」


 鬼丸が振り返る間もなく、鉄心は懐に潜り込んでいた。小太刀二刀が、下から上へと振り上げられる。


 ガキィン!


 金属音が響いた。鬼丸は咄嗟に太刀を横にして受け止めた。だが、鉄心の攻撃は止まらない。


 雷光連斬——回転しながらの十六連撃。


 小柄な体が独楽のように回転し、二刀が雨あられと降り注ぐ。右、左、上、下、斜め。全方向からの攻撃が、途切れることなく続く。


 鬼丸は必死に防御するが、全ては防ぎきれない。腕に、足に、胴に、浅い傷が刻まれていく。


 一撃、二撃、三撃……


 十撃を超えたところで、鬼丸の防御が崩れた。


 十一撃目が、鬼丸の左肩を斬り裂いた。


「くそっ!」


 鬼丸は大きく後ろに跳んで距離を取った。肩から血が流れている。


「なるほど、只者じゃねぇな」


 血が滲む肩を押さえながら、鬼丸は不敵に笑った。


「小太刀二刀流で、これほどの技を見せるとは」


「まだ、始まったばかりだ」


 鉄心は、構えを変えた。今度は、小太刀を逆手に持つ。


「だが、俺も伊達に山賊をやってるわけじゃねぇ」


 構えが変わった。示現流の型から外れた、実戦的な構え。これが、鬼丸が山賊になってから身につけた戦い方か。


「示現流は、確かに強い。だが、型にはまりすぎる」


 鬼丸は、太刀を肩に担ぐような構えを取った。


「これが、俺の編み出した、邪道示現流だ」


 今度は鉄心から仕掛けた。地を蹴り、低い姿勢のまま突進する。


 鬼丸の太刀が横薙ぎに振るわれるが、鉄心はそれを予測していた。身を沈め、太刀の下をくぐり抜ける。


 だが、それこそが鬼丸の罠だった。


「読んでたぜ!」


 太刀の柄が、下から突き上げられる。鉄心の顎を狙った一撃。避けられない——


 ゴッ!


 鈍い音と共に、鉄心の体が吹き飛んだ。地面を転がり、岩にぶつかって止まる。


「お頭!」


 山賊たちが歓声を上げた。


「やったぞ!」


「さすが頭だ!」


 だが、鬼丸は構えを解かなかった。その目は、鉄心から離れない。


 案の定、鉄心はゆっくりと立ち上がった。口から血が流れている。顎に入った一撃は、常人なら意識を失うほどの衝撃だったはずだ。


(やるな)


 鉄心は内心で感心していた。元武士というだけある。技術は確かだ。そして、実戦での工夫も見事だ。


「まだやるか?」


 鬼丸が問う。その目には、勝利の確信と、微かな哀れみが混じっていた。


「ああ」


 鉄心は血を拭い、再び構えた。だが、今度は小太刀を一本、鞘に収めた。


「一刀か。なめてるのか?」


「いや」鉄心は首を振った。「本気を出すだけだ」


 空いた左手を前に出し、独特の構えを取る。無刀流——空心流の構えだった。


「無刀流だと?」


 鬼丸が驚いた。


「まさか、素手で太刀に挑む気か」


「素手ではない。心で戦う」


 鬼丸は、訝しげな顔をした。だが、次の瞬間、鉄心から発せられる気配に息を呑んだ。


 先ほどまでとは、まるで違う。底知れぬ深さを持つ、巨大な何かが、小さな体の中に潜んでいる。


「来い」


 鉄心が静かに言った。


 鬼丸は、一瞬躊躇した。だが、すぐに覚悟を決めた。


「うおおおおお!」


 渾身の力を込めて、太刀を振り下ろす。


 鉄心は動かなかった。ただ、左手を上げただけだ。


 パン!


 乾いた音がした。


 鬼丸の太刀が、止まっていた。いや、止められていた。鉄心の左手が、太刀の峰を掴んでいたのだ。


「なにっ!?」


 鬼丸が驚愕する。素手で、真剣を止めた?


 いや、よく見ると、鉄心の手は太刀に触れていない。太刀との間に、髪の毛一本分の隙間がある。まるで、見えない何かが太刀を受け止めているかのようだ。


 次の瞬間、鉄心の左手が動いた。


 手首を返すだけの、小さな動き。だが、その動きに合わせて、鬼丸の太刀が回転した。


 カラン!


 太刀が、鬼丸の手から落ちた。


「馬鹿な……」


 鬼丸が呆然とする間に、鉄心の小太刀が喉元に突きつけられていた。


 勝負は決した。


 静寂が、枯れ沢を包んだ。


 山賊たちは、信じられないという顔で、立ち尽くしている。


「殺せ」


 鬼丸が静かに言った。


「負けは負けだ。侍らしく死なせてくれ」


 鉄心は小太刀を下ろした。


「死ぬ必要はない」


「何だと?」


「聞きたいことがある。なぜ山賊になった」


 鬼丸は苦笑した。


「今更、何を」


「答えろ」


 鉄心の声には、有無を言わせぬ迫力があった。鬼丸は観念したように語り始めた。


「三年前、俺は桜ヶ丘藩の中級武士だった。三百石取りの、まあ、そこそこの身分だった」


 鬼丸の目が、遠くを見つめる。


「ある日、藩の重臣が商人と結託して、農民から不当に年貢を巻き上げているのを知った。証拠も掴んだ。帳簿の改竄、農民への暴行、娘たちへの……」


 言葉が詰まった。


「俺は、藩主に直訴した。正義は必ず勝つと信じていた。馬鹿だったよ」


 鬼丸の声に、自嘲が混じった。


「藩主も重臣とグルだった。いや、藩主こそが黒幕だった。結果、俺は謀反人として追放され、家族は……」


 鬼丸の拳が震えた。


「家族は、どうした」


「殺された。妻も、娘も、まだ五つだった息子も。見せしめだと言って、俺の目の前で」


 鬼丸の目から、涙が流れた。


「俺は、その時死ぬべきだった。だが、死ねなかった。復讐したかったから」


「それで、山賊に」


「ああ。この世界に復讐することにした。奪われたから、奪い返す。殺されたから、殺す。それの何が悪い」


 鉄心は黙って聞いていた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「気持ちは分かる」


「分かる?」鬼丸が鼻で笑った。「お前に何が分かる」


「わしも、大切な者を失った」


 鉄心の声は、静かだった。


「兄を、家族を、全てを失った。自分の愚かさゆえに」


 鬼丸は、鉄心を見つめた。


「だから、そなたの痛みは分かる。だが、おゆきの両親を殺したのは、そなただ」


「ああ、そうだ。俺は人殺しだ。だから、殺せ」


「いや」鉄心は首を振った。「生きろ」


「は?」


「生きて、償え。それが、そなたにできる唯一のことだ」


 鬼丸は呆然と鉄心を見つめた。


「お前は……何者だ」


「ただの、通りすがりの侍だ」


 鉄心は踵を返した。


「待て」


 その時、一人の山賊が叫んだ。


「頭を見逃すなら、てめぇが代わりに死ね!」


 弓が引き絞られていた。鉄心めがけて矢が放たれる。


 鉄心は振り返りもしなかった。ただ、微かに体を傾けた。矢は、髪の毛一本の差で外れた。いや、外れたのではない。鉄心が避けたのだ。


「やめろ!」


 鬼丸が部下を制した。


「この勝負、俺の負けだ。これ以上、手を出すな」


 そして、鉄心に向かって深く頭を下げた。


「恩に着る。だが、一つ聞かせてくれ。あんた、本当に人間か?」


 鉄心は立ち止まったが、振り返らなかった。


「さあな。自分でも、時々分からなくなる」


 そう言い残して、鉄心は歩き去った。


 その後ろ姿を見送りながら、鬼丸は呟いた。


「鉄心……不死身の鉄心。与太話じゃなかったのか」


 宿場に戻ると、人々が心配そうに待っていた。


 鉄心の姿を見て、おゆきが駆け寄ってきた。


「お侍様! ご無事で……」


「ああ」


「鬼丸は?」


「生きている」


 おゆきの顔が曇った。


「なぜ、殺さなかったのですか」


「殺して、そなたの両親が生き返るか?」


 おゆきは唇を噛んだ。


「でも……」


「鬼丸も、そなたと同じだ。家族を殺され、復讐に生きている」


 鉄心の言葉に、おゆきは息を呑んだ。


「憎しみは憎しみしか生まない。どこかで、誰かが断ち切らねばならぬ」


 おゆきは俯いた。涙が頬を伝う。


「私には……できません。許すなんて」


「今は、それでいい」鉄心は優しく言った。「時が、全てを解決してくれる」


 三百年生きた鉄心だからこそ言える言葉だった。時間は、全ての傷を癒す。たとえ、それが百年かかろうとも。


 源蔵が進み出た。


「お侍様、本当にありがとうございました」


 深々と頭を下げる。他の宿場の人々も、次々と礼を言った。


「これで、安心して暮らせます」


「命の恩人です」


「どうか、これを」


 庄屋が、金包みを差し出した。


「いらぬ」


 鉄心は手を振った。


「ただの、通りすがりだ。礼など必要ない」


 その夜、鬼丸一味は山を下りた。どこへ行くのか、誰も知らない。ただ、二度とこの地に現れないことだけは確かだった。


 宿場では、ささやかな祝いの宴が開かれた。鉄心は、その席に顔を出したが、すぐに離れに引き上げた。


 離れで、鉄心は一人、月を眺めていた。


 障子が開き、おゆきが入ってきた。手には、膳を持っている。


「お食事を」


「いらぬ」


「でも、何も召し上がっていないでしょう」


 実際、鉄心は丸一日何も食べていなかった。不死の体は、食事をそれほど必要としない。だが、人間らしさを保つために、一日一食は取るようにしていた。


「では、少しだけ」


 鉄心は、箸を取った。質素だが、心のこもった料理だった。


「おゆき様が作られたそうです」


 源蔵の声がした。いつの間にか、廊下に立っていた。


「余計なことを」


 おゆきが顔を赤らめた。


「美味い」


 鉄心が呟いた。それは、本心だった。三百年生きて、食べた料理は数知れない。豪華な料理も、珍しい料理も。だが、この素朴な味噌汁が、妙に心に染みた。


「お侍様」


 おゆきが口を開いた。


「一つ、お聞きしてもよろしいですか」


「何だ」


「お侍様は、これからどちらへ」


「決めていない。風の向くまま、気の向くままだ」


「いつも、お一人で?」


「ああ」


「寂しくないのですか」


 鉄心は、箸を置いた。


「慣れた」


 嘘だった。三百年経っても、孤独には慣れない。ただ、感じないふりをしているだけだ。


「私……」


 おゆきが何か言いかけた時、外から声がした。


「お侍様、お客人です」


 源蔵の声だった。


 客? この時刻に?


 鉄心が外に出ると、一人の老僧が立っていた。白い髭を蓄え、杖をついている。


「これは、珍しい場所でお会いしますな」


 僧侶は、穏やかに微笑んだ。昼間、山道で会った僧侶だった。


「あなたは」


「白雲と申します。陰陽師をしておりました。今は、ただの老いぼれ坊主ですが」


 白雲と名乗った老僧は、鉄心を見つめた。


「影隠れの里の件で、お力を借りたく参りました」


「影隠れの里?」


「はい。奇病が流行っていると申しましたが、実は……」


 白雲は声を潜めた。


「妖怪の仕業かもしれません」


 鉄心の目が細まった。


「妖怪」


「はい。三百年前に封印された、鬼蜘蛛という妖怪が、封印から解き放たれた可能性があります」


 三百年前。その言葉に、鉄心の胸がざわついた。


「なぜ、わしに」


 白雲は、意味深に微笑んだ。


「あなたなら、解決できると思いまして。不死なる者よ」


 鉄心は驚かなかった。やはり、見抜かれていたか。


「あなたこそ、何者だ」


「ただの、老いぼれです。ただ、少しばかり、霊的なものが見えるだけで」


 白雲は、鉄心の腰の小太刀を見た。


「その刀……鳴神と稲妻ですね。そして、あなたの身に宿る呪い……村雨丸」


 鉄心の手が、反射的に刀に伸びた。


「安心してください。敵ではありません」


 白雲は両手を上げた。


「むしろ、協力したいのです。影隠れの里を救うために」


 鉄心は、白雲を見つめた。この老人、只者ではない。だが、悪意は感じない。


「分かった。明日、発つ」


「ありがとうございます」


 白雲は深々と頭を下げた。


「では、明朝、ここでお待ちしております」


 白雲が去った後、おゆきが不安そうに言った。


「お侍様、大丈夫なのですか。妖怪だなんて」


「心配はいらぬ」


 鉄心は、月を見上げた。月は、相変わらず静かに輝いている。


(また、始まるのか)


 新たな戦いの予感に、鉄心の中で何かが疼いた。それは、不安なのか、期待なのか、自分でも分からなかった。


 翌朝、鉄心は旅立ちの準備をしていた。


「もう、お発ちになるのですか」


 おゆきが名残惜しそうに言った。


「ああ。ここに留まる理由はない」


「でも……」


 おゆきは何か言いかけて、口をつぐんだ。代わりに、小さな包みを差し出した。


「これを」


「何だ」


「お守りです。母の形見なのですが」


 包みを開けると、小さな鈴が入っていた。銀製で、振ると澄んだ音がする。


「もらえぬ」


「お願いです。お侍様の無事を祈らせてください」


 おゆきの真剣な眼差しに、鉄心は観念した。


「では、預かっておく」


 鉄心は鈴を懐にしまった。


「お侍様」


 おゆきが言った。


「また、会えますか?」


 鉄心は振り返った。朝日を背に、おゆきが立っている。その姿が、まぶしかった。


「会えるさ。いつか、必ず」


 それは、予感だった。この娘とは、また会うことになる。いつか、どこかで。もしかしたら、違う時代、違う場所で。


 鉄心は微笑んだ。三百年ぶりの、心からの微笑みだった。


 おゆきも微笑み返した。その首筋で、小さな三日月型の痣が朝日に照らされて光った。鉄心には見えなかったが、それは天叢雲の守護者の証だった。


「行くぞ」


 白雲が声をかけた。


 鉄心は、最後にもう一度おゆきを見た。そして、歩き始めた。


 峠道を登りながら、鉄心は物思いに耽っていた。


 鬼丸との戦いで受けた傷は、既に完全に塞がっている。顎への衝撃も、もう痛みはない。これが、村雨丸の呪いの力。不死の、呪われた力。


(いつまで、こうして歩き続けるのか)


 答えのない問いを、また繰り返す。三百年、同じ問いを繰り返してきた。


 だが、今日は少し違った。


 おゆきの笑顔が、心に残っている。生きることを選んだ鬼丸の後ろ姿も。そして、懐の中の小さな鈴が、歩くたびに微かに鳴る。


(もう少し、歩いてみるか)


 風が吹いた。初秋の風は冷たいが、心地よかった。


 道の先に、深い霧が立ち込めているのが見えた。まるで、異界への入り口のように。


「あの霧の向こうが、影隠れの里です」


 白雲が言った。


「普通の人間なら、迷って辿り着けません。しかし、あなたなら」


 鉄心は頷いた。確かに、あの霧は普通ではない。霊的な何かを感じる。


 二人は、霧の中へと入っていった。


 その瞬間、世界が変わった。


 時間の流れが違う。空気の密度が違う。そして、何より、死の気配が濃い。


「これは……」


「はい。既に、かなり汚染が進んでいます」


 白雲の顔が厳しくなった。


「急がねば、村が全滅します」


 鉄心は、腰の小太刀に手を置いた。鳴神と稲妻が、激しく震えている。


 新たな戦いが、始まろうとしていた。


 だが、それはまた別の物語——。


T


 第一章 完

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