96.side裏の言霊4(六年前)
義母が怪我をし、夫が事故に遭った。
寺務所スタッフが次々と高熱を出している。
自分の体の奥からも、発熱間近の悪寒が湧いて来ている。
本堂大広間の裏、窓のない小控えの間。西日すら射さない畳三畳の部屋で、壁に寄りかかって栄美子は正座を崩した。
い草の匂いが鼻につく。頭を壁にぶつけても昔ながらの砂壁に柔らかく受け止められた。
「少し寒いわ」
両手をぼんやり眺めても長い白いマフラーはない。首元が寒く震えが上がってくるが、それを温めるものはなかった。マフラーは、ふた月ほど前に栄美子が外へ持ち出した。
そして置いて来てしまった。
供えたのだ。
お山の坂道の分岐点、大きな杉の木から左側の道の奥深くに向かった。
かなり先に行ったところには小さな小さな稲荷の祠があって、そこに手を合わせて供えて来た。
お山に測量調査が入ったという。
だから、お山が騒がしくなるから、どうぞお山を守ってください、と心を込めて手を合わせた。
それから、編みたての白い長いマフラーを祠の傾いだ扉に引っ掛けた。
新年あけると寒くなりますからねえ。これで少しは寒さをしのげますでしょうか。
心を込めて編みました。どうか気に入っていただけますように。
「……ように」
これがほんのいっときでも、あなた様の大事なものの代わりになれますように。
だから、
これが代わりになりますので、
「誰か」が「それ」を借りに来たとき、
どうぞ、貸してやってくださいな。
「栄美子。こんなところにいたのか。熱っぽいのに寝ていなきゃダメじゃないか」
夫の松葉杖が障子の端にトン、と当たった。
拍子に今考えていたことを忘れた。
「あなたこそ。部屋で休んで」
栄美子は心配顔の夫を見上げて微笑み返す。
障子が開け放たれて、廊下の明り取りから薄い日が線になって差し込む。逆光になった二代目住職の夫はまぶしそうに笑った。
「ここも母屋も静かすぎて落ち着かないんだ。鞘子も昼寝中だし」
「ふふ。あの子がいるとそれだけでうるさくなるから」
家全体が沈む中、ひとり元気に大騒ぎする太陽のような娘を浮かべて夫婦で目を細める。現在保育園をお休み中だが、昼寝時以外はとても賑やかだった。ふふふ、と笑い、そして栄美子は穏やかに言った。
「もう少し。もう少しで、みんな落ち着くと思うわ。ただ不幸なことが重なっただけだもの。わたし、すべてが落ち着くよう、お山の左奥の稲荷様にも手を合わせてきたのよ」
「おや。寺院の奥さんなのにずいぶん宗派違いじゃないか」
優しい夫は悪戯めいて笑い、頷いた。
「まあでも、どの神様仏様もみな見守ってくださるだろう。君はいつも信心深くて思いやりがあって、清らかな気持ちの人だ。きっと神様も施しをくれるだろう」
栄美子はくすぐったくなって首を縮めて笑い返す。夫は「じゃあ、君も早く部屋に戻るんだよ」と言い残して慣れない杖でゆっくりと出て行った。
と、またゆっくり振り返る。
「鞘子が、どうも勝手に沙貴さんへ電話をしたようだ。寂しい、一緒に夕飯食べようって。ついさっき、そちらへ伺いますねと連絡があったよ」
「まあ、そうなの」
「電話、ひとりで触らないよう届かないところへ移したのにな」
「あの子、なんでもひとりでやってしまうわね。困ったわ」
「沙貴さんにはいつも迷惑かけるな。何かお礼をしよう」
「本当にそうだわ。わたしも考えておくわ、ありがたいわねえ」
トン、トン、と本堂へ続く廊下に夫の松葉杖の音が響く。
栄美子はまぶたを閉じて壁に寄りかかった。
固定電話台、の下に、踏み台を置いた、のはいつだったかしら。わたし。ああ、つい昨日、だったわ。
熱がじわじわと首裏まで滲んで寒気で大きく震えた。
いま、夫に言ったのだ。「もう少しで、みんな落ち着くと思うわ」と言った。
わたしがそう言ったのだから、きっと結末はそうなる。
ああ、やっぱりね、となる。
大丈夫だ。あの子は、わたしの子は救われる。わたしの子。あの子だけは。何を犠牲にしても守ると誓った。誓ったからには、わたしは守る。絶対に。
「あとひとこと」
もう少しで落ち着く。
必要なのはあとひとこと、ほんの少しの言葉だけだ。そのひとことで背中を押せば、たぶん大丈夫。すべてが落ち着く。
きっとそう。わたしにはわかるのだもの。
どうしましょうか。いつ言おうか。一番効果的な場面で一番効果的な言葉を言わなきゃ。
たぶん、一刻を争う、切羽詰まった場面だわ。
たぶん、夜。寒い夜。他の人がいないところ。意味のわかっていない幼子以外、誰にも聞かれないような、そんなわたしたちだけの場面。そうしましょう。それがいい。
「あの扉の鍵は、コウちゃんしか持ってないわ」
うーん。これだけじゃあ弱いかしら。
「コウちゃん。いまの騒ぎでも、出て来ていないわ」
これを加えたら、動くわ。きっと。絶対。だって優しいもの彼女。
「…………ああああああああああああーーーああーーーーーー」
ああ、罪深い。罪深い罪深い罪深い。
罪深い罪深い罪深い罪深い。
地獄に落ちる人間とは、こんな顔をしているのか。
わたしはなんて罪深い、罪深い、醜く壊れた鞘だ、
おこぼれは、言霊と先見の明、先見の明罪深い罪深い醜い
先を見通す力、これ、わたしの、おこぼれで、わたしは壊れた、鞘
「ままぁ。どこぉ」
本堂の庭先から、自分を呼ぶ幼い声が聞こえた。考えていたことは瞬時に消えた。
頭からすべて消えた。
「……熱が上がってきたわ。こんなところに座り込んでしまって、わたしったら」
ぼんやりとしながらもぱちぱちと瞬きをして立ち上がる。昼寝から覚めた鞘子が母を探す声が、よろめく膝を支えてくれた。
「ええ、こっちよ。いま行くわねえ」
掠れた返事が届いたかどうか。
廊下に出た栄美子の足取りは、まっすぐだった。
わたしはひとりで秘密を抱える。
神様の施しなんてわたしには届かない。地獄の釜はもうすぐそこだ。
わたしは罪深い。罪深い。
後悔なんて、
してはならない。
次からまた本編に戻ります。




