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95.side裏の言霊3(六年前)


 

 白いマフラーを編み終えた。母屋のリビングでぼんやりとマフラーを見つめる。

 紅葉も終わり、凍える冬がやってくる。年末前にやっぱり編み終えてしまったわ。誰のものとも決めていない、長い白いマフラーだ。でも必要になるはず。きっと。


 そんなことを無意識に考え、ぞっとした。

 自分の感覚に対する恐怖はない。だが、感覚で導き答えが出るたびに、その結果のつじつま合わせに栄美子を恐怖の谷底へと誘う。

 自分の足元にぽっかりと開いた穴、そこに積もり積もって行く罪に、体を竦ませて愕然とする。底は果てしなく深く、暗くてむごい。


 例えば、優しい夫と出会いすぐに身ごもった時のこと。ちょうど十八歳の頃だ。

 報告を兼ねて夫の実家に向かうとそこは寺だった。

 すでに病床に伏していた初代住職、義父となる人に出会った瞬間に決めた。

 ここが城だ。壁だ。ここなら守られる。

 守ってくれる、はず。コノヒトナラキットイツマデモマモッテクレルハズ。

 

 たとえその体が、朽ち果てても。きっと守ってくれる。

 高尚なこの方の意思は、体が朽ちてなお、この城にしがみつく。


 栄美子は意味も分からずそう思った。だから言った。

「……わたし。こちらに、嫁してもよろしいでしょうか」

 迷いもためらいも一切なかったことを他人に話せば、誰もが驚くに違いない。

 そうやって無意識の選択によって栄美子の時間は紡がれるのだ。

 

 そして、無意識の罪が重なって行く。


 例えば、おじいちゃまの通夜。その夜は暑かった。

 栄美子は会場の外門で人を待っていた。夜になっても気温は下がらず、背後は熱気と人波でむせ返るほどの騒がしさだった。

 幼い息子は日常的に眠りが浅い。突然泣き叫んだり体中に痣を作って苦しんだりと、見ているこちらの心臓が止まりそうになることもある。この通夜も本人はむずかって来たがらなかったが、栄美子が強く言い聞かせて連れて来た。夕方からこの時間まで、母史子の助けもあってなんとか乗り切ったが、息子はやはり相当疲れたらしい。汗で滑る栄美子の手をかろうじて握ったまま、ごく浅い居眠りを始めた。

 立ってうとうとする息子の指を握り直し、栄美子はじっと駐車場の暗がりを見つめた。確かにその時は、眼前の闇の中に従姉妹を探していただけだった。

 初対面となる従姉妹に会うのが楽しみで嬉しくて、ただその姿が見たかった。親戚連中には彼女にいい顔をしない者も多いから、自分が助けようと強く誓っていた。きっと緊張しているだろう彼女を解し、手助けをしたかった。本当にそれだけだったはずだ。

 だが、その想像した通りの、凛とした姿が現れた瞬間……暗闇から輪郭が浮かび上がり、外灯の熱に照らされて発光した全身が見えた瞬間、


 ああ、この人だ。

 栄美子はそう思った。だからすかさず声をかけた。


「沙貴ちゃん。沙貴ちゃんでしょう」

 この人だ。彼女だ。


 この人に決めた。


「あなたのこと、色々話して。わたしも話すわ」

 なぜ話す。息子のことを、なぜ話す。話したらきっと彼女は、

 

 逃げられなくなるわ。

 だって彼女なら、きっと盾になってくれるから。


 他にも、思い出すだけで同じような感覚に襲われる場面がいくつもある。

「功成ともどもこれからもよろしくね」

 生まれたての娘を抱きながら、娘のことだけでいいのに、なぜ「わざわざ」息子の名前を付け加えて言う?

「病院より先かと思って沙貴ちゃんを呼んだの」

 息子が倒れ一刻を争うにも関わらず、「どうして」彼女を呼ぶ?


 義父であるかつての初代住職。それから、真咲。

 そして沙貴。

「ごめんなさい」

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。きっと彼女は、

 

 鞘になる。

 救ってくれる。

「うちの子たちは、沙貴ちゃんが好きねえ」


 だって彼女なら、

 きっと強固な盾になってくれるから。


 わたしが、そうなるように導いたのだもの。


 決してその結果を望んでいたわけではない。結果が出て初めて、驚き悲しみ、胸が張り裂けそうになる。

 でも時々思うのだ。

 故意ではない罪は本当に罪ではないのか。母親としての無償の愛は本当に罪ではないのか。

 何がなんでも「守る」と誓ったこの心は、暴走した狂気の成れの果てではないのか。

 子を守るために、子だけを守るために、実は自分はとうの昔に狂っていたのではないか。

 子供の頃、あの春の雨の夜、順番が来たと感じた。そして準備をし、守り抜こうと覚悟した。

 その瞬間からもう、自分は完全に狂っていたのではないか。

 栄美子の足元に亀裂が入り、深い谷底となって牙を剥く。轟きが咆哮となり耳に突き刺さる。

 

 今も思う。

 足を怪我した沙貴を見て、「ああ、やっぱり」とわたしは思ったのではないか。

 腕を折った彼女を見て、「ああ、やっぱり」と。

 留年した彼女に、「ああ、やっぱり」と。

 ああ、やっぱり。わたしが選んだ通りの結果だったのね。わたしは無意識に、この結果へと向かっていたのね。わたしが思った通りに、わたしが言った通りに物事が成ったのね。


 この結果を選択したのは、わたしなのね。

 と。

 

 栄美子はうっすらと記憶をのぞく。

 あの春の夜、儚くなったもうひとりの叔父。母の、もうひとりの兄。顔も見たことのない誰か。あの夜から、きっと自分は少しずつ狂って行ったのだ。罪に罪を重ね、償いもせずに、また罪を重ねる。なぜ自分が狂いだしたのかと言えば、


 わたしはきっと、鞘だからだ。

 その人の鞘だった。

 中身のない鞘だからバランスがおかしくなるのだろう。


 力、力が突出してたんだわ。きっと。その人。

 だって「おこぼれ」でわたしも、それの力、その力が


 その剣は、たぶん、先見の明と言霊の力が強くて

 たぶん

 

 見えない し、 聞こえないけど、

 そのおこぼれでわたし、先見の明と

 ことだま


 わたしは残されてひとりになった、鞘。


「!」

 ガン、と音がしてびくりと顔を上げる。

 音は息子の部屋からだ。

「また、体に痣ができたのかしら」

 最近、部屋から激しい音がする。何かに抗っているような、必死で戦っているような、そして体のどこかに真っ黒な痣を作る。昔からしばしばあったことなのに、最近なぜかひどくなっている気がする。痣の大きさ、黒さ、禍々しさが。


 栄美子は立ち上がった。

 つい先ほどまで考えていたことは、一瞬で散る。何を考えていたかすらわからない。子どものことが頭を支配して他の思考が入る隙間もなくなった。


 マフラーを両手で抱える。母屋の玄関から出ると寒風が目にしみた。最近、お山の左側に測量調査が入ったらしい。地面を掘り起こす重機や山道を切り開く人手も増えて、少し騒がしい。そのせいか、ここ数か月ずっと部屋にこもりきりだった息子はさらに不安定になり、不眠に近い状態になっている。

「行かなきゃ」

 栄美子は小走りになって、境内を出た。



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