94.side裏の言霊2(児童期)
栄美子の体にまとわり付くこの感覚を、栄美子自身説明することができない。
例えば……例えば。どう言えばいいのだろうか。
たくさんの人が同じものを見て、あれは白いね、と言う。栄美子は首を傾げて、そうかしら、と思う。
確かに栄美子の目にもはっきりと白色に見えているのだが、どうしてか、白と判断するには舌の奥の血管あたりがむずむずして困る。
それで時を経て、結果が出る。あれは実は赤色だったんですって。え、そうなんだ。知らなかったわ……そんな声を上げる周囲の中で栄美子ひとりが、
「ああ、やっぱり」
と心の内だけで納得する。こんな感じだ。
別に栄美子は、あれが白でなくて赤だと分かっていたわけではない。白は白で、みんなが白だと言うのにももちろん賛成する。
でもいざ結果が出ると、「やっぱり」と思うのだ。
実は赤だった、という事実を、とうの昔から知っていた……と脳が勝手に思い込んでいるような、おかしな錯覚。よく言われる、脳の悪戯、既視感、そういったものかしらと時々考えもしたけれど、自分でもよく理解できなかった。
ただ、いつも結果が先だ。
結果が出てから初めて、なるほど、わたしは「だから」あの時こうしたのね、こう思ったのねと納得する。自分の無意識の行動の理由を知る。
そのぼやけた錯覚は幼い栄美子と常に共にあり、違和感を感じるほど強烈でもなく、勘違いだと思えばそうも思えて、なんら成長の妨げになることはなかった。
それから数年後の八歳の時のことだ。
春の長雨は何日も降り続いていた。
深夜に電話が鳴り、部屋のドアをそっと開ける。ママがパジャマのまま受話器に覆い被さっていた。
「分かったわ。それで、真咲さんへの連絡はわたしが……え?兄さんがもうすでに?何を……いえ、今はとにかくあちらへ行くべきね」
真咲さん。栄美子も知っている名だ。
ママの口から語られる真咲さんと小さな従姉妹の話は、栄美子の大好きな寝物語のひとつだった。話が始まるとわくわくして楽しくて、ふたりの顔や声を想像しては興奮して眠れなくなる。そしてその話を栄美子に語り始めた頃から、おっとりとふわふわ笑うママの笑い方が少しずつ変わって来たことも、栄美子にとっては好ましかった。
ふわふわした唇の真ん中に、強い芯を入れたみたいな穏やかな微笑み。
「史子さん」とパパの会社の人たちに呼ばれ微笑んでいたママの姿は、時とともに薄くなる。代わりに、少しずつ少しずつ芯が太くなる。パパと、強く手をつないで真横に並んで立つ。
栄美子は子どもの目でそれをずっと見守って来た。
「……あなた」
しかし、電話を切って振り向いたママの顔にはいつもの穏やかな笑みはない。素早く着替えると、どこかへ再び電話して「急用なんです。チケットの手配を至急」と小声で言った。
「あなた。……が、今、……て」
「分かった。こちらは大丈夫だ、早朝に空港へ。社長は?専務は……」
潜めた会話を耳にしながら、栄美子はベッドから出かけた体を戻す。薄い毛布から雨の匂いがした。
「栄美子ちゃん。起きてる?」
子供部屋のドアが開き、逆光に黒くなったママの輪郭が揺れる。
「うん」
「ママ、ちょっと大事な用ができたの。朝には外国へ発つわ。アメリカ、分かる?……このことは、もう少し大きくなったらちゃんと話すからね」
「うん。行ってらっしゃい」
わがままを普段から言わない栄美子に安堵のため息を吐いて、ママは急いで出て行った。
「栄美子。明日からちょっとの間は、パパがご飯を作るぞ」
入れ替わり入って来たパパが、栄美子のベッドの脇に座る。暗闇にドアの向こうの光が漏れる中、パパの優しい手が栄美子の髪をゆっくり撫でた。
雨の音が枕に染み込んで行く。
時間すら止まったような、とても静かな夜だった。
「じゃあ寝なさい。おやすみ栄美子」
「おやすみなさい」
パパが部屋を出た途端、完全な暗闇となる。
栄美子は瞑っていたまぶたを開いて、深い闇に目を凝らした。
怖かった。
「順番が来た」
声に出した理由は分からない。でも、そう思った。
「……怖い」
次の順番がやって来たのだ。前の人がいなくなったから、次が来たのだ。
その途方もなく重い責任と重圧に、小さな体は縮こまる。
手足をぐっと丸めて栄美子はその怯えと戦った。
だけど、まだだわ。
わたしはまだ小さいもの。どんなに短くても、あと十年は要るわ。
「できるだけ」
できるだけ早くしよう。早く準備しよう。
降りかかる苦難に負けない強固な壁を持つ、幾重にも守りを張り巡らせた大きな城を選ぼう。
そうして、わたしが命をかけて守り抜こう。
何を犠牲にしてもいい。守るわ。
恐怖に竦み、大きな大きな荷物を背負ったような息苦しさに浅く息を吐く。一体何を自分は怖がっているのかすらまったく理解できない。
「……」
静かな雨の気配に呼吸を合わせながら、徐々に栄美子は眠りのさざなみを迎えた。
眠りの世界にさらわれる直前、栄美子の残りひと欠片の意識が痛みにうめく。
それは巡って来た順番への怯えや責任感、覚悟という、目の前に横たわる大き過ぎる荷物に押しつぶされ隠れてしまった、ごく小さな喪失感だった。
わたしの、剣は、死んだのね。
小さく抜けない棘に一粒だけ涙がこぼれる。そして喪失感は一瞬で消え、栄美子は眠りに落ちた。




