93.side裏の言霊(七年前と幼少期)
時間は戻って七年前、「43話終わりの日
~49話お山信仰の果て」あたりから始まる
お話です。
唯一、見えざる者が出てこないお話。
見えざる者より怖いものとは何か?
ゆっくりお楽しみください。
心地よい風が軽やかな歓声を乗せて吹いた。
栄美子は編み棒の手を止めて、境内に目を遣る。黒いランドセルがふたつ、昼下がりの木漏れ日に反射しているのを見て微笑んだ。
お山の宅地造成は年々進み、山右手側の住宅地も人口が増えた。学校帰りに寄り道しては境内で鬼ごっこする子どもたちの姿も見慣れたものだ。
常連の名前を覚え、学校での出来事をかしましく話す子らの相手をするのは栄美子の日課だった。
小さく丸い膝には真っ赤な紅葉がついている。
お山の裏手を二分する坂道、そこでふたりで転げ回って遊んで来たのだろう。葉っぱをつけたまま子犬のように絡まりはしゃぐ小さなふたつの頭に、さらに紅葉した葉が乗っている。
裏の坂道は昼でも暗い悪路だが、秋だけはそれは見事な紅と黄に華やぐのだ。
母屋の庭に置かれた椅子に編み棒を置く。そのまま庭をつっきり境内の表庭を迂回し、栄美子はふたりに手を振った。
「秋は日が落ちるのも早いわ。もうそろそろ帰りなさいな」
「あ、じゅうしょくのおくさんだ」
「じゅうしょくのおくさんだ」
近所の人々からの呼ばれ方そのもので言われて、栄美子は笑った。
「それから、坂道の左側には寄ってはいけませんよ。暗くて危ないから」
「はーい」
元気のいい返事とともにふたつのランドセルが走って行く。
それを見送ると、栄美子は庭に戻った。
編み棒の先には白いマフラーが、連なる旗のように波打って揺れている。
寒くなる前には編み終わる。
……編み終わるかしら?
編み終わる。自分が編み終える。
「きっと編み終わるわ」
栄美子は編み棒を見つめた。
最近、思考がおぼろげになることがあって困る。大事なことを考えていたのに、ふと気づくとその考え事が散り散りになっている。考えていたこと自体がまるで魔法のように消えることもある。頭の奥の脳が、考える端からそれを消去しているようだ。
「まあそれも当然だわねえ」
栄美子はつぶやいた。
自分の体も心も、積み重なって行く罪の重さに耐えきれていないのだろう。だから防御反応で、端からすべて消して行く。心身が壊れる前に、頭の中から追い出すのだ。
思考を続けてしまえば、きっと罪への後悔で動けなくなってしまう。だから、後悔しないように、脳が助けてくれているのだろう。
「罪深いわねえ」
わたしは、ただひとり罪を背負って生きて行く。子どもに罪は背負わせない。わたしだけが背負う。
誰にも言わない。地の底まで埋め、命果てる時に掘り起こし、自分の心臓に閉じ込めて地獄へと持って行く。
栄美子はのんびりと背を伸ばして、それから再び編み棒を握る。
秋は綺麗だ。
わたしは薄汚れた、罪深い人間だ。
あれはいくつの頃の出来事だろうか。
年始のご挨拶に行くのよと言われ、着せ替え人形のように着物姿になった。真ん中で分けた髪の団子結いを母の史子がやってくれた記憶があるから、幼稚園児だったと思う。小学校に上がる頃には自分でできていたからだ。
「おじいちゃまに挨拶しましょうね」
ママはいつものようにおっとりと笑い、パパは優しく頷いた。パパの会社のロビーなのに、パパは少し緊張している様子だったから、「寒いの?」と聞いた。
パパは首を振り、黙って微笑んだ。
それからたくさんの人に挨拶し、たくさんお年玉をもらった。みんなにこにこしていた。史子さん、お元気そうで。史子さん、お久しぶりです。何度もママの名が呼ばれてそのたびにママは立ち止まり、パパは少し離れた後ろで静かに笑っていた。
長い毛足の絨毯を踏みしめ、壁に立派な壷が置かれた部屋にも入った。そこには滅多に会わない「眼鏡のおじさん」がいて、パパは背筋を伸ばしママはわずかに伏し目になったのを覚えている。
眼鏡のおじさんはママのお兄さん。おじさんはいつも硬い顔。この日もやっぱり硬い顔で、唇だけ曲げて「おめでとう」と冷たく言った。
そして挨拶が済めば栄美子は透明人間になったらしく、もう二度とこちらを見なかった。おじさんがパパに何かを言い、難しい話を始めたので、隙を見てこっそり部屋を出た。
が、出たところですることもない。だから栄美子は、「おじいちゃまにご挨拶しましょうね」とのママの言葉を思い出し、その通りにした。
歩きにくい足袋のかかとを気にしながら、こっち、と思える方向へと歩く。こっちかな、ううんこっちかも、と指さし確認して案外短い時間で辿り着いた。
おじいちゃまがいるかも、と思った扉を選んで開けた。いたので、丁寧に「おめでとうございます」と言った。
久しぶりに会ったいつも怖い顔のおじいちゃまは、ちょっと驚いたようだった。
「栄美子ちゃん!」
ママが息を弾ませ飛び込んで来る。
「ご、ごめんなさい。目を離した隙に、勝手にここまで」
「いや、構わん。しかしよく分かったな。会社に連れて来るのも初めてだろう。しかもここはもっとも奥まったフロアなのに」
おじいちゃまの珍しい表情に、ママはちょっとおかしくなったらしい。小さな女の子のように笑って、いたずらっぽく言った。
「この子、ねえ。時々こうなの。ごくたまにこっちが驚くくらい、勘が働くの」
その時のおじいちゃまの顔を、栄美子は一生忘れないと思う。
憤怒の火が白目を覆い、一瞬でオレンジ色の煙幕となって燃え上がった。
「二度とそんなことを言うな!」
怒鳴った声は栄美子の鼓膜を刺した。
「いいか、二度と、だ!勘だのなんだの、そんな目に見えない不確かなものを信じ、ましてや褒めそやすなどあってはならんことだ!今後一切口にも出すな、うちの家系にはそんな異常者はひとりもいないと言ったはずだ!」
「……なんてことを」
気づけば、ママの声も燃えていた。でもこっちは、青白い静かな炎だ。
怒りで震えて強ばるママの唇を、栄美子は初めて目にした。
「なんてことを。あなたが、そんなことばかり言ってるから、だから兄さ……」
「言うな!」
「あなたがそうだから!」
「うるさい!」
「ふたりとも落ち着いて!史子、栄美子の前だ!」
パパが走って来て割って入る。おじいちゃまは肩で息をする。ママは目を逸らす。
その光景を見ながら、栄美子はぼんやりと考えていた。
そうか。
……やっぱり、おじいちゃまとママの間には、見えない誰かがいるんだわ。




