92.side剣と鞘2
その真っ直ぐな背中を見ていると、なぜか唐突に鼻の奥が痛くなった。
「……ばあちゃん」
気付けば、正臣の目には涙が浮かんでいた。
それは儚い失恋の痛みだったのか。
それとも、もっと別の、入り混じった感情の奔流だったのだろうか。
「ばあちゃん」
未央ばあちゃん。
今、目の前に、「見える人」がいたよ。
苦しくて辛くて、でも友達がいて家族がいて、守るものがあって、そして大切な相手がいて、必死に旅を続けている剣がいたんだよ。なあ。
会えたよ。
剣を失くした鞘の俺が、ようやく会えたよ。剣に。
「……その、病室の方は。そんなに危険な状態なのか」
「……ううん、絶対そんなことない。私は絶対そんなことはあり得ない、絶対にないって思ってる」
「そうか。……君がそう信じるならそれがみんなの力になるな」
小さくささやきを交わして、正臣は一度大きな息を吐いた。
そしてテーブルに両肘をついて、ゆっくりと顔を覆った。
「はあ……」
大きな重い荷物をようやく降ろしたような心地だった。
「……オミ。なんで泣くのよ……なんか、私も釣られて……将来への大きな不安が……」
意味不明なことを喚きテーブルに突っ伏した鞘子を無視して、正臣は目を閉じた。
見える人である功成に会うのが、怖かった。
でも。
「よかった」
見える人が生きていて、目の前に存在していて、本当によかった。
剣を支える役目を果たせなかった鞘として、心底思うよ。
「……愛しい、剣よ」
未央へ伝えられない代わりに君へ伝われ。
苦しくても辛くても、君が生きていてよかった。
膜が張って濁る視界を雪の残像が舞う。
言霊の裏に潜むトリック、そして巫女の血筋で育まれ暴走するルール。
後世の人間の運命までもを巻き込んで、複雑に絡み合う残酷な秘密の決まりごと。
見える男は生まれる。
見える女は生ませない。
そして、見える人は各世代ひとり、「必ずひとりいなければならない」。
未央は五十で倒れ、二十六年間眠り続けて、そして目覚めて十年間生きた。
年齢上考えれば、未央の次、功成の前に、もうひとり見える男がいたはずだ。
その男は二十六年生きた。そして、思いがけない事故で?他者の干渉で?もしくは、計画上?なんらかの思想の発露?自分の、意思で?……男は、運命より十年早く亡くなってしまったのだ。
男の次、功成が生まれる十年も前に。
見える人が次の見える人の生まれる前に早逝してしまったら、空白ができてしまう。必ずひとりいなければならないのに、見える人のいない時期、空白ができてしまうのだ。
その空白は十年。「つなぎ」で未央が死の淵より再度起こされて十年、延長試合のように無理やり生かされた。十年も。十年もだ。安らかな世界に行けるはずだったところを、十年も!
お前のせいで。お前たちのせいで!
未央がたったひとり、鞘もおらず、山の奥で、わずかな訪問者と関わりながらもずっと苦しんで生きていたのはお前のせいだ。お前が早くに亡くなったせいで。お前が、早く生まれなかったから。
理不尽にもそう怒鳴ってしまうかと思っていた。
もし、今の世代の見える人に会ってしまったら、そう自分は怒鳴ってしまうかと思っていたのだ。
「よかった」
でも自分は違った。剣の行く先を心の底から祈ることができる。
正臣はそのことにほっとした。鞘の本能だ。
俺は、やっぱり、鞘なんだな。
剣の孤独が少しでも癒されますように。
果てない道の先に光がありますように。
君が、君の大事な人が、どうか光とともにありますように。
「幸せになれ」
代々の剣人たちが望み果たせなかった願いを、ただ幸せになりたいという願いを、彼はきっと具現化してくれるだろうから。
未央が、その次の男が、苦しみ疲れ果て手渡した血を胸に、彼はたくましい足取りで進んで行ってくれるのだろうから。
だから自分は、彼の幸せをただひたすらに祈るのだ。
心から。
遠くから。
「申し訳ありません、遅くなりました。主人がお勤めでなかなか手が離せなくて」
鞘子の母親が戻って来て、すまなそうに腰を折った。傾いだ体が異様に細く、顔色もかなり悪いようだ。
「いえ。もうお座りください」
手を振って了解しながら泣き顔を誤魔化す。母親はふと首を傾げたが、そのまま鞘子の方へと体を向けてくれた。
「……どうしよう。あのビーフシチューと同じのを作る人って決めてたの。でも私、教師の安月給で暮らして行ける自信が全然ない。ほんとに一ミリもない」
「うんうん鞘子ちゃん。そうねえ。でもそれはとりあえず置いて、まず先生に謝りなさいね。それでできれば来年も担任になってもらえるよう、どうにか中等部に移っていただくことは可能かどうかご相談させてもらいましょうねえ」
「私が稼ぐ?できるかな、自信がない」
「うんうん。そうね、でもとにかく無事に中学生になるのが先だわねえ」
「あっそっか。辞職させて寺を継いでもらえばいいのか」
「うん。でもまず中学を卒業してからね。それは」
訳の分からない母娘のやり取りが正臣の心を穏やかに撫でる。正臣は涙を拭って背筋を伸ばした。
今の剣はひとりじゃないみたいだ。鞘はいないけど、でも自力で手に入れた人たちがいるみたいだよ。
周りはいつもにぎやかで、そして粉雪の舞う早春の夜のようにほのかに明るい。
心配しないで、俺は大丈夫。
あの、生まれなかった鞘の子に何かをもらったみたいだし。
俺はひとりでも大丈夫だよ。ばあちゃん。
粉雪が舞う。
長く続いた悲しみは氷の硬さで積み重なるが、それでもやがて少しずつ溶けて行くのだろう。
温かな太陽に照らされて。
次回は正臣が気にしてた残りひとりの鞘のお話。
有之介(29話~34話「言霊」)の鞘です。
誰なのかわかりますでしょうか。
物語の最初からいる人。
最初の最初からお話のすべてを操っている人です。
お楽しみに。




