91.side剣と鞘
とうとう終わった。懲戒解雇だ。でもせめて依願退職でありたい。どっちにしろ再び教職に就くことはないだろう。
覚悟を決めて、明日すぐにでも就職雑誌を買いに行こうと思い詰める。
あれから意識を失った正臣は、見事に眠りこけた。そしてのん気に眠り続けて気付いたら深夜過ぎだった、という有様だ。
寝ている間、かいがいしく世話を焼いてくれたらしい鞘子はまだジャージ姿で、乾いたはずの服は骨の出た大男の狼藉によって再び濡れていた。びしょ濡れで狭い部屋で大暴れしたのだから当然だ。
シャワーを浴びたジャージ姿の教え子を、濡れた服とともに深夜に親元へ帰す。
……終わったな、まさにどこぞの三流ゴシップの破廉恥教師だとどこか諦めた正臣は、電話した先で母親が指定したカフェに行くにあたって、罵られる覚悟をした。
が、珍しく鋭い勘は働かなかったようだ。
「本当に、誠に、申し訳ございません」
テーブルに額を擦り付ける鞘子の母親を前に、正臣は途方に暮れた。
「あの」
「いえ、わたしにはわかります。またうちの子が滅茶苦茶な言動で先生を振り回し、先生はそれに付き合って下さっただけでしょう」
まさにその通りですとも言えず黙る。
深夜営業のカフェはジャズが流れる洗練された雰囲気で、ジャージの教え子が浮き過ぎていて辛い。
その磨かれた床に土下座でもしそうな勢いで、母親はひたすら謝罪の言葉を並べた。
「もう本当に、この子は甘やかしてしまって。先生にはとにかくお世話になりっぱなしだと言うのに、休日にまでご迷惑を」
「……いえ、あの」
小鼻をかきながら正臣は嘆息する。横でのほほんと枝毛を探している当の本人にも呆れが募った。
若い母親は、担任になった当初から顔なじみだった。娘が騒ぎを起こすたびに学校へ足を運び謝る。
おっとりとした雰囲気そのままの口調で、それだけ謝るならじゃあどうして娘を躾できないんだと聞きたいのに聞けない、上品さに気を削がれる教師陣のジレンマでもあった。
心身の不調でずっと臥せっている。定期的に入院もしているらしい。
それでも学校から呼び出しがあれば必ず来る。やせ細って青白い顔色を見ていると、娘さんにもっと厳しい躾を、とは到底言い出せない。
「あの、もういいですから」
「ほら、オミがいいって」
追随する鞘子に母親はため息を吐く。まったく迫力のない睨みを利かせ、どこかおっとりと告げた。
「鞘子ちゃん。もう、あなたはいつもいつも。……コウちゃんにさっき連絡ついたのよ。こちらへ合流してもらって、叱ってもらうわ」
「げ。病室でおこもりじゃないの」
「あなたのためなら出てくるわよ」
眉を下げた母親との会話に、心拍数が上がる。落ち着くために窓の外を見ると粉雪が舞っていた。
湾岸地区で感じた湿った風が、山にぶつかり雪を降らせたらしい。
曇る窓ガラスを見つめ、正臣は冷えた表面を指でなぞった。
「ちょっとお待ちくださいね。今、主人からも電話でお詫びさせていただきます」
「あの」
止める間もなく母親は携帯を取り出して店の隅へと歩いて行く。その後ろ姿を眺めながら、正臣はこめかみを冷たくなった指で押した。
「鞘子さん。お母さん、以前よりもさらにお体の具合悪そうじゃないか?」
「うん。ちょっとね。お医者さまにね、もうそろそろです、もうあとは時間の問題ですって言われてから、ママますますひどくなっちゃって。お兄ちゃまも病室につきっきりで出てこない」
「え?お母さんが?」
「ううん。違う違う」
「ん?どなたの話だ?」
だから母親に心配かけるのはもうやめろという説教につなげようとした正臣は、主旨の飛んだ語りぶりに首を傾げる。
「……きっかけは、私なの。私があの日、電話をかけちゃったの。寂しいからうちに来てって。保育園休んだの。一緒にご飯食べよう、ビーフシチュー作ってって。電話にね、手が届かなくて。踏み台があってね、そこに乗って、一生懸命に手を伸ばしたのを覚えてる」
綺麗な二重の目が一瞬暗くなる。
が、しん、と落ちた沈黙を破ったのはやはり鞘子だった。
「明るくしているのはいいこと?」
「……そうだな。君が明るいのはいいことだ」
「そうかな。センセが言うならそうなのかな」
小さく言って水を飲む。そうだ、この子はまだ子どもだ、と正臣は改めて思った。
「……鞘子さん。お兄さんが来る」
「うん。大丈夫、オミのことは言わないって。心配しないで……あ、来た」
顔を上げると、目の前の道に車高の低い車が走り込んで来た。音は派手だが素晴らしいテクニックで路肩ギリギリまで寄って止まる。
運転席から降りたのは、背が高く目付きの悪いピアス付きの男だった。
「……あれが君のお兄さんか。ずいぶんイメージが」
「違うって。あれはバカヒコ」
説明しながら、窓越しに鞘子が舌を出した。こちらに気付いたのか、ガラの悪い男はにやりと笑って中指を立てる。あれがうわさのバカヒコさんか、ずいぶん彩り豊かな友人たちがいるらしい。
「あ、あれ。お兄ちゃま」
助手席側が開き、ほっそりとした頭が覗いた。すぐに大きなドアの陰に隠れたが、腕を伸ばしてバカヒコさんに向かい何か言っている様子が見える。
しばらくそうしていたが、バカヒコさんはやれやれと首を振って運転席へ戻り、「兄」は店の方へ近付いて来た。
「……やっぱり。私のこと叱ったあと、また病室に戻るつもりなんだ。バカヒコも言うこと聞いて送迎しててほんと腹立つ。せめて数時間でも家で休めばいいのに」
ゆっくりとした足取りで店の扉に手をかける兄。鞘子の指に促されるままそれを通り越してピアスのバカヒコさんを見ると、エンジンをかけたままの運転席でスマホをいじっていた。
「……もうすぐ六年になるの。六年。みんな、もう、どんどん大人になっていっちゃう」
よく見ると、鞘子はどこも見ていないようだった。兄もバカヒコさんも見ずに、外も見ずに、ぼんやりとした眼差しのまま頬杖をつく。
正臣に話しているようで、ただの独り言にも思えた。ただ、尖った頬の横顔がどきりとするほど大人びて輝いている。まさに大人と子どもの境界線にいる、この年代特有の不安定なきらめきだった。
「……誰かが病院の病室で入院されているのか。長い間」
「うん」
「それで、もうそろそろだと、医者が言うのか」
「うん」
鞘子が温度のない声で言う。
「太陽だってみんなが言うなら、私は太陽のままでいる。それくらいどうってことない。泣かないで笑えばいいの。私は。泣かない。ずっと」
「よくわからんが、そうか」
そうか。君は、だからいつも笑うのか。
「もうね、私ね、あの病院の有名人なの。病室で習い事の発表会するって」
「君はどこでも有名人だが」
ぱっと笑顔になった鞘子に返して、正臣は少し笑う。鞘子のそれが、力を込めて浮かべたような笑顔だったからだ。
しかし、そこから続けて出た巨大病院の名前にあれ、と首を傾げた。自分が骨折の時にお世話になったところだ。
「まあね、お兄ちゃまもその病室も有名なんだよね。白バラの特別室とか言われてて。笑える」
「……え?」
「部屋の中すごいんだから。真っ白。やばいでしょ、バカヒコなんかは魔の粘着部屋って。鈴子ちゃんは優しいから毎回バラ持ってきてくれるけど、あれ絶対内心引いてる」
「……待て」
「私、思うんだよねー。むしろ確信してる。……目が覚めたらさ、きっと本人もドン引きするんじゃないかって」
「待て待て。その本人、て」
思わず立ち上がる。背後に来ていた気配も忘れて正臣は叫んだ。
「俺の天使のことか!?」
「は?」
店内が沈黙する。
はっと口を押さえるとついで背後にいた「兄」と目が合った。
目が合った途端、正臣の心臓の奥でかちりと音が鳴った。
「……」
兄がきらめく黒目でこちらを見る。中心の虹彩が一瞬だけ狭まって、ただじっと正臣を射抜いた。
初めて会った。
ああ、これが、剣の人。見える人か。
ばあちゃんと同じ、見える人……
「誰のなんだって?」
ぞっとする声に息が止まる。
「誰が、誰の、なんだって?」
「え、あ、いや、ちが」
表情の抜け落ちた彼の顔と氷水のような声に焦る。え、剣人ってこんな感じ?
「オミ、その表現やばあ」
呆れかえったかのように鞘子が眉を寄せた。
「オミなんで知ってんの?どこかで会ったの?」
「いや」
速攻で否定する。真夜中に半裸で病室に忍び込みましたとは口が裂けても言えない。
「じゃあなんで?ねえなんでオミ知ってるの?」
「それより先に、誰が誰のなんだとかいう部分を撤回してください」
「オミ、本気でやばいよ。それだけはまずいって。あの人だけは。お兄ちゃまのやばさ半端ないから。え、これもう回避不可?」
「妹の担任が?休日に朝からこんな夜まで子どもを連れ回して?さらに言うに事欠いて誰が誰のなんだって?」
「ほらあ!ガチの激おこキレっキレじゃん!とりあえずバカヒコ召喚しよ、バカヒコかもーん!」
騒ぎ出したテーブルに、カフェスタッフが水を運んできた。
スタッフの圧に兄はすっと無言になり、鞘子の隣に座る。
「……鞘子の兄の、功成です」
真顔のままで会釈されて、正臣は姿勢を正した。
「担任をさせてもらっています。本日はいろいろなことが重なり、ご心配おかけしたことをお詫び申し上げます。決して誤解を招くことのないよう、誠心誠意ご説明を」
「これねえ、オミのジャージ」
正臣を遮ってなぜか自慢げに腕を広げる鞘子に、正臣より先にため息を吐いたのは功成だった。
「鞘子。鈴子さんから半泣きで電話があったよ。毎回言っているけど、鞘子には関わらせたくないこともあるし、知るのが早いこともたくさんある。鞘子が突っ走るたびにみんなが心配するんだ。少しは人の話を聞いて慎重に行動してほしい」
「……はい」
珍しい、もしかしたら初めてかもしれないしおらしい鞘子の返事に、正臣はつい笑いそうになってしまう。
「それで、鈴子さんから奪った依頼はどうしたの?」
「えと、それは、か、カッパが」
「カッパ」
「……カッパが」
言い淀んでうつむく鞘子を見遣って、功成はふと正臣に視線を合わせてきた。
正臣は、ゆっくりと、頷いた。
「なにも。なにもありませんでした」
「……」
そうですか、と功成は小さく呟く。
それからまた正臣を見る。
一瞬、黒目が揺れた。
ように見えたのは、勘違いだったのかもしれない。
すぐに無表情になった功成は冷たい声音で告げた。
「わかりました。鈴子さんにも伝えておきます。妹がご迷惑をおかけしました」
「ええ」
「あと、先ほどの誰がどうだという言葉は、僕の聞き間違いということにしておきます」
「……ええ」
こめかみがびりびりするほどの圧力がすごい。空気が薄くなる感覚に、正臣は深く深く頷いた。
と、軽いクラクションの音がした。
見ると停まっている車の運転席から、目つきの悪い男が片手でスマホを振っている。
「……すみません。少し、失礼します」
綺麗な所作で功成は立ち上がり、店から出て行く。
その真っ直ぐな背中を見ていると、なぜか唐突に鼻の奥が痛くなった。
オミ(叶わないけどばあちゃんの顔
一度でも見たかった……)
ヒコ(画像持ってんぞ)
奇跡のすれ違いです




