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90.side鞘の人

生命のやり取り等残酷な文言があります。

ご理解ください。


 もう終わりかもしれない。


 昨夜の残りを鍋にぶち込んでかき混ぜる。ぐつぐつと踊る液体を眺めながら、自分の天職が打ち切られる日を思った。

「ビーフシチュー?私、ちょっとうるさいのよビーフシチューには」

 背後から覗き込んで来る鞘子は、正臣の古ジャージを着ている。捲った袖と足元が何とも絶妙な雰囲気だ。

「……残念ながら君の舌には合わないと思うぞ。しかもビーフじゃない、特売の豚ブロック入りだ」

 やけになってつっけんどんに返すが、美少女はただ笑うのみである。


 濡れた鞘子はくしゃみを連発した。迷った挙句アパートに連れ帰り、ブランド服を家中に干してストーブとエアコンで乾かした。

 鞘子はその間にシャワーを浴び、ジャージを着、今は物珍しげに六畳二間の部屋を見回している。

 ここに至って、ありえない状況に思いっきり仰け反りたい気分だ。

「……終わりかもしれない。本当に、俺は終わるぞ……」

 そうでなくとも、さっきから狭い部屋の玄関の先、外の様子がなぜか異様に気になるのに。

「……外……」

「ねえ、オミ。寝室はどこなの?」

 振り向きかけた耳に無邪気な質問がかかる。

「ここだ。テーブルを片付けて布団をしけば寝室だ」

「ふうん。じゃあリビングは?リビングはどこよ」

 小首を傾げるお嬢様に、もう何も言えない。

 眼前が真っ暗になる感覚を味わいながら、正臣は鍋からシチューを掬った。

「ほら食え。それで食ったら乾いた服着て、さっさと帰ってくれ。頼むから」

 内臓が抉れそうな気分で懇願したのに、嬉しそうに「いただきまーす」と被せられる。小さなテーブルに向かい合いぐったりと頬杖をつく前で、鞘子はシチューを頬ばった。

「……」

「なんだまずいか。肉が硬いのは仕方ないだろ」

「……別に」

 一瞬の間の後、シチューはみるみる減って行く。おかわりとも言わずに立ち上がり自分で鍋をさらうと、鞘子はあっという間に三杯も平らげた。

「腹減ってたのか。よく食うな」

「別に」

「別には止めなさい。君はいつも答えを放棄する。算数のテストだって、解答を導く数式の羅列を放棄して自分のラッキーナンバーとかを適当に書き込んで……」

 その時だった。


「くるよ」


「……」

 正臣の背筋にひやりと何かが走った。

 突然の言葉に目の前の顔を見つめる。

 

 鞘子の眼球が、消えていた。


「……」

 トンネルよりも深い空洞になった二つの穴から、地を這う声がした。


「はいって、くるよ」


 痛む背中の筋が再び冷たくなる。

 感覚が正臣の視界を超え、背後にまで広がり、まるで自分の目が鳥の目に変化したように一気に世界が変わる。

 脳の先端からつながる線が視力となり、それは部屋を走り玄関を抜け廊下を横切り錆びたエレベーターの箱を見渡す。

 階下の駐車場の端、自分の相棒である車あたりで感覚が弾けた。


「……来る」

 正臣が穴から目を離さずに呟くと、眼球がないのに頷き瞬いたのが分かった。


「うん。くる」


 『それ』は、正臣の車の下から這いずり出て来た。

 ずるりと抜け出て、立ち上がり、駐車場を歩く。一階の集合ポストを通り、ふらふらとエレベーターに乗り込む。

「……上がって来た……」

 到達する。

ちん、と微かに音がした。

「……っ」

 全身の温度が下がり、玄関のノブに飛び付く。焦るシャツを脱いでノブに巻き付けようとした瞬間、ふっと空気が止まった。


 すぐ真横にいる。


「もう入って来やがっ……」

 叫んだ途端、首を強く掴まれた。


「やめ」

 声が出ないが、姿ははっきりと見える。


 頭から水を滴らせた大きな男が、号泣しながら喚いていた。


「なあさっきよお、あんた、死者の列がどうだって言ってただろ。海辺でよお。こっちを見ながら、死者が行進してるとかどうとか。あれ、どういうことだよお。何で俺を見て死者とか言うんだ、まさか俺は死んでいるのか?おい、答えろよお、おい」

 死者は、自分が死んだことに気付いていない者もいる。

 不安で、まさかと思いながらも信じたくなくて、教えてくれる人を探していたのだろう。

 男は必死でついて来たのだ。車の下にへばりついて、正臣のもとへと。

「なあおい、どうなんだよお」

 大男のへその下は肉が剥がれている。骨が剥き出しになっていて、膝の皿がふたつとも飛び出ていた。

「教えてくれよお。ぼんやりと足が向く方向に歩いてただけなんだ。もし本当に死んでるのだったら、おい、俺怖いんだよお、お前、一緒に」


 揺さぶられて息が漏れる。

 しかし意識が白む寸前に、別の警鐘がどこかで鳴った。

 俺の教え子。守るべき、子……


「鞘子、さん」

 男の手が離れたのと男が鞘子に飛び付こうとしたのと、そして正臣がその前に躍り出て鞘子の体を押し倒したのはほとんど同時だった。


「……止めろ。これは、駄目だ」

 大男が滅茶苦茶に正臣の背中を叩く。「どっちでもいい、一緒に来てくれよお」と喚き拳を振り下ろす男にされるがまま、しかし正臣は動かなかった。


 鞘子の体を全身でかばって、四つん這いになる。

 深くて黒い穴と見つめ合った。


「……君は誰だ」

「さ、や」

 地の底からの声が答え、ささやく音に澄んだ静けさが満ちる。

 後ろで男が狂ったように喚き殴っているのに、おかしなことにそれは実に真っ直ぐな、本物の静けさだった。


「さや、だよ」

「そうか」

 言った刹那、涙が溢れた。


「そうか。……君は、お兄さんの、鞘になるはずだった子か」


 眼球の消えた洞穴に涙が吸い込まれて行く。喉が震えた。

「……可哀想に」

 正臣の言葉は、表情の失せた白い頬に優しく落ちて消えた。

 

 見える女は生まれない。


 この最後の巫女が放った言霊には、隠されたトリックがある。言葉のトリックだ。


 しかも、『2つ』。


 正臣は初めてこれを聞いた時から、薄々ではあるがその巧妙な仕掛けに気付いていた。

「見える女は生まれない、つまり」


 見える「男」は生まれる。


 脈々と継がれた巫女の血は一旦途切れた。行き場を失った力は言霊を乗り越え、女系から男系へと流れる先を変化させる。

 ただ単に、男へと甚大な能力が継がれる結果になっただけなのだ。

 これに思考が至った時、正臣はその途方もない恐ろしさに震え上がった。子供ながらに恐怖で竦み、もう二度と考えまい、絶対に真実を知りたくないと心に誓うほどに。

「……能力を受け継ぐ人間が、男に姿を変えて、未だ次々に生まれているなんて……」

 おそらく、年代的に、未央ばあちゃんと、鞘子の兄の間に、もうひとりの男。見える男がいた。いたはずだ。だからこれまでにふたり、見える人はいた。

 未央ばあちゃんのような壮絶な苦しみを味わう人間が、今も、これからも、この世に存在するなんて。

 そして、彼らを守る一族、巫女の一族はもういない。盾がないのだ。

 それはどれだけ、悲しく果てのない旅路であろうか。


 さらに不気味な巫女の血は、言霊の縛りの隙を見つけてはすり抜けて暴走する。


 ふたつ目の仕掛けはもっとあくどい。


「見える女は生まれない、つまり。生まれる「はず」だった女の子が少しでも見えてしまう力を持っていたら、それは例え鞘人だとしても、絶対に『生ませない』。……生まれる前に、巫女の歴史と同じように、母親の腹の中から間引かれて葬られるんだ」

 君のように。

 正臣がささやくと、ぽっかりと開いた二つの穴がわずかに身じろいだ。


「俺は……俺は。見えるなんて称せないほどちっぽけな見える力、未央ばあちゃんのわずかなおこぼれの力だけど。ただ、男だったから。……男だったから、生まれただけなんだ」


 未央ばあちゃんの鞘人で、男だったから生まれた正臣。

 兄の鞘人のはずだったのに、見える女だったから葬られた目の前の少女。


「俺たちふたりとも、剣を失ってしまったさみしい鞘だな」


 涙の粒は大きくなり、ぼとりとふたつの穴に落ちる。穴は正臣の涙で溢れるのではないかと思うほど、熱い水滴が次々にこぼれた。

 さみしいさみしい、ひとりぼっちになってしまった鞘の人。


 見える男は生まれる。

 見える女は生ませない。


「どれだけ残酷なんだ」

 悲しみと、そして打たれる痛みで、不意に意識が途切れる。


 地を這う深い声が、ふっとささやいた。


「さや、ほしい?」

「欲しいよ」


 応えは、正臣自身の答えではなかった。鞘を探し続けて叶わなかった愛しい未央ばあちゃんの、清らかな思いが凝縮されて正臣の口を借りたようだった。

 俺が剣を求めるように、未央ばあちゃんは鞘を求めた。

 さみしいさみしい、見える人。


「じゃあ、あげる。だいじにしてね」

「ああ」


 あれ、俺は何をもらったんだと思った直後、背中に渾身の一発が降った。あまりの衝撃にかろうじてつながっていた視覚が暗転する。

「一緒に行ってくれよお。おい、聞いてるのかあ、このお」

 叫ぶ大男の怒鳴り声に、

「じゃあわたしがいっしょにいってあげるね。そろそろいかなくちゃ、わたしもすがたがへんかしそうだから」

 と透き通った深い声が重なった。


「あのひとがめをさますまではがんばろうとおもってたけど、やめとく。これたべられたからもういい」

「え?」

 空の皿が目に映った。


「ごちそうさま。おいしかった」


 どこ行くんだ君、と止めようとして背中が軽くなる。

 叫ぶ男の気配が消え、水浸しになった自分の背筋や首後ろが異様に重い。

「……ちょっとオミ。何この状況。なんで押し倒されてんの。そりゃ確かにあのシチューは、でもまだ私そんな、甘いにもほどが……ちょ、オミっ。どうしたの、オミ!」

 揺さぶられるが感覚はとっくに失せていた。

 昏倒しつつある脳裏に、微かに閃く最後の思考が球を描く。言葉が途切れた。

「俺の思考の筋道は、やっぱり正しかったみたいだよ、ばあちゃ……」

 知りたい、知るのが怖いと目を逸らしていた真実を、垣間見てしまったよ、ばあちゃん。


 ……見える女は生まれない。

 この言霊にはシステマチックなトリックがある。

 きっと、最後の巫女本人もまったく気付いていなかっただろうトリックだ。

 凶暴な血は言霊を発した巫女の本意をあざ笑い、言霊の縛りを抜けてあくどく自由に飛び回る。発した本人の願いとはまるで違う方向へと、急速に傾いて行く。

 ひとつ、見える「男」は生まれる。

 ひとつ、生まれるはずだった女も、もし少しでも見える力の欠片があるのなら、絶対に「生ませない」。


 剣と鞘、鞘は剣の力の「おこぼれ」をもらい、常人とはわずかに違う能力を有する。ほんの少しの異能だ。そしてその異能で、本来は見える人を守り補佐して行くはずなのに。

 見える人は、なかなか鞘を見つけることができない。

 鞘を見つけられずに短命で終わって行く。

 自分の、力の、おこぼれを渡した相手を見つけられずに。


「俺は、見える聞こえる力の強かったばあちゃんのおこぼれで、わずかに見えて聞こえる……」

 でも男だったから生まれた。

 鞘子の兄も見える聞こえる力が強いはずで、だからその鞘もおこぼれは「見える力」で、そして女だったから間引かれた。


 そこまで考え、不意に、正臣の筋道に強い脳がきゅっと締まった。


 あれ?

 ひとり足りないぞ?

「鞘がひとり足りないぞ?」


 もうひとりの、見える人は?未央の次、鞘子の兄の前の見える人は?

 どんな力が強かったのだろう?


「その鞘の人は、どんな力をおこぼれでもらっている……?」


 正臣はそこまで考えて昏倒した。

 必死に呼びかける声と、いくども撫でられる手になぜか安心を覚えながら。





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