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88.side河童2


「まあ、河童でしょうねえ。間違いなく」


 気のない返答をすると、驚いた風情で美少女が目を細めた。

「オミ?」

「河童だ。彼らが河童だと信じているんだから、それでいいだろう。河童だ河童」

 さらりと流し、正臣は自分の太股を撫でた。

「だからもう駄目です。河童なんだから。どうしようもないですよ」


 痛くて怖くて、早くここを離れたかった。


「河童が海から上がって来るんでしょう。ま、大事な赤ん坊が心配だったら、今の部屋は捨てて引っ越しなさい。高い金払って買ったのにと思うかもしれないが、子供の命には代えられないでしょう。運が悪かったんですよ、あなた方は」

「オミ」

 疑う色の声で鞘子が下から覗き込んで来る。正臣は迫力ある両目から顔を逸らし、呆然とこちらを見ている家族に言い放った。

「それしかありません。……今日もともと来るはずだったあなた方が相談を持ちかけた人も、きっとそう言います。逃げろと」

 正臣は「じゃ、そういうことで」と冷たく片手を上げる。そしてあまりの素っ気なさにぼんやりしている夫に、厳しい口調で加えた。


「最後にこれだけは覚えておきなさい。埋めちゃいけない海を埋めて、建てちゃいけない場所に建てたマンション。そこを知らずに買ったあなた方には罪はない。けれどね、世の中には、やってはいけないことがあるんですよ。やってしまったら後はもう、尻尾を巻いて逃げるしかないんだ。……奴らには、常識も話も一切通じないから。こちらの定義を当てはめて対抗したところで、どうにもならないこともあるんですよ」


「なにを言」

 夫の叫びの途中で背を向ける。鞘子が何も言わずに、小走りで後をついて来た。

 自動ドアが開き、閉まる。残された家族が呼び戻す声も途切れた。


「オミ。ねえ、オミ。あの人たち、まだ何か言って……」

「知ってるか。河童の正体は、水死した人間のなれの果てだという言い伝え」

 え、と鞘子が横に並ぶ。海特有の突風が綺麗なカールを舞い上がらせ、立ち上った芳香に尖った心が少しだけ凪いだ。

「死者……」

「そう。死者たちだ」

 浅瀬から死者がずぶ濡れのまま上がって来る。

 腕から足から泥水を滴らせ、無表情で歩いて来る。


 行進だ。

 死者たちの行進。意思のない集団の行進。ひたひたと、音も出さずに、今目の前を。


「ずっと続いてる。列が、途切れなく。……すぐ目の前だ」

 横切って行く、大集団の列。


「……」

 鞘子は示した方向を見遣って唇を結んだ。

「……見えてるんだ」

「そうだ。年に二日だけ。昨日の続きで、今日も俺は見えている」


 髪や皮膚のある青白い人間たちもいれば、五体の形だけ残す影もいた。みんなが同じ方向、つまりマンションのエントランスに向かって並んでいる。


「数多くの奴らが、途切れなく海から来る」


 海に沿った浅瀬には、無数の人の腕が飛び出している。いたるところに、旗のごとく埋められた腕。

 指はあちらこちらを向いて、まるで浜から生えているかのように並んでいる。

 その青白い指はやがて宙を掻く。そして、ぼこりと腕から続く体が出て来る。浅瀬から体を起こし、泥を滴らせて全身を震わせ、ぼこり、ぼこりと次々に人間が現れるのだ。

「ほらいまも。浜から何人も出て来ている。歩いてこっちに向かっている。ここを通り、エントランスを通り、エレベーターに乗り、廊下を通り、あの家族の部屋へ行く」


 それは死者たちの集団だった。

 たくさんの死者は海から上がり、列を作ってふらつきながらも進んでくる。


「理由は分からないが。死者は風呂場や、洗面所や、川や、海……水のあるところに集まる。だから小さい頃から俺は、水のあるところが大嫌いだった」

 声が少し詰まった。


 足が、全身が痛くて仕方ない。きっと真っ黒な痣が浮かんでいるのだろう。

 さっきから、いや、車を降りた直後から、列から外れた奴らが意味なく正臣を触ったり殴ったりして行くのだ。害を為す奴らは感情もなく手を伸ばして来る。伸ばされ触れられ、引っかかれたり殴られたりする。大人になった今は何とか堪えることもできるが、幼い頃はただただ泣き喚いていた。


 がん、と背中を、腿を殴られた。

「……くっ」

 よろめき、足を踏ん張る。

 傾いだ頭にそっと乗せられた温かいものは、優しいのか悪魔なのかよく分からない教え子の手のひらだ。


 唐突に言葉が溢れた。

「俺は、俺は……俺は。昨日見えた。だから今日も見えるんだ。ここに来る前も、鈴子さんとかいうあの女性のことを、かなり遠くからじっと見ている巨大な黄色の塊が見えた。だいぶ薄くなっていたが、あれも悪意のある死者だ。黄色に薄茶色の斑点で、恨めしげに鈴子さんを見つめていた。俺はそうなんだ。そうやって、昨日や今日だけは見えてしまうんだ」

 痛みに気が遠くなりかかっているのか、正臣はよどみなくしゃべり続ける。

「でも、たぶん明日は見えない。年に二日くらいの辛抱だ、なんてことはないんだ。一年に数日、二日間くらいだけだ。今日が終われば大丈夫。だから俺は大丈夫だ。毎日毎時間毎秒、途切れなく見えていた未央ばあちゃんに比べれば、俺なんか」


「……未央ばあちゃん。大事な人?」

「そうだ」


 まぶたに熱がこもった。




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