85.side鞘子
神道の成り立ちから話し始めたら、鞘子はかなり不機嫌な顔になってあくびをした。
「村?共同体、中央権力?意味わかんない。お兄ちゃまみたいなこと言うのね」
「お兄ちゃまじゃなくとも、これから中学生になる学生なら知っていて欲しい知識だがな」
お兄ちゃま、という単語が漏れるたびに鼓動が跳ねる。それを抑えてなんでもない表情を取り繕うのが難しかった。
「鞘子さんのお兄ちゃまは歴史に詳しいのか。そういう道に進みたいのか?」
「わかんない。国文学?古代文学?やってみうようかなって感じらしいよ。受験もそこらへん受けるとかなんとか」
可愛い口から飛び出た受験予定の大学名は、正臣が浪人の末二度受けて二度とも落ちたところだ。咳き込んで無理に笑う。
「秀才だな。どうして妹はその欠片も受け継がなかったんだ」
「それより何この車。私、国産には乗らない主義なんだけど」
急にわざとらしく鞘子が話を逸らした。おやと首を傾げるが、そのまま話に乗る。
「中古だが大事な財産だ、十二歳の小娘が途方もない暴言吐くな。あと八点が主義だの言うな」
鍵を回して叱ると、狭いだ臭いだ言いながら助手席に乗る。
そう言えば、毎日の放課後に校門に並ぶ「鞘子さんのお迎え車」は、ありとあらゆる種類の外車だった。
「彼氏たちの車はそうでも、世の中たいていは国産だ。国産は安全安心地産地消だぞ」
「あれ彼氏たちじゃないし。チサンってなあに」
枝毛を気にしながら口を尖らす鞘子にため息を吐いて、エンジンをかける。
真冬の乾いた空に排気ガスが白く映えた。
創立記念日で休日のはずの今朝、突然のメールだった。昨日の今日で、強く断ったにも関わらず、「もっと詳しく話がしたい」と押しかけて来たのだ。だが鞘子が正臣の汚い古アパートの近くまで来るに至って、これはまずいと気付いた。
担任が生徒を家に連れ込むなんて、誰かに見られでもしたらまず過ぎる。
「で、どこ行くの」
「どこも行かん。車内で話しながら、このまま鞘子さんの家まで送る。君のお宅にも連絡済みだ」
「ええ?せっかく出て来たのに?何それ」
「君は休日でも勉強するべきだ」
鞘子は眉をそびやかした。
「勉強嫌いなんだけど」
「そんなことは君を見ただけで世界中の人間が分かる」
ぱっちりとした二重の目に高い鼻筋、バラ色の頬にさくらんぼのような愛らしい唇、……のすべてに綺麗に施された化粧とカールした茶髪にブランドの上下衣装、高級バッグにアクセサリーとヒール。およそ世間の小学生とはかけ離れた少女は、むっと膨れてこちらを睨んだ。
とにかく、彼女にはこのまま無事に卒業してもらわなければならない。この冬を越えてあと少しの辛抱で追い出せるぞと校長からも主任からも徹底して言われ続けている。
なあなあで適当に穏便に、さっさと卒業してもらうのだ。
徹夜で遊んで外車で校門に乗り付けたり、パパ活の罠に乗って来た中年男を級友たちとともに吊し上げて交番に突き出したり、体育館の天井に無数のミラーボールをぶら下げて即席クラブを作ったり、貢がせたブランド品を売った金でテナントを借りあやしい商売を始めようとしたり……
「エステティシャンを学校に呼び出して教室をエステサロンにしたこともあったな。担任も終わる今、思い出すと懐かしさすらある」
「ちょっと。私まだオミの生徒」
「ああ、早く三学期が始まって終わって、新しい学期にならないかな」
「オミ、心の声が出てる出てる」
赤信号で止まると、鞘子がだるそうにあくびした。
「でも今日さあ、本当に私暇なんだよね。あのね、マジでお兄ちゃまに一度会ってもらいたかったんだけど」
途端、正臣の心臓が跳ねた。
「待て。言ってないだろうな、その、俺の」
「……言ってない。昨夜、言おうと思ったけどね。あれだけしつこく口止めされたらさすがにね」
大きな息を吐いて、正臣はハンドルを握り直した。一瞬で指先が汗塗れだ。
「……そうだ。言うなよ、絶対にだ。俺は見える人じゃないし、何よりもう見える人はいないんだ。この世に」
俺の。
「……」
鞘子が、美少女特有の凄みのある横目でこちらを見ているのが分かる。正臣は無視して標識を眺めた。
小さく、ため息が聞こえる。
「……でさ。まあオミのことは言ってないんだけど、ちらっとでもお兄ちゃまに会ってもらおうと思ってね。でもお兄ちゃま、帰って来なかったの。昨日。朝も待ってたんだけど結局会えなかった」
わずかに苛ついた口調で愚痴を言う。正臣は無意識の汗を拭った。
寒空をガラス越しに仰ぐ。枯葉が舞っているのをしばらく眺める。
「あのな」
ゆっくりとハンドルを切り、中古の相棒は静かに路肩に止まった。
「……鞘子さん。いいか、今から話すことをしっかり聞いて、君のその軽そうな脳みそをフル回転させてでも理解して欲しい」
「すごい言い方するね。教師が」
呆れた物言いだが、雰囲気は伝わったらしい。華奢で美しい背筋が伸び、助手席に座り直す気配がする。
正臣は前を向いたまま口を開いた。
「うん、いい子だな。さすが日舞やバレエを習ってる鞘子さんだ。鞘子さんの家は金をドブどころか深海に投げ捨ててるとばかり思ってたが、その綺麗で整った姿勢を見ると無駄ばかりの習い事でも何かひとつは身につくんだと分かるな」
「オミ、一見子供を褒めてる感じだけどすごく嫌味だからそれ。でもそういうずけずけ言うところが下級生には人気なんだって。ぱっと見、冴えない雰囲気なのにびっくりするほど冷たい物言いとか、クールで逆にいいって。世も末だよね。あと、異様に勘がいいところもミステリアスだって。私が夜遊びしてる場所を当てて現場を押さえたりさ」
「そうだなあ。もうすぐ一年、君とはある意味濃い付き合いをしてるなあ」
ワイパーを北風が撫で、木枯らしが遠くで甲高く鳴る。
「……あのな、鞘子さん。俺は見える人じゃない。そして、君のお兄さんが見える人であろうがなかろうが、……ただの勘違いや妄想や非現実な幻覚を見聞きしてるだけだとしても、俺は知ったこっちゃない」
「なにその言い方」
怒りが湧いたのか、鞘子がこちらを睨む。それに横顔を返して言い捨てた。
「関わりたくない。知りたくもないんだ」
もう俺には関係ない。
見える人はいない。俺の見える人は。
知るのが、恐ろしいんだ。
この胸に渦巻く疑問の答えの道筋が、明確に引かれてしまうのが。
「……」
車内は沈黙に沈んだ。
長かったのか短かったのか分からない静けさを、同じ静かな声で破ったのは鞘子だった。
「オミ。水」
高級革のバッグから未開栓のペットボトルを出す。それを捻ると、瑞々しい音が乾きを教えてくれた。
気付くと、額は脂汗で真っ赤だ。
「……どうも」
受け取り、綺麗な目を見ずに飲む。
常温の水が胃に落ちると同時に悟った。
自分は、本当に怖いのだ。と。
もしかしたら、長年自分の抱えている疑問は、自分も気付かないうちに精神を圧迫させるほど巨大な恐怖に変わっているのだろうか。
「だから、知りたくないんだ」
不様に舌が痙攣していた。
「オミ。分かったから」
不思議なほど優しく、鞘子が呟く。こんな穏やかな物言いをされたのは、担任になってから初めてだった。
「……何か理由があるんだね。もう何も言わないからさ。オミ」
もしかしたら、自分が泣きそうな顔をしていたからなのかもしれない。
「……意外に気が利くな。担任がもうすぐ終わるこの時期に、発見できて良かった」
「言い過ぎ」
ようやく正面に向き合い、たどたどしく冗談を搾り出す正臣に鞘子はからりと笑う。
美しいと評されている教え子の笑顔を、本当に美しいと感じたのは初めてだった。
加えて、破天荒で成績も悪く素行不良な彼女が、どうしてか生徒たちに人気があるのかも分かったような気がした。
いや、教師陣も同じだ。手を焼かせるが、あっけらかんと笑われるとどうしてだか憎めない。
「……」
理由もなくなぜか焦り、水を含み深呼吸する。と、鞘子は急に前のめりになった。
「あ。鈴子ちゃあん」




