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84.side正臣


 未央の生涯は、前半はそのほとんどが不明のままである。

 最後の巫女の言霊から存在を抹消されて後、どうやって生きていたのか。未央とその親はどう生きたのか。

 ある日ふらりとやって来た「先代の見える人の鞘」を名乗る男が、未央に巫女一族のすべてを語り明かしたと言う。

 しかし自分の力の正体を知った後、未央と親はその男から逃げた。流浪の生活の果てに親を亡くし、すべてを受け入れてくれた心優しい夫と出会った人生後半、山奥に定住し、五人の子をもうけてからは、落ち着いた幸せな生を歩んだと思いたい。

 夫は兵役に取られたが、戦争後も女手ひとつで子を育て上げた未央は、凛々しく大らかで強かった。そして、成人し自立して行く子供たちに、固く誓わせたのだ。

「私の元を離れた後は、決して二度と会いに来ることはないように」

 美しくもたくましい母を子供たちは愛した。ゆえに、約束を守った。その子たちが子を産み育て、未央の話を伝え聞いた孫たちも未央のことを大好きになった。さらに、そのまた子たち、正臣も未央を特別な人だと認識している。

 が、約束は守られ、未央の顔も声も、知らないまま子孫たちは今を生きている。

 首に真っ黒な痣がある美しい女性、これが未央の情報のすべてだ。

 未央は言った。私の周りにいると、私と近しい者だと知られると、お前たちまでもが差別されるから、と。

 この一言で彼女が味わってきた壮絶な苦労が偲ばれる。


 そして未央はちょうど五十歳になった頃、突然倒れて眠りについた。

 脳波が途切れ、ただ死に行くのみとされたにも関わらず、なんと眠ったまま二十六年間という歳月を乗り越え再び目覚める。

 子たちが、孫が、なんとかして連絡を取り援助を申し入れるのをきっぱり断った未央は、その後も人里離れた山間に住み、わずかな理解者である村人が訪ねる他はたったひとりで過ごした。

 その間、十年。

 十年の期間は、未央にとって命の延長戦のようなものだった。ぼろぼろになった体、消えることのない痣の痛み、動かない頭に衰える視力。

 安らかに眠るはずだった世界から振り落とされ、無理矢理「目覚めさせられた」格好の未央の生き様は筆舌に尽くしがたいと思う。

 それでもごくまれに、未央を訪ねて来る人々……本当に助けが必要な人、危機が迫っている人、そういった人々が辿り着くと未央は床から這い出て着物に着替えて座敷に座った。

「よくもまあ、人伝の噂だけでここまで辿り着いたこと」

 息をするのもやっとの状態なのに、そう笑って訪問者を迎えていたと言う。

 人ばかり助けて。

 伝え聞いた母親はそう呟いては鼻をすすっていたものだ。

 未央はそうやって命の青火を灰になっても燃やし続け、十年後、「見える人は短命なの。私はずいぶん長く生きてしまったわ」と微笑み、八十六歳でこの世を去った。


 自分の鞘をとうとう見つけられなかった。

 正臣の秘密を母親が知ったのは、その後だ。


「……うちの母親はうっかり者で大雑把だからな」

 正臣は独り言を発しながら、赤ペンのキャップを外す。

 さっきから窓が微かに揺れているが、あえてそちらに目を遣らないで下を見つめた。

 ……未央はやっと寿命を迎えたと思ったところを、二十六年も眠りながら生かされた。起こされ、さらに十年生きた。

 

 二十六年。

 と、十年。


「……止めよう」

 首を振って思考を止める。ついでに、未央のことを考えると鮮やかに浮かぶようになったひとりの女性の寝顔も脳裏から消した。

 あの病院の一夜から一年。

 しかし女性の白い首と痣と眠る顔は、時を経てもますます印象深くなって行く。

 なんだか天使に恋焦がれる信者みたいだなと思い、三十代の男に似合わない想像に自分で吹き出した。

 

 かつて、この国の基盤には神道があった。

 大昔の話だ。

 国家鎮護を主とする仏教とは違い、神道は伝統的な民俗信仰や自然信仰を旨とした。自然に潜む神の力を借りて各共同体、つまり自分の属する部族や村の守護を目的としていた。

 自然の神とつながる現世の人間を巫女と言い、太古の昔より強大な権力の礎には必ずこの巫女がいたと言われる。

 ……らしい。

 あくまで、「らしい」だ。はっきり言って、そんなん知ったこっちゃない。俺にとっては。今何より大事なのは、このテスト結果だ。

「……」

 ペンの尻をかじる。バツだらけの算数テスト用紙は、なんともほろ苦い。

「授業中に睡眠学習しててももっと点数取れるだろ……」

 臨時採用教員として放浪の末、この私立小に正規雇用された時にはようやく夢が叶ったと喜んだ。しかもそこが純正お嬢様学校と名高い小中一貫の女子学校で、担任を持つと聞いた友人どもにいたっては、妬みとやっかみを隠しもせず正臣を拳で殴りまくった。

 本当に懐かしい思い出だ。

「現実はあまりにも酷だな」

 ふっと呟いて、正臣はため息を吐いた。

 この国には、いや世界中どこにも、おしとやかで従順なお嬢様など存在しない。現代でも昔でも。女は生物学の頂点に君臨する生き物だ。

 これが、赴任して二年で分かった真理だった。

 テスト終わりの校内は日が暮れるのも早く、まだ夕刻も早い時間だが宵の冷えが迫っていた。真冬の教室でひとり、添削をする正臣の鼻をすする音がやけに響く。

 経費削減の波をものともしないこの金満学校も、廊下の電灯は小さく絞っている。ほとんどの生徒や教師は帰宅済みだった。それに明日は創立記念日の休日で、採点業務のある教師陣も仕事を残してでも早く帰宅したいのだろう。

 正臣が残っているのは、自分のクラスの超問題児が学年主任に呼び出されているためだ。教職も縦社会だから、無駄な説教だとしても主任より先に帰るのは許されない。

「八点。八点か。義務教育の時点で赤点か。なんて面倒な」

 ぶつぶつと鼻を擦りながら深呼吸する。

 そして、テスト用紙にのみ集中した。

 突然激しく窓が鳴る。

「助けてください!助けて、そこの人!」

 割れんばかりに窓枠を叩き、女が叫んだ。

「助けて、お願い!追いかけられているの、殺される!」

 必死の声の女は、祈るように組んだ手をガラスに打ち付けているのだろうか。窓のしなる音がする。

「お願い……ねえ、助けて……私死んでしまうわ、窓開けて……っ」

 とうとう女は、窓枠にすがりついたままだろう、泣き出してしまった。

「……」

 正臣は、集中し過ぎて血走った目を揉んだ。

「お願い……どうしてこんなに頼んでるのに、助けてくれないの。恨んでやるわ、私がこのまま刺されたら助けなかったあなたも殺人者よ!恨んでやる!」

 女は狂ったように喚く。

「開けろおおお」

「窓を開けるも何も」

 赤ペンの先を見つめたまま小さく言った。

「そこ、三階です」

「……オミ?」

 訝しげな声に、慌てて顔を上げる。教室の後ろのドアから入って来た生徒は、背後の薄闇に溶けているかのように輪郭がぼやけていた。

「お、説教されて来たか」

「今、何か言ってなかった?」

 問題児は静かに遮る。

「窓とか、三階とか。……窓?」


 その後、正臣はこのわずかな隙が生まれた瞬間を長く後悔することになる。


 学年きっての問題児、できればこれ以上問題を起こさせず、誤魔化して誤魔化して適当に卒業させてしまおうと教師間で合言葉にもなっている彼女。その後は隣に建つ中等部の教師陣に任せればいいし、いやその教師陣たちには小等部が責任もってどうにかしろと水面下で駆け引きされているがだからこそ彼女の家からの寄付金も娘がトラブルを起こすたびに額が跳ね上がり続けて……

「……何言ってんだ。それより鞘子さん」

 名前は、さん付け、もしくは君。良き子女教育の校則も彼女に対しては白々しいばかりだ。

「鞘子さん。点数八点だぞ。四年、五年、六年の総復習マーク式テストで。ある意味確率を無視した奇跡だぞ」

「オミ。窓に何かいるの」

 傲慢な声音が制す。小学生にはそぐわないプラチナのアクセサリーがジャラッと耳障りな音を立て、手入れの行き届いた美しいネイルが窓を指した。

「窓の向こうに、何がいるの」

 正臣の視線が流れた。無意識だった。


 ようやく見遣った窓の向こう側には、首が半分取れた血だらけの女がいた。


「……何も、いないよ。なにを言って」

 年に数日だけ、見える日がある。予兆はすでに朝からあった。パンをかじる目の前を、薄い影が通り過ぎて行ったのだ。だから今日は早く帰りたかった。

 全部、この問題児のせいだ。

「今、一瞬瞳孔が開いた。オミ、何か見えてるの?」

「……」

 ナイフで途中まで切られたのか、女の首はかなり薄い皮膚だけでくっついているようだ。額をガラスに押し付けているが首の根っこがぐらぐらしている。

 髪を振り乱し甲高く叫んで窓枠を揺らすたびに、女の顔は首ごとだらりと垂れた。

「オミ、もしかして見える人?」

 刹那、自分の喉が鳴ったのがはっきりと分かった。

「あ、そうなんだ。ほんとに?適当に言ってみただけなのにマジなんだ」

「あ、いや、俺は見える人なんかじゃ……」

 はっと息を呑む。

 美少女の濡れた唇がにっと横に広がった。

「……見える人、だって。普通にその言葉、使ったね今。ためらいもなく」

 愉快そうに笑った顔は、悪魔のように美しい。二重の目が輝いて、整った鼻筋と眉が同時に動いた。

「オミ、あんたは一体何者。ねえ、もしかして初めて見つけた本物の見える人?お兄ちゃまと、一緒の」

 喚く女の首が揺れた後ちぎれて落ちた。ベランダもないから、三階下の地面に真っ逆さまだろう。しかし首なしになった女の両腕は、まだしつこく窓を叩いた。


 違う。見える人は、もういないんだ。

 俺の。


 その言葉を混乱する頭の奥で繰り返しながら、正臣はグロスの光る唇をじっと見つめた。



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