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83.side眠る人


「……やばい。やばいやばいやばい」

 正臣はスリッパを脱いで放り投げた。廊下を塞いでいた包帯だらけの老婆は、暗闇に消えたスリッパに気を取られたようだ。

 その隙に皮膚の剥がれた脇を抜ける。つんと焦げ臭い匂いが鼻を突いた。

 火事で亡くなった人らしい。

「えっと。たぶん……こっち」

 額から落ちる汗を拭い、壁伝いに右へと曲がろうとした。

 が、その先に腕を伸ばす影が見え、慌てて直進する。闇に青く浮かぶ非常灯を頼りにただ闇雲に走った。


 一旦パニックに陥ると、いつもの冴え渡る勘がなかなか働かない。

 無意識に安全な場所を探して真夜中の病院内をひた走るが、何が安全でどこが目的地なのか見当もつかなかった。

「だから、嫌だったんだ……!」

 八人部屋の自分のベッドで、寝入りからすでに嫌な予感はしていたのだ。

 予兆、と言うならばそれでもいい。予兆があろうがなかろうが、対処しなきゃならないのは同じだからだ。

 でも、宿泊用の鞄を漁って愕然とした。いつも大量に持っているタオルやハンカチが一枚もない。ベッドの脚に結び付ける黒いタオルが、無い!

「あっの、クソばばあ!」

 なぜ世の中年女性はみな、「洗濯物は一気に洗濯」なのだろうか。

 節約だと病院のコイン洗濯機を使わず、大雑把に鞄をさらって家に持ち帰ったらしき母親を激しく罵倒する。

 今頃、家の小さな洗濯機にタオルが大量に詰め込まれているのだろう。

「雑過ぎる、息子に対しての気遣いが雑過ぎる!」

 傍系とは言え巫女の末裔だと豪語するたるんだ贅肉尻を思い浮かべ、どこが巫女だと問い詰めてやりたい。昔から大雑把でうっかり者なのだ。

 無理を言って睡眠薬をもらって寝たが、深夜の静寂に溶け込むような、かすかなサイレンとカーテン越しの赤色灯だけですぐに覚醒した。そして後悔した。

 救命救急も擁するこの巨大病院裏口に運ばれた患者が、なぜか正臣のベッドの横に立っていたからだ。

 一刻一秒を争うはずのその患者は、頭が半分欠けた姿でぼんやりと宙を見ていた。血だらけの自分の両腕を眺め、不思議そうに首を傾げていた。

 つまり、彼はもうそういうことなのだろう。

 布団ごと跳ね起きた正臣に気付き、「あの、夜分にすみませんが、俺バイクで転んだみたいで。頭打ったのかなあ、ここはどこでしょうね」と愛想笑いを浮かべた。

 こめかみから顎まで裂けて骨が見えていた。

 正臣は叫びにならない叫びを上げ、病室を飛び出すしかなかった。


「……なんで年に二、三日の地獄の日が、よりによって入院日に当たるんだ?」

 自転車で転び骨折した。両足骨折で入院だ。たった二日の入院だ。

 教職に就いているからには、何事にも泰然と構える人間でありたいと思う。

 ただやっぱり、病院という場所には動揺した。予兆が来たら最悪だな、と脳裏にうっすら浮かんでいたのも事実だ。

 こうなってみると、寝入りのあの動揺もいつもの「勘」だったのだろうか。今そう分かっても、別段何が改善されるわけではないが。

「トイレ……いや、水場は駄目だ。水のところに影は集まるし」

 汗塗れになりながらパジャマを脱ぐ。早春間近の深夜は冷えた空気がこもっていて、上半身裸の胸にわずかに黒い痣が浮かんだ。

 何かが指の爪を立て、胸にさっと走らせたらしい。

「ちっくしょ」

 彼女にも爪を立てられたことなんてないのに。

 ふいにやたらと鋭い言動をする正臣に、「わたしのこと、どこまで観察してるのよ。ストーカー?」と胡散臭いものを見る目付きで言い捨て、去って行った彼女だ。

 婚活パーティーに行っただろうと言い当てたのがそんなにまずいのか。くそ。

「どこへ行くの」

 突然手に持ったパジャマを引っ張られ、息を止める。正臣の足元に屈んだ男の子は、咳き込んで血を吐いた。

「ごほん。……どこ、行くの」

 血の海がじわじわと広がる。

「……」

 無言でパジャマを手放し、正臣はまた走り出した。静かな廊下の奥深くまで、自分の荒い息遣いが響く。

 両足のギプスは強固で、引きずる体勢にはなるが両足ともに動かせる。明後日めでたく退院だ。でももっと早く強引にでも退院すれば良かった。

「どこ行くのって……知るか。俺もここがどこだか分かってないのに」

 影たちが思い思いに座り込んでいる共有スペースを駆け抜け、いくつかのナースステーションをやり過ごした。階段を上り下りし、棟から棟へと逃げ回る。迷路のようだ。

 でも逃げる場所なんてないことくらい、正臣が一番よく分かっていた。

「怖い」

 言葉に出すと、恐怖が増す。発汗していても背中が冷たいのは、限界に近い恐怖のせいだ。

「怖いよ」

 急に、足に何かが絡み付いて転びそうになる。目を凝らすとそれは長い黒髪で、正臣は悲鳴を押し殺した。

「怖いよ。……ばあちゃん」

 この口癖は子供の頃から続く一種のおまじないだ。

 呟き、大きく息を吐く。顔を上げた先に、ぼんやりと明かりが見えた。


 それが闇を照らす一条の光に思えた。


「……あそこ、かな」

 肩で呼吸をならして再び歩き出すと、後ろからひたひたと何かが近付いて来る音がした。

 振り向かずに必死で逃げるが、それはどんどんと距離を詰めて来る。

「……っ」

 耳の後ろで腕を伸ばす気配がした。首を掴まれそうになる。

 正臣は無我夢中で、廊下に漏れた一筋の明かりを目指した。

「いっ」

 後ろ髪を爪が引っ掻く。皮膚を掴まれる寸前で、正臣はその病室へと転がり込んだ。

「はあっ、はあ」

 背後でゆっくりと引き戸が閉まる。

「……はあ」

 静かな病室の中央には、女性が眠っていた。

「……」


 それは、不思議な光景だった。

 巡回の途中で急患が入ったのだろうか。室内は煌々とライトが灯り、看護師の置き忘れらしきカルテが灰色に反射して天井に影を作っている。

 カルテが錆び色に見えるのは、部屋一面が純白に発光しているからだ、と正臣は呆然と立ち竦んだ。

 部屋中が白いバラに埋め尽くされている。

 自分の荒い息と、脳波計の電子音。バラの強い香り。

 引き戸の向こう側の世界とは完全に隔離された静寂だった。

 あまりの現実離れした光景に思わず歩み寄ると、ベッドのヘッドボードに書かれた数字が目に入る。

「……俺と……同年代?」

 生年月日を頭で計算し、まじまじと枕元を覗き込む。

 点滴チューブと呼吸器に覆われた顔は青白く、生気は感じられなかった。

「……」


 首だ。

 首にどす黒い痣がある。


「未央ばあちゃん」

 いや違う。

 それは違う。絶対にない。

 ばあちゃんは、女は、この世には、もう見える人は、

「……」

 無意識に唾を飲み込む。と同時に、はっと我に返った。

「……おいおい。これはかなりやばいって」

 明らかに特別な仕様の室内に、無断で侵入する半裸の男。

 どう見ても不審人物であり、巡回の看護師に見つかりでもしたら一発で職を失ってしまう。

 何事にも動揺せず慇懃無礼、クールだ意地悪だと生徒に評されていても教職は天職だと思っている。いつか主任になるのが堅実な正臣の大きな夢だ。自分の予想や予感、勘なんかを軽々と超えて、思いがけなく立派に成長する教え子たちの若く弾ける生命力は正臣の安らぎだった。

「……行こう」

 離れがたい気持ちを振り切るように、正臣は女性から目を背けて引き戸へ向かった。


 その時、ちらりと視界の隅に何かが映る。黒い何か。ひらひらした何か。


「……」

 一度戸を閉め、深呼吸をする。眠る女性の面影を断ち切り、口癖を強く発した。

 だって、違うのだ。絶対に。首に、ばあちゃんと同じ黒い痣があっても。

「ばあちゃん」

 口癖は正臣の心を常に震わせる。

 そうしてやっと、自分の勘が戻って来ていたことに気付いた。

 この病室には、侵入して来る奴らがいない。だからこの部屋を、自分は無意識に選んで訪れたのだ。

 しかし、現実的にここに隠れ続けるのは無理だ。捕まりたくはない。

「ばあちゃん。俺は、大丈夫」

 いつも通り呟いて再び戸に手をかける。引き戸越しに深呼吸し、廊下の様子を窺いながら、先ほど視界に映ったものが何なのかぼんやりと考えた。


 ……ベッドの脚に巻かれた、細い黒い布……。


 正臣は病室を飛び出す。

 女性の寝顔が見たことのない曾祖母の顔と重なって、脳裏に刻まれた。


「ひとりでも大丈夫。な。……未央ばあちゃん」



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