8.合間の話(研究室にて)
語り終えて、沙貴は軽く頭を振って遠山を見た。
「ネコの話は、以上です。少しして従姉妹が帰ってきて、どうしたの、って言うまで、私、泣きながらコウを抱き締めてたんですよ」
そしてふっと目を伏せる。
「あの火葬場の一件とこのネコの話が、半年前の夏のことです。今ならコウは、本物の猫と別のネコくらいは見分けられますよ。半年でも子どもは大きくなるんですね」
右手首に唇をつけて笑う沙貴に、遠山は聞こえないほどの息を吐いた。
北風はおさまったようだった。外の冷気が床を伝って来るのか、彼はしきりに足を組み直している。
しかしうまく行かないようで両足は開いたまま床に戻った。
「先生。突然ですけど、万葉集二百六十七に、志貴皇子の歌がありますよね。ムササビは、木末求むとあしひきの、山のさつをに相に来るかもってやつ」
「あ、ああ」
展開について行けないのかわずかに身じろいだ遠山に、沙貴は微笑んだ。
「……あの歌、どうも分からないんですよね。単にムササビが、渡るための木の根元を求めて山に来ているなあ、て言うただの情景歌なのでは」
遠山は粟立った肌を隠したいのか首元を押さえ、低い声を出した。
「あれは単なる情景だが、裏に意味があるんだ。志貴皇子は当時、政敵に足を掬われ窮地に立たされていたらしい。か弱いムササビを、自分に例えたのだ」
「ムササビに?」
目を瞬かせた沙貴に、遠山は頷き返す。
「まるで、ひたすら移動のための梢を探し求めるムササビのような自分だ、ということだ。そういう歌は結構ある。……古代人は自然も動物も神懸り的な存在で、畏怖の念を抱いていた。が、その畏怖の存在である動物や植物に、自分の思いを託したり、自分を重ねたりすることもしばしばあった」
人間でありたい。強い存在でありたい。
でも、自分は動物に似ている。か弱いムササビに似ている。
いや。少しずつ似て来ている。
「なるほど。動物に」
沙貴は頷き、ほっと息を吐いた。そして伸びをする。
その仕草に終わりを見て取ったらしく、遠山は今度こそ深呼吸をした。
沙貴も深呼吸を真似て、それから遠山に向き直った。
「先生、私、思うんです。コウは、確かに子供ですけど。でも、本当に強い、解釈しようのない何かの力を持っている。でもそんなコウを、騙せるほどのさらに強大な、悪意に満ちた、太刀打ちしようのない恐ろしい何かもこの世にはいるんだって」
最初は善の面を見せて油断させる。徐々に本領を発揮して行く。
ペンを手の甲に刺すように。
「それはやっぱり、動物の形に似せているんですよ。……いや、違うか。動物ですらない。ただ、元の人間の形から、どんどん離れていくのだと思います。そのあまりの邪悪さに」
「……それでどうなったんだ。その」
遠山の恐る恐るの問いかけに、沙貴は手を振った。
「悦美?知りませんよ。もう親交ないし。でも風の噂では、家売って、引越ししたみたいです。……またその家、売りに出されてるんです、かね」
自答のような言葉で、沙貴は締める。
「あれ」がまだ家に残っているのか、きっと誰にもわからないだろう。
「人間の形をしているうちに。人は、上った方がいいですよね。きっと。うん」
沙貴の呟きに、遠山は気味悪げに首を傾げた。それを笑い、「さてと」と立ち上がる。
「じゃあ、先生。ありがとうございました。もうすぐ待っている生徒さん方、来るんでしょう?卒論の」
はっと瞬きした遠山が、掛け時計を見遣る。
慌てた素振りで「そうだった」とテーブルの上の紙束を探った。
「まったく、君は本当に首桃果だな。自分勝手にしゃべり散らして」
「ひどい。私は桃じゃありませんよ」
「それ以外ないじゃないか。っと、床が滑るな。ああもう、こんなことしてる場合じゃない。彼らに早く卒論のテーマを、彼らに、彼らを助けてやらねば、間に合わない」
「先生。彼らって誰ですか」
沙貴の不意の質問に、すでに思考は散漫になっていたのだろう、遠山は顔も上げずに告げた。
「松尾と野田。君は知らないだろうが」
聞いた途端、沙貴はにっこりと笑んで手首を擦る。
そして壁際の本棚まで行き、しばらくすると伸び上がって二冊のファイルを手に取った。
「何をしているんだ」
訝しげな問いに答えず、ファイルをテーブルに広げる。黒画板の表紙に紐で括られたそれは、薄く黄ばんだ原稿用紙だった。
「ずいぶん古い様式。先生の秘密、彼らだったんですね」
「は?」
沙貴は原稿の束を指し、そっと言った。
「先生の秘密と交換です。私の秘密、教えます」
書かれた文字を辿った遠山の視線が、ぼんやりと沙貴を捉えた。
「これでしょう、先生。松尾さんと野田さんの卒論」
ぽかんと口を開けた男に、沙貴は微笑む。
「あと先生。立つ時は気をつけて下さいね。もう足が溶けかかっているので」
その言葉につられるように立ち上がった体がぐらりと傾いだ。両方の足の先が溶けてキャラメルのように伸び床に広がっている。
「少しずつ人の形から離れて行ってしまうのは、とても悲しいですね」
沙貴はそして、大きくため息を吐いた。
たくさんのものから解放されたようなため息だった。
「……ったく。はあ!もう!先生、うるさいんですよ。この研究室の前通るたびに、すごくやかましく聞こえるんです。まだか、て。まだかまだか、て。ずいぶん心配されていたんですね、無視しようとしてもひっきりなしに聞こえるんですもん。はなはだ迷惑なんですよね」
こっちとしては、と両手を広げた。
「誰かを待ってるってのは、分かったんです。でも、それが一体誰なのか……誰の心配をしているのか、誰を指導したいのか、分からなくって。苦労しましたよ、だって」
沙貴は呆然と佇む彼に、そっと手を振った。
「松尾さんも野田さんも、もう二十年以上前に卒業しています。……無事に卒論、完成していましたよ」
初老の男は消えた。
「私は桃じゃなくて、旅人だったんです、先生」
それが私の秘密です。
彼のペンが床に落ち、派手な音を立てた。心残りを語り終え落ちた、桃の実のように。
研究室を出た途端、スマートフォンが鳴る。
脱力して耳に当てると、栄美子ののんびりした声が「あ、沙貴ちゃん?ごめんねえ、代わるわね」と言った。
「……何よ。どうしてこうも、見計らったように電話かけて来るのよ。うん?だって分かるんだもんって、そんな言い方しても可愛くないから。え?……うん。上手くいった。だからって何でそんなにえばって言うの。元はと言えばね、あんたが」
既に幼児扱いもなくなり、ぞんざいな口調で、沙貴は電話口に言い募る。
廊下を歩きながらスマホを首に挟み、右手首のシャツを捲り上げた。
現れたのは、沙貴の秘密そのものだ。
「確かにね、コレをもらったおかげで姿も見えたし、会話しやすかったわよ。でもさ、元々コウ、あんたさえいなきゃ聞こえることも無かったしうるさいことも無かったよね?それ理解してる?」
そこに巻き付けられた黒いネクタイを、乱暴に剥ぎ取る。
それはかつて、功成の首に巻かれていたものだ。
声だけでなく、これをどこか身に着けていれば、姿も見える。
「ほんと、聞いてるの?ねえ」
電話口の向こうから、弾けるような幼い笑い声がする。
身を切るような冷気が自由になった手首に触れ、沙貴は廊下の窓から冬空を見上げた。
地の底から響くあの声が聞こえるようになった。
巫女の役割をしたから。
黒いネクタイを結べば、姿も見えるようになった。
標だから。
……本当に?本当にそうだろうか。
考えろ。考え続けなければならないと、自分の中の何かが言っている。
真実はひとつではないのかもしれない。秘密もきっとひとつではないのだろう。
望むと望まざるとに関わらず、旅人になった。
私は、彼を守るため抱き締めてしまった。
小さな彼を、体を張って抱き締めてしまったのだ。
薄くともつながる血が、私を動かしたのか。それとももっと別の、何か途方もなく大きな力が、守れと背中を押したのか。
ただ、抱き締めた彼の体温は少しだけ、間も無くやって来る春の暖かさに似ている気がした。
この世に桃は溢れている。
秘密を告げたい桃たちが。
電話に向かい文句を言い続けて沙貴は、別の世界を結ぶその布を、そっと握った。




