77.笑う人
初功成目線
彼女が笑う。
「新学期始まったのに学校行かないのは、夏休みの宿題を全然やってないからでしょ」
からかう口ぶりに唇を尖らせた。
「違うもん。暑くてさ」
また彼女が笑う。
「でもやってないのは本当のことでしょう」
額を細い指でとん、と押された。そのまま首元まで隠したシャツの襟を広げてくれる。ひやりとした感触と冷たい手に、僕はうっとりと目を閉じた。
「残暑厳しいもんねえ。あせもになっちゃうね」
汗まみれの首を濡れたタオルで拭われる。乱暴な仕草なのに笑う顔は優しくて、すっとした空気が喉に気持ちよかった。
喉をぐるりと巻く黒い痣。染みのように広がっていて目立つから、暑くてもシャツのボタンは一番上まで留めている。
ボタンを外すのは自宅の自分の部屋か、彼女の部屋だけだ。
「わざわざ汗だくになってうちまで歩いてこなくてもいいのに。涼しくて快適な自部屋で宿題やりなさいよ」
ここのは古いエアコンだから効きが悪いのよ、と床に座らされる。
再び濡らして絞ったタオルが膝に当てられた。
「痛そう」
「痛くないよ」
「痛そう。ほんと腹立つ」
心底怒っているその言い様におかしくなる。。
ここへ歩いてくる途中で、いきなり蹴られた。突然真横から勢いよく足を出されたので、避ける暇もなかった。
目が合ったのに無視するからだって。と、額がぱっくり割れた男の言い分を伝えると、彼女はふん、と鼻を鳴らす。
「どこのゴロツキよ。いい、コウ。生身でも生身じゃなくても、そういう奴らには関わっちゃだめよ。目が合ってやばいと思ったら走るのよ。大声出して人がいるところに、そうだ防犯ブザー、あと何かな、武器?武器はだめか、」
「あはは」
思わず声をあげて笑ってしまった。
赤く腫れた膝を撫でながら、本気で心配してぶつぶつと言う彼女を見ているだけでくすぐったい。
くすぐったいのに、どこかムッとする。子ども扱いして、と思うのにその庇護が嬉しく、そして優越感もあって、なのに少し苛立って、でもくすぐったくて。
笑うしかなかった。
寝そべって課題をする彼女。
そのお腹に頭をのせてドリルを眺める。
重い重いと文句を言われるのを聞き流して外に耳を澄ます。残暑に粘る蝉の声とともに、地の底から響く深い声が叫んでいる。アパートの二階なのに窓から覗いている影もいる。
「覗いて何を見てるんだろ」
「学校行かずにダラダラしてる小学生を見てるんじゃない?」
「課題の締め切りが迫ってる大学生じゃないかな」
「どちらにしろ見てて楽しいもんじゃないのに」
ひそひそ話しながらドリルをめくる。
でもドリルの内容なんて頭に入ってこなくて、ただひたすら頭の下に伝わる薄い皮膚と温かな温度を感じていた。
時々蝉の声が止まる。
怒鳴り声も遠くなったり近くなったりする。
影の向こう側に見える小さな空は褪せた青色だった。
背中が揺れてのせた頭も揺れる。
彼女が笑う。
「コウ、あんたが笑うと」
彼女が笑っていた。
大きな音がして目が覚める。
功成は伸びをしてベッドから出た。窓から入る日差しは高く、もう昼近いらしい。
明け方まで病院にいて、物音を立てずこっそり部屋に戻ってそのまま眠った。だからシャワーも浴びていないし空腹も感じる。
冬休みだからこんな日々が続いている。
夢の欠片が頭の横にふわふわ漂っているようで、功成は首を回す。あくびを嚙みながら浴室へ向かうと鏡に呆けた自分の顔が見えた。
黒い前髪が目にかかっている。
髪をかき上げると、狭くて白い額が覗いた。
本当に自分は馬鹿だ。馬鹿なことをした。
ずっと続くと思っていた。
ずっと庇護されて、怒って口で責められつつも仕方ないといつも許してもらって、だから少し急いで大きくなれば気づかずに逆転できて、自然に手に入れられると思っていた。
離れるなんて考えもしなかった。
失うなんてもっと考えていなかった。
ああ馬鹿なことしたな本当に。
さっさと手に入れていればよかった。
夢の欠片ばかりが記憶に鮮明で、後悔よりも深い感情に時々息もできなくなる。夢から覚めても涙すら出なくなって、もう長い時間がたっていた。
功成から見た彼女はこんな感じ(フィルター)
功成もう少しがんばります




