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76.未来の言葉


 ジーンズに手を突っ込んでぶらぶらと特別室受付に向かうと、座っていた看護師が恒彦を見て手招きした。

「はいこれ。功成くんのお母さんから」

「……なんで」

「さあ」

 どう見ても、若い看護師は必死に笑いを堪えているようだ。渡された紙袋を覗くと、手作りとおぼしきクッキーが入っていた。

「あと伝言も。コウちゃんはちょっとわがままな子だけど、根は寂しがり屋なんです。今後ともよろしくお願いしますねえ」

 おっとりとした口調まで真似て言うと、看護師は口を押さえて震える。

「……」

 先日会った、ずいぶん若いあの母親を浮かべる。痩せこけた体でわざわざ大部屋にやって来て、お嬢様然とした仕草で「今の若い方はお洒落ねえ。綺麗な模様」と恒彦のタトゥーを本気で褒めていた。周りが突っ伏して笑っていたことまで思い出し、苦々しい気持ちになる。

 ちっと舌打ちすると、それが聞こえたのか奥から師長が出て来た。

 恒彦の顔を見るなり恐ろしく太い腕を掲げる。対峙すると無意識に背筋を伸ばしてしまうのは、染みついた習慣だろうか。

「しつこいようですが、確認です。相手は高校生ですから」

「ああ…じゃなくて、はい」

「飲ませない買わせない打たせない誘わない」

 鉄パイプより太い指が折られて行くのに合わせ、復唱する。

 これで点呼とか叫ばれたら、反射的に番号を言ってしまうに違いない。

「……先輩」

 呆れた声に振り向くと、学校帰りの功成が立っていた。

「何やってんですか」

 ふたりで特別室の階へと続く渡り廊下を歩き出すと、とうとう我慢できなかったのか、背後から看護師たちの笑い声が響いた。

「……お前、コウちゃんて呼ばれてんのな」

 ささやくと、横の功成は恒彦の持つ紙袋をちらりと見てため息を吐く。

 その様子に喉奥で笑っていると、不意に功成がにやりと口を曲げた。

「僕、最初にここを先輩と通った時。足のこと、あれ、実は先輩のお母さんが教えてくれたんですよ」

「は?」

 恒彦は自分の肩辺りに目を遣る。超レアだという赤い提灯は、だんだんと小さくなって行き、いずれは消えるのだと功成が言っていた。

 無理に留まるなと言っても、聞こえてすらいない。すでに無我であり自然消滅するまで離れないのだそうだ。

「前を歩いていたらね、矢継ぎ早にずっと喚いてましたよ。この子はちょっと足が悪いの、もっとゆっくり歩いてくれないかしら、ねえ、足が悪いのよヒコちゃんは」

「……」

「ヒコちゃんて呼ばれてたんですね」

 指をぱきぱき鳴らしても、どこ吹く風だ。

「先輩のお母さん、ずいぶんお節介で世話焼きな人だったんですねえ。がみがみ言って、師長みたいだな」

「……俺のお袋は力士じゃねえぞ」

 並んで歩く廊下に、茜の影が差す。雲が帯状に広がるのが遠目に見えた。

 もう春だ。

「お、そうだ功成。週末の夜、クラブ行かねえ?」

「クラブ?」

 心底嫌そうに眉が寄る。

「そ。ずっと行ってねえし俺。俺さ、来週から就職活動始めるんだわ。末期介護してくれる施設に親父を移さなきゃなんねえし。だから最後の暇つぶしってことで、連れてってやるよ」

「僕、そういうのは興味ありませんので」

 冷めた態度で言い放ち、さっさと歩いて行ってしまうのを、恒彦は半笑いで追った。

「待て待て。待てって。お前さ、夜遊びも知らねえでこの先どうすんだよ」

 にやにやしながら覗き込む。

「彼女が目覚めた時、お前ナリだけでかくなってて、中身はガキのまんまだったらどうなる。相手は大人だぞ、成長してもつまんない男ねって振られるのがオチだ」

「……」

 ふと立ち止まり、真顔になる功成におかしさが込み上げて来る。

 同時に、自分が無意識に使った言葉に驚いた。

 不可能な願いを託す、未来を表す言葉。

 

 目覚めた時、と。


「な?だから何事も経験だ経験。あ、師長には言うなよ?」

 顎に手を当て真剣に考え込んでいる功成に、恒彦は軽く右足を揺らして笑った。





功成もう少しがんばります。


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