71.眠る人
「で、お前の妹はマジで小学生か。あの全身ブランド女が」
「そうですよ。下手に手を出すと骨までしゃぶられて終わりですよ」
肩を並べたら氷の視線で射抜かれる。
「マジかあ。ちっくしょ、塀出てから女とまともに会話もしてねえよ。さっきの鈴子と大家の婆さん、あとどこぞの部屋の親方かっつー師長くらいだぞ」
鈴子を抜かせば他は女と認めねえと呟くと、微かに隣の肩が震えた。
「……変な人だな」
「ああん?」
差し歯の位置を直しながら聞き返すと、功成が片眉を上げる。
「見えざる者を気色悪いとか言いながら、ちっとも怖がってない。僕みたいな人間を知りながら驚きもせず、何より無関心で無気力だ。あなたは」
「あなたは止めろ。気持ちわりい。……俺は確かに無気力だが、お前だって俺のこと怖がってねえだろ」
「僕は、……」
功成の目線が恒彦の肩に流れ、そして止まる。何かを言いかけて、それから言葉を濁した。
「ま、どうだっていいけど」
言いながら、恒彦は辿り着いた特別室の扉を眺めた。
「……知ってるか。世の中には、見えざる者よりもっと怖いもんがあるんだぜ?」
色々なものを見て来た。
平気で裏切ったり、血を流す相手を見て笑ったり、誰かを傷つけて泣かせながら自分は楽しく飯を食ったり。
そのすべてが現実にいる人間だった。
「人間は獣と違うって言うけどよ、何も違わねえよ。共食いするわ踏み付けて自分だけ助かろうとするわ。その中で生きて行こうとするなら、自分も獣にならなきゃならねえ」
それに比べれば見えざる者とか死者とか、そんなもん怖くも何ともない。
「死者が、死んだ後が、見えねえ世界が怖いってのはな。死ぬ思いをしたことのねえ奴の言うこった」
「……」
黒目が伏せられる。特別室の引き戸が開けられ、「ちょっと待ってて下さい」と言われたのを無視して一歩入る。
もわっと甘ったるい匂いが鼻を突いた。
「こりゃ……すげえな」
そこは、一面が白いバラに埋もれた部屋だった。
壁にも出窓にも、なぜか積まれた宅配便の箱にも、応接セットやシャワーブース、付き添い用の簡易ベッドにもバラが飾られている。
そしてカーテンに閉ざされた中央のベッドからも、強い芳香が漂っていた。
「これ、お前がやってんの?……お前さ、サムいって言われねえ?」
圧倒されて出た言葉に、功成はむっと目を釣り上げた。
「言われませんよ。鞘子がお兄ちゃまちょっとイタいって憎まれ口叩くくらいで」
「言われてんじゃねえか」
不機嫌になった功成が鈴子からもらったバラを壁の隙間に置くと、その拍子に異様に高く積み上がった宅配便の箱が崩れた。あやしげな名前の入った箱から、水晶やら水のペットボトルやらが飛び出す。功成が舌打ちして屈む。
その隙に、恒彦はカーテンを開けてベッドを覗き込んだ。
「!」
息を呑む。
ごく久し振りに受けた衝撃に、知らずに喉が鳴った。
女だった。
ベッドヘッドのカードに書かれた生年月日は、恒彦より上の年齢を示している。が、女はとてもそうには見えない。
まるである年で時が止まったような、その場で剥製になってしまったような印象を受ける。
そう、剥製だ。
生気のない顔に透明な肌、そして。
女の体中に、黒い痣が浮かんでいた。
「……」
床擦れを防ぐためか、女の体にかかった毛布は剥がされている。清潔そうなパジャマから覗く腕や足首すべてが黒い痣に埋め尽くされていた。首などは肌の色がないほど真っ黒で、鼻と喉に差し込まれた吸入管にも痣が透けて映る。
ヘビだ、と思った。
長いヘビに体を巻き取られ、絞められた痕がどす黒い痣になっている。
これはもう、とても生きているとは言えない……
『あの特別室の入院患者は、誰も見たことがないよ』
功成だけじゃない。恒彦も色々探ったのだ。長く入院している大部屋の主は、声を潜めて言っていた。
『医者ももう何度も忠告しているそうだ。おそらく、今後二度と目を開けることはないだろうって。脳波はとうに切れてるが、その他の生体機能も次第に停止状態に近づいているらしい。自発呼吸もとっくに停止だ。原因も病名も不明だそうだが、噂では何年も前にこの病院に運び込まれた直後に一度だけ目を開け、そして意識をなくしてそれっきり。可哀想なことだよ』
「先輩」
固い声に振り返ると、功成が立っていた。
「こちらへ」
厳しい顔付きは、眠る女の肌より青い。恒彦は誤魔化すつもりで唇を歪めた。
「なあ、この女も見える人か?いや違うか」
サヤか。
「まあ。お前と同じ、化け物か」
「……」
無反応で手を出されたので、肩を竦めてディスクを渡してやる。最新のデッキがそれを吸い込み、恒彦は腰まで沈むソファに座った。
背後でベッドカーテンが再び閉められる。同時に、テレビに片田舎の風景が映し出された。




