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7.ネコ2(沙貴の部屋にて)


 視界の端を、幾度も横切る茶色の何か。


「あたしもね、動物、の霊とかじゃないかと」

 そこまで言って、悦美は先を嫌がるように口を閉じた。


「…まあ、何とも言えないね」

 沙貴は曖昧に濁してため息を吐いた。

 霊?霊とは?

 聞きなれない単語に、どう反応すればいいのか分からない。

 ひどく悩んでいるのは見て取れるが、そもそも動物の霊と言われてもぴんと来ないし、未だどこかにそういう系統を疑う自分がいるのも否めない。

 いや、疑いたいだけかもしれないが。

 

 仕方が無いので、傍らの功成へ出来る限り優しく尋ねた。

「コウ。お姉ちゃん、困ってるんだって。ネコ、追い払える?」


「いや!」

子供の答えは簡潔だった。

そして堪え切れないように、腰を上げる。


「ネコ、触ってもいい?」


 え、と上半身を引く悦美に構わず、功成はその足元ににじり寄る。

 そして小さな腕が、見えない弧を描いた。


「わあ……ネコ、ネコだ……」

 

 狭い室内に、水を打ったような静けさが降りた。

 そこにいる大人ふたりは、瞬きもせずに子供の動作を見つめている。宙に浮く小さな手が、何かをゆっくり撫でている。


 その、仕草。


「……いや。何なの、これ」

 沈黙を破ったのは、悦美だった。

 見えない恐怖の壁に抵抗するように、乱暴に立ち上がる。


「わ」

 目の前に飛び出した膝に驚き、功成が尻餅をついた。

 なぜか喉が熱くなり、沙貴は咄嗟に声を上げる。

「だから無理なの、この子はまだ幼い。祓うとかそんなの、そういうこと自体がわかんないって、言ったじゃない」

 そして功成に手を伸ばそうとして、ふいに、何かが胸に閃いた。

 

 違う。

 違う、これは。

 

 沙貴の動きが止まる。思考がある一点に辿り着いて、全身の毛穴から汗が滲んだ。

 

 功成は、さっき、“ネコ”を撫でた。その腕は宙で弧を描き、何度もそれが繰り返されて、それで。……それで?

 

 その弧の大きさ。尋常ではない、大きさ、例えば、一メートルほどもある円の直径、その半円の弧。


「……コウ」

 

 掠れた声は震えていて、無邪気に見返してくる功成の視線が痛い。

 喉が不自然に鳴った。


「なんで、ネコって思ったの……?」


「だって」

 彼は笑う。


「目がおっきくて、口が小さくて、耳が尖ってるんだもん」

 

 血の気が引いた。


「功成!それネコじゃない!」

 

 全力で悦美から引き剥がし、功成を腕に抱く。

 無我夢中で壁際まで転がった沙貴の耳に、その時、地の底に似た深い声が突き刺さった。



「何で分かった」


 

 噛み千切ってやろうと思ったのに。


 沙貴の悲鳴は、金切り声に掻き消された。見上げると、真っ青な顔をした悦美が、押し入れ伝いに立ち上がっていた。

「何なのあんたたち!気持ち悪い!わけが分からないわ、やめて!」

 叫ぶなり、玄関に突進して行く。

 呆然と見送った腕の中で、「あー、ネコ行っちゃう」と小さな囀りがした。


「コウ。……あれ、違うから」

 ぎゅっと抱き締めると、クリームのような甘い匂いがする。

 

 今の悦美の目、汚い物を憎悪するかのように二人に注がれた目が、この子を少しでも避けて通るように、と沙貴は無意識に唸った。


「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!あんたたち、おかしいわよ!」

 叫ぶ声が、玄関を壊すかのごとく開ける音に重なる。

 

 功成の体温が伝わり、あ、手を握ってる、と自覚した途端、それは視界に映った。


「あ」


 扉の隙間から見える晩夏の夕空。

 靴を引っ掛けて出て行く悦美の後ろに、それはいた。

 腰までの高さで、茶色というよりは、ひどくくすんだ肌色に見えた。

 

 それがゆっくりとこちらを振り返る。

「……何あれ」

 沙貴の息が止まった。

 

 濁った肌色の皮膚はしわしわになっている。

 髪の無い、一メートルを軽く越す巨大な頭部には、ラグビーボールほどの二つの眼球。黒目は油塗れで強烈な光りを放ち、白い部分は充血している。

 その下にあるはずの鼻は肉が削がれてただの空洞、そして口は小さい。

 赤ん坊の拳にもみたない、貧相な口だった。

「耳、じゃないよあれ……」

 尖った耳に見えるそれは、こめかみから顎に向かって剥がれている皮膚だ。さらに驚くべきは、頭部の下に、小さな小さな体がくっついているのだ。骨ばった腕に棒のような足、それらを動かしてそれは動いていた。

 

 そのアンバランスさ。恐怖の極限を上回る、醜悪な人間。

 それは確かに人間の形だった。

 

 扉が閉まる。隙間から悦美の踵がひらりと抜けて行く。

 寄り添うようにそれも出て行った。

 深い場所から聞こえた恐ろしい言葉は、短かった。



「余計なこと、すんじゃねえよ」






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